2023年7月3日月曜日

秒速5センチメートル(日本、2007年作)監督:新海 誠

 2007年作の本作は、SF味を無くした『ほしのこえ』(2002年作)であり、恋の物語りとしての『言の葉の庭』(2013年作)への展開の前提となる作品と位置づけられる。

 本作は、オムニバス形式で、三つの短編からなっており、合計で67分である。一本20分程度の長さの短編アニメを、一つのテーマ「別離」でまとめたものである。『ほしのこえ』も、同様のテーマであり、また25分の短編であった。

 ストーリーのセッティングとしては、小学校から中一年生にかけた男女生徒の、出逢いと離別から本作は始まる。年齢の割には「大人」である二人の精神発達のレベルを、少々訝しく思いながらも観る筆者にとってさえ、本作の第一話「桜花抄」は、鉄道の旅も含めて、浪漫的であり、雪景色の中での櫻の木の下でのシーンは、主人公の年齢を無視すれば、一幅の「絵」でさえ、あり得る。

 ゆえに、第一話での年齢を引き上げて、両者を高校三年生としてはいかがであろうか。より現実味が増すと思われる。それに合わせて、第二話「コスモナウト」は、大学での片思いのストーリーとしよう。一途に主人公を想う澄田花苗(かなえ)の、みずみずしさと痛々しさは、女子大学生の年齢でも十分に表現できるはずである。

 第三話の、櫻の花が地上に落下する速度を表すという題名の「秒速5センチメートル」でのセッティングは、原作同様の、主人公が社会人となっているものでそのまま行けるはずである。同様に、主人公と三年も付き合っていて、それでも、「1000回にわたるメールのやり取りをしたとしても、心は1センチほどしか近づけなかった」水野理沙の切なさと無残さは、主人公の、第一話での、初期体験の「初恋」の想い入れを強調するためだけの役割を持つとしても、本作を観る者にとっては、極めて印象に残るプロットである。

 さて、新海アニメのストーリー展開には、「喪失感」の契機が大きな役割を演じていることに注目すべきであろう。それは、つまり、男女の出逢い、別れ、そして、その喪失感に由来する「想い」の強烈さである。この契機は、新海がアニメ作家としてアニメ界で有名になった、2002年の、ほぼ自作自演の短編アニメ『ほしのこえ』以来、『言の葉の庭』までの新海アニメに、はっきりと通底するものである。そして、物語りの語りの視点は、基本的に男性、否、男子である。この傾向が違ってくるのが、『言の葉の庭』後の、『君の名は。』(2016年作)以降である。ゆえに、『君の名は。』以降を以って、新海アニメ・ワールドは、第二段階に入ったと言えるであろう。

 という訳で、『君の名は。』以降、制作形態も変わっているのであるが、本作での制作形態は、新海をアニメ界で有名にした『ほしのこえ』と同様で、無声映画期のチャップリンを思わせる「ワンマンショー」ぶりである。監督、脚本は当然として、メディア・ミックスということで原作も書き、絵コンテならぬ「ヴィデオ・コンテ」を精密に描きあげる。

 本作では、さすがにキャラクターデザインと作画監督には、他のアニメーターを持ってきてはいるが、演出は新海であり、新海アニメの「肝」となるべき、フォト・リアリズム・アニメに肝要な、色彩設計、また、とりわけ光効果に大事である撮影のパート、そして、編集(本作では共作)は、新海が担当している。このことを以って、正に、新海が「アニメ作家」たりと呼べる理由である。

2023年7月2日日曜日

君の名は。(日本、2016年作)監督:新海 誠

 46分の長さの中編アニメ『言の葉の庭』(2013年作)で「大人のアニメ」への展開を予想させた新海アニメ・ワールドは、次の三年後の長編アニメ『君の名は。』で方向を変える。神道主義者になった新海は、それ以降の『天気の子』(2019年作)と、2022年作の『すずめの戸締り』に繋がる、一つの制作定式を見つけた出したのである。

 つまり、本作『君の名は。』には、ストーリー展開において四つの特徴がある。

1.日本的民俗の要素、ここでは神社をストーリーに取り入れる。
2.ストーリーを基本的にファンタジーとする。
3.主人公を中学生・高校生とする。
4.女子生徒には、特殊な能力を持たせる。

 高校二年生の「三葉(みつは)」は、岐阜県飛騨地方にある神社の巫女である。祖母が一葉、母が二葉、妹が四葉と、世代が繋がっており、父親は、民俗学者である。『言の葉の庭』で万葉集をテーマとした新海は、日本古代を改めて「発見」したのである。それゆえに、「お神酒」でもある「口噛み酒」が本作でも重要な役割の演ずる。「口噛み酒」は、処女が噛んだ酒米でなければならないのである。

 主人公の三葉は、自ら望んだ訳ではないが、東京にいる、同じく高校二年生の立花瀧と体を「入れ替える」ことが出来るのである。物語りの展開に従って、それが、実は、空間だけではなく、時間軸においても「ずれ」が生じていたことが分かるのであるが、この時空間での「ズレ」というテーマは、新海は、2002年に彼が殆んど自作自演で制作したSF短編アニメ『ほしのこえ』で扱っていたものである。

 一方、もう一人の主人公・立花瀧は、女子の身体に入れ替えることが出来て、「興奮」する。実は、本作の題名は、企画書の段階では、『夢と知りせば―男女とりかえばや物語』であったと言う。つまりは、日本文学を大学で勉学した新海は、ストーリーを日本の古典から採ってきて、男児を「姫君」として、そして女児を「若君」として育てる、平安時代の『とりかへばや物語』を想定し、これにさらに、「絶世の美女」たる小野小町の和歌「思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ 夢と知りせば 覚めざらましを」(古今和歌集)を設定に取り込んだのであると言う。蓋し、妙案である。こうして、新海ファンタジー・ワールドは成立したのである。

 しかも、立花瀧がアルバイトをしているイタリア・レストランは「IL GIARDINO DELLE PAROLE」という。イタリア語を訳して、「言葉の庭」、つまりは、新海はここで前作の『言の葉の庭』と本作を繋げているのである。三葉が通う高校の古典の教員が「ユキちゃん先生」であるのも、新海の、『言の葉の庭』から採った「冗談」である。

 さらに、前作との関りから言うと、ラスト・シーンは、2007年の自身作『秒速5センチメートル』からの「パクリ」である。2022月4月に瀧と三葉は東京で偶然に再会するのであるが、それは、桜が満開の雨上がりの朝であった。

 さて、最後に、本作の題名を書く時には、句点を忘れてはならない。忘れてしまっては、それは、1950年代のラジオ・連続メロドラマ、そして、同名の、岸恵子主演の映画作品(1953年作)の題名と同じになってしまうからである。

 因みに、個人的には余り好みではないファンタジー・アニメの本作が成功した一つの要因は、アニメーター・安藤雅司が本作に作画監督として関わったことである。彼は、宮崎駿監督の『もののけ姫』と『千と千尋の神隠し』で、また、今敏監督の『パプリカ』で作画監督を務めた名アニメーターである。ここに敢えて彼の名前を記し、宮崎と新海のアニメ制作上の繋がりを強調しておきたい。

2023年7月1日土曜日

すずめの戸締り(日本、2022年作) 監督:新海 誠

 中編アニメ『言の葉の庭』(2013年作)で大人のアニメへの展開を予想させた新海アニメ・ワールドは、次の、長編アニメ『君の名は。』(2016年作)以降、『天気の子』(2019年作)を経て、本作(2022年作)へと三年毎に作品が発表され、『言の葉の庭』とは別の歩を辿る。『君の名は。』以降の、その展開を鑑みると、そこに一つの制作定式を新海が見つけたのではないかと筆者には思われる。

 つまり、『言の葉の庭』で見せた、リアリティーのあるストーリー性を離れて、ストーリーを基本的にファンタジーとする。その際、日本的民俗の要素をストーリーに取り入れる。主人公は、中学生・高校生とする。女子生徒には、ファンタジーでもあり、宮崎駿アニメ・ワールド並みに特殊の能力を持たせる。以上、新海がこのような制作定式を立てたと類推すると、上述の長編アニメ三作は、理解しやすくなるのではないか。

 という訳で、この制作定式を本作に当てはめると、どうなるか。

1.ファンジー性:現実世界、つまり現世(うつしよ)と常世(とこよ)が、扉・後ろ戸によって結ばれており、主人公たちはこの扉を通じて、二つの世界を行き来することが出来る。

2.日本的民俗:常世の概念自体が民俗的、ないしは、神道的世界の、「あの世」の理解であると共に、すずめの苗字が「岩戸」であり、しかも、すずめが叔母といっしょに育った場所が宮崎県である。岩戸と宮崎と言えば、「天の岩戸」が宮崎県にあったという日本神話の代表的な、女神天照大神の伝説である。

3.主人公は、すずめという、高校二年の女子生徒である。

4.すずめには、常世に繋がる「扉」を見つけ出すことできる、特殊な能力がある。

 何れにしても、本作では、前作二作に較べて、ファンタジー物語の恣意性が少なく、構造化されており、映画終盤における、日常の挨拶語「いってきます」と「お帰り」に込められたメッセージ性がはっきりしていて、好感が持てる。

 以上のように見てみると、本作のストーリー展開の構造がはっきり分かるのであるが、これに、宮崎県から目的地の岩手県宮古までロード・ムーヴィーの道筋が加わることにより、本作は、物語り展開がしっかり構造付けられている。

 ここから、同様に、そのルートが、なぜ神戸、東京、宮古という箇所を通るのかも容易に想像できる。つまり、この三カ所は、それぞれの大震災の被災地としての共通性があるからである。しかも、物語りの時間帯が、2023年ということであれば、関東大震災から丁度100年目の節目に当たる年である。その意味で、本作は、かなり考え抜かれたストーリー構成になっていると言えるのではないか。

 さて、ファンタジーには「悪の力」は、必須の存在であり、本作でもそれは、「ミミズ」となっている。その映画での形も、みみず、或いは、「目見えず」からくる名称「めめず」を巨大化させたものが青黒く描かれており、この名称が、本作における「悪の力」の形象化に大いに役立ったものと推察されるが、筆者個人には、ミミズが、「悪の力」の権化あることに、少なからず抵抗感があった。なぜなら、土壌の性質を肥沃なものにしていく上で、ミミズは欠かせない「益虫」であるからである。ウィキペディアは言う:

 「ミミズは土を食べ、そこに含まれる有機物や微生物、小動物を消化吸収した上で粒状の糞として[これを]排泄する。それによって、土壌形成の上では、特に植物の生育に適した、[単粒構造に対して、排水性ないしは保水性に優れた]団粒構造の形成に大きな役割を果たしている。そのため、[ミミズは、]農業では一般に益虫として扱われ、土壌改良のために利用される。表層性ミミズよりも土中性ミミズの方が土壌改良効果が高いとされる。」

 という訳で、筆者にとっては、「悪の力」をもっと無機質的なものにイメージして欲しかったのであるが、このミミズの悪のイメージは、ものの本によると、新海は、村上春樹が阪神淡路大震災後に書いた、短編『かえるくん、東京を救う』からインスピレーションを受けていると言うので、この非難は、むしろ、村上に向けるべきなのであろう。

2023年6月30日金曜日

言の葉の庭(日本、2013年作) 監督:新海 誠

 恋の物語りとしてのセッティングとしては、大人びた高校一年の男子生徒と、同じ高校で古文を担当する、27歳の女性教員という取り合わせは、余りに無理があるのではないか。

 その違和感を抑え込むために、筆者は、主人公の年齢を無視して本作を観ていた。ゆえに、男子生徒は、せめて高校三年生とし、相手方は、23か24歳の、他の高校の古文の新米教員として欲しいところである。であれば、現実味も増すのではないか。或いは、日本社会では、こんな現実味のある関係は、むしろ拒否されるのであろうか。であれば、こんな関係を描きたいためには、新海は、逆手を取って、むしろ現実味のない関係をセッティングしたのであろうか。

 一方、主人公・秋月孝雄の回りの人間模様も興味深い。母親は、47歳の大学職員で、離婚経験者である。若作りにして、一回りも年齢の若い恋人を持っていると言う。26歳の兄は、恋人と同棲するために家を出ていくと言う。保守的倫理観の持ち主からは、母親が「だらしない」から、息子も「だらしない」結婚観を持っているのであると言われかねない、主人公孝雄の家庭環境である。であれば、孝雄自身が、自分の「恩師」に血道を上げるのも無理からぬことと、保守主義者はのたまうかもしれないが、こういう倫理的・道徳的摩擦もストーリーの中に取り込んだ新海の「勇気」を応援するものである。筆者は、単なる男女の陸み事に終わらせず、ストーリーに社会性を持たせるストーリーの書きぶりに共感する。

 さて、新海アニメのストーリー展開には、一つの特徴がある。それは、つまり、男女の出逢い、別れ、そして、その喪失感に由来する、離別の遠くからの「想い」の独白である。この特徴は、彼がアニメ作家としてアニメ界で有名になった、2002年の、ほぼ自作自演の短編アニメ『ほしのこえ』以来、新海アニメに通底するものである。ゆえに、本作でも、両主人公は、ストーリーの終盤になると、東京と四国に別れて住みながらも、手紙を通じて繋がりを保ち続けるという展開となる。その意味で、出逢い、別れ、そして、別離の中での繋がりの三位一体が、新海アニメの特徴なのである。

 さらに、本作では、このストーリー展開の特徴に、和歌が重要な媒体となって加わっている点が「ミソ」である。この点において、さすがは大学で日本文学を勉学した新海の教養が大事な土台となっていると言えるであろう。調べたところによると、本作に登場するのは、万葉集からの、詠み人知らずの、一連二首の問答歌であるという。

 物語りの比較的最初に、古文の教諭は、初めて孝雄に遇った、梅雨入り前の雨が降る新宿御苑で、孝雄との別れ際に、謎のような和歌を一首詠む:

 雷神の 少し響みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ

 (なるかみの しまし とよみて さしくもり あめもふらぬか きみをとどめん)

一夜をいっしょに過ごした女が、相手を返したくないので、雷が鳴るのを聞いて、雨が降ってほしいと願う歌である。高校生に贈る歌としては、かなり思わせぶりの歌である。

 問答歌であるから、今度は、贈られた歌には返歌がなければならない。それゆえ、贈られた当人である孝雄は、映画の中盤に次のような歌を返す:

 雷神の 少し響みて 降らずとも 吾は留まらむ 妹し留めば

 (なるかみの しまし とよみて ふらずとも われはとどまらん いもしとどめば)

返歌なので、歌の始めが最初の歌と共通になっているのは仕方がないにしても、相手の女性が、「君を留めむ」と言っているのに、「妹し留めば」と言っているのは、少々野暮であろう。但し、この歌を本作の文脈にはめ込めば、この返歌を詠っているのは、「うぶな」男子高校生であり、この歌の稚拙さは、肯けなくもない。

 とは言え、題名を『言の葉の庭』し、そのストーリーに『万葉集』からの恋歌を引いたのは、蓋し、ハイセンスの思い付きであろう。本作は、「大人の」アニメとして堪能したいものである。

2023年6月29日木曜日

天気の子(日本、2019年作)監督:新海 誠

 新海アニメ・ワールドの一つの特徴は、それが写真ではないかと、もう一度目を凝らす、写実的なアニメーション作画の精緻さである。それは、自然の風景や都市景観によく表現されるのであるが、この効果は、雨が降った後に太陽が差し込んでくる時の、刻一刻と変化する光彩の変化がアニメーション作画に付け加えられることにより、さらに強められる。ゆえに、新海は、ストーリー作りにおいて、「雨男」であると同時に、「晴れ男」でもあり、雨と、雲間から晴れだす太陽光は、お互いに「必要・十分条件」なのである。

 こうして、本作では、雨が降り続ける東京という、新海にとって絶好のセッティングが取られる。そして、これと、「晴れ女ならぬ晴れ女の子」がタッグを組めば、正に「最強」である。

 天気が晴れますようにという「願い」を考えると、人はすぐにでも「てるてる坊主」のことに思い至る。そして、ウィキペディアによると、さらに、この「照り照り坊主」の元ネタには、ある中国伝説があると言う。ウィキペディアは言う:

 「[当時の首都]北京には、頭が良く、切り紙が得意な美しい娘、晴娘[チンニャン]がいた。ある年の六月[日本であれば梅雨の時期]、北京に大雨が降り[続き]、水害となった。北京の人々はこぞって雨が止むよう、天に向かって祈願をし、晴娘も祈りを捧げた。すると、天から、晴娘が[四海龍王の内、尤も広大な領土を持つ]東海龍王の妃になるなら雨を止ませてやろうという声が聞こえた。街の人々を救うと誓った晴娘が頷き、同意すると、雨は止み、その瞬間に風が吹き、晴娘は消えた。その後、晴娘の姿は見つからず、空は晴れ渡った。以来、北京の人々は皆、雨が続くと、晴娘を偲んで切り紙で作られた人形を門[の左側]に掛けるようになった。」 というのである。(中国書の『帝京景物略』などに拠る。)

 これが、「掃晴娘(さおちんにゃん)」の伝説である。「掃」の字が最初に来るのは、晴娘に、雨雲を掃いて晴天にするための箒を持たせるためである。何れにしても、この伝説は、正に人身御供の話しであるが、これに、田舎から東京に家出をしてきた高校一年生の視点を加えることで、アニメ制作のターゲットとする年齢層を少々低くしたのが、今回の新海アニメのストーリー・セッティングである。大人びた高校一年の男子生徒と、古文を担当する女性元教員との関係を描いた『言の葉の庭』のセッティングに較べると、年齢が低くなった分、ストーリーがシンプルになり過ぎたのが、如何せん、気になるのが本作の出来であろう。

 しかも、気候変動をテーマにしている本作のストーリーにおいて、そのままにしていれば、東京は水没するというメッセージは、メッセージ性としては、筆者には弱すぎる。フライデー・フォア・フューチャー運動や「ラスト・ジェネレーション」という過激派さえもが生まれ出ている、今の時代を鑑みると、この不満感は余計に強まるのである。

2023年6月2日金曜日

昼下りの情事(USA、1957年作)監督:ビリー・ワイルダー

 本作は、果たして、「コメディー」なのか、或いは、コメディーであるとして、成功しているであろうか。喜劇は、悲劇を演ずるよりも、格段に難しいことを念頭に入れても、本作には、笑える部分がいくらかはあるにはあるが、観客を笑わせようとする意図が見え過ぎて、笑うに笑えないシーンがいくつかあったことも否めず、本作は、コメディーのジャンルを専門とするB.ワイルダー監督の手になるにしても、コメディーとしては成功していないように、筆者には、思われる。

 B.ワイルダー監督がA.ヘップバーンと共作して1954年に上映された作品『Sabrina:麗しのサブリナ』を人は誰も「ラブ・コメディー」とは呼ばないであろう。精々は「ロマンティック・コメディー」たる、この作品では、若いA.ヘップバーンは、中年のH.ボーガートとお相手をする。一方、その三年後の本作では、ストーリー上19歳であることになっているA.ヘップバーンは、金持ちのアメリカ人・中年紳士役のG.クーパーと共演している。

 若い女性が金持ちの中年紳士に恋することは、あり得ることであるので、本作でのG.クーパーが年が取りすぎていて、こんなカップルは考えられないという意見に筆者は組するものではないが、世界を駆け巡るプレイボーイとしての本作でのG.クーパーの役どころは、誠実感がただよう人間としての俳優G.クーパーと、どうしても違和感となり、それ故に、役柄と俳優の人間性との間のミスマッチ感が押えきれない。(映画に登場する、G.クーパーの世界を駆け巡るお色気の「行状」について、一つ、1953年という走り書きがある日本語の新聞記事の見出しがある。それには、「新聞王ケーン死す」とあり、恐らくは映画『市民ケーン』と関係がある記事の左横に、何か中国風の芸者に囲まれて、お風呂に入っているG.クーパーの写真が載せられてあり、それは、残念ながら、いかにも合成写真のように見える。)

 パリのコンセルヴァトワールでチェロを勉強しているパリ娘Arianeが恋に落ちるのであれば、その相手は、パリの、あるオペラ座でR.ヴァーグナーの『トリスタンとイゾルデ』を聴きながら、コンサート用のプログラムを望遠鏡のように丸めて、その一方からコンサート会場を覗くなどという無教養な人間であってほしくない、と感じるのは、筆者だけではないであろう。せめて、エスプリのある会話ができる漁色家であってほしい。こう考えると、本作の主人公Frank Flannagan氏のキャスティングも違ってくるであろうし、コメディー性ももっと他に探せたはずである。

 このコメディー性という点では、パリの高級ホテルHôtel Ritzに泊まっている、犬を連れたご婦人と共に、本作の初盤と、終盤への展開点で重要な役回りをする登場人物Monsieur Xを演じるJohn McGiverジョン・マッギーヴァーの存在に注目すべきである。アメリカン・「カサノヴァ」に自分の妻を寝取られた夫役で、その存在自体は何も笑えないのではあるが、彼の置かれた状況が作り出す「可笑しみ」は、その後のB.ワイルダー調の滑稽味につながるものである。ニューヨーク市っ子のJ.マッギーヴァーは、高校の英語の教員として働く傍ら、演劇に興味を持ち、舞台監督や舞台俳優として、活動していた。かつての同僚に誘われて、1955年に初めて、ある舞台劇の主役を務めたことにより、職業俳優となり、これ以降、その小柄で、はげ頭の容姿が印象深いところから、性格俳優としての道を歩むことになる。映画での初めての役は、本作であり、A.ヘップバーンとは、ティファニーの親切な店員として、1961年作の『ティファニーで朝食を』で共演している。

 さて、本作には原作がある。その名を、『Ariane, jeune fille russeアリアーネ、あるロシア人の若い娘』といい、スイス生まれのフランス人 Claude Anetクロード・アネが、1920年に発表したものである。C.アネは、1868年生まれで、ソルボンヌ大学で精神科学を勉学し、卒業後一時会社勤めなどをした後、イタリア、ペルシャ、ロシアなどを旅行をして歩き、その旅行記を発表したり、テニス選手として、1892年にフランスのテニス選手権で優勝したりしている人物である。ロシア旅行の際には、ロシア革命を実際に体験しており、『ロシア革命、年代記 1917-1920』という本まで出している。ノンフィクション作品だけではなく、C.アネは、小説も書いており、その一本が本作の原作になる本で、彼のロシアでの体験が反映されているものと思われる。

 ウィキペディアの解説をまとめると、この作品は、1900年頃のロシアを舞台とし、叔母の許で育った、17歳のArianeという娘が、叔母の許しを得て、但し、叔母の資金援助なしで、モスクワの大学に勉学に行くところから始まる。そして、そのモスクワで、彼女は、アメリカ人の金持ちのコンスタンティンと知り合いになり、休暇でいっしょにクリミア半島に出掛けたりするという話しである。20世紀の初頭のロシアでArianeのような若い娘がいたということが中々信じがたいのであるが、女子学生のArianeとアメリカの金持ちの男性という関係は、確かに、本作に反映されている。

2023年5月4日木曜日

戦場のアリア(仏/独/英/ベルギー/ルーマニア/ノールウエェー、2005年作)監督:クスリティアン・キャリオン

 1871年に成立したドイツ帝国は、次の対仏戦争が起こることを想定していた。なぜなら、1870/71年の普仏戦争でフランスを屈辱的に破ったドイツは、そのフランスから、フランス東部のエルザス・ロレーヌ地方(ドイツ語でアルザス・ロートリンゲン地方)を奪い取っていたからである。対独復讐戦を誓うフランスは、対独防衛線たるマジノ要塞線を整えていたが、それに対抗すべく、ドイツ側も、全八個の軍(平和時における最大の軍編成単位)の内の七個を、オランダからスイスまでの西部国境沿いに、有事に備えるべく、対峙させていた。

 なぜ、七個もの軍を投入するかというと、ドイツは、対仏と対露の二正面作戦を取らざるを得ず、まず、対仏戦で自国軍を一気に投入して、フランスを壊滅させた後は、自国軍を東部戦線に回して、対露戦を遂行するという戦術上の目論見(いわゆる、「シュリーフェン作戦)があったからである。実際、普仏戦争時にならってのドイツ軍側の合言葉は、クリスマスまでには戦争に決着を付けて、「パリでまた会おう!」であった。

 戦争が勃発した直後の1914年8月、まずは、フランス側が対独攻勢を掛ける。英仏協商との関連でフランス側に立つイギリスは、ドーヴァー海峡を渡って、英国派遣軍を大陸に送り、フランス側から見て、北フランスからベルギーに掛けての左翼に布陣する。このフランスの攻勢を押え、今度は逆に反攻勢に出たドイツは、8月中旬に入り、協商連合軍を押し返し、ベルギー方面では、ブリュッセルまでも占領して、北フランスの国境、北海沿岸に押し寄せる勢いであったが、9月の第一次のマルヌの戦いを境に形勢が悪くなると、戦線を後退せざるを得なくなる。こうして、当初の運動戦は膠着状態に入り、相手側の塹壕まで50mないし100mの間隔しかない位置に両陣営が塹壕を築いて、対峙するという戦況に、遅くとも14年11月頭からは完全に陥ることになり、ヨーロッパは、寒さと泥の生活を兵士に強いる塹壕戦の中、厳しい冬の12月を迎える。そして、西部戦線は、12月24日のクリスマス・イヴに「奇跡」を体験する。

 この「奇跡」は、英語では、「クリスマス休戦」、ドイツ語では、「クリスマスの平和」(「大きな戦争における小さな平和」)と呼ばれている。しかし、それは、14年12月であったから、可能であったのである。それぞれの国の国力が問われる総力戦たる本戦争において、毒ガス、戦車、戦闘飛行機などの近代兵器が登場するのは、15年以降であり、砲撃も、14年段階では連続十字砲火のような激しいものではなく、前線における機関銃掃射が、本作での戦闘場面に見られるように、精々であったのである。その意味で、19世紀までの戦争における良き伝統たる、戦場における「騎士道精神」が、14年末までは未だに生きていたのであり、戦闘を一時停止して、戦場に取り残された戦傷者を自陣に連れ帰ることは、戦争という反ヒューマニズム的行為の文脈において、当然の「人間性の表現」であった。

 とは言え、上述の歴史的制約を背景とし、本作が、事実を基にしているという、映画の冒頭の言説に対して、本作のストーリーは、筆者には劇的に過ぎる。ゆえに、若干戦史を調べてみると、本作においては、芸術制作における「芸術家の自由」が許され過ぎてはいないかと思われる箇所が多々あったので、そのことをこれから述べていきたい。

 まずは、本作の群像劇における主人公の一人となるNikolaus Sprinkニコラウス・シュプリンクの存在である。ドイツ人俳優Benno Fürmannベノ・フュアマン演ずるところの、このベルリンの劇場の人気テノール歌手は、確かに実在した。この1879年にベルリンで生まれたオペラ歌手は、Walter Kirchhoffヴァルター・キアヒホフといい、彼も戦争勃発と共に志願して戦場に赴く。とは言っても、西部ドイツの、ルクセンブルク国の南に位置し、ロートリンゲン地方を管轄下に置くドイツ帝国第五軍の上級司令部付きの将校として勤務しており、彼は、さらに、この第五軍の名誉司令官たる、プロイセン王国皇太子Wilhemヴィルヘルムの副官でもあったのである。つまり、彼は、映画で描くような一兵卒ではなかった。因みに、本作でも登場するWilhelm皇太子を、ドイツ人俳優Thomas Schmauserトーマス・シュマウザーが好演しており、ヴァイマール共和国時代にはその出自から当然として王党派であったヴィルヘルムが、ナチ時代になると、イデオロギー的には必ずしも相容れないナチス党を支持した経歴を持つ、Wilhelm皇太子の内面的陰影をさりげない演技でよく体現していた。

 第一次世界大戦後の1922年に発刊された皇太子ヴィルヘルムの回顧録によると、ある時、キアヒホフ自らが皇太子に以下のように述べたと言う:自分は、クリスマスの祝日のために、第130歩兵連隊が守備する塹壕の最前線まで行き、そこで、戦友のために、ドイツのクリスマス・リートを歌ってきたのであります、と。

 もちろん、この時は、キアヒホフは、愛人と前線に赴いた訳ではないはずで、クリスマスの祝日が過ぎた12月28日に、ロートリンゲン地方の中心都市Metzメッツ市の市立劇場で、スウェーデン人のソプラニストLilly Hafgren-Waagと共にR.ヴァーグナーのオペラ『ヴァルキューレ』の第一幕目を歌ったのである。つまり、キアヒホフは、映画で描くところの、デンマーク人の愛人のソプラニスト、Anna Sörensen(ドイツ人女優Diana Krügerディアナ・クリューガー)といっしょに、フランス軍側に投降しなかったのである。さて、実物のキアヒホフを映画のストーリー上であそこまで「英雄」にしてしまって、いいものであろうか。

 次に、今や国際的俳優でもあるドイツ人俳優Daniel Brühlダニエル・ブリュールが、中尉として指揮する小隊が所属する第93歩兵連隊についてである。兵士たちが被る、尖がりの付いたヘルメット(Pickelhaubeピッケルハウベ)の布の覆いに、数字の「93」と書かれてあるところから、それが分かるのである。つまり、映画では、キアヒホフが述べている第130歩兵連隊ではなく、別の連隊が登場しているのである。

 では、その第93連隊とは、どういう部隊であったのか。そのためには、まず、ドイツ第二帝国の軍制を見ておく必要がある。上にも述べた通り、ドイツ帝国においては、八個の軍があった。さらに、その下の部隊の単位は、軍団(Korps:コーア)で、1914年時点では25軍団があった。軍団から下降して、下の単位は、師団、旅団、連隊となる。何れも下位の部隊二個からなって、その一つ上の部隊単位が形成されるから、25軍団は、50師団、100旅団、200連隊と理論上はなり、実際、ドイツ帝国時代には、217連隊が存在したのである。

 その217連隊中の、第130連隊と第93連隊である。第130連隊は、テノール歌手キアヒホフが関わった部隊であるから、第五軍に所属するとして、本作に登場する第93連隊は、どこに所属し、14年12月段階でどこに位置していたかである。所属は、第一軍、第四軍団、第八師団、第15歩兵旅団の所属である。この第15歩兵旅団は、戦史録によると、14年12月中旬までは、ベルギーのフランドル・アルトワ地方で塹壕戦を戦い、14年クリスマスの直前までは、フランス領フランドルで「12月の戦い」を戦い、丁度クリスマス第一祝日の12月25日からベルギーのフランドル・アルトワ地方で再び塹壕戦を戦ったことになっている。ゆえに、第93連隊は、「クリスマス平和」の14年12月段階では、ロートリンゲン地方ではなく、ベルギーの地にいたことになる。

 本作の監督は、フランス人のChristian Carionクリスティアン・キャリオンで、彼が脚本も書いているので、当然にフランス軍も一役買わなければならないことになったのであろうが、実際、この「クリスマス平和」にフランス軍側がどれだけ関係したかは、少々疑問である。それでからではないであろうが、ドイツ軍側を、上述のように第93連隊とすれば、基本的に「クリスマス平和」が成立したのは、ドイツ軍側とイギリス軍側とが対峙したベルギーのフランドル・アルトワ地方ということになるのである。

リヴェンジャー・スクワッド 宿命の荒野(アイルランド/ルクセンブルク合作、2018年作)監督:ランス・デイリー

 21世紀の初年に起こった9.11.(ナイン・イレヴン)は、世界を変え、今年2026年は、あれから四半世紀が経った年となる。現在のトランプ現象も、この世界の変化と関連するものと見ることも出来るが、9.11.こそは、USAが対アフガニスタン戦争を遂行することになった原因であった。そ...