1955年前後に映画産業がその繁栄の頂点を迎えたとすると、それ以降は、映画産業の発展は、下降線を辿り、60年代には次第に「斜陽産業」となっていくという映画史の歴史を考えると、本作の制作年が1957年であることから、この頃は、未だ映画製作会社が強気でいられた時代であり、本作のような娯楽時代劇にしても、とりわけ美術部門ではまあまあしっかりした作りをしていると言える。 マキノ撮影所で「鍛えられた」監督の並木鏡太郎は、時代劇・剣戟映画の「職人」と言える人物である。ストーリーは、善玉対悪玉がはっきりしている、言わば、何も考えなくても、ポップコーンを頬張りながら、観ていられる作品内容であり、観て楽しんだら、忘れてしまってもいい消費性向の強いものになっている。(とは言え、時々の名言でハッとさせられることがある:「そこもとの誠実には打たれ申した。誠実には誠実を以って応えるのが武士の道...」)
色に溺れる主君に諫言し、岡崎藩五万石を乗っ取ろうとする主君の妾腹の弟・松平玄蕃には「破邪の剣」を振るう忠臣は、善玉中の善玉である。その、剣に強いが恋には野暮な忠臣に「ほの字」の柳橋芸者が、藤純子ばりに刺青の入った玉の肌を見せながら、義賊の女首領として、忠臣の「正義の刃」に加担する、その颯爽とした姿は、フィクションとは言え、やはり、観ていて気持ちがよい。
この「天人」ならぬ天女の柳橋芸者玉龍(筑紫あけみ)に対するお絹(若杉嘉津子)は、主君の妾腹の弟・玄蕃と結託する「悪女」であり、その妖婦ぶりは、映画の序盤でこれでもかと示される。映画の始めの、女の湯の場面では、観衆にその匂うような玉の肌の背中を惜しげもなく見せてくれるし、獄中に入ってはいるが、やくざ者の夫(未だ端役の天地茂)がいるにも関わらず、「芸は売っても身体は売らない」柳橋芸者玉龍(たまりゅう)とは違い、お絹は悪の巨頭・玄蕃と簡単に寝てしまう「節操」のなさなのである。
実は、この「妖婦」たる「お絹」には、実在の人物がおり、その名を「おきぬ」といった。本作の題名に「毒婦夜嵐お絹」とある通り、男をその色香で籠絡する「妖婦」は、男を次から次へと滅亡させていく「毒婦」とも言い換えられているが、その実在の「おきぬ」は、自分を囲っている旦那を毒殺した罪で断頭・晒し首の刑に処せられたのであり、正に、文字通りの「毒婦」であった。その「おきぬ」に「夜嵐」と異名が付くのは、彼女が刑の執行の前に以下のような辞世を詠んだからであると言われている:「夜嵐のさめて跡なし花の夢」
実名・原田きぬは、弘化元年(1844年)頃に三浦半島城ヶ島の漁師の娘として生まれたと言われている(一説には武家の娘とも)。16歳の時、両親と死に別れ、江戸で芸妓になることになるが、その美貌で江戸中の評判になったと言う。その美貌からか、ある三万石城主に見初められて、その「お部屋様」、つまり側室となり、世継ぎまでも生んだのであったが、城主に早死にされて、仏門入りを強制される。若い身空でそのような生活を送るうちに鬱病になったおきぬは、箱根に転地療養をすることとなるが、その療養中に、おきぬは、日本橋の呉服商の息子・角太郎と知り合う。二人は、相思相愛の関係となるが、江戸に戻った後も、おきぬの許に角太郎が通い、その「不行跡」が主家の知るところとなる。こうして、おきぬは主家から追い出され、元の芸者の生活に戻ると、東京府に住む士族で金貸し業の小林金平なる者に囲われる身となる。それは、江戸時代も終わって、元号も変わった明治二年のことであったが、おきぬは、その内に、役者買いにのめり込み、その役者と連れ添うことを望んで、旦那を毒殺してしまう。その犯行が世に知れるところとなり、おきぬは断頭・晒し首の刑に処せらたのであった。
このようなスキャンダラスな事件は、当時の新聞錦絵で誇張して報道され、1870年代には彼女の運命を内容とする小説が書かれた。当然、映画界でもこのような話しを捨てておく訳がなく、1913年には最初の映画化がなされ、その後、27年と36年にも再三映画化されている女性像であった。
その「おきぬ」像と本作の「毒婦お絹」を比較すると、映画の「お絹」は、京都の商人の娘で、上方歌舞伎の役者・中村仙三郎と江戸に出奔する途中、仙三郎に裏切られて女衒に売られるという、女の儚くも暗い運命を背負った女として描かれる。「仙三郎」には、実在の「おきぬ」の運命の中に登場する「角太郎」と役者買いの歌舞伎役者が重ねてあるのであろう。
しかし、五万石の藩主のお部屋様となった「お絹」と人気な大阪歌舞伎の女形となった仙三郎が再会すると、この打算に満ちた男女関係は、一挙に「純愛」へと昇華する。しかも、この、お部屋様と男妾の「不倫」の関係は、その純愛によって、公けにも許されるという意外な展開になるのである。このようなストーリー展開が許されるのもまた、戦後民主主義の「恩恵」なのかもしれない。
更に言えば、興味深いのは、ラストシーンで、晴れて許されて、恐らく三浦半島のどこかの海岸沿いを道行く、「お絹」と仙三郎の二人の姿である。町人姿ではあるものの「お絹」にかしずくようにして手を引く「仙三郎」は、女形の姿で女歩きをしているのである。はたから見れば、女同士のカップルとも見えなくもない。このカップルが手に手を取って海岸沿いを歩いて行く。しかも、10mの高さもあろうかと言う小島が綺麗に三つも並んでいる絶景を背景とする「道行き」なのである。新東宝も、ロケーションにはここでは少々資本を投じたのであろう。
という訳で、本作は、観ていて時間を無駄にする娯楽作品かと思いきや、終盤は意外な「発見」が楽しめた作品であった。
2024年11月11日月曜日
2024年11月6日水曜日
俺たちは天使じゃない(USA、1955年作)監督:マイケル・カーティス
USAの1930年代以降、トーキー映画がサイレント映画を次第に駆逐する中で、会話に重きを置くことが出来ることから展開したトーキー映画の一ジャンルがある。いわゆる、「スクリューボール・コメディ」である。その初期の代表的作品が、C.ゲーブル、C.コルベール主演、F.キャプラ監督作品『或る夜の出来事』(1934年作)である。基本的には、恋愛喜劇(ロマンティック・コメディ)なのであるが、そこに、「スクリューボール」の変化球の意外性と、男女間の洒落た会話の、丁々発止のテンポのよさが加わったものが、スクリューボール・コメディであると言える。
本作も喜劇は喜劇であるが、上述のスクリューボール・コメディの魅力に重点を置くものではなく、本作のストーリーの底に流れているのは、ブラック・ユーモアである。しかも、USA作品とは言え、原作は、元々フランス人作家Albert Hussonアルベール・ユソンが1952年に発表した演劇『La cuisine des anges天使達の料理』であることから、普通のアメリカ映画とは雰囲気が若干異なっている。このフランス語の演劇の台本を、あるアメリカ人作家夫婦が英語に訳し、『私の三人の天使達』の題名で本を出したところ、これが、ブロードウェイに演劇として、53年から約一年間掛かり、その成功を見て、映画会社がこの舞台作品の映画化権を取得した次第であった。という訳で、本作も基本的には舞台劇的な、場面の大きな移動が少ないシーン構成になっている。
監督は、あの『カサブランカ』(1942年作)を撮ったMichael Curtizマイケル・カーティスであり、H.ボガートとは、本作が1937年以来の六本目で、最後の共作となるものである。しかも、H.ボガードとしては、珍しい喜劇である。
ハードボイルドやフィルム・ノワールで鳴らしたH.ボガードが喜劇を演じるその意外性に既に「喜劇性」が出ており、本人も喜劇役者たらんとして無理な演技をしていないところに筆者は好感が持てる。
このH.ボガードの脇を、元々は素人であったが、スカウトされて喜劇作品で顔がこの頃ようやく知れらるようになったAldo Rayと、ユダヤ系イギリス人名優Peter Ustinovの二人が固めている。尚、輸入雑貨品店を営むDucotelデュコテル一家の一人娘Isabelleイザベル役を演じたGloria Talbottグロリア・タルボットは、本作を撮って以降は、B級ホロー映画に出演するようになり、1950年代後半の「絶叫クィーン」として有名になることになる。
ストーリーの舞台は、ブラジルの北に位置するフランス領ギアナの中心地Cayenneカイエンヌである。この地に、大西洋の沖合にある、全島が流刑地となっている「悪魔島」から逃げてきた囚人の三人組が、「三賢人」よろしく、クリスマス・イヴにやってきて、図らずも、そして毒蛇Adolpheアドルフの「助け」も借りて、その善人ぶりを発揮するという、クリスマスには持って来いの作品となっている。因みに、悪魔島は映画『パピヨン』(1973年作)のストーリーの舞台となったことで知られている島である。
さて、本作は「Technicolorテクニカラー」で撮られた作品であり、しかも撮影方式が「VistaVision」という、1954年に初めて実用化された技術で撮られたものである。1930年代以降のテクニカラー自体が、被写体像をプリズムに通して、三色法の赤・緑・青に分解し、そのそれぞれをモノクロ・フィルムで撮影記録するという、極めて贅沢な撮り方をする技術である。その分、撮影時の情報量が多い訳で、当然、画像の質が高くなる方式である。(という訳で、デジタル・リマスタリングの際には、このテクニカラー方式で撮影された作品は、修復のやり甲斐が大いにあると言う。)
一方、VistaVisionは、本作の製作会社パラマウント映画社が、20世紀フォックス社の「シネマスコープ」に対抗して開発した方式で、通常縦駆動のカメラを横駆動とし、しかもスタンダード・サイズであれば、4パーフォレーションを使うところを、この方式では8パーフォレーションと二倍も取るところから、その分、また画質もよくなる訳で、画面アスペクト比が1,66:1の横長の画面サイズになる方式であった。(スタンダード・サイズの画面アスペクト比の、いわゆる「アカデミー比」は、1,375:1である。)
こうして、テクニカラーとVistaVisionの二つの豪華な方式で撮影された本作は、初期の、イーストマン・コダックやアグファと比べ物にならない程、豊かで深い色彩であり、正に、「総天然色」映画の名に恥じない画質である。この良質の画像を楽しむだけでも本作は観る価値があると言える。
とりわけ、輸入雑貨店の娘イザベルがある時着て登場するドレスの、黄色味がより強い薄い黄緑色や、これも恐らくは楽屋の「ご愛敬」程度と見るべきものであろうが、苦み走ったH.ボガードが、普段はイザベルが付けるというエプロンを着て、クリマスマス・イヴのために、鵞鳥の丸焼きをオーヴンを使って焼いている場面の、そのエプロンのサーモン・ピンクの色彩は、是非、本作で堪能したいものである。しかも、このエプロンは、フリル付きであるのも、「ミソ」であろう。こうして、三人の「天使」がクリマスマス・イヴの晩餐のために料理を作るという、正に、原作の題名『天使達の料理』が生きてくるという訳である。
本作も喜劇は喜劇であるが、上述のスクリューボール・コメディの魅力に重点を置くものではなく、本作のストーリーの底に流れているのは、ブラック・ユーモアである。しかも、USA作品とは言え、原作は、元々フランス人作家Albert Hussonアルベール・ユソンが1952年に発表した演劇『La cuisine des anges天使達の料理』であることから、普通のアメリカ映画とは雰囲気が若干異なっている。このフランス語の演劇の台本を、あるアメリカ人作家夫婦が英語に訳し、『私の三人の天使達』の題名で本を出したところ、これが、ブロードウェイに演劇として、53年から約一年間掛かり、その成功を見て、映画会社がこの舞台作品の映画化権を取得した次第であった。という訳で、本作も基本的には舞台劇的な、場面の大きな移動が少ないシーン構成になっている。
監督は、あの『カサブランカ』(1942年作)を撮ったMichael Curtizマイケル・カーティスであり、H.ボガートとは、本作が1937年以来の六本目で、最後の共作となるものである。しかも、H.ボガードとしては、珍しい喜劇である。
ハードボイルドやフィルム・ノワールで鳴らしたH.ボガードが喜劇を演じるその意外性に既に「喜劇性」が出ており、本人も喜劇役者たらんとして無理な演技をしていないところに筆者は好感が持てる。
このH.ボガードの脇を、元々は素人であったが、スカウトされて喜劇作品で顔がこの頃ようやく知れらるようになったAldo Rayと、ユダヤ系イギリス人名優Peter Ustinovの二人が固めている。尚、輸入雑貨品店を営むDucotelデュコテル一家の一人娘Isabelleイザベル役を演じたGloria Talbottグロリア・タルボットは、本作を撮って以降は、B級ホロー映画に出演するようになり、1950年代後半の「絶叫クィーン」として有名になることになる。
ストーリーの舞台は、ブラジルの北に位置するフランス領ギアナの中心地Cayenneカイエンヌである。この地に、大西洋の沖合にある、全島が流刑地となっている「悪魔島」から逃げてきた囚人の三人組が、「三賢人」よろしく、クリスマス・イヴにやってきて、図らずも、そして毒蛇Adolpheアドルフの「助け」も借りて、その善人ぶりを発揮するという、クリスマスには持って来いの作品となっている。因みに、悪魔島は映画『パピヨン』(1973年作)のストーリーの舞台となったことで知られている島である。
さて、本作は「Technicolorテクニカラー」で撮られた作品であり、しかも撮影方式が「VistaVision」という、1954年に初めて実用化された技術で撮られたものである。1930年代以降のテクニカラー自体が、被写体像をプリズムに通して、三色法の赤・緑・青に分解し、そのそれぞれをモノクロ・フィルムで撮影記録するという、極めて贅沢な撮り方をする技術である。その分、撮影時の情報量が多い訳で、当然、画像の質が高くなる方式である。(という訳で、デジタル・リマスタリングの際には、このテクニカラー方式で撮影された作品は、修復のやり甲斐が大いにあると言う。)
一方、VistaVisionは、本作の製作会社パラマウント映画社が、20世紀フォックス社の「シネマスコープ」に対抗して開発した方式で、通常縦駆動のカメラを横駆動とし、しかもスタンダード・サイズであれば、4パーフォレーションを使うところを、この方式では8パーフォレーションと二倍も取るところから、その分、また画質もよくなる訳で、画面アスペクト比が1,66:1の横長の画面サイズになる方式であった。(スタンダード・サイズの画面アスペクト比の、いわゆる「アカデミー比」は、1,375:1である。)
こうして、テクニカラーとVistaVisionの二つの豪華な方式で撮影された本作は、初期の、イーストマン・コダックやアグファと比べ物にならない程、豊かで深い色彩であり、正に、「総天然色」映画の名に恥じない画質である。この良質の画像を楽しむだけでも本作は観る価値があると言える。
とりわけ、輸入雑貨店の娘イザベルがある時着て登場するドレスの、黄色味がより強い薄い黄緑色や、これも恐らくは楽屋の「ご愛敬」程度と見るべきものであろうが、苦み走ったH.ボガードが、普段はイザベルが付けるというエプロンを着て、クリマスマス・イヴのために、鵞鳥の丸焼きをオーヴンを使って焼いている場面の、そのエプロンのサーモン・ピンクの色彩は、是非、本作で堪能したいものである。しかも、このエプロンは、フリル付きであるのも、「ミソ」であろう。こうして、三人の「天使」がクリマスマス・イヴの晩餐のために料理を作るという、正に、原作の題名『天使達の料理』が生きてくるという訳である。
2024年10月16日水曜日
市子(日本、2023年作)監督:戸田 彬弘
明治二十九年法律第八十九号とは、現代日本でも通用している日本国の民法のことである。その第772条第一項は言う:「妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と推定する。」
また、同条第二項は、女性の妊娠期間を想定して、「婚姻の成立の日から200日を経過した後」、又は、「婚姻の解消もしくは取消しの日から300日以内に生まれた子」は、「婚姻中に懐胎したものと推定する」と、規定されている。この「嫡出推定」の規定に従って、離婚から300日以内に生まれた子は、上述の二段階の推定により、原則として前夫の子として扱われることになると言う。
この上述の規定に関して、200と300の数字が妥当なものであるかの疑問が起こるのと同時に、婚姻直前にその女性が他の男性と交渉があったり、婚姻中に妻が「浮気」を働いていたケースは、どうなるのであろうかという疑念が起こるのではあるが、何れにしても、この期間中に生まれた子に関しては、夫、或いは前夫は、遺伝的関係とは関係なく、戸籍上の「父」となることになる。
現代では、DNA鑑定により、父子関係は、科学的に白黒が付けられる時代ではあるが、DV前夫との関わりを避けるために、自分が生んだ子供が前夫の子となることを嫌って、離婚後に出生した子の戸籍上の手続きがなされないケースもあり得る訳で、このような社会問題を人は「離婚300日問題」と呼ぶ。本作の主人公市子は、正に、このような「星」の下に生まれた女性であり、不幸な運命は、更に、不幸を引き寄せる形で本作の「重く哀しい」ストーリーは展開する。
本作の原作は、監督が演劇用に書いた台本『川辺市子のために』であると言うが、筆者は、この演劇を観ていないので、本作の脚本との比較が出来ないが、友人から聞いた話しでは、舞台には市子一人が立ち、その市子をぐるりと囲むように観衆が座り、その観衆の後ろを今度は別の登場人物達がぐるりと囲んで、劇が進行すると言う。
これらの別の登場人物達の「証言」により、市子の存在の在り様が明らかにされるのであろうが、証言する他の登場人物と、その証言に反応する市子を演劇的にどのように構築するのか、極めて興味深く、筆者も一度は演劇を観てみたいものである。この演劇の演出の斬新性から言うと、監督が同一人物でもあり、本作の語りがオーソドックス過ぎるのが、残念に思われる。
また、同条第二項は、女性の妊娠期間を想定して、「婚姻の成立の日から200日を経過した後」、又は、「婚姻の解消もしくは取消しの日から300日以内に生まれた子」は、「婚姻中に懐胎したものと推定する」と、規定されている。この「嫡出推定」の規定に従って、離婚から300日以内に生まれた子は、上述の二段階の推定により、原則として前夫の子として扱われることになると言う。
この上述の規定に関して、200と300の数字が妥当なものであるかの疑問が起こるのと同時に、婚姻直前にその女性が他の男性と交渉があったり、婚姻中に妻が「浮気」を働いていたケースは、どうなるのであろうかという疑念が起こるのではあるが、何れにしても、この期間中に生まれた子に関しては、夫、或いは前夫は、遺伝的関係とは関係なく、戸籍上の「父」となることになる。
現代では、DNA鑑定により、父子関係は、科学的に白黒が付けられる時代ではあるが、DV前夫との関わりを避けるために、自分が生んだ子供が前夫の子となることを嫌って、離婚後に出生した子の戸籍上の手続きがなされないケースもあり得る訳で、このような社会問題を人は「離婚300日問題」と呼ぶ。本作の主人公市子は、正に、このような「星」の下に生まれた女性であり、不幸な運命は、更に、不幸を引き寄せる形で本作の「重く哀しい」ストーリーは展開する。
本作の原作は、監督が演劇用に書いた台本『川辺市子のために』であると言うが、筆者は、この演劇を観ていないので、本作の脚本との比較が出来ないが、友人から聞いた話しでは、舞台には市子一人が立ち、その市子をぐるりと囲むように観衆が座り、その観衆の後ろを今度は別の登場人物達がぐるりと囲んで、劇が進行すると言う。
これらの別の登場人物達の「証言」により、市子の存在の在り様が明らかにされるのであろうが、証言する他の登場人物と、その証言に反応する市子を演劇的にどのように構築するのか、極めて興味深く、筆者も一度は演劇を観てみたいものである。この演劇の演出の斬新性から言うと、監督が同一人物でもあり、本作の語りがオーソドックス過ぎるのが、残念に思われる。
2024年9月27日金曜日
名刀美女丸(日本、1945年作)監督:溝口健二
「長回し」の映画監督、溝口健二は、1935年に無声映画『折鶴お千』を撮っている。この作品の主演は、本作のヒロインでもある山田五十鈴であったが、その翌年の36年には、同じく山田を主演に起用して、『浪華悲歌』をトーキーで撮っている。日本映画史の特異な点は、無声映画が1930年代半ばまで撮られていたことであるが、その背景には「弁士」を愛でる日本の観衆の好みが存在していた。
さて、『浪華悲歌』が公開された36年と言えば、皇道派青年将校による軍事クーデター「二・二六事件」があり、その翌年には日中戦争が勃発する。日中戦争が長期化する様相を見せると、38年には、日本国内の生活全般に及ぶ日本社会の再編成を目指す「国家総動員法」が帝国議会を通過する。このように戦争の影が次第に強く日本社会に射してくる中、溝口は、39年からいわゆる「芸道もの三部作」を撮る。39年の『残菊物語』、40年の『浪花女』(田中絹代主演)、41年の『芸道一代男』(川口松太郎作の同名小説を原作とし、初代中村扇雀が主演)の三作である。
『残菊物語』以外、遺失してしまっているが、『残菊物語』は、本作の制作陣の顔ぶれから見て興味深い。ストーリー構成に川口松太郎が協力し、二代目尾上菊之助を演じたのが元々女形で新劇界で名を馳せていた花柳章太郎であるからである。
戦争遂行のために日本社会が再編成されていく中、溝口の「芸道もの」へののめり込みには、一種の「内的亡命」の心的態度を予想させるのであるが、果たして、前編が41年に、後編が42年に公開された『元禄忠臣蔵』は、大衆受けがするような派手な場面をわざと避けたような脚本の取りようで、そこに「芸道もの」に通じる自己鍛錬を目指す一種の精神主義的な態度が感じられる。
しかし、日本映画界の重鎮の一人として溝口が会長になっていた日本映画監督協会は、42年に戦時統合で解散し、国策団体たる大日本映画協会に合流する。溝口はこの協会の理事に就任し、その立場で自分の映画作りの構想を練ることになるが、それは難航し、数年が過ぎてしまう。そうこうする内に、太平洋戦争の戦局は悪くなり、物資窮乏のために劇映画制作用のフィルムの使用制限がされる中、仕方がなく、中編映画の尺で、44年には『団十郎三代』と『宮本武蔵』を、そして、終戦の年に当たる45年に本作を撮っている。
遺失している『団十郎三代』は別として、『宮本武蔵』は現在筆者は未見であるので、評価できないが、本作は、主役を演じる花柳が名刀を鍛えようと努力するストーリー展開(脚本は川口)では「芸道もの」に通じる一面を持ちながら、尊王攘夷思想の水戸学派を言及したり、後醍醐天皇の建武の親政を終わらせた足利氏を「賊」と見る史観に立ったりして、その意味で、はっきりとプロパガンダ映画となっている。この意味で、溝口の戦時中における「内的亡命」という、筆者の従来の見方は、若干修正しなけらばならないようにも思われる。
とは言え、刀鍛冶としての花柳の技量が鍛錬により上達し、それによって出来上がった名刀を振るって、ヒロインの山田五十鈴が無事に仇討ちを果たすパッピー・エンドは何か終戦前の緊迫した時勢に合わないような気がする。人足に曳かれた船に乗って、流れのない運河の堀をゆっくりと進む花柳と、花柳に「お嬢さん」と呼ばれる山田の二人の、ラストシーンの姿は、谷崎潤一郎の『春琴抄』の世界を思わせ、何か耽美主義的な雰囲気を醸しだしており、正に、映画創作のこの方向性は、戦後の溝口が撮ることになる名作の数々につながるものとも言える。
以上、タイトルロールに登場した「新生新派」という言葉に興味を持ったのと、本作の主役花柳章太郎が新派の花形俳優でもあったことから、以下、新派の歴史をかいつまんで述べてみようと思う。
日本における、ヨーロッパの演劇を手本とする演劇運動は、1906年に坪内逍遥と島村抱月によって創設された「文芸協会」の活動を嚆矢とするが、1924年に創立された築地小劇場での上演活動を以って本格的に確立されたと言ってよい。このような、翻訳・翻案劇や創作劇を上演する演劇運動を「新劇」という。それは、江戸時代以来の「旧劇」たる大衆演劇・歌舞伎と対比する意味を込めて付けられた名称であるが、明治に入ってからは、既に1880年代末から「改良演劇」を目指す運動が別に生まれていた。不平士族の政治的不満を背景とする壮士芝居や、自由民権運動と連結する書生芝居がこれである。この流れの延長として、より演劇の芸術性を、また、「旧派」たる歌舞伎に対して、より演目の現代性を求めようとして「新派」が形成されることになる。
「新派」は、「改良演劇」の動きが始まって約15年経った1905年になると、書生芝居の流れを汲む川上音二郎を座長とする川上一座、「男女合同改良演劇」を唱導した伊井蓉峰(ようほう)を座長とする伊井一座、そして、女形として名を成した(初代)喜多村緑郎(ろくろう)らが立った本郷座の、相互の競争と協力の「鼎立」時代に入る。1908年、新派の代表的演目の一つとなる『婦系図』は、泉鏡花の『湯島の境内』を原作とし、喜多村がお蔦役で伊井と組んで、初演したものである。
この鼎立時代は、1911年に川上音二郎が死去したことなどにより、1910年代末には、伊井蓉峰、喜多村緑郎、それに嘗ての喜多村の同僚で同じく女形で鳴らした河合武雄の「三頭目」時代に入るが、その数年前の1915年に、喜多村の愛弟子であった花柳章太郎は、泉鏡花作『日本橋』の主役お千世として舞台に立ち、これが彼の出世作となって、一躍新派の人気女形となっていた。
1932年に伊井蓉峰が死去したことにより、残った喜多村と河合が「本流新派」として新派の屋台骨を背負うことになるが、この頃から、新派のために台本を書くようになったのが、大衆小説作家川口松太郎であった。1934年に発表した明治時代の芸人世界を舞台にした人情噺し『鶴八鶴次郎』で以って、川口は翌年に第一回直木賞を授賞している。
1939年、本作の主役を演ずることになる花柳章太郎、本作の脇役を演ずることになる伊志井寛らが、「本流新派」に対して、劇団「新生新派」を結成すると、翌年、本作の脚本を書くことになる川口もこれの主事となる。1942年に河合が亡くなると、この年以降、本流新派は事実上、その存在意義を失うことになるが、それは、日本が太平洋戦争に突入し、翼賛・総動員体制の再強化の必要性に迫られたからなのであろう。残った「新生新派」が本作の制作に参加し、45年1月に、タイトルバックにあるように、本作は完成した。それは、太平洋戦争の終盤となる、所謂「本土決戦」の前哨戦たる沖縄戦が始まる約二ヶ月前のことであった。
戦後の新派の再生を担うのは、この「新生新派」と花柳章太郎となる。1951年末に新派大同団結を成し遂げ、現在に至る「劇団新派」を作り上げたのは、他でもないこの花柳であり、この劇団の座長として、初代水谷八重子とのコンビで、戦後次々と代表作を世に問うことになる。
さて、『浪華悲歌』が公開された36年と言えば、皇道派青年将校による軍事クーデター「二・二六事件」があり、その翌年には日中戦争が勃発する。日中戦争が長期化する様相を見せると、38年には、日本国内の生活全般に及ぶ日本社会の再編成を目指す「国家総動員法」が帝国議会を通過する。このように戦争の影が次第に強く日本社会に射してくる中、溝口は、39年からいわゆる「芸道もの三部作」を撮る。39年の『残菊物語』、40年の『浪花女』(田中絹代主演)、41年の『芸道一代男』(川口松太郎作の同名小説を原作とし、初代中村扇雀が主演)の三作である。
『残菊物語』以外、遺失してしまっているが、『残菊物語』は、本作の制作陣の顔ぶれから見て興味深い。ストーリー構成に川口松太郎が協力し、二代目尾上菊之助を演じたのが元々女形で新劇界で名を馳せていた花柳章太郎であるからである。
戦争遂行のために日本社会が再編成されていく中、溝口の「芸道もの」へののめり込みには、一種の「内的亡命」の心的態度を予想させるのであるが、果たして、前編が41年に、後編が42年に公開された『元禄忠臣蔵』は、大衆受けがするような派手な場面をわざと避けたような脚本の取りようで、そこに「芸道もの」に通じる自己鍛錬を目指す一種の精神主義的な態度が感じられる。
しかし、日本映画界の重鎮の一人として溝口が会長になっていた日本映画監督協会は、42年に戦時統合で解散し、国策団体たる大日本映画協会に合流する。溝口はこの協会の理事に就任し、その立場で自分の映画作りの構想を練ることになるが、それは難航し、数年が過ぎてしまう。そうこうする内に、太平洋戦争の戦局は悪くなり、物資窮乏のために劇映画制作用のフィルムの使用制限がされる中、仕方がなく、中編映画の尺で、44年には『団十郎三代』と『宮本武蔵』を、そして、終戦の年に当たる45年に本作を撮っている。
遺失している『団十郎三代』は別として、『宮本武蔵』は現在筆者は未見であるので、評価できないが、本作は、主役を演じる花柳が名刀を鍛えようと努力するストーリー展開(脚本は川口)では「芸道もの」に通じる一面を持ちながら、尊王攘夷思想の水戸学派を言及したり、後醍醐天皇の建武の親政を終わらせた足利氏を「賊」と見る史観に立ったりして、その意味で、はっきりとプロパガンダ映画となっている。この意味で、溝口の戦時中における「内的亡命」という、筆者の従来の見方は、若干修正しなけらばならないようにも思われる。
とは言え、刀鍛冶としての花柳の技量が鍛錬により上達し、それによって出来上がった名刀を振るって、ヒロインの山田五十鈴が無事に仇討ちを果たすパッピー・エンドは何か終戦前の緊迫した時勢に合わないような気がする。人足に曳かれた船に乗って、流れのない運河の堀をゆっくりと進む花柳と、花柳に「お嬢さん」と呼ばれる山田の二人の、ラストシーンの姿は、谷崎潤一郎の『春琴抄』の世界を思わせ、何か耽美主義的な雰囲気を醸しだしており、正に、映画創作のこの方向性は、戦後の溝口が撮ることになる名作の数々につながるものとも言える。
以上、タイトルロールに登場した「新生新派」という言葉に興味を持ったのと、本作の主役花柳章太郎が新派の花形俳優でもあったことから、以下、新派の歴史をかいつまんで述べてみようと思う。
日本における、ヨーロッパの演劇を手本とする演劇運動は、1906年に坪内逍遥と島村抱月によって創設された「文芸協会」の活動を嚆矢とするが、1924年に創立された築地小劇場での上演活動を以って本格的に確立されたと言ってよい。このような、翻訳・翻案劇や創作劇を上演する演劇運動を「新劇」という。それは、江戸時代以来の「旧劇」たる大衆演劇・歌舞伎と対比する意味を込めて付けられた名称であるが、明治に入ってからは、既に1880年代末から「改良演劇」を目指す運動が別に生まれていた。不平士族の政治的不満を背景とする壮士芝居や、自由民権運動と連結する書生芝居がこれである。この流れの延長として、より演劇の芸術性を、また、「旧派」たる歌舞伎に対して、より演目の現代性を求めようとして「新派」が形成されることになる。
「新派」は、「改良演劇」の動きが始まって約15年経った1905年になると、書生芝居の流れを汲む川上音二郎を座長とする川上一座、「男女合同改良演劇」を唱導した伊井蓉峰(ようほう)を座長とする伊井一座、そして、女形として名を成した(初代)喜多村緑郎(ろくろう)らが立った本郷座の、相互の競争と協力の「鼎立」時代に入る。1908年、新派の代表的演目の一つとなる『婦系図』は、泉鏡花の『湯島の境内』を原作とし、喜多村がお蔦役で伊井と組んで、初演したものである。
この鼎立時代は、1911年に川上音二郎が死去したことなどにより、1910年代末には、伊井蓉峰、喜多村緑郎、それに嘗ての喜多村の同僚で同じく女形で鳴らした河合武雄の「三頭目」時代に入るが、その数年前の1915年に、喜多村の愛弟子であった花柳章太郎は、泉鏡花作『日本橋』の主役お千世として舞台に立ち、これが彼の出世作となって、一躍新派の人気女形となっていた。
1932年に伊井蓉峰が死去したことにより、残った喜多村と河合が「本流新派」として新派の屋台骨を背負うことになるが、この頃から、新派のために台本を書くようになったのが、大衆小説作家川口松太郎であった。1934年に発表した明治時代の芸人世界を舞台にした人情噺し『鶴八鶴次郎』で以って、川口は翌年に第一回直木賞を授賞している。
1939年、本作の主役を演ずることになる花柳章太郎、本作の脇役を演ずることになる伊志井寛らが、「本流新派」に対して、劇団「新生新派」を結成すると、翌年、本作の脚本を書くことになる川口もこれの主事となる。1942年に河合が亡くなると、この年以降、本流新派は事実上、その存在意義を失うことになるが、それは、日本が太平洋戦争に突入し、翼賛・総動員体制の再強化の必要性に迫られたからなのであろう。残った「新生新派」が本作の制作に参加し、45年1月に、タイトルバックにあるように、本作は完成した。それは、太平洋戦争の終盤となる、所謂「本土決戦」の前哨戦たる沖縄戦が始まる約二ヶ月前のことであった。
戦後の新派の再生を担うのは、この「新生新派」と花柳章太郎となる。1951年末に新派大同団結を成し遂げ、現在に至る「劇団新派」を作り上げたのは、他でもないこの花柳であり、この劇団の座長として、初代水谷八重子とのコンビで、戦後次々と代表作を世に問うことになる。
2024年9月14日土曜日
男の争い(フランス、1955年作)監督:ジュールズ・ダッシン
「film noir」自体がフランス語であるのに、どうして、ここでわざわざ、「フレンチ・フィルム・ノワール」と言うのであろうか。なぜなら、「film noir」という言葉は、最初は、1940年代から1960年代までに掛けて製作されたアメリカの犯罪映画の一サブ・ジャンルに命名されて出来た映画批評の概念であるからである。
第二次世界大戦中に製作されていたアメリカの犯罪映画が、戦後になってフランスでも一度に上映されるようになると、それを観たフランス人映画批評家Nino Frankニーノ・フランクは、『マルタの鷹』(1941年作)などのアメリカ犯罪映画にある種の共通性を見出し、それを「film noir」と呼んだのである。
その映像美学的な特質としては、ドイツ表現主義の映像美を模範として、光と陰のコントラストを強調する、映画史的に言うと、白黒映画史の最終章を飾る形で、正に白黒映画の映像美を出している点が挙げられる。カラー映画作品がまもなく常態化する直前であるから、当然と言えば、それは、当然であったが、斜め撮りをしたりという画面構成にも大胆な試みが見られるのである。
ストーリー的には、1920年代、30年代の、例えばD.ハミットなどの、「コンクリート・ジャングル」たる都市を舞台とした「ハードボイルド小説」が基調になっており、この傾向は、確かに、犯罪映画に大きく括られうるサブ・ジャンルの中では、テーストとしては、いわゆる「ギャング映画」とはまた異なるものを持っている。それは、ストーリーが悲観的な展開をすることにより、このテーストはより強くなるのであるが、この悲観性を保証しているのは、主人公の視点で物語りが冷笑的に語られ、それ故に、主人公がOffでストーリーを独白する手法が使われる点に特に見出せる。そして、このストーリーの悲劇的展開には、あるFemme fatalファム・ファタール、「運命的な女」が関わるのである。こういう訳で、当のUSA側は、該当の作品群を「psychological melodrama、或いは、psychological thriller」と呼んでいたのも肯ける。
こういう、人間の暗い側面を描く「film noir」は、その暗い側面が社会の暗い部分から生まれてくる点に注目するような作品制作にもつながり、言わば、「社会派暗黒映画」が撮られることになる。この系統の「film noir」を撮った監督には、Edward DmytrikやJoseph Loseyなどがいるが、本作を撮ったJules Dassinもこの系統に入ると言える。米下院・非米活動調査委員会での証言を拒んだハリウッドの10人の脚本家や監督、プロデューサー達を呼んで、「ハリウッド・テン」というが、その中の一人に入ったのが、E.Dmytrikで、彼が投獄され、「転向」して、J. Dassinの名前を出したことから、彼は、ヨーロッパに、事実上「亡命する」ことになる。J.Roseyも同じ出国の運命を選び、1951年に米下院・非米活動調査委員会での証言を嫌って、ヨーロッパに移住したのである。
J. Dassinは、1911年にUSAで生まれた映画監督であるが、父親は、ユダヤ系ウクライナ人の移民であった。ニューヨーク市はハーレム地区で育つが、政治的には左派の、イディシュ語を話す劇団に加わり、1930年代にアメリカ共産党員になる。しかし、スターリンが独ソ不可侵条約を結んだことに失望して、党を脱退する。1940年にブロードウェイで初めて舞台監督を務め、ラジオ放送用の台本も書くようになるが、翌年には、映画監督としてもデビューし、戦後の47年に撮った、監獄もの映画『真昼の暴動』(B.ランカスター主演)で知名度を高め、48年に撮った、セミ・ドキュメンタリータッチの警察もの映画『裸の町』で、アカデミー賞の撮影賞と編集賞を獲得する。49年には、運送屋同士の抗争を描く『Thieves’ Highway』を撮り、本格的に映画監督としてハリウッドで活躍しようとしていた矢先に、マッカーシズムの「赤狩りの狂気」のせいでヨーロッパに移住しなければならないことになる。50年制作の『街の野獣』(R.ウィドマーク主演)は、USAではなく、イギリスに撮影場所を移さなければならなくなる。更に、J. Dassinは、イギリスからフランスに渡るのであるが、それは、逆にフランス映画界にとっては「幸運なこと」になることになる。ただ、J. Dassinにとっては、本作を撮るまでの数年間は、USA側の政治的圧力などもあり、「下積み」生活を余儀なくされたのではあるが。
という訳で、J. Dassinが本作の制作を引き受けた際には、彼は、まずは、フランス語の原作を英語に訳させ、それを受けて、英語で脚本の草稿を書いたのである。それが今度はフランス語に逆翻訳されて、原作者のAugust Le Bretonや共同脚本家のRené Wheelerがこれに協力して草稿に手を入れるという形で脚本の作成が進められたのである。こうして出来上がった本作は、J. Dassinがヨーロッパで撮った最初の作品となった訳であるが、本作が彼にヨーロッパ映画界における成功をもたらし、カンヌ国際映画祭における監督賞授賞となる。
本作の成功を受けて、J. Dassinは、57年と59年に二本の作品を撮り、60年に発表された『日曜はダメよ』(ギリシャ人メリナ・メルクーリ主演)で世界的なヒット作品を生み出すことになるが、この作品は、ロマンティック・コメディー作品であり、J. Dassin自身にとってもフィルム・ノワールの創作時期は1960年の年を以って終わったものと言える。
第二次世界大戦中に製作されていたアメリカの犯罪映画が、戦後になってフランスでも一度に上映されるようになると、それを観たフランス人映画批評家Nino Frankニーノ・フランクは、『マルタの鷹』(1941年作)などのアメリカ犯罪映画にある種の共通性を見出し、それを「film noir」と呼んだのである。
その映像美学的な特質としては、ドイツ表現主義の映像美を模範として、光と陰のコントラストを強調する、映画史的に言うと、白黒映画史の最終章を飾る形で、正に白黒映画の映像美を出している点が挙げられる。カラー映画作品がまもなく常態化する直前であるから、当然と言えば、それは、当然であったが、斜め撮りをしたりという画面構成にも大胆な試みが見られるのである。
ストーリー的には、1920年代、30年代の、例えばD.ハミットなどの、「コンクリート・ジャングル」たる都市を舞台とした「ハードボイルド小説」が基調になっており、この傾向は、確かに、犯罪映画に大きく括られうるサブ・ジャンルの中では、テーストとしては、いわゆる「ギャング映画」とはまた異なるものを持っている。それは、ストーリーが悲観的な展開をすることにより、このテーストはより強くなるのであるが、この悲観性を保証しているのは、主人公の視点で物語りが冷笑的に語られ、それ故に、主人公がOffでストーリーを独白する手法が使われる点に特に見出せる。そして、このストーリーの悲劇的展開には、あるFemme fatalファム・ファタール、「運命的な女」が関わるのである。こういう訳で、当のUSA側は、該当の作品群を「psychological melodrama、或いは、psychological thriller」と呼んでいたのも肯ける。
こういう、人間の暗い側面を描く「film noir」は、その暗い側面が社会の暗い部分から生まれてくる点に注目するような作品制作にもつながり、言わば、「社会派暗黒映画」が撮られることになる。この系統の「film noir」を撮った監督には、Edward DmytrikやJoseph Loseyなどがいるが、本作を撮ったJules Dassinもこの系統に入ると言える。米下院・非米活動調査委員会での証言を拒んだハリウッドの10人の脚本家や監督、プロデューサー達を呼んで、「ハリウッド・テン」というが、その中の一人に入ったのが、E.Dmytrikで、彼が投獄され、「転向」して、J. Dassinの名前を出したことから、彼は、ヨーロッパに、事実上「亡命する」ことになる。J.Roseyも同じ出国の運命を選び、1951年に米下院・非米活動調査委員会での証言を嫌って、ヨーロッパに移住したのである。
J. Dassinは、1911年にUSAで生まれた映画監督であるが、父親は、ユダヤ系ウクライナ人の移民であった。ニューヨーク市はハーレム地区で育つが、政治的には左派の、イディシュ語を話す劇団に加わり、1930年代にアメリカ共産党員になる。しかし、スターリンが独ソ不可侵条約を結んだことに失望して、党を脱退する。1940年にブロードウェイで初めて舞台監督を務め、ラジオ放送用の台本も書くようになるが、翌年には、映画監督としてもデビューし、戦後の47年に撮った、監獄もの映画『真昼の暴動』(B.ランカスター主演)で知名度を高め、48年に撮った、セミ・ドキュメンタリータッチの警察もの映画『裸の町』で、アカデミー賞の撮影賞と編集賞を獲得する。49年には、運送屋同士の抗争を描く『Thieves’ Highway』を撮り、本格的に映画監督としてハリウッドで活躍しようとしていた矢先に、マッカーシズムの「赤狩りの狂気」のせいでヨーロッパに移住しなければならないことになる。50年制作の『街の野獣』(R.ウィドマーク主演)は、USAではなく、イギリスに撮影場所を移さなければならなくなる。更に、J. Dassinは、イギリスからフランスに渡るのであるが、それは、逆にフランス映画界にとっては「幸運なこと」になることになる。ただ、J. Dassinにとっては、本作を撮るまでの数年間は、USA側の政治的圧力などもあり、「下積み」生活を余儀なくされたのではあるが。
という訳で、J. Dassinが本作の制作を引き受けた際には、彼は、まずは、フランス語の原作を英語に訳させ、それを受けて、英語で脚本の草稿を書いたのである。それが今度はフランス語に逆翻訳されて、原作者のAugust Le Bretonや共同脚本家のRené Wheelerがこれに協力して草稿に手を入れるという形で脚本の作成が進められたのである。こうして出来上がった本作は、J. Dassinがヨーロッパで撮った最初の作品となった訳であるが、本作が彼にヨーロッパ映画界における成功をもたらし、カンヌ国際映画祭における監督賞授賞となる。
本作の成功を受けて、J. Dassinは、57年と59年に二本の作品を撮り、60年に発表された『日曜はダメよ』(ギリシャ人メリナ・メルクーリ主演)で世界的なヒット作品を生み出すことになるが、この作品は、ロマンティック・コメディー作品であり、J. Dassin自身にとってもフィルム・ノワールの創作時期は1960年の年を以って終わったものと言える。
2024年8月26日月曜日
オーシャンズ8(USA、2018年作)監督:ゲイリー・ロス
『Ocean's 8』は、実は、「Ocean's 7+1(+1)」
本作のストーリーは、三段構えである。一段目は、Cartierの首飾りを「掠め取る」作戦の展開で、ここでは、7人組がスクラムを組む。第二段目は、復讐劇で、この段階で、もう一人の女性が絡んできて、女性チームは、女性八人組になる。第三段目が、言わば、どんでん返しの段で、これには、上述の「(+1)」の中国人男性が加わる。(+1)は、「オーシャンズ」・シリーズで、『イレヴン』の最初から、本作の主人公Debbieが愛するDannyの仲間達の一人であった人物である。故に、本作は正しくは「オーシャンの9人」である。
第一段目の「窃盗」ストーリーは、盗まれる側が「難攻不落」でなければ、面白味が半減する。その点、本作における「難易度」は、『スパイ大作戦』や『ミッション・インポッシブル』と比較すると、その程度は低く、しかも、罠を掛ける対象の女優との絡みで「人間的要素」が大きすぎて、説得力が欠ける。
更に、この手のストーリーでは、「難易度」に応じて、それに対する準備の過程がしっかりと描かれなければならない。この点は、本作はある程度しっかりとその「地固め」がなされていたが、何せ「難易度」が低いので、その準備も「ああ、こういう手もあるか。」と納得させるインパクトが少ない。
本作のストーリーは、三段構えである。一段目は、Cartierの首飾りを「掠め取る」作戦の展開で、ここでは、7人組がスクラムを組む。第二段目は、復讐劇で、この段階で、もう一人の女性が絡んできて、女性チームは、女性八人組になる。第三段目が、言わば、どんでん返しの段で、これには、上述の「(+1)」の中国人男性が加わる。(+1)は、「オーシャンズ」・シリーズで、『イレヴン』の最初から、本作の主人公Debbieが愛するDannyの仲間達の一人であった人物である。故に、本作は正しくは「オーシャンの9人」である。
第一段目の「窃盗」ストーリーは、盗まれる側が「難攻不落」でなければ、面白味が半減する。その点、本作における「難易度」は、『スパイ大作戦』や『ミッション・インポッシブル』と比較すると、その程度は低く、しかも、罠を掛ける対象の女優との絡みで「人間的要素」が大きすぎて、説得力が欠ける。
更に、この手のストーリーでは、「難易度」に応じて、それに対する準備の過程がしっかりと描かれなければならない。この点は、本作はある程度しっかりとその「地固め」がなされていたが、何せ「難易度」が低いので、その準備も「ああ、こういう手もあるか。」と納得させるインパクトが少ない。
しかも、作戦実行が、確かにそうはならないようにはいくつかの「障壁」が挿入はされていたが、全体的にはスムーズに行き過ぎて、緊張感が薄いのは、本作の脚本上の瑕疵である。監督Gary Rossは、脚本も共同で手掛けている。
一方、「Ocean's」もののいいところの一つは、その仲間達の顔ぶれが多彩であり、それぞれに個性がある所であろう。『七人の侍』ではないが、本作の「七人の強者」の顔ぶれは、インド系あり、中国系あり、はたまた、ラテン・黒人系ありで、国際色豊かである。登場人物としては、Cate Blanchetが、七人の中では、出色であろう。主人公Debbieとは同性愛的な関係を匂わせながら、男役的なパートを演じ、カッコ良く単車を乗り回す。キャラクター的には、負債を抱えるモード・ディザイナーRoseが興味深く、彼女は、とんでもポップアート的な服装を「こなして」歩く。このRose役を演じたのが、Helena Bonham Carterである。どこかで見た顔で、どこで見たかを思い出せず、ウィキペディアでその経歴を調べて思い出した。David Fincher監督の『Fight Club』(1999年作)でである。1999年と言うと、本作の制作が2018年であるから、ほぼ20年前のことであるから、H.B.カーターももう随分お年なのであるが、『Fight Club』での彼女の演技は鮮烈であり、筆者は未だによく記憶している。
H.B.カーターは、フランス語がペラペラなそうで、その語学の達者さは、本作でも強調されていたが、主演のSandra Bullockも本作ではドイツ語が上手いところを見せている。と言うのは、彼女は、ドイツ人のオペラ歌手Helga Meyerヘルガ・マイヤーの娘として、南東ドイツの、バイエルン州の東にあるNürnbergニュルンベルクで生まれ、12歳までここに住んでいたからである。父親はアメリカ軍属で声楽を指導していたアメリカ人であった。学校は、ドイツではルドルフ・シュタイナー校に通い、高校はアメリカのハイスクールに行って、チアリーディング部の部長として活躍したと言う。アメリカ語訛りのドイツ語ではなく、しっかりしたドイツ語での発音である。という訳で、本作は是非オリジナルで観たい作品であろう。
一方、「Ocean's」もののいいところの一つは、その仲間達の顔ぶれが多彩であり、それぞれに個性がある所であろう。『七人の侍』ではないが、本作の「七人の強者」の顔ぶれは、インド系あり、中国系あり、はたまた、ラテン・黒人系ありで、国際色豊かである。登場人物としては、Cate Blanchetが、七人の中では、出色であろう。主人公Debbieとは同性愛的な関係を匂わせながら、男役的なパートを演じ、カッコ良く単車を乗り回す。キャラクター的には、負債を抱えるモード・ディザイナーRoseが興味深く、彼女は、とんでもポップアート的な服装を「こなして」歩く。このRose役を演じたのが、Helena Bonham Carterである。どこかで見た顔で、どこで見たかを思い出せず、ウィキペディアでその経歴を調べて思い出した。David Fincher監督の『Fight Club』(1999年作)でである。1999年と言うと、本作の制作が2018年であるから、ほぼ20年前のことであるから、H.B.カーターももう随分お年なのであるが、『Fight Club』での彼女の演技は鮮烈であり、筆者は未だによく記憶している。
H.B.カーターは、フランス語がペラペラなそうで、その語学の達者さは、本作でも強調されていたが、主演のSandra Bullockも本作ではドイツ語が上手いところを見せている。と言うのは、彼女は、ドイツ人のオペラ歌手Helga Meyerヘルガ・マイヤーの娘として、南東ドイツの、バイエルン州の東にあるNürnbergニュルンベルクで生まれ、12歳までここに住んでいたからである。父親はアメリカ軍属で声楽を指導していたアメリカ人であった。学校は、ドイツではルドルフ・シュタイナー校に通い、高校はアメリカのハイスクールに行って、チアリーディング部の部長として活躍したと言う。アメリカ語訛りのドイツ語ではなく、しっかりしたドイツ語での発音である。という訳で、本作は是非オリジナルで観たい作品であろう。
本作の最後、Debbieは兄の墓石の前に座るが、この墓石の横には、Helga Meyerの名前が見える墓石がある。S.ブロックの実の母親の名前である。Ross監督も中々「粋な」取り計らいをしたものである。
2024年8月14日水曜日
オッペンハイマー(USA、英国、2023年作)監督:クリストファー・ノーラン
反ユダヤ主義者のヒトラーが手にするかも知れないという危惧から、ユダヤ人たるOppenheimerは、核爆弾製造に実践的に着手することにするが、それは、Oppenheimerが既に1920年代に注目していた量子力学の研究を犠牲にすることによって可能であった。あの天才科学者A.アインシュタインが50年代にOppenheimerとプリンストン高等研究所の庭にある池の端で明かした疑問は、同時に、科学の進歩の先端を行った者、行く者の「悲哀」を感じさせる。
さて、原子力委員会の査問によりOppenheimerの過去があからさまに暴かれることで改めて気が付くことが、1930年代のアメリカにおいて多くの知識人が共産主義に少なくシンパシーを持っていたことである。アメリカ合衆国共産党(CPUSA)の創立は、ロシア革命の二年後の1919年のことであるが、この党がスターリン主義に凝り固まって支持者を次第に失っていく中で、とりわけ、人民戦線路線を採った30年代半ばは支持層を広めていた時期があり、ちょうどこの時期にOppenheimerも左翼に関わる。そして、彼の周りの多くの人間が共産党員だったのである。ウィキペディアによると、「妻キティ、[同じく物理学者であった]弟フランク、フランクの妻ジャッキー、およびオッペンハイマーの大学時代の恋人ジーン・タットロックは、アメリカ共産党員であり、また自身も党員では無かったものの、共産党系の集会に参加したことが暴露された。1954年4月12日、原子力委員会はこれらの事実にもとづき、オッペンハイマーを機密安全保持疑惑により休職処分(事実上の公職追放)とした。」とある。
そして、以下の後日譚は本作では述べられていないが、原子力委員会(AEC)の後身となる連邦エネルギー省(DOE)の女性大臣を務めるJennifer Mulhern Granholmは、2022年12月に、上述のOppenheimerに対する1954年の「処分」を「偏見に基づく不公正な手続き」とし、68年の時を経ての名誉回復については、「歴史の記録を正す責任がある」と説明したと言う。Chr.ノーランがOppenheimerについての伝記を映画化しようという意図を明らかにしたのは、21年9月のことであるので、Oppenheimerの名誉回復のニュースを聞いて、彼は、改めて、自身の決断が正しかったものと確信したことであろう。
さて、原子力委員会の査問によりOppenheimerの過去があからさまに暴かれることで改めて気が付くことが、1930年代のアメリカにおいて多くの知識人が共産主義に少なくシンパシーを持っていたことである。アメリカ合衆国共産党(CPUSA)の創立は、ロシア革命の二年後の1919年のことであるが、この党がスターリン主義に凝り固まって支持者を次第に失っていく中で、とりわけ、人民戦線路線を採った30年代半ばは支持層を広めていた時期があり、ちょうどこの時期にOppenheimerも左翼に関わる。そして、彼の周りの多くの人間が共産党員だったのである。ウィキペディアによると、「妻キティ、[同じく物理学者であった]弟フランク、フランクの妻ジャッキー、およびオッペンハイマーの大学時代の恋人ジーン・タットロックは、アメリカ共産党員であり、また自身も党員では無かったものの、共産党系の集会に参加したことが暴露された。1954年4月12日、原子力委員会はこれらの事実にもとづき、オッペンハイマーを機密安全保持疑惑により休職処分(事実上の公職追放)とした。」とある。
そして、以下の後日譚は本作では述べられていないが、原子力委員会(AEC)の後身となる連邦エネルギー省(DOE)の女性大臣を務めるJennifer Mulhern Granholmは、2022年12月に、上述のOppenheimerに対する1954年の「処分」を「偏見に基づく不公正な手続き」とし、68年の時を経ての名誉回復については、「歴史の記録を正す責任がある」と説明したと言う。Chr.ノーランがOppenheimerについての伝記を映画化しようという意図を明らかにしたのは、21年9月のことであるので、Oppenheimerの名誉回復のニュースを聞いて、彼は、改めて、自身の決断が正しかったものと確信したことであろう。
撮影監督は、Chr.ノーラン組のキャメラマンと言っていいオランダ人Hoyte van Hoytemaで、本作で米国アカデミー賞を受賞している。同賞の監督賞を今回初めて受賞したChr.ノーランは、本作にはいつものことながらIMAXキャメラを用いているが、上述したように、『Memento』(2000年作)と同様に、カラーと白黒を取り交ぜることで、映画の時間構造を明らかにしている。しかし、IMAXキャメラでは、彼自身が望む質の白黒の映像を撮ることが出来ないことから、映画素材としてKodak社に特注して65㎜白黒アナログ・フィルムを製造してもらったと言う。さすがに映像にこだわるChr.ノーランについての逸話であるが、彼ほどの大御所となると、一流会社も動かせるのは、さすがであるとしか言いようがない。
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