映画の冒頭に宣伝カーがうるさく流している歌謡曲は、舟木一夫の『高校三年生』という、1963年に大ヒットした曲である。これで、映画の頭から本作が、上映年度の前年をテーマとした作品であることが、当時の観ている人には分かる「現代劇」となっている。
さて、その宣伝カーが何を宣伝しているか。あるスーパーマーケットが、開店一周年記念に、「歯ブラシから農機具まで」の全品半額引きの大セールをやろうという宣伝である。農機具というから、このスーパーマーケット、どこかの地方の店舗らしい。(ウィキペディアによると、今は静岡市に合併されて存在していない清水市)
この派手な宣伝を、地元の個人商店の経営者たちは苦々しく聞いている。プロットが更に進むと、卵一個を11円で売っている食料品関係の個人商点経営者が、このスーパーマーケットに卵一個を5円で売られ、やれきれずに悲観して、妻と子供を残して首吊り自殺をしてしまうというところまで話しが展開する。
1963年と言えば、73年のオイル・ショックの10年前で、55年以来の、所謂「高度経済成長政策」が完全に軌道に乗った時期である。そして、それは、日本の経済復興と成長が実を結んだ証明となる第一回東京オリンピックの前年である。本作を観ながら、既にこの時期に、将来の、地方都市の商店街の「シャッター街」化現象が芽生えていたのであると痛感する。思えば、ここ約半世紀ほどに過ぎない間の、日本の地方経済の展開である。この地方のスーパーマーケットは、当時は恐らくは、まだしも地方の資本で経営されていたであろうが、その後は、この地方資本も中央の資本に飲み込まれていく。経済合理性を突き詰めるとこうなるのであろうが、この資本の原理に、安いものを求める「消費者」もまた、これに加担していることも認識しておくべきではないかと、筆者は本作を観ながら、思う。
という訳で、本作の批評からは大分逸れたが、本作の本題は、松山善三がオリジナル脚本を、1960年代の「コンビ」の成瀬巳喜男監督のために書いた、「悲劇」のメロドラマである。地方都市の酒屋に嫁いできた高峰秀子は、夫が戦死した後は、姑三益愛子にかしづきながら一人で店を切り回していた。小姑の草笛光子や白川由美は嫁に出ていっているところに、東京の大学を出て、就職を一応したのではあるが、そこの職場を辞めた義弟の加山雄三が、元恋人の浜美枝を残して、実家に戻ってくる。地元に進出してきたスーパーのこともあり、加山を経営者として酒屋自体をスーパーに切り替える話しさえも出てくる中、高峰は実家に戻ることを決心し、長年務めた森田家を後にすることにする。ここで、ストーリーは、一度に展開する。
一回り年齢が違う義理の姉を慕う義弟の情熱にほだされ、ストーリー上37歳の高峰は、「乱れる」。義弟の加山は、少々「大根」っぽいのであるが、それが逆に、この25歳の青年の一途さに、ある種の真実味を与えている。送っていくと言い、列車内で次第に高峰に近づいていく加山であり、一方、高峰は、加山に「男」を感じ、身を引こうと、自分の実家のある、山形県新庄市に列車で帰ろうとしていた。そこを、義弟に追いかけられて、途中下車をする。奥羽本線の途中にある大石田駅である。ここから、当時はバスで一時間も乗るのであろうか、大正ロマンを彷彿とさせる銀山温泉に二人は到着する。そして、五重塔の建物に両翼を付けて広めたような、この地の有名な旅館の、右隣の旅館に二人は泊まることになる。このシークエンスが、本作の山場となる。映画ラストの高峰の、クローズアップに堪える女優として力量が光るのが、成瀬監督作品の本作である。
2023年4月6日木曜日
2023年4月5日水曜日
秋立ちぬ(日本、1960年作)監督:成瀬 巳喜男
1951年作の『めし』で、成瀬は、自らの監督としての特長の「方程式」、すなわち、女性を主人公にした現代劇を、原作は女性作家のものとし、その脚本を女性脚本家に書かせて撮るというやり方を確立した。その「女性映画監督」としての成瀬は、60年代に入ると、松山善三脚本による、大人の女をテーマとした作品を撮りだす。『娘・妻・母』(60年作、脚本:松山、井出俊郎)、『妻として女として』(61年作 脚本:松山、井出)、『女の座』(62年作 脚本:松山、井出)などである。
そんな中、60年に撮られた『秋立ちぬ』は、子供の視点から撮られた成瀬作品として異色である。成瀬自身がプロデュースしている作品としても、彼の思い入れの程が推察できよう。原案は、東宝の専属脚本家笠原良三のオリジナルシナリオ『都会の子』により、成瀬自身がこれを翻案したと言う。
信州の田舎から東京に出てきた小学六年生秀男が主人公である。母親は、夫に死なれ、生活に困って、秀男を連れて、東京で新しい生活を営もうと、東京にいる自分の親戚を頼って、出てきたのである。母親は、自分は旅館の仕事を見つけて、旅館に住み込みで働くようになり、息子を親戚の許に置いたままにする。こうして、母親が働く旅館の娘、小学校四年生の順子と秀男は仲良くなる。母親に捨てられる秀男の孤独と、また、母親役の乙羽信子が、母親の責任を捨てて、男にすがらざるを得ない女の「弱さ」が、観ている者の胸を詰まらせる。
そんな中、60年に撮られた『秋立ちぬ』は、子供の視点から撮られた成瀬作品として異色である。成瀬自身がプロデュースしている作品としても、彼の思い入れの程が推察できよう。原案は、東宝の専属脚本家笠原良三のオリジナルシナリオ『都会の子』により、成瀬自身がこれを翻案したと言う。
信州の田舎から東京に出てきた小学六年生秀男が主人公である。母親は、夫に死なれ、生活に困って、秀男を連れて、東京で新しい生活を営もうと、東京にいる自分の親戚を頼って、出てきたのである。母親は、自分は旅館の仕事を見つけて、旅館に住み込みで働くようになり、息子を親戚の許に置いたままにする。こうして、母親が働く旅館の娘、小学校四年生の順子と秀男は仲良くなる。母親に捨てられる秀男の孤独と、また、母親役の乙羽信子が、母親の責任を捨てて、男にすがらざるを得ない女の「弱さ」が、観ている者の胸を詰まらせる。
銀座化粧(日本、1951年作)監督:成瀬 巳喜男
主人公雪子(田中絹代)が雇われマダムをやっている、西銀座にある「バア」の名前は「ベラミイ」である。「Bel Ami」は、フランス語で、「美しき男友達」の意であるが、映画でも言われている通り、フランスの自然主義文学作家Guy de Maupassantの小説である。美貌の、下層階級出の青年ジョルジュ・デュロアが、自分の美貌を使い、上流社会の女性たちを次から次へと「乗り換えて」、19世紀中頃のフランス社会で栄達する姿を描く、この小説の内容が本作のストーリーにどう絡むのかは、謎であるが、現実社会の厭らしさをあまり経験したことがないようである、東北か北陸の良家の「お坊っちゃん」が、このバーの名前を見て、すかさず、de Maupassantに思い当たり、「モパサン」と言う。de Maupassantは、普通は、日本語で「モーパッサン」と表記されていて、「モパサン」と言われると、最初は変な感じを受けるが、確かに言われてみると、「モパサン」の方が、より原語に近い。さらに、銀座のネオンサインの宣伝には、「モンパリ」や、広告には「Vogue」が登場するので、原作者は、フランス文学でも勉強したのではないかと想像して、調べると、その通りであった。原作者井上友一郎は、1930年代に早稲田大学で仏文科を卒業し、一時新聞記者になったりしながら、在学中からの文学活動を続け、戦後は、風俗作家となった人物である。本作の原作は、映画誌連載小説であったので、映画化がしやすかったのであろう。映画の中盤、主人公雪子が、ひょんなことから、田舎出の「坊っちゃん」に銀座を案内するシークエンスがある。1950年当時の銀座や、少し前に埋め立てられた三十間堀川、三原橋、真正な意味での「トルコ風呂」サウナを売り物にした、工事中の「東京温泉」の高層の建物が描かれ、当時の風俗資料を見るようで興味深い。
「終戦」は45年であるから、その5年後である。闇市が蔓延っていたのは、束の間であったのであろう。一様は、「戦後復興」が終わったかの感さえある。特需景気を促す朝鮮戦争が同じ50年に勃発する。日本の、西側諸国一部からの主権回復となるサンフランシスコ平和条約の締結はその一年後、つまり51年で、本作の上映年の年である。こんな時代であれ、主人公雪子が一人息子と住む、戦災にも焼け残ったという、新富芸者で有名な新富町にある借間は、長屋の一軒家にある。この頃未だ来ていた山手の「上客」が寄る繁華街たる、モダンな銀座と好対照をなす新富町である。東京生まれの、職人の息子、監督成瀬は、ここら辺の下町の雰囲気は肌身で感じていたのであろう。ストーリー展開の端々に、チンドン屋や紙芝居屋のシーンを挿入する。とりわけ、二回も出てくる紙芝居屋のシーンは、ファンファーレのような大きなトラペットを吹き鳴らし、その後ろに、ハーメルンの笛吹きよろしく、子供達を引き連れて歩く紙芝居屋の姿はユーモラスでもあり、印象的である。ここに、庶民の日常をさり気なく描く監督成瀬の思い入れが感じられる。
最初は偶然に入社した松竹蒲田撮影所では小道具係りであった成瀬は、約十年の下積み時代を過ごして、1930年に監督となる。まもなく若手監督として注目されるものの、松竹では不遇であり、34年に、東宝の前身であるPCLに移籍する。移籍後の作品『妻よ薔薇のやうに』(1935年)では批評家から高い評価を受け、『キネマ旬報』ベスト・ワンにも選ばれるが、この作品は「Kimiko」という英題で37年にニューヨークで上映された、USAで上映された日本映画の第一作目となる。第二次世界大戦下では、『鶴八鶴次郎』、『歌行燈』、『芝居道』など、いわゆる「芸道もの」を、溝口健二同様に、撮り、戦時体制への「協力」を最低限に抑えている。
終戦後は、自分が脚本を書いた作品を撮ったりしていたが、戦時中にプロパガンダ映画を大量に撮っていた東宝で、東宝争議が起こり、これにより東宝撮影所の機能が麻痺したことから、成瀬は、他の監督などとと共に東宝を離れ、「映画芸術協会」を設立し、フリーの立場で東宝、新東宝、松竹、大映などで監督する。本作は、この時期に成瀬が新東宝のために撮った作品となった。
成瀬巳喜男と言えば、今では、家庭映画の、女性映画の「巨匠」であると言われているが、家庭映画の「巨匠」と言えば、小津安二郎がいる。その意味では、成瀬もいた松竹に、二人の「小津」は必要なく、成瀬がPCL、後の東宝に移籍したのは、必然であった。成瀬は、東宝の「小津」になったのである。
一方、女性映画の「巨匠」と言えば、溝口健二がいる。男に翻弄される、女性としての「業」を背負った「女」を運命的に描かせれば、その右に出る者はいないと言われた溝口である。とりわけ、本作で主演を演じた田中絹代は溝口作品で有名になった女優である。
いわば、成瀬の監督としての立ち位置は、「小津」と「溝口」の間である。その間で、どうやって自らの「特長」を出していくのか。1950年には、成瀬の助監督を一時やっていた黒澤明が、『羅生門』で、ヴェネツィア国際映画祭で「金獅子」賞を取り、日本映画の存在を世界に知らしめたと同時に、黒澤は、「世界の黒澤」になっていた。
こういう中での本作である。「溝口組」の田中を使って、銀座の夜の世界を描いては、「溝口」スタイルと比較される。シングル・マザーとして、かつての旦那に金をせびられながら、一人息子を健気に育てる家庭劇とすれば、松竹・家庭劇の「小津」と比較される。そういう中途半端の立ち位置では、成瀬も立つ瀬がないであろう。
こういった自己の、監督としての存在意義をいかに見出すか、そんな模索の中で、本作と同年に撮られた作品『めし』が、成瀬が「第四の巨匠」となるべき道を開いてくれたのである。時代劇ではなく、現代劇を撮る。そして、女性を主人公にして撮る。原作は女性作家のものとし、その脚本を女性脚本家に書かせる。この「方程式」が成立した時に、成瀬の監督としての「特長」が顕在化したのである。
溝口が亡くなり、女性映画の「巨匠」として成瀬の定評が付く1960年代の、成瀬の脚本家は、主に松山善三となるが、それ以前、成瀬が自分で脚本を書いていない時の脚本家は、長らく東宝専属の脚本家として勤めていた井出俊郎である。それに対し、『めし』(1951年作)の原作者は、林芙美子であり、その原作を脚本化したのは、田中澄江である。こうして、林原作・成瀬監督による、文芸映画作品の第一弾が出来上がったのであり、この作品は、第25回キネマ旬報ベスト・テン第二位となる。この、林原作・田中脚本・成瀬監督のトリオは、さらに、『稲妻』(52年作)、『晩菊』(54年作)、『放浪記』(62年作)と続く。林芙美子の原作作品としては、これ以外に、『妻』(53年作、脚本:井出俊郎)、『浮雲』(55年作、脚本:水木洋子)がある。水木脚本の成瀬作品は、『浮雲』以外にもあり、注目すべき点であろう。本作の翌年に撮られた『おかあさん』(52年作、同じく新東宝)の脚本を書いているのが、水木洋子であり、この作品では、田中絹代が母親役、その娘が香川京子、そして、父親役が三島雅夫という点でも、本作と繋がりがある作品である。
余り目立たない点かもしれないが、本作『銀座化粧』での助演男優陣の良さは、特筆されてよいことであろう。戦前は羽振りがよく、戦後は時勢に乗り遅れた、かつての情人で、今は雪子に小銭をたかりにくる男・藤村役の三島雅夫、雪子が借り住まいする長唄の師匠杵屋佐久の夫・清吉役の柳永二郎、雪子に金を貸すことを口実に彼女に言い寄るスケベ親父・菅野役の東野英治郎、雪子目当てに杵屋に長唄を習いに来ている若い男・白井役の田中春男が中々いい。
「終戦」は45年であるから、その5年後である。闇市が蔓延っていたのは、束の間であったのであろう。一様は、「戦後復興」が終わったかの感さえある。特需景気を促す朝鮮戦争が同じ50年に勃発する。日本の、西側諸国一部からの主権回復となるサンフランシスコ平和条約の締結はその一年後、つまり51年で、本作の上映年の年である。こんな時代であれ、主人公雪子が一人息子と住む、戦災にも焼け残ったという、新富芸者で有名な新富町にある借間は、長屋の一軒家にある。この頃未だ来ていた山手の「上客」が寄る繁華街たる、モダンな銀座と好対照をなす新富町である。東京生まれの、職人の息子、監督成瀬は、ここら辺の下町の雰囲気は肌身で感じていたのであろう。ストーリー展開の端々に、チンドン屋や紙芝居屋のシーンを挿入する。とりわけ、二回も出てくる紙芝居屋のシーンは、ファンファーレのような大きなトラペットを吹き鳴らし、その後ろに、ハーメルンの笛吹きよろしく、子供達を引き連れて歩く紙芝居屋の姿はユーモラスでもあり、印象的である。ここに、庶民の日常をさり気なく描く監督成瀬の思い入れが感じられる。
最初は偶然に入社した松竹蒲田撮影所では小道具係りであった成瀬は、約十年の下積み時代を過ごして、1930年に監督となる。まもなく若手監督として注目されるものの、松竹では不遇であり、34年に、東宝の前身であるPCLに移籍する。移籍後の作品『妻よ薔薇のやうに』(1935年)では批評家から高い評価を受け、『キネマ旬報』ベスト・ワンにも選ばれるが、この作品は「Kimiko」という英題で37年にニューヨークで上映された、USAで上映された日本映画の第一作目となる。第二次世界大戦下では、『鶴八鶴次郎』、『歌行燈』、『芝居道』など、いわゆる「芸道もの」を、溝口健二同様に、撮り、戦時体制への「協力」を最低限に抑えている。
終戦後は、自分が脚本を書いた作品を撮ったりしていたが、戦時中にプロパガンダ映画を大量に撮っていた東宝で、東宝争議が起こり、これにより東宝撮影所の機能が麻痺したことから、成瀬は、他の監督などとと共に東宝を離れ、「映画芸術協会」を設立し、フリーの立場で東宝、新東宝、松竹、大映などで監督する。本作は、この時期に成瀬が新東宝のために撮った作品となった。
成瀬巳喜男と言えば、今では、家庭映画の、女性映画の「巨匠」であると言われているが、家庭映画の「巨匠」と言えば、小津安二郎がいる。その意味では、成瀬もいた松竹に、二人の「小津」は必要なく、成瀬がPCL、後の東宝に移籍したのは、必然であった。成瀬は、東宝の「小津」になったのである。
一方、女性映画の「巨匠」と言えば、溝口健二がいる。男に翻弄される、女性としての「業」を背負った「女」を運命的に描かせれば、その右に出る者はいないと言われた溝口である。とりわけ、本作で主演を演じた田中絹代は溝口作品で有名になった女優である。
いわば、成瀬の監督としての立ち位置は、「小津」と「溝口」の間である。その間で、どうやって自らの「特長」を出していくのか。1950年には、成瀬の助監督を一時やっていた黒澤明が、『羅生門』で、ヴェネツィア国際映画祭で「金獅子」賞を取り、日本映画の存在を世界に知らしめたと同時に、黒澤は、「世界の黒澤」になっていた。
こういう中での本作である。「溝口組」の田中を使って、銀座の夜の世界を描いては、「溝口」スタイルと比較される。シングル・マザーとして、かつての旦那に金をせびられながら、一人息子を健気に育てる家庭劇とすれば、松竹・家庭劇の「小津」と比較される。そういう中途半端の立ち位置では、成瀬も立つ瀬がないであろう。
こういった自己の、監督としての存在意義をいかに見出すか、そんな模索の中で、本作と同年に撮られた作品『めし』が、成瀬が「第四の巨匠」となるべき道を開いてくれたのである。時代劇ではなく、現代劇を撮る。そして、女性を主人公にして撮る。原作は女性作家のものとし、その脚本を女性脚本家に書かせる。この「方程式」が成立した時に、成瀬の監督としての「特長」が顕在化したのである。
溝口が亡くなり、女性映画の「巨匠」として成瀬の定評が付く1960年代の、成瀬の脚本家は、主に松山善三となるが、それ以前、成瀬が自分で脚本を書いていない時の脚本家は、長らく東宝専属の脚本家として勤めていた井出俊郎である。それに対し、『めし』(1951年作)の原作者は、林芙美子であり、その原作を脚本化したのは、田中澄江である。こうして、林原作・成瀬監督による、文芸映画作品の第一弾が出来上がったのであり、この作品は、第25回キネマ旬報ベスト・テン第二位となる。この、林原作・田中脚本・成瀬監督のトリオは、さらに、『稲妻』(52年作)、『晩菊』(54年作)、『放浪記』(62年作)と続く。林芙美子の原作作品としては、これ以外に、『妻』(53年作、脚本:井出俊郎)、『浮雲』(55年作、脚本:水木洋子)がある。水木脚本の成瀬作品は、『浮雲』以外にもあり、注目すべき点であろう。本作の翌年に撮られた『おかあさん』(52年作、同じく新東宝)の脚本を書いているのが、水木洋子であり、この作品では、田中絹代が母親役、その娘が香川京子、そして、父親役が三島雅夫という点でも、本作と繋がりがある作品である。
余り目立たない点かもしれないが、本作『銀座化粧』での助演男優陣の良さは、特筆されてよいことであろう。戦前は羽振りがよく、戦後は時勢に乗り遅れた、かつての情人で、今は雪子に小銭をたかりにくる男・藤村役の三島雅夫、雪子が借り住まいする長唄の師匠杵屋佐久の夫・清吉役の柳永二郎、雪子に金を貸すことを口実に彼女に言い寄るスケベ親父・菅野役の東野英治郎、雪子目当てに杵屋に長唄を習いに来ている若い男・白井役の田中春男が中々いい。
2023年3月24日金曜日
デモリションマン(USA、1993年作)監督:マルコ・ブランビア
まずはSF小説の古典的作品『すばらしき新世界』をお読みください。
出だしの「花火師」の大活躍する場面、映画最後の善玉・悪玉のショーダウンと、本作は、典型的なアクション・SF映画である。S.スタローンが主演であれば、その程度であるのは無理はないであるが、本作と製作同年の1993年には、A.シュワルツェネッガー主演の『ラスト・アクション・ヒーロー』も公開されており、これまた自己諧謔的なタッチは両作に共通していなくもない。実際、本作の中では、シュワルツェネッガーがアメリカ合衆国大統領になったと、元々オーストリア人の「アーニー」に「エール」を送っているのである。更に、作中、その性格適正からS.スタローン演じるところのジョン・スパルタンには編み物がお似合いであるというフモールにも、やはり苦笑いが抑えきれないのも確かである。
しかし、である。本作では、この映画のストーリーの背景となっている未来社会を描ききるまでの、最初の45分ぐらいまでが意外と興味深い。確かに、『スター・ウォーズ』や『ターミネーター』からのプロットの流用しているような部分もあるものの、完全管理社会体制によって「安定と平和」が維持されているユートピア社会の在り様に、何か古典的なSFの臭いがして、調べてみると、やはりストーリーの背景にはAldous Huxleyオルダス・ハクスリー作のディストピア小説『すばらしい新世界』があるという。(原作では、“Brave New World“だが、これはシェークスピアの『テンペスト』からの引用であるそうで、そうであるとすると、英語のbraveは、「勇敢なる」の意ではなく、「美しい」の意である。とすれば、せめて『すばらしき新世界』と訳したいところである。)
そこで、オリジナルの『すばらしき新世界』と本映画を比較とすると、意外と面白い一致が出てきた。
まずは、未だ有名になる前の女優サンドラ・ブロックが演ずるところのサン・アンゼルス市警の警部補「レニーナ・ハクスリー」の名前である。ここに一義的に「ハクスリー」の苗字が出ている。しかも、「Lenina レニーナ」も『すばらしき新世界』に出てくる女性主人公の名前であり、これは実は、Leninレーニンの女性形であるという。そして、『すばらしき新世界』に出てくる「野蛮人」の名前が「ジョン」で、これまた「ジョン・スパルタン」と一致するのである。
また、本作が設定されている時代は、2032年のアメリカということであるが、『すばらしき新世界』が発表されたのは、1932年であり、小説中の設定年代がフォード年632年と、小説中ではキリスト紀元ではなく、あの自動車王H.フォードが紀元の主になっているのである。さらに、胎児の出産に関しては、映画、小説ともに人工授精が基になったいるのも共通点であろう。
しかしながら、映画と小説の違いもまた存在する。特に、セックスに関しては、小説がグループ・セックスを取り上げているのに対して、映画ではバーチャル・セックスであり、これは、映画では、エイズを含む感染症を防ぐために身体同士が触れる行為が基本的に全て禁止されているからであった。それで、人は身体接触を避け、握手もせず、挙げた手を空中で接触せずに円を描くように回すという方法が取られている。キスや性行為は、「体液トランスファー」として忌み嫌われているのである。と、如何にも、優生学上、衛生的な世界が未来社会として本作の背景に描かれているのである。
以上、本作のストーリー構成には中々興味深いものがあり、この点、脚本家達Daniel Waters, Robert Reneau, Peter M. Lenkovらの三人の名前は明記してよいものであろう。まずはSFの古典的原作『すばらしき新世界』をお読みになることを衷心よりお奨めする。
そこで、オリジナルの『すばらしき新世界』と本映画を比較とすると、意外と面白い一致が出てきた。
まずは、未だ有名になる前の女優サンドラ・ブロックが演ずるところのサン・アンゼルス市警の警部補「レニーナ・ハクスリー」の名前である。ここに一義的に「ハクスリー」の苗字が出ている。しかも、「Lenina レニーナ」も『すばらしき新世界』に出てくる女性主人公の名前であり、これは実は、Leninレーニンの女性形であるという。そして、『すばらしき新世界』に出てくる「野蛮人」の名前が「ジョン」で、これまた「ジョン・スパルタン」と一致するのである。
また、本作が設定されている時代は、2032年のアメリカということであるが、『すばらしき新世界』が発表されたのは、1932年であり、小説中の設定年代がフォード年632年と、小説中ではキリスト紀元ではなく、あの自動車王H.フォードが紀元の主になっているのである。さらに、胎児の出産に関しては、映画、小説ともに人工授精が基になったいるのも共通点であろう。
しかしながら、映画と小説の違いもまた存在する。特に、セックスに関しては、小説がグループ・セックスを取り上げているのに対して、映画ではバーチャル・セックスであり、これは、映画では、エイズを含む感染症を防ぐために身体同士が触れる行為が基本的に全て禁止されているからであった。それで、人は身体接触を避け、握手もせず、挙げた手を空中で接触せずに円を描くように回すという方法が取られている。キスや性行為は、「体液トランスファー」として忌み嫌われているのである。と、如何にも、優生学上、衛生的な世界が未来社会として本作の背景に描かれているのである。
以上、本作のストーリー構成には中々興味深いものがあり、この点、脚本家達Daniel Waters, Robert Reneau, Peter M. Lenkovらの三人の名前は明記してよいものであろう。まずはSFの古典的原作『すばらしき新世界』をお読みになることを衷心よりお奨めする。
2023年3月14日火曜日
アメイジング スパイダーマン(USA、2012年作)監督:マーク・ウェブ
筆者は、何故か分からないが、監督Sam Raimeサム・レイミの『スパイダーマン』三部作(2002年–2007年)で、俳優Tobey Maguireトービー・マグワイアーによって体現された「スパイダー・マン」というキャラが好きではない。否、嫌いである。なぜなら、いつも正義が自分の側にあるという傲岸さが鼻に衝くからである。それは、USAが民主主義の旗持ちであることから、いつも正義の側に立てるのと同様であり、さらに別に日本史の文脈で言えば、官軍が、錦の御旗を掲げることで、その政治的正当性をいつも主張できるのと同様である。敢えて言えば、ピーターのメントール、即ち、精神的庇護者、アンクル・ベンがピーターに諭す格言「With great power comes great responsibility.(大いなるパワーには、大いなる責任が伴う)」もまた、USAの政治的道徳感にむしろ当てはまる。スーパー・パワー、超大国には、世界の「警察」としての責任があるとも読み替えることができるのである。因みに、この格言は、古代ギリシャ時代から似た格言があると言われるものであるが、遅くとも、フランスの啓蒙思想家ヴォルテールが成文化した格言である。
確かに、いじめられっ子の高校生のティーン・エイジャーが、蜘蛛に刺されたことにより超能力を持つようになり、次第に自分に対して自信を持っていくようになる、いわば、教養小説のプロセスは、それは、それなりに面白いのではあるが、悪に対して戦うことが自明の理であり、自己の持つ超能力を悪事に使おうとする誘惑には駆られることのない、そのような一元的な人間が日の当たる街道ばかりを突っ走る「直情さ」に、筆者は、何か胡散臭さと物足りなさを感じるのである。
それが、Marc Webbマーク・ウェブ監督の本作『アメイジング・スパイダーマン』(2012年作)で、Andrew Garfieldアンドリュー・ガーフィールが演ずるところPeter Parkerは、「正義の味方」の臭さが大分消えていて、好感が持てる。ここでは、彼は、頭脳明晰な、オタク的なアウトサイダーとして描かれており、「リブート」前の厭らしさもなくなって、意外とすんなりとガールフレンドGwen Stacyもできてしまうのである。(因みに、コミック世界では、Peterが最初に付き合ったのは、Betty Brandで、それに横恋慕して二人目のガールフレンドとなるのが、Liz Allanである。Gwenは、Peterの三人目のガールフレンドとなるが、映画『スパイダーマン』での、Peterの意中の人、MJことMary Janeは、Gwenの恋敵的存在である。)
最後に、Peterを演じる若い俳優ガーフィールドの脇を固める、二人の名優について述べておこう。まず、アンクル・ベンを演じるMartin Sheenは、知らない人がいないほど有名な俳優で、『地獄の黙示録』で主人公ウィラード大尉を1997年に演じている人物である。一方、メイ叔母さんを演じるところのSally Fieldである。彼女は、1979年の『Norma Raeのーマ・レイ』、1984年の『Places in the Heartプレイス・イン・ザ・ハート』で二度もアカデミー主演女優賞を受賞し、さらに、ゴールデン・グローブ賞でも二回、エミー賞では三回受賞した経験がある名女優である。
確かに、いじめられっ子の高校生のティーン・エイジャーが、蜘蛛に刺されたことにより超能力を持つようになり、次第に自分に対して自信を持っていくようになる、いわば、教養小説のプロセスは、それは、それなりに面白いのではあるが、悪に対して戦うことが自明の理であり、自己の持つ超能力を悪事に使おうとする誘惑には駆られることのない、そのような一元的な人間が日の当たる街道ばかりを突っ走る「直情さ」に、筆者は、何か胡散臭さと物足りなさを感じるのである。
それが、Marc Webbマーク・ウェブ監督の本作『アメイジング・スパイダーマン』(2012年作)で、Andrew Garfieldアンドリュー・ガーフィールが演ずるところPeter Parkerは、「正義の味方」の臭さが大分消えていて、好感が持てる。ここでは、彼は、頭脳明晰な、オタク的なアウトサイダーとして描かれており、「リブート」前の厭らしさもなくなって、意外とすんなりとガールフレンドGwen Stacyもできてしまうのである。(因みに、コミック世界では、Peterが最初に付き合ったのは、Betty Brandで、それに横恋慕して二人目のガールフレンドとなるのが、Liz Allanである。Gwenは、Peterの三人目のガールフレンドとなるが、映画『スパイダーマン』での、Peterの意中の人、MJことMary Janeは、Gwenの恋敵的存在である。)
最後に、Peterを演じる若い俳優ガーフィールドの脇を固める、二人の名優について述べておこう。まず、アンクル・ベンを演じるMartin Sheenは、知らない人がいないほど有名な俳優で、『地獄の黙示録』で主人公ウィラード大尉を1997年に演じている人物である。一方、メイ叔母さんを演じるところのSally Fieldである。彼女は、1979年の『Norma Raeのーマ・レイ』、1984年の『Places in the Heartプレイス・イン・ザ・ハート』で二度もアカデミー主演女優賞を受賞し、さらに、ゴールデン・グローブ賞でも二回、エミー賞では三回受賞した経験がある名女優である。
2023年3月8日水曜日
誰も知らない(日本、2004年作)監督:是枝 裕和
大都市東京で生き抜かれた少年時代への、これほどの詩的なオマージュが在り得るだろうか?
その、さり気無さが観ている者の心を何故か締め付ける。スーツケースをじっくりとさする長男、明の手。一番下の四歳になるゆきの好きなアポロ・チョコレート。或いは、長女の京子が酔っ払った母親にしてもらう紅いマニキュア。これらの、謂わば、演出上の「小道具」が、本作では実に上手く効いている。それは、いかにもそうでございます、と言うようなわざとらしさではない。そんな、是枝監督の、日常への観察眼と、ストーリーの優しい語り口が観る者の心を和ませてくれる。監督の子供たちへの慈しみの情愛が観る物の心を直に伝わってくる。
現実に起こった事件を題材にしながら、その現実の事件の残酷さを意図的に追及はしなかった是枝監督の「創造性」を、いつもはそんな甘い、調和主義的描写を許せない筆者は、本作を観ている内にいつの間にか許していた。自ら脚本も書き、制作者ともなり、そして撮ったフィルムの編集も行なった是枝監督。15年間も暖めていたという、ストーリーをゆっくりと時間をかけて練っていたことに、監督の本作に対する並々ならぬ、個人的な「こだわり」の強さを推察せずにはいられない。
この映画の「優しさ」は何処から生まれてくるのであろう。映画のかなり始めの方から、本作を観ながら、この疑問を自らに問いかけていた。そして、映画のほぼ終わり頃に、明が死んだゆきを羽田空港で埋めた後に乗って帰るモノレールが出てくるシーンで思った。川の上の架橋を画面の左下から右方向にモノレールが音もなく滑っていったシーンでである。それは、あたかも水の中を泳ぐ蛇か龍かの如くに。この時、筆者は何故か、こう悟ったのであった:本作は、東京のある下町の風景、完全に護岸工事された川べり、何処にでもありそうなありふれた公園、古そうな黒ずんだコンクリート製の階段、それらの何気ない平凡な日常の風景をすべて含めて、数切れない人間が住んでいながらも、お互い同士は殆どまるで関係のない他人である「都会たるジャングル」東京への、東京出身の是枝監督の、自分の少年時代へのオマージュなんであると。正に、このことからこそ、この作品のあの「優しさ」が滲み出ているのであると。
「優しさ」のもう一つの源泉は、是枝監督が子供たちに演技を強制していないことにある。ほとんど実際の家庭生活のような撮影環境を作り上げ、特に次男の茂とゆきには殆ど本当の兄や姉や、頼りないが優しい母親といるような錯覚を覚えさせたに違いない。二人の挙動が、実に自然であり、ここに監督の並々ならぬ力量を感じる。そして、母親役のYouは、それが恐らくは地なのであろう、演技ではない演技をしている。地が演技になっている、不思議な存在、それがYouという名前の女優なのであろうか。(このような人間の、いつも外に向けらた内面とは、どんな内面なのであろうか?それを思うと、何か怖い気がしないでもない訳であるが。)
一方、京子や明の方はどうか。精神年齢の発達の点から言うと、女子は男子より早い。だから、明より若干年下の京子は、一ヶ月留守にしたあと、久しぶりで帰ってきた母親の、偽りの心を素早く感じ取っていた。年上の明もまたそうであったが、母親に妹と弟を頼まれては、むしろ、その責任感に負われていた。そんな、12歳の男の子が、声変わりをし、中学生にもなれる年齢になって、次第に子供から、状況に強制されて早くも「大人」へと成長せざるを得ないところに置かれていく。そんな明の、変化の、揺らぐ機微を、半ば子供のままの無邪気さと半分大人の恥ずかしさをないまぜにした、表情の「カクテル」で描く効果が、観る者の目を明に惹きつける。時に素人風の演技と見えるところがまた、何となく初々しく感じられるのである。これは、ストーリーと、明の性格描写と、キャスティングの妙の、為せる技であったと言うべきであろう。
こうして、本作で描かれた子供たちの映画的世界。この世界の中で、子供たちは、親がその親権を行使することなしに放置されていた。しかし、「都会のジャングル」の中に放置されたことで、「誰も知らない」うちに、彼らは彼らの「自由」をも享受していたのでもある。これは、実は、そんな「幸福」な存在でもあったとも、言いたげな是枝監督の、この逆説的な語り口の上手さに、筆者は深くこうべを下げるものである。
その、さり気無さが観ている者の心を何故か締め付ける。スーツケースをじっくりとさする長男、明の手。一番下の四歳になるゆきの好きなアポロ・チョコレート。或いは、長女の京子が酔っ払った母親にしてもらう紅いマニキュア。これらの、謂わば、演出上の「小道具」が、本作では実に上手く効いている。それは、いかにもそうでございます、と言うようなわざとらしさではない。そんな、是枝監督の、日常への観察眼と、ストーリーの優しい語り口が観る者の心を和ませてくれる。監督の子供たちへの慈しみの情愛が観る物の心を直に伝わってくる。
現実に起こった事件を題材にしながら、その現実の事件の残酷さを意図的に追及はしなかった是枝監督の「創造性」を、いつもはそんな甘い、調和主義的描写を許せない筆者は、本作を観ている内にいつの間にか許していた。自ら脚本も書き、制作者ともなり、そして撮ったフィルムの編集も行なった是枝監督。15年間も暖めていたという、ストーリーをゆっくりと時間をかけて練っていたことに、監督の本作に対する並々ならぬ、個人的な「こだわり」の強さを推察せずにはいられない。
この映画の「優しさ」は何処から生まれてくるのであろう。映画のかなり始めの方から、本作を観ながら、この疑問を自らに問いかけていた。そして、映画のほぼ終わり頃に、明が死んだゆきを羽田空港で埋めた後に乗って帰るモノレールが出てくるシーンで思った。川の上の架橋を画面の左下から右方向にモノレールが音もなく滑っていったシーンでである。それは、あたかも水の中を泳ぐ蛇か龍かの如くに。この時、筆者は何故か、こう悟ったのであった:本作は、東京のある下町の風景、完全に護岸工事された川べり、何処にでもありそうなありふれた公園、古そうな黒ずんだコンクリート製の階段、それらの何気ない平凡な日常の風景をすべて含めて、数切れない人間が住んでいながらも、お互い同士は殆どまるで関係のない他人である「都会たるジャングル」東京への、東京出身の是枝監督の、自分の少年時代へのオマージュなんであると。正に、このことからこそ、この作品のあの「優しさ」が滲み出ているのであると。
「優しさ」のもう一つの源泉は、是枝監督が子供たちに演技を強制していないことにある。ほとんど実際の家庭生活のような撮影環境を作り上げ、特に次男の茂とゆきには殆ど本当の兄や姉や、頼りないが優しい母親といるような錯覚を覚えさせたに違いない。二人の挙動が、実に自然であり、ここに監督の並々ならぬ力量を感じる。そして、母親役のYouは、それが恐らくは地なのであろう、演技ではない演技をしている。地が演技になっている、不思議な存在、それがYouという名前の女優なのであろうか。(このような人間の、いつも外に向けらた内面とは、どんな内面なのであろうか?それを思うと、何か怖い気がしないでもない訳であるが。)
一方、京子や明の方はどうか。精神年齢の発達の点から言うと、女子は男子より早い。だから、明より若干年下の京子は、一ヶ月留守にしたあと、久しぶりで帰ってきた母親の、偽りの心を素早く感じ取っていた。年上の明もまたそうであったが、母親に妹と弟を頼まれては、むしろ、その責任感に負われていた。そんな、12歳の男の子が、声変わりをし、中学生にもなれる年齢になって、次第に子供から、状況に強制されて早くも「大人」へと成長せざるを得ないところに置かれていく。そんな明の、変化の、揺らぐ機微を、半ば子供のままの無邪気さと半分大人の恥ずかしさをないまぜにした、表情の「カクテル」で描く効果が、観る者の目を明に惹きつける。時に素人風の演技と見えるところがまた、何となく初々しく感じられるのである。これは、ストーリーと、明の性格描写と、キャスティングの妙の、為せる技であったと言うべきであろう。
こうして、本作で描かれた子供たちの映画的世界。この世界の中で、子供たちは、親がその親権を行使することなしに放置されていた。しかし、「都会のジャングル」の中に放置されたことで、「誰も知らない」うちに、彼らは彼らの「自由」をも享受していたのでもある。これは、実は、そんな「幸福」な存在でもあったとも、言いたげな是枝監督の、この逆説的な語り口の上手さに、筆者は深くこうべを下げるものである。
2023年3月3日金曜日
スターシップ・トゥルーパーズ(USA、1997年作)監督:パウル・ヴェアフヴァン
オランダ人監督のPaul Verhouvenパウル・ヴェアフヴァンは、あるインターヴューで、原作は詰まらなかったので、最初の二章ぐらいしか読んでない旨、答えている。それ故、本作のストーリーが原作にどれだけ忠実なのかは、比較しても意味がないのであるが、それでも、原作の作者が、Robert A. Heinleinローバート A. ハインラインであれば、1959年に発表された、この軍事SF「二等兵物語」がどんな内容なのかを知っておいて損はないはずである。
実際に原作を読めばいいのではあるが、手許にないので、ウィキペディアでその粗筋を調べてみると、意外とそれが、時事性を含み、面白い。ウィキペディアの一部を引こう:
「21世紀初頭、増加する犯罪と政府の非効率に対して寛大すぎた西側諸国は荒廃し、加えて1987年に始まった覇権主義的な中国に対するアメリカ合衆国とイギリスとロシアの連合の大戦争で地上は破壊されたあげく、2130年に中国に敗北した連合国は一方的な捕虜解放など屈辱的な講和条約を締結させられ、終戦後の米英露は無政府状態となって秩序は崩壊した。混乱する地球社会においてスコットランドで自警団を立ち上げた退役兵たちは事態を収拾し、その後、新たに誕生した地球連邦では軍事政権によりユートピア社会が築かれていた。」
1959年という、冷戦真っただ中の状況で、USAとロシアが同盟するというのは当時は奇想天外な予想であったであろう。今のウクライナ戦争を思えば、ハインラインの予想は確かに外れたの感があるが、1987年と言えば、現実の冷戦時代が終局を迎える2年前であり、ゴルバチョフの下、ロシアのポスト共産主義社会が順調に発展していれば、USAとロシアの協調は、全く予想外な絵空事ではないと言えた段階ではなかったろうか。更に、台湾有事が殊更に強調される、現在の米中対立は、中国建国10年後の1959年の段階では、正に予想だにしなかった事であり、さすがは、SF作家のハインラインの「鋭さ」には、脱帽するものである。
それでは、そのハインラインが描くところのユートピア社会とはどんな社会であるかと言うと、人種差別、ジェンダー不平等などない平等な社会で、ただ、選挙による参政権について、軍歴があるかないかでの違いがあるだけである。この違いによって、人々は、真正な意味での「有権者市民」と「無選挙権市民」に分かれる。古代ギリシャの「ポリス」を形成した「市民」は、自作農であり、同時に、重装歩兵でもあった。故に、原作には、ポリスを形成する「武装する市民」のイメージが根底にある。この理想を説くのが、フィリピンのタガログ語を母語とする主人公Juan Ricoホワァン=リコの恩師Duboisデュボアで、彼の担当科目が「歴史と道徳哲学」なのである。そして、デュボアは、地球連邦軍機動歩兵部隊退役大佐である。
このような軍事国家は、宇宙からの外敵に対する「防衛戦争」を戦うという場合は、その正当性を保持できるのであるが、それがなく、単なる支配機構になる時には、このような軍事国家は、全体主義化、ファシズム化、最近の用語としては、「権威主義国家化」する。この危険な傾向は、映画のストーリーで面白可笑しく「茶化されて」、「噴出」している。(その茶化しを茶化しと捉えずに、そのままに捉えて、本作の「ファシズム性」に感動している、一部の人間たちもいないことはないのであるが。)
一般兵卒Troopersの命を何とも思わない過激なスプラッター描写で風刺化されてはいるのであるが、旧帝国陸軍歩兵の万歳突撃を厭わないようなTroopers小隊に組織されている、Spaceship宇宙戦艦に乗り組んだ「宇宙海兵隊員」たちは、軍国主義体制イデオロギーを不思議とも思わない。ビッグ・ブラザー並みのメディア通信は、ナチスのプロパガンダを思わせて、常に市民にTrooperになることを呼び掛けている。その呼び掛けに応えるように、高校生リコとその友人たちは、軍隊に入隊する。リコの同窓生のカールは、リコが下士官程度で何とかやっているのに比べて、軍事情報部でとんとん拍子に昇進して大佐になっている。その軍事情報部のユニファームが、また、ナチスの、黒皮のロング・コートの、秘密警察ゲシュタポの、あのユニフォームなのである。
このように、あちこちに風刺と皮肉が入れてある本作のストーリーとプロットは、監督のVerhouvenと、アメリカ人脚本家のEdward Neumeierノイマイヤーの功績であろう。この二人は既に、同じくSFデストピア映画『ロボ・コップ』(1987年作)でチームを組んだ仲であり、この作品『ロボ・コップ』で、翌年のサターン賞で、作品・脚本賞を取っている。因みに、本作と『ロボ・コップ』並びに『トータル・リコール』(1990年作)を以って、監督VerhouvenのSF・B級三部作を形成している。
実際に原作を読めばいいのではあるが、手許にないので、ウィキペディアでその粗筋を調べてみると、意外とそれが、時事性を含み、面白い。ウィキペディアの一部を引こう:
「21世紀初頭、増加する犯罪と政府の非効率に対して寛大すぎた西側諸国は荒廃し、加えて1987年に始まった覇権主義的な中国に対するアメリカ合衆国とイギリスとロシアの連合の大戦争で地上は破壊されたあげく、2130年に中国に敗北した連合国は一方的な捕虜解放など屈辱的な講和条約を締結させられ、終戦後の米英露は無政府状態となって秩序は崩壊した。混乱する地球社会においてスコットランドで自警団を立ち上げた退役兵たちは事態を収拾し、その後、新たに誕生した地球連邦では軍事政権によりユートピア社会が築かれていた。」
1959年という、冷戦真っただ中の状況で、USAとロシアが同盟するというのは当時は奇想天外な予想であったであろう。今のウクライナ戦争を思えば、ハインラインの予想は確かに外れたの感があるが、1987年と言えば、現実の冷戦時代が終局を迎える2年前であり、ゴルバチョフの下、ロシアのポスト共産主義社会が順調に発展していれば、USAとロシアの協調は、全く予想外な絵空事ではないと言えた段階ではなかったろうか。更に、台湾有事が殊更に強調される、現在の米中対立は、中国建国10年後の1959年の段階では、正に予想だにしなかった事であり、さすがは、SF作家のハインラインの「鋭さ」には、脱帽するものである。
それでは、そのハインラインが描くところのユートピア社会とはどんな社会であるかと言うと、人種差別、ジェンダー不平等などない平等な社会で、ただ、選挙による参政権について、軍歴があるかないかでの違いがあるだけである。この違いによって、人々は、真正な意味での「有権者市民」と「無選挙権市民」に分かれる。古代ギリシャの「ポリス」を形成した「市民」は、自作農であり、同時に、重装歩兵でもあった。故に、原作には、ポリスを形成する「武装する市民」のイメージが根底にある。この理想を説くのが、フィリピンのタガログ語を母語とする主人公Juan Ricoホワァン=リコの恩師Duboisデュボアで、彼の担当科目が「歴史と道徳哲学」なのである。そして、デュボアは、地球連邦軍機動歩兵部隊退役大佐である。
このような軍事国家は、宇宙からの外敵に対する「防衛戦争」を戦うという場合は、その正当性を保持できるのであるが、それがなく、単なる支配機構になる時には、このような軍事国家は、全体主義化、ファシズム化、最近の用語としては、「権威主義国家化」する。この危険な傾向は、映画のストーリーで面白可笑しく「茶化されて」、「噴出」している。(その茶化しを茶化しと捉えずに、そのままに捉えて、本作の「ファシズム性」に感動している、一部の人間たちもいないことはないのであるが。)
一般兵卒Troopersの命を何とも思わない過激なスプラッター描写で風刺化されてはいるのであるが、旧帝国陸軍歩兵の万歳突撃を厭わないようなTroopers小隊に組織されている、Spaceship宇宙戦艦に乗り組んだ「宇宙海兵隊員」たちは、軍国主義体制イデオロギーを不思議とも思わない。ビッグ・ブラザー並みのメディア通信は、ナチスのプロパガンダを思わせて、常に市民にTrooperになることを呼び掛けている。その呼び掛けに応えるように、高校生リコとその友人たちは、軍隊に入隊する。リコの同窓生のカールは、リコが下士官程度で何とかやっているのに比べて、軍事情報部でとんとん拍子に昇進して大佐になっている。その軍事情報部のユニファームが、また、ナチスの、黒皮のロング・コートの、秘密警察ゲシュタポの、あのユニフォームなのである。
このように、あちこちに風刺と皮肉が入れてある本作のストーリーとプロットは、監督のVerhouvenと、アメリカ人脚本家のEdward Neumeierノイマイヤーの功績であろう。この二人は既に、同じくSFデストピア映画『ロボ・コップ』(1987年作)でチームを組んだ仲であり、この作品『ロボ・コップ』で、翌年のサターン賞で、作品・脚本賞を取っている。因みに、本作と『ロボ・コップ』並びに『トータル・リコール』(1990年作)を以って、監督VerhouvenのSF・B級三部作を形成している。
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