2024年5月30日木曜日

大列車作戦(USA、仏、伊合作映画、1964年作)監督:ジョン・フランケンハイマー

 時代は1944年8月のことであり、場所は、第二次世界大戦中のフランスである。B.ランカスターが何か「異星人」のような感じで、周りのフランス人から浮き上がっている雰囲気が否めないのではあるが、脇を固めるフランスの俳優陣の演技で、このB.ランカスターが醸しだす「違和感」は、映画の中盤までは何とか抑え込まれていると言えよう。このような戦争アクション映画作品に、あのフランスの性格女性俳優J.モローが登場していることの意外さもさることながら、とりわけ、レジスタンスの一員ではないのであるが、サボタージュ工作に加担し、そのサボタージュの犯人と見破られて、駅構内で即決裁判で銃殺されるフランス国鉄機関士“Papa“ Boule(ブール「父つぁん」)を演じた、フランス映画の怪優の一人Michel Simonの存在が本作ではとりわけ印象的である。

 このように、B.ランカスターの思惑もありながらも、本作にはフランスの映画資本も投入されており、それ故に、本作は、英語版とフランス語版が存在する。そして、その制作行為は、フランス国有鉄道SNCFの鉄道員達が、第二次世界大戦中に対独レジスタンスで払った犠牲へのオマージュでもあったことであろう。鉄道網再編によるSNCFフランス国鉄の設立は正に1938年であり、それは、第二次世界大戦勃発の前年である。

 René Clément監督の作品『禁じられた遊び』(1952年作)で描かれたように、1940年5月にはナチス・ドイツがフランスに侵攻し、北部フランスがナチス・ドイツの占領下に入ると、南部フランスにはナチス・ドイツの傀儡政権と言ってもいいヴィシー政権が出来上がる。一方、イギリスに亡命したドゴール将軍の下、「自由フランス政府」が存在しており、その命を受けて、占領下のフランスには対独レジスタンスが『影の軍隊』(Jean-Pierre Melville監督の1969年作品の題名)として存在し続けたのであった。B.ランカスター演じるところのラビッシュもまた、この対独レジスタンスの一員であったのである。

 しかし、このナチス・ドイツによるフランス占領も、1944年6月の、所謂「ノルマンディー上陸作戦」以降、ヨーロッパに西部戦線が出来ると、同年の8月中旬にはパリ市民の蜂起が起こり、同月下旬にパリが「解放」されることになる。作中のドイツ国防軍将校フォン・ヴァルトハイム大佐は、このパリへ連合軍が迫る中、フランス国民の「魂」たるところの絵画芸術作品をドイツ本国に略奪・移送しようとしたのである。しかし、このストーリーの背後には実は、北フランス占領中における体系的な、ナチスによる芸術作品略奪の史実があるのである。

2024年4月29日月曜日

ミーン・ストリート(USA、1973年作)監督:マーティン・スコアセスィ

 本作の監督Martin Scorseseマーティン・スコアセスィは(「スコアセスィ」は、ウィキペディアによると、本人のシチリア方言に基づく発音)、本作の舞台でもあるニューヨーク市マンハッタン島最南端にある、いわゆる「リトル・イタリー」で育った人間である。そのリトル・イタリーは、19世紀には日中でも陽が差さない貧民窟街で、貧しいイタリア・シチリア移民がUSAにやってきて住んでいた移民居住地であった。このことから、英語の原題『Mean Streets』が名付けられる訳である。英語のmeanとは、色々な日本語訳があるが、「卑しい、むさ苦しい、下品な」などの意味合いで使われる言葉である。そして、こういう場所には組織犯罪組織が蔓延ることになり、イタリア系と言えば、それは、当然、「マフィア」組織がこの「リトル・イタリー」を牛耳ることになる。フィルモグラフィーによると、M.スコアセスィの「マフィアもの」は、本作がその第一作になると言う。

 本作の冒頭からは、ハーヴェイ・カイテルが登場し、役柄のイタリア人らしく、教会で自問する場面が出たりしてきて、彼が主人公なのであろうと思い込んで、エンディング・ロールを見ていると、助演であると思い込んでいたロベルト・デ=ニーロの名前がH.カイテルより先に出てくるので、意外の感があるのであるが、そのR.デ=ニーロもまた、リトル・イタリーで育ったと言う。つまり、本作は、脚本も共作しているリトル・イタリー育ちの監督が、同郷の俳優を使って1970年代初頭のリトル・イタリーを描いた、地誌的ドキュメンタリー性を持った作品であると言えるのである。

 さて、1942年生まれのM.スコアセスィは、1960年代後半にニューヨーク大学で映画学を学び、その修士課程の卒業制作を基に制作した初の長編映画が、『ドアをノックするのは誰?』(1969年作)であった。この作品にM.スコアセスィは、実は、既にH.カイテルを主演に使っていたのである。あるイタロ・アメリカンの宗教的生活感をテーマとしたこの映画は、インディペンデント映画界で注目されることとなり、こうして、ある女性Hoboホーボー、つまり1930年代の渡り鳥労務者の運命を描いた次作『明日に処刑を…』(1972年)を監督することになるが、この作品が期待した程の評価を得られなかったことから、M.スコアセスィは、「原点回帰」として本作『ミーン・ストリート』(1973年)を監督し、本作に再びH.カイテルを出演させる。本作は、ウィキペディアによると、映画批評家から大絶賛を受け、興行的にも製作費を上回る成功を収めた言う。こうして、本作が機となり、M.スコアセスィとR.デ=ニーロとの共作が始まることになる。この三年後に二人の活動は実を結ぶ。つまり、R.デ=ニーロが主演した『タクシー・ドライヴァー』である。映画『Mishima』を後に撮ることになるポール・シュレイダーが脚本を書いたこの作品は、カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞するのである。

 さて、本作の冒頭では、H.カイテルやR.デ=ニーロらの一応の人物紹介が行なわれるが、本作は、その後のストーリー展開としては、余り起伏がなく、むしろ、マフィア組織の下っ端のH.カイテルが友人として面倒を見ている奔放で殆んどアナーキーなR.デ=ニーロが博打絡みで首が回らなくなり、追いつめられていく過程を、リトル・イタリーを背景として描くもので、観ている方がR.デ=ニーロの自堕落さに嫌気がさして、映画の中盤では中だるみ感がする作品である。M.スコアセスィ映画の特徴的な動くカメラは、ここでも発揮されているが、それにしても、この映画が映画批評家から大絶賛を受けた理由が筆者には中々理解できない。恐らくは、イタロ・アメリカンの人口が現在ではより縮小し、この地域が「リトル・チャイナ」化しているらしいので、消えつつある、かつてのリトル・イタリーのイメージへの郷愁が、本作の地誌的な記録性と相まって、映画評論家達を喜ばせたのかもしれない。実際、ウィキペディアによると、本作は1997年に、「文化的、歴史的、ないしは美学的に」重要な作品として、アメリカ議会図書館にあるNational Film Registryアメリカ国立フィルム登録簿に登録された。

2024年4月3日水曜日

十戒(USA、1956年作)監督:セシル・B.・デミル

 Cecil B. DeMilleセシル・B.・デミルは、1881年にUSAで生まれた映画監督、映画プロデューサーで、1910年代から監督作品を発表し、アメリカの初期の映画史に影響を与えて、「史劇の巨匠」と言われいる。その名声に相応しく、1956年制作の、聖書史劇とでも言える本作が、撮影当時75歳であった彼の遺作となった。実は、デミルは、本作の約30年前に撮った『十誡』(1923年作)を自分でリメイクしたことになる。

 その名称からすぐ分かる通り、本作は、旧約聖書の『Exodus出エジプト記』をハリウッド的に映画化したものであるが、エジプトでのロケーション撮影も行なわれ、撮影機材がMitchell VistaVisionカメラで、撮影素材がTechnicolorと来れば、是非、映画館でのリバイバル上映で観たいものである。映画史上有名な紅海が割れて、ヘブライ人が紅海の底を渡る場面は、以下の『出エジプト記』第十四章の引用部分に対応する。

21モーセ(のべ)ければヱホバよもすがら強東風をもて退(しりぞ)かしめ陸地(くが)となしたまひてれたり 22イスラエルの子孫(ひとびと)けるくに彼等右左(かき)となれり 23エジプト(びと)パロ(ファラオ)馬車(むまくるま)騎兵みなそのにしたがひて() 24にヱホバとの(うち)よりエジプト軍勢エジプト軍勢まし 25其の車(はづ)して行くくならしめたまひければエジプト人言我儕(われら)イスラエルをれて(にげ)はヱホバかれらのためにエジプトへばなりと 26にヱホバ、モーセに言ひたまひける(のべ)をエジプトとその戰車(いくさぐるま)騎兵らしめよと 27モーセすなはち(のべ)けるに夜明けにおよびて(もと)勢力(いきほひ)にかへりたればエジプト人之(むか)ひてたりしがヱホバ、エジプト(なげう)ちたまへり 28流れ反りて戰車(いくさぐるま)騎兵イスラエルのにしたがひてにいりしパロの軍勢へり一人れるあらざりき 29(され)どイスラエルの子孫(ひとびと)けるみしがはその右左(かき)となれり 30斯くヱホバこのイスラエルをエジプトよりひたまへりイスラエルはエジプト海邊死にをるを見みたり 31イスラエルまたヱホバがエジプト爲したまひし大いなる(わざ)見みたり(ここ)於いヱホバをヱホバとその(しもべ)モーセをじたり。」

 この年のアカデミー賞では、本作は、作品賞、撮影賞、美術賞他、七部門でノミネートされ、担当のJohn P. Fultonが特殊効果部門で受賞した。

 しかし、俳優陣もそうであるが、アカデミー賞に七部門もノミネートされる作品で、脚本賞がノミネートもされなかったのは、意外と言えば、言える。とは言え、私見、テーマに関連する著作を参照しながらも、『出エジプト記』を土台として書かれた本作の脚本には、なるほどよく練ってあると思わせる部分がある。モーゼの出生の秘密とその生い立ち、そして、それに絡む、「異母兄弟」たるラムセスと、そのラムセスの第一王妃となるNefretiriネフェルタリとモーゼとの関わりである。

 そこで、後にラムセスII世となるラムセスの存在にフォーカスを絞って、古代エジプト歴史を簡単に復習してみよう。

 紀元前3100年頃から紀元前4世紀までの約三千年の間の長い、古代エジプトの歴史は、初期と末期を除くと、古王国、中王国、新王国、その間に中間期が同じく三回入り、この中間期の王朝も通算すると、最初から最後までで31の王朝があった。

 その内の、第18王朝から第20王朝までが、新王国時代の王朝で、紀元前16世紀から紀元前11世紀までの合計約500年間の統治期間を指す。この新王国時代に古代エジプト文明は最も栄えたと言われるが、その中でも、第18王朝の最後のファラオの下その宰相であったラムセスI世が第19王朝を創始した後、その次代のSethiセティI世を経て、第19王朝第三代のファラオとなったラムセスII世の統治下に、古代エジプトは対外的にも最も繫栄し、それ故に、ラムセスII世こそは古代エジプト史最大のファラオと言われている。本作の、モーゼと並ぶ、Yul Brynner演じるところの主役の一人となるRamessesラムセスである。

 ラムセスII世は、24歳頃で即位した紀元前1279年頃から紀元前1213年頃までの66年間にファラオとして在位し、90歳前後で没したと言われている。「Ramessesラムセス」という誕生名は、ウィキペディアによると、「ラーは彼に生を与えた者」という意味の「ra-mes-sw」のギリシア語読みで、即位名の「ウセルマアトラー・セテプエンラー(User maat Ra-Setep en Ra)は、「ラーのマアト(正義、真理、宇宙の秩序の意)は力強い。(彼は)ラーに選ばれし者」を意味すると言う。正に、神に愛でされし者として、古代エジプト人の平均寿命の約二倍の長命であり、体格は、古代エジプト人の平均身長が165㎝程であったのと較べると、約180㎝と異常に高かった。実際に、彼のミイラが現在も保存されており、現代科学の分析によると、彼は、赤毛であったと言う。

 さて、この古代エジプトの最盛期を築くファラオとなるラムセスは、紀元前1303年頃、ファラオ・セティIの王子として生まれた。この王子ラムセスはセティI世の長男ではなく、実は、彼には名前不明の王太子の兄がいたとされるのである。しかし、ある時点でその王太子の記録が全部消されて、壁画自体も弟の姿に変えられたということであり、この不明な部分にモーゼの出生の秘密と王族としてモーゼが成長したというプロットを創り上げたのは、本作の脚本家グループの上手いところである。

 しかも、これに、ラムセスの最初の王妃となるネフェルタリを絡ませる。即ち、ラムセスは、実は、既に彼が十歳代の前半の時期に政略結婚により、上エジプトを代表するネフェルタリと結婚したのである。これを脚本家グループは、後ろにずらし、Anne Baxterアン・バクスター演じるところのネフェルタリが、ラムセスよりはむしろモーゼに心を寄せる、メロドラマに必要な存在としたのである。こうして、本作の前半は、メロドラマ的緊張感を伴なって展開する。

 尚、本作製作当時の教会史家は、『出エジプト記』に登場するファラオがラムセスII世であったと推定していたが、現在では、ラムセスII世の次のファラオ・メルエンプタハであった可能性が高いとされていて、ラムセスII世を旧約聖書中のファラオと同一視する見方は少なくなっていると言う。

2024年2月10日土曜日

忍びの者(日本、1962年作)監督:山本 薩夫

 石川五右衛門が「忍者」であった、この意外な取り合わせに少々メンと食らった。あの「天下の大泥棒」がどうして忍者であったのか。そのことを調べてみる必要があると思った。

 一方、原作を書いたのが、村上知義である。筆者が思っていたのは、この「大衆作家」の作品、ただの「娯楽」小説と思っていたのであるが、こちらを調べてみると、本作の原作が1960年の作品で、しかも、これが、新聞連載小説として、日本共産党の機関紙『赤旗』の日曜版に1960年から62年まで載せられていたものであると言う。単なる「娯楽」小説が、どうして共産党の機関紙の連載小説になり得たのか。そこから、本作の「不思議」を紐解いてみる必要があろう。

 ウィキペディアによると、村上知義は、こんな人物である:

「村山 知義(むらやま ともよし、1901年(明治34年)1月18日 - 1977年(昭和52年)3月22日)は、日本の小説家、画家、デザイナー、劇作家、演出家、舞台装置家、ダンサー、建築家。日本演出者協会初代理事長。」と、非常に多才な人物である。

 彼は、1920年代にベルリンに留学し、ドイツの表現主義や、「構成主義」芸術に心酔し、日本に帰国して、前衛芸術集団「Mavo」を結成して、当時の日本の前衛芸術集団を牽引する。美術からの関係から、まず演劇の舞台装置制作に関わるようになり、20年代半ばには表現主義的舞台作品の監督をするようになる。前衛芸術という観点から次第にマルクス主義に接近するようになり、左翼的演劇集団に関わり、また、この時期に最初の小説集『人間機械』を発刊する。こうして、彼は、労農芸術家連盟のプロレタリア芸術運動と、前衛芸術家同盟のアヴァンギャルド芸術の間を揺れ動く。20年代末には、結局、左翼芸術運動により関わることとなり、1930年、治安維持法で検挙される。その後は、再度、日本プロレタリア文化連盟設立などにコミットすることで、33年年末に再度検挙され、転向する。転向して翌年の5月に「転向文学」のはしりと言われる『白夜』を発表する。転向したとは言え、戦時中における「良心的」な演劇運動の一翼を担ったのが、村山であった。同時に、この時期に大衆小説的な作品『新選組』を上梓しており、この「路線」が、のちの「忍びの者」シリーズの発表に繋がっていくのである。

 こうして見ていくと、なるほど、村山作品が共産党の機関紙『赤旗』に連載されるのは何も可笑しくないように見えるが、それでも、「天下の大泥棒」五右衛門と『赤旗』の結び付きに「整合性」はあるのであろうか。

 さて、日本映画の父と言われる牧野省三が1926年に撮った作品に『快傑夜叉王』という、のちに『旗本退屈男』シリーズで有名になる市川右太衛門が主演した映画がある。元々は、この作品は、「石川や浜のまさごは尽きるとも。世にぬす人のたねや尽きまじ」という辞世の句を詠んだという『石川五右衛門』と命名されるはずであった。しかし、これに検閲が入って、現在あるような題名になったのであるが、この検閲に入った理由が「面白い」:

 「当初『石川五右衛門』のタイトルで製作するが、義賊ということで、検閲官から題名変更を要求され、『怪傑夜叉王』となった。

 1926(大正15)年の『キネマ旬報』3月号(220号)では、『…石川五右衛門は共産主義者であると云うその筋の見地から題名及び役名から内容まで制限されて漸く許可された所謂問題の映画である…』と記されている。」(2019年の京都国際映画祭のサイトからの引用)

 「石川五右衛門が共産主義者である」という、検閲当局の判断が意外ではあるが、それ程、戦前・当時における検閲が厳しかったことの証左でもある。「義賊であれば共産主義者」と、当局がそう判断する程までに、体制内における「異端者」に「危険な臭い」を嗅ぎ取っていたのである。となれば、本作における、石川五右衛門と呼ばれる忍者が、当時の権力構造に抗して、最後には、自らの幸福を求めて、妻の許に走って行く、嬉々とした姿が、なるほど、忍者-石川五右衛門-民衆的存在-赤旗日曜版、というラインに繋がるのである。こう見ると、織田信長が単なる暴力的で残虐な権力者と描かれるのも無理はなく、この点でも「筋」が通っている。

  さらに、五右衛門と忍者の絡みでは、「怪優」伊藤雄之助が二役を演じた一方である百地三太夫の存在が、その絡みをつなぐ。百地三太夫は、伊賀国の郷士で、五右衛門に忍術を伝授したということになっている。ウィキペディアから引用すると、

 「三太夫は安土桃山時代ころの人物で、孤児であった五右衛門に忍術を授けたが、後に悪心を起こした五右衛門に謀られて愛妾と妻を殺害されたうえ、大金を奪われて出奔」されたと言うことになっている。

 つまり、三太夫とは架空の人物であり、今日、往々にして、百地丹波という実在の人物と混同されていると言う。この丹波こそが、第一次天正伊賀の乱で、信長ではなく、その次男である信雄(のぶかつ)と1578/79年に戦って、織田軍を退けた人物なのである。

 以上、史実と虚構をないまぜにしてストーリーを構築するのが、歴史小説家が小説を書く上での「醍醐味」であるとすれば、映画においては、その「醍醐味」は、脚本家によってさらに高められると言えるであろう。この「醍醐味」に加えて、子供の忍術ごっこの荒唐無稽性を飛び越して、忍法の技をリアリスティックに描こうとする、「大人の映画」への脱皮が、本作が大ヒットした要因となる。こうして、本作は、永田雅一・大映が放つ「忍者もの」シリーズ『忍びの者』の第一弾となり、石川五右衛門は、さらに、霧隠才蔵一世・二世、霞小次郎と生き延びて、第八弾(1966年作)まで続くことになるのである。

2024年1月28日日曜日

アレース Arès (フランス、2016年作)監督:ジャン=パトリック・ベネス

 「SF」とあると、観たくなってしまう筆者である。故に、本作を観てしまった。観た時間が勿体なかったかなと、少々「後悔」をしているが、一旦観始めたら、最後まで観るタイプなので、本作も、途中で観るのを止めようとは思うほどではなかったが、やはり最後まで観てしまった。おフランス製SFと聞いて、もう少し「おしゃれな」作品を期待したのであるが。

 本作のストーリーは、近未来・ディストピーSFで、時代設定は、2035年である。本作の制作が2016年であるので、これは、約20年後の、将に来るべき「将来」である。場所は、おフランス製SFであるので、当然、フランスである。しかし、ヨーロッパ共同体が、もはや存在しなくなっているのであろうか、フランス国家自体が統治能力を失っていた。それは、赤字国債の発行のし過ぎで、フランスは巨額の負債を抱える赤字財政国家となり、その赤字を埋めるために、政府は、製薬関係の多国籍企業に借金をせざるを得なくなったことによる。こうして、政府は、債権者である製薬会社の都合のよいように、人体実験と、精神刺激剤投与、つまり「ドーピング」を「自由化」する。

 一方、一般大衆は、1500万人に及ぶ失業者数と、高いホームレス化に苦しんでいた。それ故に、「体制側」は、暴動を恐れて、銃器の所持を禁止しており、武器携行が見つかれば、厳しい処罰を受けるものとしていたのである。

 こうした苦しい現実から大衆が逃避するためには、「娯楽」しかなく、それは、テレビで放映される、混合フリースタイル格闘技に金を賭けて一攫千金を夢見ることである。しかも、登場する格闘技者の後ろ盾には、ドーピング剤を提供する巨大製薬会社が付いており、ドーピング剤の効能を巡って、各巨大製薬会社は、しのぎを削っていて、「スポンサー」として、自社がドーピング剤を投与した「選手」が勝つか負けるかは、同時に、その会社にとっての命運が掛かっていたのである。

 本名Redaレーダ、選手名Arèsアレースは、このような格闘技選手の一人である。かつては、一流選手の一人であった彼は、投与された薬剤の副作用で十年前に脳卒中を起こし、それ故、頭の左側にその時の手術の傷跡が痛々しい程はっきり付いている人間である。こうして、今は、しがない三流格闘技家となっており、貧相な高層アパートにある一室に住む住人である。彼は、まもなく格闘技界から引退することを考えており、今までに貯め込んだ金で、キオスクをやりながら、余生を過ごそうと思っていたところであったが、ある製薬会社が、精神刺激・体力増強作用において、画期的効力が期待される新製品を売り出そうとしており、そのために、ランキング下位のアレースがランキング上位者を倒すことで十分な宣伝効果が上がるという目論見で、彼に目を付けたのである。こうして、アレースことレーダの運命は大きく狂うことになり、本作のストーリーは、結末に向けて、更に展開する。

  さて、本作において、ストーリーのセッティングには、それ程、独創性が感じられなかった。近未来社会において、製薬会社がその社会の実権を握っているというプロットは、今までにも飽きる程、見ている。ただ、SFに混合フリースタイル格闘技をぶつける点は、面白い取り合わせで、この点では、SF作品ではないが、2007年作のフランス映画『ザ・スコーピオン キング・オブ・リングス』を思い起こさせる。フランスでは、どうも混合フリースタイル格闘技というのは隠れた人気があるようである。

 また、主人公と少女の関わりという点では、同じくフランス映画で、『Lèonレオン』(Luc Bessonルック・ベソン監督、1994年作)がある。この作品では、ニューヨークを舞台に、ある殺し屋(ジャン・レノ)と、麻薬密売組織に家族を殺された少女マティルダ(ナタリー・ポートマン)との交流が描かれる。本作では、主人公の姪っ子(Éva Lallier)が「マティルダ」に当たる。目がくりくりとして、髪の毛をピンク色に染めた、恐らくは、アニメ的造形対象で、一般的観衆には「可愛い」と言えるタイプに見え、この点で、若干、日本人的趣味への迎合が思わされる。

 さて、本作に登場する人物で、興味深い役柄(Micha Lescotミシャ・レスコー)がある。同じくL.ベソン監督作品『仏題:Le Cinquième élément 第五の元素』(1997年作)で印象的な存在だった「Ruby Rhodルビー・ロド」を思い起こさせる人物である。Rubyは、女装のクロス・ドレッシング人間で、ハイトーンの高音の声に、高速の口調であり、口癖が「Oh, my god!」である。本作における「Ruby」は、主人公が住む部屋に、フロアーを隔てて、斜め向かい側に住む住人で、女装のクロス・ドレッシング人間である。ただ、Rubyとは異なり、アンニュイな感じを与える存在である。さすがに2016年制作ということで、時代に対応した「仕掛け」になっており、「彼女」は、自分の部屋にカメラを備え付けており、自分の生活様態をオンライン・ストリーミングで配信して、生計を稼いでいるという設定である。この登場人物が、本作において、筆者には一番興味深い存在であった。因みに、「彼女」の名前は、「Myosotisミュオソーティス」という。気になったので調べてみると、この名前は、ギリシャ語から来ており、「二十日鼠 (myos) + 耳 (otis)」が語源であると言う。この言葉は、植物の学名にもなっており、「忘れな草」属は、葉から茎まで軟毛に覆われており、このような葉の、細長く多毛で柔らかい様態が、ネズミの耳に似ていることから、その名称が来ているという。ここは、本作の脚本家(監督を兼ねるJean-Patrick Benesと、監督とよくコンビを組むAllan Mauduit)が工夫を凝らした点であろうか。

 と言うことで、ギリシャ語との関連で言えば、「Arès」もまた、ギリシャ語、更に言えば、ギリシャ神話と関係のある名称である。しかも、このギリシャ神話の神のことを知っていることは、本作のストーリー展開を理解する上で、その一助になると思われるので、そのことについて一言、ここに記しておこう。

  Arèsとは、ギリシャ語をラテン語に表記して、「Ares」となるところから来ている。「アレース」、或いは、「アーレース」と読む。「アレース」は、ゼウスの子で、軍神である。彼は、巨体で美青年の姿で想像されるところからか、愛の女神アプロディーテーの情人、或いは夫であるとされる。アレースは、同じく「戦いの神」であるアテーナーが女神であるから、これとの好対照となる存在で、アテーナーが、一方で知性の女神であるところから、戦いにおける知略を象徴するとすれば、アレースは、戦いにおける暴力、それも「無思慮な暴力」、「暴力のための暴力」を象徴すると言う。こう見てくると、本作におけるアレースが、混合フリースタイル格闘技家である所以も、頷けるところである。

2024年1月16日火曜日

Perfect Days(日本/ドイツ、2023年作)監督:ヴィム・ヴェンダース

 主人公・平山の趣味が、1970年代のポップスをカセットテープで聴いたり、アナログ・カメラで白黒写真を撮ったりすることなどであること、また、平山が見る夢が、W.ヴェンダースの妻ドナータ・ヴェンダースの、モノクロのDream Installationsとして、作品に挿入されていることなど、映画人としてのW.ヴェンダースの作品制作上の「趣味」が、本作にはしっかりと反映されている。また、W.ヴェンダースの「強み」である、街の中をロードムービー的に歩き回る「ドキュメンタリー性」は、既に彼の1985年作のドキュメンタリー作品であり、巨匠小津安二郎へのオマージュでもある『東京画』で、東京都内を使って、実験済みであるところから、その時の「実験」は、今回でも、平山の車での移動の場面でも手堅く活かされている。

 W.ヴェンダースが、ストーリー展開において一本筋を通してストーリーをしっかり最後まで語ることに得意ではない点は、今回、日本語が出来ないW.ヴェンダースを助けて、共同脚本家として日本人の高崎卓馬が関わったことにより、よくその欠点が補われており、高崎との共作は、本作において、極めて幸運に働いたと言えよう。

 演歌歌手の石川さゆりが、イギリスのバンドThe Animalsがフォーク・ロック調で歌って1964年にヒットさせた『The House of the Rising Sun』を日本語訳で、しかも、自称演歌好きのシンガーソングライターの、あがた森魚(1972年のヒット曲は『赤色エレジー』)のギター伴奏で、歌ったという「楽屋内のオチ」は、日本人でなければ分からないものであるはずで、この点においても、W.ヴェンダースへの高崎卓馬の協力は成功していると言える。

 因みに、この歌の日本語訳は、ジャズ・ブルース歌手浅川マキが翻案したもので、本作の上映により、彼女の存在に日本人が再び注目することになれば、これまた、よいことである。元々は、北アメリカ民謡である『The House of the Rising Sun』は、歌詞には色々なヴァージョンがあり、The Animalsのヴァージョンでは、飲んだくれの賭博師とお針子を両親に持つ、ある男が結局、自分も犯罪者となってニューオリンズに戻ってくる運命を歌っているのに対して、浅川マキは、The House of the Rising Sunを、「朝日楼」という女郎屋にし、男に捨てられた、ある女が、落ちぶれて売春婦となり、ニューオリンズに流れてきた悲しい運命を歌ったものであった。この「ブルース」を、演歌歌手の石川さゆりに歌わせるいう、「ブルース・ミーツ・演歌」の思い付きは、筆者には、中々悪くない試みと言える。

2023年12月31日日曜日

デイブレーカー(オーストラリア/USA、2009年作)監督:スピエリッグ兄弟

 グローバル・プレイヤーとしての製薬・生命維持産業がその社会を支配しているというプロットは、SF映画でよく聞く話しで何も目新しくない。ただ、それが、社会の多数派を占める吸血鬼人間に、人血を供給するという点は、中々面白い。

 とは言え、その人血の製造が、人間の生命を維持する形で、しかし、採血は人体に直接採血用の管を繋げることでなされるというのは、どこかで見たような光景である。そう、『マトリックス I』(1999年作)での場面で、キアヌ・リーヴス演ずるところのミスター・アンダーソン達が、AIに電気エネルギーを供給するために、「飼育」されていたのと、これは似ている。

 そして、イーサン・ホーク演じる主人公の人工血液製造プランの研究者が、自分はヴァンパイアであるにも関わらず、人血を飲むことを拒む点も、やはり、どこかで見たことがある。そう、『トワイライト〜初恋〜』(2008年作)のエドワードである。彼は、人間の血を吸うことを自らの意志で拒む、そして、そこに克己の徳を自らに課している点で「ヴェジタリアン」ヴァンパイアなのであり、この自己克己の態度は、イーザン・ホーク演じる、奇しくもエドワードと同名の研究員の自制の態度と同様なのである。

 という訳で、どうもそのオリジナリティーが問われる本作ではあるが、一つ興味深いのは、本作のストーリーにおいて、階層社会が構成されていることである。即ち、人血製造・供給会社の上層部を形作る、サム・ニール(悪玉を演じてよい)を代表とする特権階層、その下に、一般吸血鬼人間、さらにその下に、吸血鬼の糧となる「人間」と階層構成されているのであるが、面白いことに、人血を吸わずに、或いは、吸えずに、退化してしまったヴァンパイア、つまり、蝙蝠状化したSubsiderという階層も存在していることである。こうして本作では、単に、「ヴァンパイア対人間」という構図ではなく、ヴァンパイア層内部でも階層分化させることで、ある種の社会的観点を、単なるSF・ヴァンパイア映画の中に取り込んでいるのである。

 そして、このことが、本作の終盤に向けてのストーリー展開に重要な役割を演ずることになる。つまり、自己犠牲を懸けてSubsider化した、サム・ニールの娘が、ある出来事で、エリート部隊の隊員となっているエドワードの弟を「改心」させるのである。

 監督で、脚本も書いているのが、1976年生まれの一卵性双生児マイケル・スピエリッグ(Spierig)とピーター・スピエリッグである。実は、この兄弟は、北ドイツ生まれで、本当の姓名は、ミヒャエル&ペーター・シュピーリヒ(Spierig)という。

 こうして、本作で肩を慣らした、ミヒャエル&ペーター・シュピーリヒは、2014年作の、ロバート・A・ハインラインの短編小説『輪廻の蛇』を原作とする『プリデスティネーション』で、極めて手の込んだストーリー展開を見せる。この作品でも、主役はイーサン・ホークである。

 E.ホークは、名優W.デフォーを「エルヴィス」役で無駄遣いするという、B級映画の「並み」レベルの本作に嫌気がささずに、シュピーリヒ兄弟の次のオファーを受けたのであった。『プリデスティネーション』は、2015年のオーストラリア映画テレビ芸術アカデミー賞(Australian Academy of Cinema and Television Arts Awards, AACTA Awards)では、9部門でノミネートされ、その内、最優秀主演女優賞、撮影賞、編集賞、そして、美術賞をゲットしたのである。

ユリシーズ(イタリア、1954年作)監督:マリオ・カメリーニ

 『オデュッセイア』は、古代ギリシャ神話の英雄で、知略の人オデュッセウスの冒険譚を詠った韻文の叙事詩で、24の「歌」から成っている。時系列的にはトロイア戦争が終わって、トロイアから故郷のイタケーに戻る行程が描かれるのであるが、文学的には、『オデュッセイア』では、初めの方で、オデュ...