2025年10月29日水曜日

アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場(イギリス、2015年)監督:ギャヴィン・フッド

 本作の制作は2015年であるが、その前年の14年には、『ドローン・オブ・ウォー』という訳の分からない邦題のUSA作品が既に発表されていた。この映画の監督は、その脚本も書いたAndrew Niccolで、主役は、US空軍少佐を演じるEthan Hawkeである。原題が『Good Kill』と、その主題を的確に突いていて、自らはその場にはいないのであるが、それでも、攻撃型ドローン「Reaperリーパー」(「草刈り鎌」の意)を使って、敵のアフガン人テロリストを爆殺していくUS空軍少佐の内面の空虚と葛藤を描いたものであった。本作も同型のドローンMQ-9 Reaperが登場し、そのストーリーは、ケニアのナイロビに潜伏する英国人テロリストを如何に「中立化」するかを巡るものではあるが、その立て付けは、個人の内面の問題ではなく、軍事・政治・倫理の枠組みでテロリストを間接的にKillすることの意味を政治スリラー映画として制作したものである。本作のラストシーンの情緒性はいただけないが、そのテーマの政治性は大きく取り上げられるべき問題であり、評価したい。脚本は、Guy Hibbertガイ・ヒパートで、本作により、2016年度英国映画賞で脚本賞を獲得している。監督は、Gavin Hoodギャヴィン・フッドという白人系の南アフリカ人で、本作では、US空軍中佐Ed Walshとしても台詞付きで登場している。主演の一人は、鉄血の英国軍人キャサリーン・パウエル大佐を演じるHelen Mirrenヘレン・ミレンである。

 第二次世界大戦において、制空権を持たない者は戦争に負けることがはっきりした。そして、戦略的空爆は、第一次世界大戦で明確になった総力戦において、敵方の戦争遂行能力に打撃を与えるために肝要・不可欠のものとなる。さて、1960年代から70年代に掛けてヴェトナム戦争で米兵を現地投入して、「痛い目」にあったUSAは、軍事的対立には、出来るだけアメリカ兵の海外派兵をせずに、これを解決しようとする。となると、戦略的空爆により大きな意味が置かれるようになる。その典型が、1990年代のユーゴスラヴィア内戦におけるNATO軍の行動の在り方で、NATO軍は、現地には歩兵を派兵せずに、空爆により内戦とジェノサイドを終わらせようとしたのであった。こうした戦争の在り方の変化に対応して、攻撃型ドローンの開発も急速に行なわれるようになったのであろうし、しかも、ジェット戦闘機であれば、有人でもあり、経費も嵩むところが、UCAV(unmanned combat air vehicle無人戦闘航空機)であれば、パイロットを失う危険もなく、軍事衛星の整備のためのコストを除けば、兵器自体の経費もより安く済む。こうして、USA軍のUCAVたるMQシリーズが開発され、現在では改良型のMQ-9まで来ている。MQ-9 Reaperは、既に2007年より運用されているが、2001年の同時多発テロ事件以来、国際テロリスト集団との「War」が国際政治上の焦眉の的となっており、この関りでも、上述の『Good Kill』のようなテーマが映画でも取り上げられることとなる。因みに、本来的に言って、国家対テロリスト集団という構図を「戦争」と呼ぶことに疑問があるのではあるが。

 MQ-9 Reaperの仕様は、以下の通りである:
長さ:11 m、翼幅:20 m、最高高度:15.200m、運用高度:7.600m、滞空時間:14〜28時間、航続距離:5.926km、最高速度:482 km/h、巡航速度:276-313km/h、ハードポイント(ミサイル固定装置):6である。

 遠隔操作員は二名で、パイロットが一名、センサー員が一名となる。本作では、この要員がUSAネヴァダ州にある地上誘導ステーションでドローンを操作している。作戦本部はイギリスであり、作戦地は、ケニアのナイロビという「国際性」である。しかも、ナイロビ現地のケニア情報部の要員は、鳥型ドローン(Ornithopterオーニソプター)や昆虫型ドローン(Insectothopterインセクトソプター)を使用するという手の入れようである。(-pterとは、ギリシャ語で「~の翼」を意味し、Helicopterヘリコプターとは、「回転翼」を意味する。)

 イギリスの作戦本部は、二箇所に別れており、パウエル大佐が勤務しているイギリス軍常設統合指令部は、大ロンドンの北部に接してある地域に存在しているノースウッド・ヘッドクォーター内にあって、実働部隊である。常設統合指令部は、もちろん、文民統制下にあることから、イギリス政府が構成する「緊急事態対策会議」の下に置かれている。この「緊急事態対策会議」は、イギリス政府・内閣府内に置かれている。その正式名称は、Cabinet Office Briefing Rooms(内閣府ブリーフィング・ルーム)で、その頭文字を採って「COBR」と略するが、これでは、発音するのに座りが悪いので、このルームの内、A会議室を多く使うことから、略称として「COBRAコブラ」と言いやすい方を取っているようである。

 COBRAは、議長となる内閣総理大臣乃至は担当大臣が、更に、関連の諸大臣、閣外大臣、関連の警察上級職員などが入って構成される。本作では、実働部隊への指揮命令系統の上位の者として、イギリス海軍中将Bensonが海軍国防副長官として会議体に入って、会議体の決定事項をパウエル大佐に指揮する。更に、パウエル大佐が、アメリカ軍のReaperパイロットやケニア情報部に指示するという具合である。(尚、ある場面では、Reaper操縦者であるUS空軍中尉が、Collateral damageを巡って、パウエル大佐に抗して、ロケット発射を逡巡する箇所がある。軍事行動もまた規則に則ってなされなければならない。その「ブレーキ装置」が如何に軍隊内で機能しているかが、その国の軍隊の民主主義度の計測機となることを本作は見せてくれる。)

 COBRAには、Benson中将以外に、法務長官(Attorney General:検事総長のような地位で、法務大臣と同格かそれ以上の地位にある、歴史ある役職)、外務省副大臣、外務省アフリカ担当の政務次官(女性)など四人が参加しているが、必要があれば、通信連絡で、外務大臣などもその決定を促されることになる。邦題として追加されている「世界一安全な戦場」は、この女性政務次官の言葉をその趣旨に則って言い換えたもので、蓋し、本作の核心を突いた「銘題」である。

 こうして、本作では、イギリス国籍の二人とUSA国籍の一人のテロリストをナイロビで 逮捕するつもりであったものが、事態の展開により、彼等をドローンからのロケット攻撃で殺傷することに替わり、その際に、どれだけのCollateral damageが赦されるのかという政治上、倫理上の問題がCOBRAで議論されることになる。これが、映画中盤のクライマックスとなるが、さて、その議論の結果は如何なるものになるか?

 さて、筆者はこの文章を2025年10月下旬に書いているが、この数週前から、アメリカ海軍がコロンビア乃至ヴェネズエラの海岸から出航した小型船を空爆によって乗組員もろともに爆砕するという軍事行動に出ている。それは、それらの小型船がUSAに麻薬を持ち込もうとする犯罪行為であるからであると唱えている。テロ行為を戦争行為であると見做すことには意見が別れるところであろうが、麻薬持ち込みは、明らかな犯罪行為であり、これに対抗するのは、本来は警察組織の役割である。しかも、ある軍隊が犯罪者を裁判なしで「処刑」するのは、 国際法に違反する明確な違反行為であろう。このように、いわゆる、「Targeted Killing」には、法律上、政治上、倫理上の問題がある。

 そして、空爆には、誤爆やCollateral damage(巻き添え損害)もあり得るのであり、本作は、Collateral damageが60%の可能性であるかを結局45%までに、殆んど故意に下げるという問題も浮き彫りにされている。

2025年10月4日土曜日

ヴェルミリオ(伊、仏、ベルギー、2024年作)監督:マウラ・デルペーロ

 第二次世界大戦末期の北東イタリアの山村に住んでいた、ある一家のこの話しは、まるでドキュメンタリー映画ように、イタリア・アルプスの美しい風景と静謐なピアノ音楽を背景にして淡々と描かれる。このドキュメンタリー性は、実は、本作の女性監督であるMaura Delperoマウラ・デルペーロが、自分の祖父と父親の生活を描こうとしたその個人的な動機によるところもあるが、監督自身がまずはドキュメンタリー畑で映画を撮ってきた経歴にもよるのである。実際に、デルペーロの祖父は教員であり、2019年に彼女の父親が亡くなった時に、家族の話しを聞いていた彼女は、自分の父と祖父の物語りが失われることを恐れて、本作を撮りたいと思ったということである。故に、共同プロデューサーも兼ねている彼女は、もちろん、本作の脚本を書いている。

 本作の監督・Maura Delperoは、1975年にBolzano市に生まれた。ボルツァーノ市にあるカトリック系の高校を卒業した後、1994年からボローニャ大学でイタリア語を勉学し、パリのソルボンヌ大学での留学経験もある。ボローニャ大学卒業後は、この地の高校でイタリア語を教えていた。しかし、2000年代に入って、バングラデシュでドキュメンタリー映画の制作に関係していた友人をバングラデシュに同行することになり、その際、ドキュメンタリー映画制作にも関わることになる。これが彼女が映画界に関わる切っ掛けとなり、2004年にあるドキュメンタリー映画の助監督となる。自学でドキュメンタリー映画制作を学び、2005年にある中編のドキュメンタリー映画でデビューを飾る。2008年には長編ドキュメンタリー映画『Signori professoriシニョーリ・プロフェッソーリ』で第26回トリノ映画祭で初めての受賞をする。2010年から二年間、本格的に、ブエノス・アイレスのCentro de formación profesional SICA で演出と脚本制作の勉学をする。初めての長編劇映画制作のために書き上げたプロジェクト脚本は、ベルリン国際映画祭でも注目され、これが、2019年に『Maternal』という題名で制作され、70以上の映画祭で上映されるという反響を得る。本作は、この『Maternal』を受けての五年振りの発表作品となった。

2025年10月3日金曜日

Mr.ノーバディ(USA、2021年作)監督:イリヤ・ナイシュラー

 監督のIlya Naishullerイリヤ・ナイシュラーは、父親がユダヤ系ロシア人で、金持ちの家に育ったところから、子供の頃はロンドンの豪邸に住んでいたと言う。モスクワ生まれの彼は、その後、ロシアに戻り、希望であるロシア映画大学を受験するが、これには受からず、それで、モスクワの映画関連の専門学校に入ったと言う。在学中、モスクワのモスフィルムで撮影助手などをやったりして、映画制作に熱中すると、この専門学校は中退してしまった。(一時は、ニューヨーク市にある著名な芸術関連の私立大学Tisch School of the Artsに入学していたとも言われている。)

 2008年には、自分も参加するバンドBiting Elbowsを結成するが、あるプロデューサーに支援を受けて、2010年から自分たちが制作したアルバムに合わせたミュージックヴィデオ(MV)を監督として制作するようにもなる。これらのMVに対する反響が大きかったことから、 本格的に劇映画を制作する話しが彼に回ってくる。こうして、2015年にSF映画『ハードコア』を発表する。全編が一人称視点で語られるこの作品は、トロント国際映画祭で観客賞を獲得する。この後も、MV制作に関わるが、2018年に本作制作の話しが舞い込む。製作会社の変更などもあって、話しが中々進行しなかったが、結局、彼を監督として本作の制作が始まり、21年に本作を発表することとなった。

 ストーリーにロシアン・マフィアが絡むことから、監督がロシア人であることは、ストーリー・テリング上の強みであるし、安心感がある。また、この映画の全編に漂うユーモア感は、「人種主義者」と呼ばれることを敢えて甘んじて言わせてもらえれば、監督の血のなかに流れているユダヤ的ユーモアの表徴ではないかと筆者には思われる。暴力自体には滑稽味はないのであるが、暴力が誇張されることにより生まれてくるその滑稽感は何とも言えない。更に、暴力の語り口も、それを若干ずらすことによって生じる、スマートさよりもズッコケ感を醸し出すタイミングの絶妙さも、シーンに合わせて聞こえてくる音楽の選曲のよさと共に、この監督のコメディー作家としての力量を思わせるものである。大体、凶悪なロシアン・マフィアとの激烈な闘争の発端は、実は、ダメ親父でも愛してくれる愛娘のものである、ネコちゃんの印が付いたブレスレットが無くなったことにあったという、その非日常性と日常性の段差の大きさに、観ている者はただ苦笑いをするのみである。

 ところで、このネコちゃんをワンちゃんにすり替えて、このワンちゃんがまた、とてつもない殺戮のコレオグラフィーに発展する切っ掛けとなる映画がある。自分の愛妻が自分の死ぬ前に、言わば、形見としてプレゼントしてくれた子犬を元殺し屋は大事にしていたのであるが、その子犬をあるロシアン・マフィアの極道息子が殺してしまう。そこから、大殺戮が始まるのである。この語り口が、『ジョン・ウィック』シリーズの第一作目であるが、この些細な出来事から大闘争が発展するという語り口は本作と同様である。そこで、調べると、本作の脚本家は、『ジョン・ウィック』第一作目と同じ脚本家・Derek Kolstadデレク・コルスタッドであった。成程と思う。

 ジョン・ウィックは、凄腕の殺し屋であったが、本作のMr.ノーバディは、どうもUSAの連邦政府機関で働いていたようである。USAには何故か18もの情報機関があるが、それは、軍関係ものから、非軍事関連のもの、例えば、対外情報機関CIAや国内捜査機関FBIなども存在する。これ程数が多くなると当然機関相互の調整が必要となってくる。そのための、大統領直轄の諸情報機関統括機関として、ロナルド・レーガン大統領は、1981年に大統領令を以って、United States Intelligence Communityが設置された。Mr.ノーバディ、つまり、日本で言えば、「名無しの権兵衛さん」は、どうも、この機関で働いていた名うての監査官であったようなのである。情報機関の活動費は公表されずに闇から闇へと活動費が流れる。この流れをコントールする必要はそれでもある訳なので、闇の中で、その会計検査をする(英語で「auditオーディット」)監査官Auditorオーディトアと呼ばれる存在の一人だったのが、今は風采が上がらず、妻や息子からは尊敬されていない、決まって火曜日にはゴミ出しに遅れるHutchハッチなのである。このハッチが、蚊も殺せない、大人しそうな一般市民の姿から、ロシアン・マフィアのMobster達を殺しまくる戦闘魔への変身するメタモルフォーゼは、痛快であり、ここにまた、本作のユーモア性もあると言える。

 エンディング・ロールが出ても、すぐに席を立たずに本作は最後まで観てほしいのであるが、エンディング・ロールの途中で、余り効いているとは思えないが、それでも「オチ」がある。故に、このオチもお見逃しなく。

2025年10月2日木曜日

女の闘ひ(日本、1949年作)監督:千葉 泰樹

白樺派 ミーツ ハリウッド映画


 白樺派は、明治末から大正期に掛けて日本の文壇の一主流となった傾向であり、その文学創作の思想的背景には、理想主義、人道主義、個人主義があったと言われている。その代表的文学者は、武者小路実篤、志賀直哉、有島武郎などである。

 何故ここで白樺派のことを持ってくるかと言うと、高峰三枝子の兄役で、大学の東洋哲学の助教授をやっている山村聰が、小暮実千代のことについて、自分は彼女と結婚するつもりであることを妹・高峰に告白した時に、次のような言説を以ってその理由付けをしているからである:(映画の40分台以降)

 まず、山村が高峰に小暮の名前を言わずに、小暮のことを説明する。小暮は、「世間が何か意味ありげに見たがるグループに属している人」であり、「世間的な垢にまみれて、もみくちゃにされ通してきたというような人」である。だからと言って、「その人に憐れみを掛けている訳ではない」のであるが、自分は、「どんなに汚されてもまだ残っている、その人の美しさを愛している。」そして、山村は言う:「僕は、本当に幸福な結婚は、必ずしも世間的な常識の上に立たなくても出来るということを証明してやるつもりだよ。」

 この人間の心根の美しさ、そして善意を信ずる態度は、正に、白樺派がその創作の土台とした、理想主義と人道主義であると言える。故に、こうは言えなくないか。この白樺派の精神が、未だ進駐軍に占領されている戦後日本であっても、戦後の民主主義精神と結び付いて、本作を以って復活したと。しかも、その復活は、民主主義を唱導する進駐軍の本国、USAのハリウッド映画の映像美を借りる形で、示されたことから、筆者としては、表題の如く、「白樺派 ミーツ ハリウッド映画」と本作を特徴づけたのである。本作の最初の15分を、背景はそのままにして、俳優だけ、アメリカ人俳優にすげ替えたら、それはそのままアメリカ映画と通せそうなくらいである。最初の教会の場面、新婚旅行で泊るホテル、正に、外国映画を思わせる。という訳で、本作の最初のストーリー展開を、ここでなぞってみよう。

 タイトル・ロールの背景に朧気ながら教会の輪郭が見えており、本作のファースト・シーンは、キリスト教会の外観である。車が数台乗り付けるが、カメラは教会の中は写さずに、すぐにフォト・スタジオでの結婚の記念撮影となる。恥ずかし気にカメラを覗き込めない、ウエディングドレス姿の高峰に、写真屋が顔を少し上げて欲しいと頼んで、写真が撮られると、すぐに場面は移って、電車が走っている場面がワンショット入る。語りのテンポがいい。すると、恐らく合成写真なのであろう(合成技術:天羽四郎)。画面の右下から左に向かう坂道があり、その画面の右は崖、左は大きな針葉樹で、画面の奥には海が見える。入り江なのであろう、村の灯りも見える。その坂道を上ってくる車がある。新婚旅行に、東京から伊豆の海岸沿いのある場所に電車と車で来たのであろう。「Hotel Minami」というネオンサインが映し出され、カメラは、思わせぶりに「Hotel」を大写しにする。すると、回転ドアがホテルの中から写し出され、ホテルの従業員が客が入ってくるのを待ち受けている。画面の右奥から、ホテルのボーイを先頭に高峰達一行が回転ドアを左(!)から入ってくる。すると、カメラは左に首を振って、ホテルの奥にある階段を写す。その階段を降りて来る、黒のアフターヌーンのドレスを着た女がいる。ハリウッド映画を思わせる、意外とさまになる画面構成である(撮影:小原譲治;美術:河野鷹思)。降りて来る女は小暮で、彼女は左手に白い薔薇を持っている。階段に向けてやってくる新婚カップルを待ち受けているようであるが、どうも新郎(役:細川俊夫)とは因縁があるようであり、新郎が、小暮をわざと無視しながら階段を上って小暮の側を通り過ぎようとすると、小暮は新郎に向けて、白い薔薇を投げつける。もちろん、新郎の後ろを若干遅れて階段を上がっていた新婦・高峰も小暮の不可思議な挙動に気付く。新郎新婦がホテルの部屋に入ると、当然、高峰は細川に階段の女が誰であるのかを問い質すが、細川は女は自分が知っている女であるが、銀座のカフヱーUna Copa(スペイン語で「グラス一杯」の意)の女給で、自分にしつこく付きまとって、困っていると言うのである。色々と説明する細川に、信じてはいるが、潔癖過ぎる自分にはどうしても納得が行かないと言って、同じホテル内に別の部屋を取る高峰であった。結局、彼女は結婚の初夜を拒否し、翌朝早く、一人でホテルを発つ。彼女は小暮が勤めているという銀座のカフヱーに向かった。カフヱーの入口で高峰が待っていると、小暮が朋輩と三人でやってくる。女給達の着替え室で、高峰が小暮の朋輩からどんなに小暮が細川に入れ込んでいたか聞かされると、煙草を吸い終えた小暮が高峰に場所を変えて直接話しをする。小暮に、「わたくしを憎いと思っているでしょ?」と聞かれた高峰は、「あたくし、自分が哀しいんです。」と答える。その答えに胸を打たれたように、小暮は、「お可哀そうな方」と言う。嫌味で言っているのではないと補足する小暮に、「今日のこと、お気を悪くなさらないでね。」と少々顔を和ませて言う高峰。二人の間には、心無い男に痛めつけらた心の痛手を舐め合うような、同性同士の共感が生まれていた。ここに「女の戦ひ」は、「女同士が共闘する、心無い男に対する戦い」となる。小暮と別れて、高峰がカフヱーから出てきたところで、後を追いかけてきた細川は、車を降りて、道の反対側に渡ろうとした。しかし、丁度通り過ぎようとしたトラックに轢かれて細川は呆気なく死んでしまう。細川の葬式を終えた高峰は、たとえ初夜はなくとも結婚をしていたことから、細川の実家に、心優しく上品な義理の母(役:瀧花久子)と二人で、未亡人として住むことになる。こうして、ストーリーは新たな展開を迎える(脚本:八住利雄)。

 亡き夫の実家に義理の母と一緒に住む高峰は、無為に時を過ごしていたが、元々好きであった絵画を描くために、義理の母の許しを得て、パリー帰りの気障な画家小谷(役:河津清三郎)の自宅兼アトリエに通うことにする。この悪役小谷・河津が、実は、映画の終盤になって、高峰と小暮の運命にも大きく関わって来ることになるのであるが、山村聰が高峰の兄であること、小谷・河津と小暮が実は因縁深い関係にあったことなどが、可成りストーリーが展開した後に観ている者に明かされる。故に、ストーリー展開が強引であるかのようにも思われ、脚本がよくこなれていない感じがあるのは否めない。

 脚本家・八住(やすみ)は、東宝の前身の一つとなるP.C.L.映画製作会社に1936年に、つまり日中戦争が始まる前年に入社して、本格的に映画脚本家としての道を歩む。戦時中は、東宝の国策映画(例えば、43年作の、帝国海軍予科練の生活を描く『決戦の大空へ』など)の脚本を書いたりする。そのこともあってか、八住は、戦後も『戦艦大和』(本作同様の新東宝製作の1953年作品)などの戦争映画の脚本も書くが、娯楽映画から文芸映画(例えば、新東宝製作の1950年作品『細雪』など)までの脚本を扱う日本映画界の重鎮・脚本家として、とりわけ、1950・60年代を通じてその健筆を振るうことになる。本作は、その八住が戦時国策映画から民主主義キャンペーン映画制作への路線転換を自ら以って遂げる過程の一本であったとも言えるが、本作のストーリー展開のぎこちなさは、民主主義プロパガンダが八住には未だ慣れていなかったところから来ているのかもしれない。

 とは言え、小暮が勤める「カフヱー」に絡む描写は、戦前との連続性があり、1940年代末の日本における風俗営業がどんなものであったかが分かって、興味深い。戦前の「カフヱーの女給」と言えば、「それなりの」社会的評価を受ける存在であった。つまり、「エロ・グロ・ナンセンス」が横行する1930年代に入って、彼女達は、当世風「娼妓」として扱われていたのである。

 永井荷風が1931年(昭和六年)に「女給・君江」ついて描いた作品『つゆのあとさき』にはここらの辺の事情が明確に言語化されている:

 「西洋文明を模倣した都市の光景もここに至れば驚異の極、何となく一種の悲哀を催さしめる。この悲哀は街衢(がいく)のさまよりもむしろここに生活する女給の境遇について、更に一層痛切に感じられる。君江のような、生れながらにして女子の羞耻と貞操の観念とを欠いている女は、女給の中には彼一人のみでなく、まだ沢山あるにちがいない。君江は同じ売笑婦でも従来の芸娼妓とは全く性質を異にしたもので、西洋の都会に蔓延している私娼と同型のものである。ああいう女が東京の市街に現れて来たのも、これを要するに時代の空気からだと思えば時勢の変遷ほど驚くべきものはない。」(『つゆのあとさき』第七章から)

 女給は、元々は「カフヱー」なるものの給仕、ウェートレスであった。カフヱーとは、もちろん、西洋文明、とりわけフランス文化から導入されたもので、1910年代以降、文化人が集まる、言わば、「サロン」としての趣きを備えたものであった。映画でも、山村が小暮と知り合う切っ掛けとなるのは、ある「肉体派文学」の文筆家が、「ウナ・コーパUna Copa」(スペイン語で「グラス一杯」の意)というカフヱーに連れてきたことによる。つまり、このカフヱーは、「カフヱー」文化の草創期の趣きも引きずっていたことになる。

 当初の「カフヱー」には、フランス系で、酒も飲ませるものもあったが、同様に、西洋料理を提供する「カフヱー」もあった。その料理を運ぶ「女ボーイ」ということで、1915年以降から、着物に白いエプロンを掛けた女給がテーブルの近くに立って、お客にサービスをしたのである。更に、「カフヱー」と言っても、純粋にコーヒーのみを提供するものもあり、これが、「純喫茶」という名称として今日も残ることになる。

 これらの系統に加えて、大阪の業者が考え出した「カフヱー」では、「接待要員」を置いた、今で言う風俗営業がなされるようになる。1929年にあるジャーナリストがこの大阪から広まった現象を以下のように説明している:

 「東京の女給が、未だ上品に白のエプロン姿凛々しく、客席を離れてつつましやかに、客の指図を待って佇んでいる時、大阪では、女給が早くもエプロンを外し、惜しげもなく愛嬌を振りまきながら、客の傍に寄り添う如く腰を下ろす」

 つまりは、エプロンを外した女給こそは、ホステスである。彼女等が、永井荷風が描く女給「君江」であり、彼女達は、「カフヱー」の経営者から固定給で雇われている被雇用者ではなく、言わば、「自営業者」として、客からのチップと、客が飲み食いしたものからの「報奨金」で稼いでいたのである。このようにして、彼女等の境遇は、永井が描いたような、私娼の生活と紙一重のものとなった訳である。

 太平洋戦争の戦況が逼迫すると、カフヱーも含む「高級享楽」は1944年三月に一斉に禁止され、カフヱーは街角から一時的に姿を消すことになるが、敗戦と共に、早速復活したようであり、映画内で、小暮が、山村がけち臭いチップしか寄こさないことに不平を言うように、戦前の「女給システム」も戦後もそのまま復活したようであった。

 以上、本作の内容を若干補足しながら述べてきたのであるが、最後に、証明の仕様がないのではあるが、本作の24分台以降数分のシーンを観て思ったことを記しておきたい。それは、高峰が絵画を習い始めた後、そして、小暮が、山村が高峰の兄であることを知らないまま、彼をカフヱー「ウナ・コーパ」で知り合う前のプロットとして挿入されてる場面である。

 まず、並木道を画面の奥に向かって歩く女性の、小さな後ろ姿が見える。画面が変わって、カメラは女を正面から写す。小暮である。彼女は、黒色のストールのような物で頭を覆い、それを首の前で結んでストールの両端を胸の前で下に垂らしている。着ているコートは長めで、右肩にショルダー・バッグを掛けている。アングルが変わると、この小暮を今度は斜め前から写す映像となる。すると、高峰が、並木道の脇道の一本から、つまり画面右から前面に向かって小走りに走ってきて、「映子さん!」と呼ぶ。こうして二人の会話が始まるのであるが、実は、この場所は墓地であり、二人は、亡くなった細川の墓を詣でていたのである。寡婦たる高峰は、ここで会ったことを以って、亡夫の愛人・小暮が真面目に細川との関係を考えていた明かしを見たと感じたのであろう。二人は、それぞれの思いを抱きながら、それぞれが別の方向へと更に歩いて行く。カメラは、今度は、高峰の後ろ姿を写しつづける。

 筆者は、上述のシーンを観ながら、キャルロ・リード監督作のイギリス映画『第三の男』の有名な映画の冒頭とラストシーンの、墓地の中の並木道を歩く、オーソン・ウェルズの愛人役を務めたAlida Valliアリダ・ヴァリの姿を思い出していた。『第三の男』の制作が、本作制作と同年の1949年であるが、『第三の男』の日本上映は、1952年のことである。最初は、本作が『第三の男』の場面を真似たのではないかと勘ぐったのであるが、制作年、日本上映年から言っても、それはあり得ないことであり、それぞれが独自に同じような場面を撮影していたことについて、本作の監督・千葉泰樹にここで敬意を表したい。

2025年9月12日金曜日

エクスペンダブルズ2(USA、2012年)監督:サイモン・ウエスト

 シリーズ2がシリーズ1よりいい場合が偶にある。『ターミネーター2』がそうであったように、本作も同様である。何故か?

 『エクスペンダブルズ1』は、主役を演じたスタローンが、脚本も書き、監督も兼ねた、言わば、自己顕示欲作品であった。本作でも、スタローンが共同脚本家とはなっているが、監督は別人のSimon Westになっており、前作では自嘲の自の字もなかった、真面目過ぎるアクション映画であったものが、今回では、ウィンクをしながら、ちょっと皮肉ってみる遊び心がちらちら見えて、単純な殺戮のアクション映画に終わらない、作品に面白味が持たせられている点を筆者は評価したい。

 前回の悪役は元CIA局員で比較的印象が薄い感じであったが、今回は、ベルギー人で空手家のJean-Claude van Dammeが敵役でもあり、また、悪役である。彼の、本作での役名が、「Jean Vilain」であり、Jeanは本人の芸名から、苗字のVilainは、l字が一つ多い、アメコミのスーパーヴィランのVillainから採っているのであろう。この遊び心もニクイ。

 そして、本作にはヴァン・ダムだけではなく、チャック・ノリスも登場している。ヴァン・ダムの経歴をウィキペディアで読むと、USAに映画俳優になるべくして渡ったヴァン・ダムが下積み生活をしていた時代に世話になっていたのは、ノリスであったと言う。その意味でも、ヴァン・ダムとノリスの共演は、言わば、因縁のあるものである。

 役として一匹狼たるノリスはどこからか現れては、どこかへと去っていく。こうして、映画中盤でのノリスの登場は印象的である。アルバニアにある、USAの1950年代かを模した廃墟の町で、ヴァン・ダムの手下共に囲まれ、戦車で追いつめられたExpendables一行は、突然に登場したノリスに助けられる。あっという間に敵をなぎ倒し、戦車を一発で仕留めたのである。何が起こったか、スタローン達が呆気にとられていると、『続・夕陽のガンマン』のテーマ曲がBGMで流れ、颯爽とノリスが登場する。

 ここの場面を監督ウェストが説明している箇所がウィキペディアにあるので、それを引用しよう:

 「エクスペンタブルズに対抗するなら戦車しかないと思った。シーンの終わらせ方にも悩んだ。まもなく、あの大物も登場する。彼をどう登場させるかが課題だった、そこで思いついたのが、これだ」「なぜか悪党どもが全滅。彼らは、機動部隊か殺人集団が関与したのだと考える。そこに姿を現すのがチャック・ノリスさ、伝説の男らしい登場シーンにした」「ただバーに現れるぐらいじゃダメだ、堂々たる大げさなシーンでないとね。これなら彼に、ふさわしい。一人で集団を葬った男が硝煙の中から姿を現す、チャック・ノリスなら可能だ」

 そして、ノリスが登場するということであれば、当然、「チャック・ノリス・ファクト」がなければならない。そこで監督は、ノリスに頼んだ。頼まれたノリスは有名な「ファクト」を一つ挙げる。それが、スタローンとのやり取りで映画上に実際に登場する:(以下、ウィキペディアからの引用)

 Stallone: "I heard another rumor that you were bitten by a King Cobra?"  (スタローン:「キングコブラに噛まれたと噂で聞いたが?」

 Norris: "yeah I was, but after 5 days of agonizing pain...the cobra died"  (ノリス:「ああ、その通りだ、5日間もがき苦しんだ後に...コブラは死んだ」)

 この場に居合わせたExpendables達は、一様に微笑み、笑いあったスタローンとノリスはハグしたのであった。(映画の55分台から56分に掛けてのシーン)

 このように、本作ではハードなアクションの合間に遊び心が垣間見られて、中々よろしい。この点、シュワちゃんとウィリスとの間の、若干自嘲がこもったやり取りも筆者が本作を好ましく思う理由の一つである。

2025年9月10日水曜日

西住戦車長傳(日本、1940年作)監督:吉村 公三郎

 本作の題名が『西住戦車長傳』となっているところから、映画は、第一場面を白煙を舞い上げる阿蘇山の近景から始め、カメラを展望させて、熊本城を写して、西住の生まれと、育った環境を手短かに語る。オフからの声は即物的であり、原作の評伝の写実性を保つかのようである。このオフからの同じ声は、映画が終わるまで聞こえ、本作はまるで映画館で観る時事ニュースのような体裁で終わる。正に、陸軍省推薦の国策プロパガンダ映画に相応しいセティングであろう。

 西住の生立ちが語られると、映画はすぐに上海戦の話しに展開し、戦車部隊の恐らくは久留米からの出動が描かれるが、現地の上海戦ではまず実写場面が映し出される。海軍陸戦隊が上海での市街戦を戦う場面が見られる。第二次上海事変には、陸軍のみならず海軍も関わる陸・海共同の作戦であったが、戦闘が内陸に進行するに従い、より多くの陸軍部隊の投入が必要になる。更に、国民党軍は、ドイツ国防軍の装備を中国からの軍需物資と交換で受け取っており、また、ドイツ軍の軍事顧問団を入れて自軍を訓練していたことから、国民党軍は、揚子江沿いにトーチカ壕を作って、頑強に日本軍に抵抗した。故に、日本軍は予想外に中国軍に苦戦していた。そう言う歴史的背景を頭に置きながら、本作の前半は観るべきであろう。つまり、苦戦している日本軍歩兵部隊は、西部劇で言えば、「開拓民」であり、その窮地を救うべく騎兵隊が登場する如く、「鉄牛部隊」たる戦車隊が戦場に「駆け付け」、歩兵部隊を救うことになる。出動を要請された戦車部隊に絡んで、吾等が主人公西住中尉自身は、本作の17分台になってようやく登場する。部下と共に、自分の「愛車」の整備を行なう、人徳のある将校という描き方である。

 今は上海市の北部に位置する宝山城地区にある、戦術上重要な場所・大場鎮(だいじょうちん)の占領(37年10月26日のことで、「日軍占領大場鎮」というアドバルーンが上がる)により上海戦はほぼ決着が付き、当初の作戦予定を覆して、戦線が内陸へと更に拡大すると、日本軍は国民党軍の周到に用意された第二、第三戦線に遭遇する(本作50分前後台から57分台まで、セット撮影による、戦車・歩兵の共同による戦闘場面)。ナチス・ドイツにより軍事物資供与を受けている蒋介石軍は、ドイツ軍風の鉄兜(シュタール・ヘルム)、ドイツ軍に特徴的な柄の長い手榴弾を使用し、機関銃隊も二四式重機関銃(1935年の民国暦24年に制式採用されたことにより「二四式」と命名されたが、元々はドイツのMG08重機関銃をライセンス生産したもので、「カタカタ」という機銃音が特徴)を構えて、日本軍を待ち構えていた。

 ウィキペディアによると、プロイセン・ドイツは、既に18世紀半ばより、中国との交易に興味を示して、商船を中国に送っており、1870年・80年代のビスマルク時代に、後の「中独合作」となる礎は築かれた言える。1890年代以降のヴィルヘルム二世時代の帝国主義的政策は、一時、中独関係を冷却させることになり、19世紀末には、日清戦争に敗北した清の弱みにつけ込んで、ドイツは山東省青島などに租借地を得る。それを第一次世界大戦中に日本に取られると、植民地を持たない工業国ドイツは、帝国主義・植民地主義に悩まされていた中国にとっては格好の取引相手となる。こうして、1920年代の後半以降、ドイツに中国統一の見本を見る蒋介石の思惑もあり、中国にドイツの軍事顧問団が来る程の、中独の「蜜月関係」が始まる。33年にナチス政権が誕生すると、軍需資源の確保を求めるドイツ側の利害が更に大きくなり、ドイツ側の対中国の軍事物資の供与がより促進され、これが国民党軍の近代化に大きく貢献することになった訳である。しかし、ナチス・ドイツが反共政策の旗印の下、日本と同盟を結ぶ政策に舵を切ったことにより、40年の日独伊三国軍事同盟の締結を以って、「中独合作」は、その終焉を告げる。以上の中独合作の歴史を見ると、第二次上海事変での日中の対立は、中国国民党軍の姿を借りた「ドイツ国防軍」と日本軍が戦った戦いであったとも言えなくもないものであった。

 映画は続けて、戦死した戦車銃手の兵隊の弟からの手紙のエピソードがお涙頂戴調で語られた後、次の重要なプロットへと展開する。

 初冬の雪が降る宿営の場面からそれは始まる(本作70分台から)。赤ん坊を生んでいる「土民の女」がいることを兵が西住に報告しに来ると、西住はどれ赤ん坊を見ようと言う。場面が変わると、画面中央に一兵士が赤ん坊をにこやかに抱えている。そのすぐ左隣に、点した蠟燭を持っている兵隊が立っており、赤ん坊を抱えた兵士を真ん中に、蝋燭を持った兵士も含めて、七人の兵士達が画面前面から赤ん坊が見えるように、つまり、太い竹を刀で斜めに切ったような陣形でぐるりを巻いている。そのぐるりからちょっと離れるようにして、九人目の兵士が画面右側に立っている。「日本人の赤ん坊と変わらんのう。」と兵士達が話しているところに西住が入ってくる。すぐ隣の部屋にいる土民の女(役:桑野通子)は、左の上腕に銃創があるようである。西住は、中国語で女に話しかけると、それには答えずに女は泣き伏す。すると、西住は女に流暢な中国語で次のように話しかける。(ここで、日本語の字幕が入る。)

 「心配するな。日本兵は何も害を加へやせん。」

しかし、女は泣きじゃくるだけで、西住もどうしようもなく、赤ん坊を女に返してやるように指示する。少し間が経ってから、部隊に同行している軍医が小屋にやってくる。貫通銃創を手当してくれる日本人軍医に少し心が和んだのか、女は、「おまえはここの村の者か。」という西住の質問に、「支那兵の略奪があって逃げおくれました。」と答える。西住の「亭主はどうした。」という重ねての質問に、女は、「はぐれてしまひました。」と返す。西住は、「不人情な亭主だな。おまへをすてて逃げるとは。」とコメントすると、それに対して、女は、「捨てたのではありません。はぐれたのであります。」と言い返すと、西住は、「これは俺の云ひ方が悪かった。」と素直に謝ったのであった。

 傷の手当をしながら、このやりとりを聞いていた軍医にその言葉の達者さを褒められると、西住は、それは自分が一年程満州にいたせいであると謙遜する。手当も済み、部下が毛布と貴重なミルクを持ってきたので、西住は、女に、「心配しないでゆっくり休め。赤ん坊にミルクを呑ませてやれよ。」と言う。その西住の言葉に女は心から感動したようであった。そうして、西住は小屋を去って、自分の部屋に戻るが、そこでは、彼の陸士時代の同期で、北支より南下してきた大隅大尉(笠智衆;後に松竹・小津映画で有名になる笠智衆の名前は、本作のオープニング・ロールでは可成り後になってから出てくる)が待っていた。陸士時代を懐かしみ、陸士卒業直前に亡くなった同期生の写真を二人は持っており、三人でいっしょに南京入城を果たそうと二人は誓い合う。そうして、夜は過ぎ、翌朝を迎える。

 朝を迎えた村の路地を走る兵隊達がいる。何かあったのであろうと不安に思いながら見ていると、兵隊達が一つの家に入っていく。すると、部下の一人がちょうど朝食を摂っている西住のところに駆け込んでくる。女がいなくなっており、凍え死んだ赤ん坊は置き去りにされたままで、部下は、夜中に亭主が戻ってきて、女を連れて行ったものと推測する。西住の好意を無駄にした女に怒る部下に対して、西住は、事態を不思議に思いつつ、情けは情けであり、何れにしても死んだ赤ん坊が可哀そうであるから、赤ん坊のために墓を作ってやろうと言いだす。周りに雪が積もり、恐らくは凍って固くなった土をつるはしで掘り起こし、木箱に入れた赤ん坊を埋めてやると、墓標に何と書こうかと兵隊達が迷っているところに、西住は、早速、筆で、「無名子之墓」と達筆に書く。兵隊の一人が、それを「むめいし...」と読むと、西住は、これは、「ムナコ」と読むと言い添える。この光景の後ろには、左から右に向かう兵隊達の列があった。南京に向かっているのである。(ここまでで、74分台となり、土民の女を巡るプロットには、大隅大尉との再会なども挟まれるが、約4分が掛けられている。)

 こうして、南京入城のプロットが比較的簡単に過ぎた後は、その後の叙州会戦のプロットに進み、上述したような西住戦死の出来事を描き、ラストシーンは、西住の遺志を汲むかのように、戦車部隊が列を成して、次の戦線へと向かう場面で本作は終わる。

 さて、本作には菊池寛が書いた原作『昭和の軍神西住戦車長伝』がある。これは、西住が戦死してから約十ヶ月経った39年三月から八月に掛けて新聞連載されたものである。この連載に当たっては、菊池自身が中国に渡って取材しており、それを基に書いた「評伝」である。流石に当時既に名声があった菊池は、単なる御用作家の「伝記」ではなく、あくまでも「評伝」という形式で、一定の客観性を担保しつつ原作を書いているようである。同じ時期には、西住顕彰出版物が児童図書も含めて続々と刊行されており、西條八十、北原白秋、サトウハチローらなどが作詞した戦意高揚歌謡が発売されていた。一例に西條八十が作詞した歌詞の一つをここに挙げると、次のような「凱歌」となる:

  「鉄牛ひとたび血に吼えて/『西住』の名を呼ばふとき/
  浙江・江蘇の敵勢は/旌旗を忘れ武具を棄て/
  色蒼白(あをざ)めて潰走す」

 このような、言わば「西住ブーム」は、実は、38年12月に、映画では「細木部隊長(役:佐分利信)」として登場していた細見大佐が陸軍省記者倶楽部詰めの記者を陸軍戦車学校に呼び、「故西住大尉に就て」と題した講演を行ない、記者にその軍人精神を全国民に知らしめて欲しいと要請したことによる。こうして、まず、東京朝日新聞が「偉勲鉄牛部隊の若武者」と西住のことを報ずると、年末には、西住が座乗した、敵弾を千発以上も受けたという戦車が公開されて、細見は西住についてのラジオ講演まで行なう。これを受けて新聞各社もこれを一斉に書き立てると、西住は、一挙に「軍神」第一号に祀り上げられることになる。こうして、西住顕彰出版物が続々と出版される中、菊池寛もその「評伝」を書くことになる訳である。

 菊池寛は、更に、1940年三月開演の「東西合同大歌舞伎」公演の演目の一つに『西住戦車長』という作品の脚本も書いている。こちらは、評伝という客観的な立場を取ることが出来ないことから、そのストーリー展開の内容がどうなるかという点が注目点になる。興味深いのは、この三場で構成される演目は、あの「土民の女」が生んだ赤ん坊についてのプロットで二場が、そして、当然と言えば当然なのであるが、第三場目が西住が戦死する場一つが採られていることである。他の演目との内容的な釣り合いもあったのであろうが、この「英雄譚」は、土民の女とその女が生んだ赤子の運命という人情噺しに重点が置かれている。

 この歌舞伎の演目が上演された後の、40年11月末に本作は初上映されているが、撮影は、既に40年の二月に始まっている。つまり、脚本化はそれより前に終わっているはずで、それは菊池の演目が上演される前であり、原作の連載が終わった39年八月以降、映画化の企画がまもなく始まっていたことを考えると、映画の脚本化と演目の脚本化は時期的にほぼ並行していたと言える。そして、この映画版の脚本家は、野田佳悟であった。野田と言えば、松竹の小津安二郎組の脚本家とでも言える、あの野田である。

 その野田に、菊池寛が野田のシナリオを読んで、ある手紙の中で、次のように依頼したと言う:

 「無名子のところで、西住大尉の言葉『昨夜は、たしかに感謝してゐたんだ云々』は、ぜひ入れて下さい。いゝ言葉だとおもいますから。」

 菊池は、自分の原作では、該当の部分では、西住の部下の兵隊で、同じ戦車に操縦手として搭乗していた井手上伍長の文章を引用していた:

 「戦闘の合間、西住の部下たちが付近の民家で地元住民の女性が赤ん坊を産もうとしている所に直面した。西住はすぐさま軍医を呼び、出産に立ち会った。産まれた女児に対し、西住は自分が負傷した際に衛生兵からもらった牛乳を与えた。翌朝、見ると赤ん坊は夫に連れられた母親から捨てられ、既に凍え死んでいた。恩知らずだと怒る部下をなだめると、西住は赤ん坊の墓を作った。」(ウィキペディアからの引用)

 これに対する菊池のコメントは、中国人とは自分が生き延びるためには、自分が生んだ乳飲み子までも見捨てる民族であるというような民族蔑視的なものであったのであるが、野田への手紙の中では、そこまでは断定的な言いようを西住にさせようとは菊池は思わなかったのであろう。映画の中での西住も、正に菊池が野田に依頼した如く発言している。更に言えば、敵対する国の言葉を話し、敵対する国民である土民の女でも民間人であれば、これを庇護するという西住の行為は、この同じ時期の同じ場所で「皇軍」による「南京事件」が起こっている事態を考えると、単なるプロパガンダ映画の役割を越えて、それ以上の戦場における人道主義への賛歌であるとさえ言えなくはないか。

 確かに、映画は冒頭で右書きで次のような説明がなされる:  

 日本文化中央聯盟主催 
 皇紀二千六百年奉祝
 藝能祭作品 

続けて、監督の吉村公三郎の言葉が引用されるが、要点を述べると、自分はこの作品を以って、「戦車戦闘の実相」を示し、「軍機械化の重要性」を強調したいのであると、如何にも国策プロパガンダ映画に相応しい言を並び立て、ラストシーンは、戦車戦闘の歌をBGMにしながら(土橋式松竹フォーン・システム)、戦車部隊が列をなして行進していく場面で終わるのである。

 実際、40年二月に現地撮影班が上海でカメラを回し始め、南京・漢口での現地撮影(撮影:生方敏夫、他数名)を終えて、同年四月に帰国すると、今度は、下志津練兵場に大掛かりなオープンセットを作り(美術:脇田世根一、浜田辰雄)、戦車学校の全面的な協力の下、戦車六台、兵150名の応援を受けて本作は完成された(助監督の一人は、後に有名になる木下恵介)。 

 しかし、戦後の吉村監督の言によると、自身は、「いわゆる戦意高揚の宣伝映画にしたくなかった。大船調のホーム・ドラマ風にしたかった」、「戦場での〝仲良しクラブ〟を描こうと思っていた」と言う。実際、本作の中盤には、雨の中を野営する場面があり、部下を思って野営地内を歩き、傷病兵を見舞い、既に木箱に入った戦死した兵隊に黙礼をする、若き将校は、「大船調のホーム・ドラマ風」の父親のようである。この吉村の言を、戦時中に軍国主義に加担したことへの釈明として理解するかは、本人の他の作品と見比べないと分からないが、同じ松竹の小津が戦時中にほぼ映画制作に関わらずに戦後を迎えた、その「禁欲さ」に比べると、全体主義的体制の中で、体制に同調しないで生きることの難しさを痛感する。

2025年9月2日火曜日

あゝひめゆりの塔(日本、1968年作)監督:舛田 利雄

 日活青春映画、タイムスリップして、「先の大戦」の沖縄戦に着地する

 このタイム・ギャップを繋げようとしたのか、監督舛田利雄は一計を案じる。舛田は、石原裕次郎主演で計25本も作品を撮っているという、日活アクション映画全盛期(つまり、日活青春映画路線と同時期)に数々の作品を撮り、「日活の舛田天皇」と言われた程にこの時期に「権勢」のあった監督であった。その彼が、同じ時期に「裕次郎二世」と名付けられて、日活アクション・ニュースターとして売り出されていた渡哲也に映画の冒頭で特別出演させ、制作時点の1968年と、沖縄戦当時の1945年とを結び付けることを考える。ほぼ四半世紀の時間的距離を繋ぐ役である。

 ディスコで踊り狂う若者達は、18歳前後で、正に戦後に生まれた、戦争を知らない子供達である。彼等は、嘗ての「鬼畜」であった欧米のロック音楽を真似たグループサウンズ(GS)の音楽に合わせて踊る。それをクールに見つめている青年(渡哲也)は、場違いな歌『相思樹の歌』をリクエストして、担当者にインタヴューされる。何故にこの曲をリクエストしたのかと。実は、この歌はひめゆり学徒隊と深く関係のある歌で、こうして、映画は、1944年の沖縄に着地する。

 ところで、この映画の冒頭の、戦後の平和な日本と戦中の日本を比べるシークエンスは何を意味するのであろうか。戦後復興、奇蹟の経済発展、高度経済成長政策、1964年の東京オリンピック開催と、戦後日本はその経済的豊かさを順調に作り上げたが、舛田監督は、その土台は大戦末期の若人の犠牲の上にあるとでも言いたいのであろうか。渡が演じる若者は『相思樹の歌』をリクエストした理由をはっきりとは語らないが、それでは、こう言おう:なぜ負けると分っていた対米戦を日本は始めたのかと。始めなければ、これらの若人の犠牲もなかったはずである、と。

 何れにしても、ストーリーは戦中の、しかし未だ和やかな運動会の場面に移る。ガダルカナル島攻防戦が日本軍の敗退に終わる1943年二月以降、日本は守勢に回っており、次第に米軍に追いつめられていく日本軍ではあったが、1944年半ばの沖縄は、戦争の成り行きに不穏な気持ちを持ちながらも、未だ、安穏だったのである。

 運動会は、戦後の本土の女子高の運動会を思わせるが、ここは、沖縄県立師範学校女子部の運動会である。師範学校とは、教員養成のための学校で、沖縄全県から優秀な少女たちが将来の教員を目指して、ここで寄宿生活を送りながら、学業に励んでいたのである。女子部があれば、男子部もある訳で、その男子部の生徒の一人西里順一郎(浜田光夫)は、招待状がなければ入り込めない女子部運動会に学友数名と共に潜り込む。その不正入場を咎めたのが、女子部最高学年生で、「南国のシャン(ドイツ語から来た、男子学生の隠語で美人の意味)」与那嶺和子(吉永小百合)であった。こうして、二人は知り合い、日活青春映画よろしく、二人の間には淡い恋心が芽生えることになるが、それを踏みにじるのは戦争であった。

 サイパン島守備隊が「玉砕」した44年七月以降、日本は米軍の空襲の脅威に曝されることは明白となり、それを受けて、沖縄からも学童疎開が組織されて、対馬丸他二隻が児童や一般疎開者を乗せて那覇から長崎に出発する。しかし、8月22日に対馬丸は米潜水艦に撃沈され、約千五百名が亡くなる。その中には、疎開児童に付き添った和子の母で、国民学校教員・与那嶺ハツ(乙羽信子)もいたのであり、国民学校校長仲地(東野英治郎)は、いわゆる「対馬丸事件」の責任を取って、自死する。そして、母を失った和子は、弟と二人だけの家族となる。

 予想された通り、沖縄は空爆や艦載機(双発で異常に胴が太い航空自衛隊機か?)の機銃掃射を受ける事態となり、師範学校校舎も焼失し、戦時色は一気に濃くなる。44年十月十日は、米側は、南西諸島一帯に大規模な空爆を仕掛けており、那覇市も大きな被害を出していた。米側は、この空襲で対日戦で初めて焼夷弾を使用し、民間施設も含めた、戦争犯罪である無差別攻撃を実行した。

 こうして、沖縄は、45年三月下旬から6月23日(現在、この日が沖縄慰霊の日になっているが、別に9月7日説もある)まで行なわれた、当時の沖縄県民の四分の一が戦没することになる凄惨な沖縄戦に引きずり込まれる。既に三月中旬の九州沖航空戦が沖縄戦の事実上の前哨戦であったが、3月24日には沖縄本島に艦砲射撃が開始され、4月1日に米軍は沖縄本島に対する上陸を開始する。

 一方、既に勤労奉仕活動でろくに勉学も出来ないでいた沖縄県立師範学校女子部の女子生徒(「師範生」と呼ばれた)と、同じ場所に校舎が並立していた沖縄県立第一高等女学校の女子生徒達の222人と引率教員18名で、看護要員部隊が3月23日に編成され、第32軍直轄の沖縄陸軍病院に動員される。(「ひめゆり学徒隊」という名称は、戦後の通称であり、「姫百合」の冠称がどこから来ているかも色々と説があるが、一高女の学校広報誌が『乙姫』と、師範学校女子部の学校広報誌が『白百合』と名付けてあったことから、両誌の名称を合わせて『姫百合』としたという説もある。『ひめゆり』と平仮名書きにするのも、戦後のことであると言う。)

 陸軍病院と言ってもそれは壕であり、壕の中で、看護要員は、従軍看護婦の指導の下、包帯替えなどの患者の世話をしたり、外科壕の外に出て、危険な水汲みや飯上げ(炊飯部から炊けた飯を運んでくる作業)、そして、遺体の処理に携わり、5月25日以降、「陸軍病院」の移動と行動を共にして彼女達は沖縄本島を南下していった。南部では、学徒隊は、各外科壕六カ所(15m程の深さのある壕で、現地では「ガマ」と呼ばれていた)に分散していた。こうして、6月18日に学徒隊の解散命令が出ると、自己責任で安全な場所に逃げて、生き延びよということになるが、戦場を右往左往する中、この日から23日までに、学徒隊の百余名が亡くなったと言う。生徒・教員240名の学徒隊の内、陸軍病院関連で亡くなったのは、136名であった。大変な死亡率である。また、動員されなった女子生徒でもこの沖縄戦の最中に命を落とした女子生徒が91名いたと、戦後の調査で明らかにされている。

 和子の同窓生・比嘉トミ(和泉雅子)は、危険な飯上げ当番の際に、機銃掃射を受けて負傷し、歩けない傷を負う。そのため、彼女自身も「病棟」に横たわることになるが、病院移動で壕の中に取り残されたままにされる。そして、軍が配る、青酸カリの入った牛乳を飲まされて、彼女は苦しみながら非業の最期を遂げることになる。

 和子の淡い恋の相手たる西里は、現地戦時招集の鉄血勤皇隊の一員として、和子の目の前で戦死していったが、和子自身も、彼女のことを「お姉さま」と呼ぶ後輩と伴に抱き合って、崖の上で口で手榴弾のピンを抜いて、自爆する。何故か?米軍に投降する選択肢は彼女にはなかったのである。彼女が竹槍訓練をしている時に、ある陸軍軍曹は女子生徒の前で言う:

「この沖縄にアメリカが上陸するようなことがあれば、鬼のような奴らは、まず、君らのような若い娘を捕まえるぞ。そして、奴らは君らを素っ裸にする。そうやって、戦車の前面に縛りつけるんだぞ!」

戦時における性暴力の問題が、和子の自決の背景にあったこと、そして、この問題は、21世紀になっても、未だに起こっていることを我々は心に刻む必要があろう。

 映画は、女性が書いたような平仮名書道体で読める次の文章で終わる:

沖縄戦で散った
殉国学徒の数は
師範 中学 女学校
あわせて 一五〇三名(「ひめゆり学徒隊」の他にも幾つかの学徒隊があった。)
教え子を引率して
仆れた教師 九二名
このように若い学徒の
犠牲者を出した戦争は
世界史上どこにも
その例を見ないという

 この文章が一行ずつ映し出される間、ある曲のメロディーが辛うじて聞き取れる位の音量で流れる。吉永が歌っている主題歌でもあるが、これは作中、女子生徒達が陣地構築の勤労奉仕をさせられていた時に、彼女達が「やさしい少尉さん」と呼んでいた太田少尉(和田浩治)が海岸の作業現場にやって来て、それを見た引率の音楽教員・東風平恵位(こちんだ・けいい)が音頭を取って、生徒達が輪になって歌う場面でも聴かれる曲である。タイトルは『相思樹(そうしじゅ)の歌』といい、太田少尉が作詞したもので、それに東風平が作曲して、『別れの曲(うた)』として、彼女達の卒業式で歌うつもりでいたものであった。しかし、彼女達は卒業前に学徒隊に動員され、この歌は、女子生徒達の間で時々歌われて、戦争を生き延びたのであった。戦後は、軍隊行進調ではない、揺れるような八分の六拍子のこの曲は、戦時中に自らの青春の夢を叶えられずに戦禍に斃れていった同窓生のための、鎮魂の歌となって、今に歌い継がれている。

 まずは、この曲の歌詞を挙げておこう:

第一連(卒業生が在校生に向けて):
目に親(ちか)し 相思樹(そうしじゅ)並木
往きかえり 去り難(がた)けれど
夢の如(ごと) 疾(と)き年月(としつき)の
往きにけむ 後(あと)ぞくやしき

第二連(在校生が卒業生に向けて):
学舎(まなびや)の 赤きいらかも
別れなば なつかしからむ
吾が寮に 睦(むつ)みし友よ
忘るるな 離(さか)り住むとも

第三連(卒業生が在校生に向けて):
業(わざ)なりて 巣立つよろこび
いや深き 嘆きぞこもる
いざさらば いとしの友よ
何時(いつ)の日か 再び逢わん

第四連(在校生が卒業生に向けて):
微笑みて 吾等おくらむ
過ぎし日の 思い出秘めし
澄みまさる 明るき まみ(「眼差し」のこと)よ
健やかに 幸多かれと 幸多かれと

 作詞者の太田博少尉は、44年八月に沖縄に送られてきた野戦高射砲第79大隊第二中隊に所属する部隊の将校であった。その彼が、高射砲陣地構築の作業にやって来ていた師範学校女子部の生徒の健気な働きぶりに感動し、一部の女子生徒の卒業の時期も近くなっていたことから、『卒業生に贈る詩』と題する一篇を書き上げたのである。それを知った同校の音楽教員・東風平がこれに曲を付けることとなり、『別れの曲(うた)』となる。

 東風平恵位は、1922年に宮古島に生まれ、41年に沖縄師範学校に入学した。努力して難関であった東京音楽学校(現、東京藝術大学)に入学するも、学徒動員で繰り上げ卒業となり、43年十月に母校の女子部の音楽教員として赴任していた。こうして、彼が『別れの曲(うた)』を作曲することになる。女子生徒達は、何かの機会にはよくこの曲を口ずさんでいたと言うが、ある時、以下のような印象的な事柄が起こったと言う。それを、ウィキペディアから直接に引用する:

 「東風平が、学園を訪れる機会もないままに作詩した太田の心情を思いやり、昭和20年(1945年)1月のある日曜日の夜、太田を学園の寄宿舎に招いた。東風平は見学の最後に、とある一室の前で立止まり、みんなで「別れの曲」を歌ってみなさいと話しかけた。歌声を耳にして寮内にいた乙女たちが一室に群れ集い、時ならぬ大合唱が夜の静寂の学園に響き渡った。心を通わせた太田が学徒たちの合唱を聞くことができるように、東風平の深い思いやりが実った瞬間だった。歌いなれた讃美歌のメロディにも似たコーラスを聞いた太田少尉にとって、推敲を重ねた自分の詩作が歌となって人に感動を与えた初めての経験であり、直立不動の姿勢で自らも深い感動とともに詩人としての喜びの中にあった。」

 1921年に東京で生まれた作詞者の太田は、30年に福島県郡山市の伯父の養子となり、そこの郡山商業学校を卒業して、郡山商業銀行に務めていたが、学校時代から詩作に励んだクリスチャンの文学青年でもあった。徴兵された42年以降も、詩作ノートを離さずに詩作をし続け、ひめゆり学徒隊の最後の地・糸満市にほど近い所で、45年6月20日に意味のない突撃攻撃で戦死した。作曲者の東風平も、太田少尉と前後する日時に、教え子達と共に避難していたガマの中に米軍のガス弾が投げ込まれ、教え子達と共に戦没している。

  『別れの曲』は、いつしか、この五七調の作詞の第一連の一行目に出てくる「相思樹」という聞き慣れない言葉で呼ばれようになり、学徒隊の生き残りの生徒の間で戦後歌い継がれる。ひめゆりの塔も戦後まもなくの46年に建立されるが、1972年の沖縄返還までは、沖縄は米軍の占領下にあり、本土との行き来はままならなった。返還後の1975年に、東風平の嘗ての同窓生で、東風平の生死を別れて以来ずっと慮っていた、高知大学教授・橋本憲佳がある琉球大学講師を通じて、東風平の運命と『別れの曲』の存在を知ることとなる。返還により沖縄を訪れるために、もはやヴィザが必要ではなくなっていたこともあり、橋本は早速沖縄に渡り、戦地を訪れ、『別れの曲』を探し求めたが、戦禍で楽譜は逸失しており、橋本は何人ものひめゆり学徒隊の生存者を訪れて、歌い継がれていたメロディーを採譜したと言う。そして、76年五月、橋本によって合唱曲に編曲された『相思樹の歌』は、本土で初めて演奏され、今日に至っていると言う。

 恐らくは、師範学校の前にあった並木道の両側の木々を、在校生と卒業生に見立て、お互いがお互いを相思いあう場として、詩人太田はイメージしたのであり、それを受けて、音楽家・東風平も八分の六拍子の揺れるようなメロディーを構想したのであったろう。二人の戦火を越えての希望の祈りを、ひめゆり学徒隊の女子生徒も戦後へと歌い継いだのである。

 追記:このブログ記事の投稿日は、2025年9月2日であり、奇しくも、日本が東京湾上の戦艦の上で連合国との無条件降伏書に調印した日から80年経った日である。

リヴェンジャー・スクワッド 宿命の荒野(アイルランド/ルクセンブルク合作、2018年作)監督:ランス・デイリー

 21世紀の初年に起こった9.11.(ナイン・イレヴン)は、世界を変え、今年2026年は、あれから四半世紀が経った年となる。現在のトランプ現象も、この世界の変化と関連するものと見ることも出来るが、9.11.こそは、USAが対アフガニスタン戦争を遂行することになった原因であった。そ...