2026年7月20日月曜日

Casshern(日本、2004年作)監督:紀里谷 和明

 1973年のTVアニメ・シリーズでは、冒頭の、何か講談調を思わせる、納谷悟朗のナレーションを、耳障りもよく、歯切れもよくて、好んで聴いたものである:

 「たった一つの命を捨てて、生まれ変わった不死身のからだ。鉄の悪魔を叩いて砕く。キャシャーンがやらねば誰がやる!」

 その切ない覚悟を持って、東博士の息子・鉄也は、人間の身体には戻れないことを知りながら、新造人間キャシャーンとなった。なぜなら、「鉄の悪魔」たるロボット軍団が人間を亡ぼそうとしているからで、その不死身の身体を以ってのみ、鉄也は「アンドロ軍団」に対抗できるのである。ナチス的な統制を思わせ、大量に製造される各種のロボット軍団に、「錐揉みしつつ、体当たりでロボットを破壊するフライングドリル」の技で、対峙するキャシャーンは、しかし、孤立しており、優勢な敵と孤独に戦う、その悲壮感は、火曜日晩七時からのテレビ番組枠のアニメとしては、稀有のものであった。

  しかも、「アンドロ軍団」が人間を亡ぼそうとする動機は、人間こそが環境を破壊して地球を亡ぼそうとしている存在であるから、地球を救うためには、人間を亡ぼさなければならないと、ロボット軍の総帥ブライキング・ボスが論理的に結論付けたからであった。

 1973年と言えば、石油危機の年である。それまでの高度経済成長政策により、経済成長率が10%程度を記録していた日本経済は、このエネルギー危機で、一挙にスタグフレーションの段階に入る。そして、1960年代には、公害による環境破壊が国民の意識に根付き、世界でも最も厳しいと当時言われた環境法制が整いつつあった時期である。

 この経済成長一本槍の政策を見直す雰囲気を敏感に感じ取ったストーリー内容は、単なる「子供のアニメ」で終わらすことが出来ない内容を含んでいた。キャシャーンのエネルギー供給源は、太陽光であり、キャシャーンが被るヘルメット(「ソーラーメット」)に付いた三日月形の鍬形が受光部となっているという具合である。1970年代の前半に「ソーラー発電」の考えがどれほど日本社会に浸透していたであろうか。その意味でも、このTVアニメシリーズのSF性は高かったと言える。

 さて、本作の制作年は、2004年である。原作とも言える1973年TVアニメシリーズの放映が終わったのが、1974年6月であったから、30年振りのリメイクである。さすがに30年も経っているから、今更「ソーラー・エネルギー」でもないであろう。環境破壊は、50年も続いたヨーロッパとの戦争がその理由となっており、原作での問題意識とはかけ離れているように思える。そのせいもあるのか、プロダクション・ディザインは、スティーム・パンク的な、レトロSFのルックである。SFの未来志向であるはずなのに、レトロという伝統回帰は、その矛盾性が好みである筆者ではあるが、やはり、環境問題が喫緊な課題でもあることから、この点でもっと環境破壊の問題を深掘りして欲しかったと個人的には思う。

  原作での「新造人間」という用語の使い方には、今から思うと、腑に落ちない点である。ロボットは機械であり、それがいくらアンドロイドの形態をしていようと、人間ではない。サイボーグは、あくまでも人間であり、ロボットではない、それ故、サイボーグでもないはずのキャシャーンは、新造の「人間」ではないはずである。この用語上の問題は、本作では、すっきりと解決されており、遺伝子工学の発達に関わる「新造細胞」による人間の再生はそれなりに説得力を持つが、キューブリックの『2001年』のあの黒い石板を思わせる、稲妻状の巨大な構造物は、原作との関連があるとは言え、都合がよ過ぎるプロットである。しかも、これにより、ブライキング・ボス達もまた「新造人間」になってしまい、Casshernとの対立の構図が不明確になってしまっている。そして、同じ「新造人間」同士であるからなのか、ブライキング・ボス対Casshernの対立が、極めて感情的にウェットで、パトスが強調されたドラマになっていて、141分の上映時間は、かなり冗長なものと感じられたのは、筆者のみではないであろう。残念である。

0 件のコメント:

コメントを投稿

Casshern(日本、2004年作)監督:紀里谷 和明

 1973年のTVアニメ・シリーズでは、冒頭の、何か講談調を思わせる、納谷悟朗のナレーションを、耳障りもよく、歯切れもよくて、好んで聴いたものである:  「たった一つの命を捨てて、生まれ変わった不死身のからだ。鉄の悪魔を叩いて砕く。キャシャーンがやらねば誰がやる!」  その切な...