2025年9月10日水曜日

西住戦車長傳(日本、1940年作)監督:吉村 公三郎

 本作の題名が『西住戦車長傳』となっているところから、映画は、第一場面を白煙を舞い上げる阿蘇山の近景から始め、カメラを展望させて、熊本城を写して、西住の生まれと、育った環境を手短かに語る。オフからの声は即物的であり、原作の評伝の写実性を保つかのようである。このオフからの同じ声は、映画が終わるまで聞こえ、本作はまるで映画館で観る時事ニュースのような体裁で終わる。正に、陸軍省推薦の国策プロパガンダ映画に相応しいセティングであろう。

 西住の生立ちが語られると、映画はすぐに上海戦の話しに展開し、戦車部隊の恐らくは久留米からの出動が描かれるが、現地の上海戦ではまず実写場面が映し出される。海軍陸戦隊が上海での市街戦を戦う場面が見られる。第二次上海事変には、陸軍のみならず海軍も関わる陸・海共同の作戦であったが、戦闘が内陸に進行するに従い、より多くの陸軍部隊の投入が必要になる。更に、国民党軍は、ドイツ国防軍の装備を中国からの軍需物資と交換で受け取っており、また、ドイツ軍の軍事顧問団を入れて自軍を訓練していたことから、国民党軍は、揚子江沿いにトーチカ壕を作って、頑強に日本軍に抵抗した。故に、日本軍は予想外に中国軍に苦戦していた。そう言う歴史的背景を頭に置きながら、本作の前半は観るべきであろう。つまり、苦戦している日本軍歩兵部隊は、西部劇で言えば、「開拓民」であり、その窮地を救うべく騎兵隊が登場する如く、「鉄牛部隊」たる戦車隊が戦場に「駆け付け」、歩兵部隊を救うことになる。出動を要請された戦車部隊に絡んで、吾等が主人公西住中尉自身は、本作の17分台になってようやく登場する。部下と共に、自分の「愛車」の整備を行なう、人徳のある将校という描き方である。

 今は上海市の北部に位置する宝山城地区にある、戦術上重要な場所・大場鎮(だいじょうちん)の占領(37年10月26日のことで、「日軍占領大場鎮」というアドバルーンが上がる)により上海戦はほぼ決着が付き、当初の作戦予定を覆して、戦線が内陸へと更に拡大すると、日本軍は国民党軍の周到に用意された第二、第三戦線に遭遇する(本作50分前後台から57分台まで、セット撮影による、戦車・歩兵の共同による戦闘場面)。ナチス・ドイツにより軍事物資供与を受けている蒋介石軍は、ドイツ軍風の鉄兜(シュタール・ヘルム)、ドイツ軍に特徴的な柄の長い手榴弾を使用し、機関銃隊も二四式重機関銃(1935年の民国暦24年に制式採用されたことにより「二四式」と命名されたが、元々はドイツのMG08重機関銃をライセンス生産したもので、「カタカタ」という機銃音が特徴)を構えて、日本軍を待ち構えていた。

 ウィキペディアによると、プロイセン・ドイツは、既に18世紀半ばより、中国との交易に興味を示して、商船を中国に送っており、1870年・80年代のビスマルク時代に、後の「中独合作」となる礎は築かれた言える。1890年代以降のヴィルヘルム二世時代の帝国主義的政策は、一時、中独関係を冷却させることになり、19世紀末には、日清戦争に敗北した清の弱みにつけ込んで、ドイツは山東省青島などに租借地を得る。それを第一次世界大戦中に日本に取られると、植民地を持たない工業国ドイツは、帝国主義・植民地主義に悩まされていた中国にとっては格好の取引相手となる。こうして、1920年代の後半以降、ドイツに中国統一の見本を見る蒋介石の思惑もあり、中国にドイツの軍事顧問団が来る程の、中独の「蜜月関係」が始まる。33年にナチス政権が誕生すると、軍需資源の確保を求めるドイツ側の利害が更に大きくなり、ドイツ側の対中国の軍事物資の供与がより促進され、これが国民党軍の近代化に大きく貢献することになった訳である。しかし、ナチス・ドイツが反共政策の旗印の下、日本と同盟を結ぶ政策に舵を切ったことにより、40年の日独伊三国軍事同盟の締結を以って、「中独合作」は、その終焉を告げる。以上の中独合作の歴史を見ると、第二次上海事変での日中の対立は、中国国民党軍の姿を借りた「ドイツ国防軍」と日本軍が戦った戦いであったとも言えなくもないものであった。

 映画は続けて、戦死した戦車銃手の兵隊の弟からの手紙のエピソードがお涙頂戴調で語られた後、次の重要なプロットへと展開する。

 初冬の雪が降る宿営の場面からそれは始まる(本作70分台から)。赤ん坊を生んでいる「土民の女」がいることを兵が西住に報告しに来ると、西住はどれ赤ん坊を見ようと言う。場面が変わると、画面中央に一兵士が赤ん坊をにこやかに抱えている。そのすぐ左隣に、点した蠟燭を持っている兵隊が立っており、赤ん坊を抱えた兵士を真ん中に、蝋燭を持った兵士も含めて、七人の兵士達が画面前面から赤ん坊が見えるように、つまり、太い竹を刀で斜めに切ったような陣形でぐるりを巻いている。そのぐるりからちょっと離れるようにして、九人目の兵士が画面右側に立っている。「日本人の赤ん坊と変わらんのう。」と兵士達が話しているところに西住が入ってくる。すぐ隣の部屋にいる土民の女(役:桑野通子)は、左の上腕に銃創があるようである。西住は、中国語で女に話しかけると、それには答えずに女は泣き伏す。すると、西住は女に流暢な中国語で次のように話しかける。(ここで、日本語の字幕が入る。)

 「心配するな。日本兵は何も害を加へやせん。」

しかし、女は泣きじゃくるだけで、西住もどうしようもなく、赤ん坊を女に返してやるように指示する。少し間が経ってから、部隊に同行している軍医が小屋にやってくる。貫通銃創を手当してくれる日本人軍医に少し心が和んだのか、女は、「おまえはここの村の者か。」という西住の質問に、「支那兵の略奪があって逃げおくれました。」と答える。西住の「亭主はどうした。」という重ねての質問に、女は、「はぐれてしまひました。」と返す。西住は、「不人情な亭主だな。おまへをすてて逃げるとは。」とコメントすると、それに対して、女は、「捨てたのではありません。はぐれたのであります。」と言い返すと、西住は、「これは俺の云ひ方が悪かった。」と素直に謝ったのであった。

 傷の手当をしながら、このやりとりを聞いていた軍医にその言葉の達者さを褒められると、西住は、それは自分が一年程満州にいたせいであると謙遜する。手当も済み、部下が毛布と貴重なミルクを持ってきたので、西住は、女に、「心配しないでゆっくり休め。赤ん坊にミルクを呑ませてやれよ。」と言う。その西住の言葉に女は心から感動したようであった。そうして、西住は小屋を去って、自分の部屋に戻るが、そこでは、彼の陸士時代の同期で、北支より南下してきた大隅大尉(笠智衆;後に松竹・小津映画で有名になる笠智衆の名前は、本作のオープニング・ロールでは可成り後になってから出てくる)が待っていた。陸士時代を懐かしみ、陸士卒業直前に亡くなった同期生の写真を二人は持っており、三人でいっしょに南京入城を果たそうと二人は誓い合う。そうして、夜は過ぎ、翌朝を迎える。

 朝を迎えた村の路地を走る兵隊達がいる。何かあったのであろうと不安に思いながら見ていると、兵隊達が一つの家に入っていく。すると、部下の一人がちょうど朝食を摂っている西住のところに駆け込んでくる。女がいなくなっており、凍え死んだ赤ん坊は置き去りにされたままで、部下は、夜中に亭主が戻ってきて、女を連れて行ったものと推測する。西住の好意を無駄にした女に怒る部下に対して、西住は、事態を不思議に思いつつ、情けは情けであり、何れにしても死んだ赤ん坊が可哀そうであるから、赤ん坊のために墓を作ってやろうと言いだす。周りに雪が積もり、恐らくは凍って固くなった土をつるはしで掘り起こし、木箱に入れた赤ん坊を埋めてやると、墓標に何と書こうかと兵隊達が迷っているところに、西住は、早速、筆で、「無名子之墓」と達筆に書く。兵隊の一人が、それを「むめいし...」と読むと、西住は、これは、「ムナコ」と読むと言い添える。この光景の後ろには、左から右に向かう兵隊達の列があった。南京に向かっているのである。(ここまでで、74分台となり、土民の女を巡るプロットには、大隅大尉との再会なども挟まれるが、約4分が掛けられている。)

 こうして、南京入城のプロットが比較的簡単に過ぎた後は、その後の叙州会戦のプロットに進み、上述したような西住戦死の出来事を描き、ラストシーンは、西住の遺志を汲むかのように、戦車部隊が列を成して、次の戦線へと向かう場面で本作は終わる。

 さて、本作には菊池寛が書いた原作『昭和の軍神西住戦車長伝』がある。これは、西住が戦死してから約十ヶ月経った39年三月から八月に掛けて新聞連載されたものである。この連載に当たっては、菊池自身が中国に渡って取材しており、それを基に書いた「評伝」である。流石に当時既に名声があった菊池は、単なる御用作家の「伝記」ではなく、あくまでも「評伝」という形式で、一定の客観性を担保しつつ原作を書いているようである。同じ時期には、西住顕彰出版物が児童図書も含めて続々と刊行されており、西條八十、北原白秋、サトウハチローらなどが作詞した戦意高揚歌謡が発売されていた。一例に西條八十が作詞した歌詞の一つをここに挙げると、次のような「凱歌」となる:

  「鉄牛ひとたび血に吼えて/『西住』の名を呼ばふとき/
  浙江・江蘇の敵勢は/旌旗を忘れ武具を棄て/
  色蒼白(あをざ)めて潰走す」

 このような、言わば「西住ブーム」は、実は、38年12月に、映画では「細木部隊長(役:佐分利信)」として登場していた細見大佐が陸軍省記者倶楽部詰めの記者を陸軍戦車学校に呼び、「故西住大尉に就て」と題した講演を行ない、記者にその軍人精神を全国民に知らしめて欲しいと要請したことによる。こうして、まず、東京朝日新聞が「偉勲鉄牛部隊の若武者」と西住のことを報ずると、年末には、西住が座乗した、敵弾を千発以上も受けたという戦車が公開されて、細見は西住についてのラジオ講演まで行なう。これを受けて新聞各社もこれを一斉に書き立てると、西住は、一挙に「軍神」第一号に祀り上げられることになる。こうして、西住顕彰出版物が続々と出版される中、菊池寛もその「評伝」を書くことになる訳である。

 菊池寛は、更に、1940年三月開演の「東西合同大歌舞伎」公演の演目の一つに『西住戦車長』という作品の脚本も書いている。こちらは、評伝という客観的な立場を取ることが出来ないことから、そのストーリー展開の内容がどうなるかという点が注目点になる。興味深いのは、この三場で構成される演目は、あの「土民の女」が生んだ赤ん坊についてのプロットで二場が、そして、当然と言えば当然なのであるが、第三場目が西住が戦死する場一つが採られていることである。他の演目との内容的な釣り合いもあったのであろうが、この「英雄譚」は、土民の女とその女が生んだ赤子の運命という人情噺しに重点が置かれている。

 この歌舞伎の演目が上演された後の、40年11月末に本作は初上映されているが、撮影は、既に40年の二月に始まっている。つまり、脚本化はそれより前に終わっているはずで、それは菊池の演目が上演される前であり、原作の連載が終わった39年八月以降、映画化の企画がまもなく始まっていたことを考えると、映画の脚本化と演目の脚本化は時期的にほぼ並行していたと言える。そして、この映画版の脚本家は、野田佳悟であった。野田と言えば、松竹の小津安二郎組の脚本家とでも言える、あの野田である。

 その野田に、菊池寛が野田のシナリオを読んで、ある手紙の中で、次のように依頼したと言う:

 「無名子のところで、西住大尉の言葉『昨夜は、たしかに感謝してゐたんだ云々』は、ぜひ入れて下さい。いゝ言葉だとおもいますから。」

 菊池は、自分の原作では、該当の部分では、西住の部下の兵隊で、同じ戦車に操縦手として搭乗していた井手上伍長の文章を引用していた:

 「戦闘の合間、西住の部下たちが付近の民家で地元住民の女性が赤ん坊を産もうとしている所に直面した。西住はすぐさま軍医を呼び、出産に立ち会った。産まれた女児に対し、西住は自分が負傷した際に衛生兵からもらった牛乳を与えた。翌朝、見ると赤ん坊は夫に連れられた母親から捨てられ、既に凍え死んでいた。恩知らずだと怒る部下をなだめると、西住は赤ん坊の墓を作った。」(ウィキペディアからの引用)

 これに対する菊池のコメントは、中国人とは自分が生き延びるためには、自分が生んだ乳飲み子までも見捨てる民族であるというような民族蔑視的なものであったのであるが、野田への手紙の中では、そこまでは断定的な言いようを西住にさせようとは菊池は思わなかったのであろう。映画の中での西住も、正に菊池が野田に依頼した如く発言している。更に言えば、敵対する国の言葉を話し、敵対する国民である土民の女でも民間人であれば、これを庇護するという西住の行為は、この同じ時期の同じ場所で「皇軍」による「南京事件」が起こっている事態を考えると、単なるプロパガンダ映画の役割を越えて、それ以上の戦場における人道主義への賛歌であるとさえ言えなくはないか。

 確かに、映画は冒頭で右書きで次のような説明がなされる:  

 日本文化中央聯盟主催 
 皇紀二千六百年奉祝
 藝能祭作品 

続けて、監督の吉村公三郎の言葉が引用されるが、要点を述べると、自分はこの作品を以って、「戦車戦闘の実相」を示し、「軍機械化の重要性」を強調したいのであると、如何にも国策プロパガンダ映画に相応しい言を並び立て、ラストシーンは、戦車戦闘の歌をBGMにしながら(土橋式松竹フォーン・システム)、戦車部隊が列をなして行進していく場面で終わるのである。

 実際、40年二月に現地撮影班が上海でカメラを回し始め、南京・漢口での現地撮影(撮影:生方敏夫、他数名)を終えて、同年四月に帰国すると、今度は、下志津練兵場に大掛かりなオープンセットを作り(美術:脇田世根一、浜田辰雄)、戦車学校の全面的な協力の下、戦車六台、兵150名の応援を受けて本作は完成された(助監督の一人は、後に有名になる木下恵介)。 

 しかし、戦後の吉村監督の言によると、自身は、「いわゆる戦意高揚の宣伝映画にしたくなかった。大船調のホーム・ドラマ風にしたかった」、「戦場での〝仲良しクラブ〟を描こうと思っていた」と言う。実際、本作の中盤には、雨の中を野営する場面があり、部下を思って野営地内を歩き、傷病兵を見舞い、既に木箱に入った戦死した兵隊に黙礼をする、若き将校は、「大船調のホーム・ドラマ風」の父親のようである。この吉村の言を、戦時中に軍国主義に加担したことへの釈明として理解するかは、本人の他の作品と見比べないと分からないが、同じ松竹の小津が戦時中にほぼ映画制作に関わらずに戦後を迎えた、その「禁欲さ」に比べると、全体主義的体制の中で、体制に同調しないで生きることの難しさを痛感する。

2025年9月2日火曜日

あゝひめゆりの塔(日本、1968年作)監督:舛田 利雄

 日活青春映画、タイムスリップして、「先の大戦」の沖縄戦に着地する

 このタイム・ギャップを繋げようとしたのか、監督舛田利雄は一計を案じる。舛田は、石原裕次郎主演で計25本も作品を撮っているという、日活アクション映画全盛期(つまり、日活青春映画路線と同時期)に数々の作品を撮り、「日活の舛田天皇」と言われた程にこの時期に「権勢」のあった監督であった。その彼が、同じ時期に「裕次郎二世」と名付けられて、日活アクション・ニュースターとして売り出されていた渡哲也に映画の冒頭で特別出演させ、制作時点の1968年と、沖縄戦当時の1945年とを結び付けることを考える。ほぼ四半世紀の時間的距離を繋ぐ役である。

 ディスコで踊り狂う若者達は、18歳前後で、正に戦後に生まれた、戦争を知らない子供達である。彼等は、嘗ての「鬼畜」であった欧米のロック音楽を真似たグループサウンズ(GS)の音楽に合わせて踊る。それをクールに見つめている青年(渡哲也)は、場違いな歌『相思樹の歌』をリクエストして、担当者にインタヴューされる。何故にこの曲をリクエストしたのかと。実は、この歌はひめゆり学徒隊と深く関係のある歌で、こうして、映画は、1944年の沖縄に着地する。

 ところで、この映画の冒頭の、戦後の平和な日本と戦中の日本を比べるシークエンスは何を意味するのであろうか。戦後復興、奇蹟の経済発展、高度経済成長政策、1964年の東京オリンピック開催と、戦後日本はその経済的豊かさを順調に作り上げたが、舛田監督は、その土台は大戦末期の若人の犠牲の上にあるとでも言いたいのであろうか。渡が演じる若者は『相思樹の歌』をリクエストした理由をはっきりとは語らないが、それでは、こう言おう:なぜ負けると分っていた対米戦を日本は始めたのかと。始めなければ、これらの若人の犠牲もなかったはずである、と。

 何れにしても、ストーリーは戦中の、しかし未だ和やかな運動会の場面に移る。ガダルカナル島攻防戦が日本軍の敗退に終わる1943年二月以降、日本は守勢に回っており、次第に米軍に追いつめられていく日本軍ではあったが、1944年半ばの沖縄は、戦争の成り行きに不穏な気持ちを持ちながらも、未だ、安穏だったのである。

 運動会は、戦後の本土の女子高の運動会を思わせるが、ここは、沖縄県立師範学校女子部の運動会である。師範学校とは、教員養成のための学校で、沖縄全県から優秀な少女たちが将来の教員を目指して、ここで寄宿生活を送りながら、学業に励んでいたのである。女子部があれば、男子部もある訳で、その男子部の生徒の一人西里順一郎(浜田光夫)は、招待状がなければ入り込めない女子部運動会に学友数名と共に潜り込む。その不正入場を咎めたのが、女子部最高学年生で、「南国のシャン(ドイツ語から来た、男子学生の隠語で美人の意味)」与那嶺和子(吉永小百合)であった。こうして、二人は知り合い、日活青春映画よろしく、二人の間には淡い恋心が芽生えることになるが、それを踏みにじるのは戦争であった。

 サイパン島守備隊が「玉砕」した44年七月以降、日本は米軍の空襲の脅威に曝されることは明白となり、それを受けて、沖縄からも学童疎開が組織されて、対馬丸他二隻が児童や一般疎開者を乗せて那覇から長崎に出発する。しかし、8月22日に対馬丸は米潜水艦に撃沈され、約千五百名が亡くなる。その中には、疎開児童に付き添った和子の母で、国民学校教員・与那嶺ハツ(乙羽信子)もいたのであり、国民学校校長仲地(東野英治郎)は、いわゆる「対馬丸事件」の責任を取って、自死する。そして、母を失った和子は、弟と二人だけの家族となる。

 予想された通り、沖縄は空爆や艦載機(双発で異常に胴が太い航空自衛隊機か?)の機銃掃射を受ける事態となり、師範学校校舎も焼失し、戦時色は一気に濃くなる。44年十月十日は、米側は、南西諸島一帯に大規模な空爆を仕掛けており、那覇市も大きな被害を出していた。米側は、この空襲で対日戦で初めて焼夷弾を使用し、民間施設も含めた、戦争犯罪である無差別攻撃を実行した。

 こうして、沖縄は、45年三月下旬から6月23日(現在、この日が沖縄慰霊の日になっているが、別に9月7日説もある)まで行なわれた、当時の沖縄県民の四分の一が戦没することになる凄惨な沖縄戦に引きずり込まれる。既に三月中旬の九州沖航空戦が沖縄戦の事実上の前哨戦であったが、3月24日には沖縄本島に艦砲射撃が開始され、4月1日に米軍は沖縄本島に対する上陸を開始する。

 一方、既に勤労奉仕活動でろくに勉学も出来ないでいた沖縄県立師範学校女子部の女子生徒(「師範生」と呼ばれた)と、同じ場所に校舎が並立していた沖縄県立第一高等女学校の女子生徒達の222人と引率教員18名で、看護要員部隊が3月23日に編成され、第32軍直轄の沖縄陸軍病院に動員される。(「ひめゆり学徒隊」という名称は、戦後の通称であり、「姫百合」の冠称がどこから来ているかも色々と説があるが、一高女の学校広報誌が『乙姫』と、師範学校女子部の学校広報誌が『白百合』と名付けてあったことから、両誌の名称を合わせて『姫百合』としたという説もある。『ひめゆり』と平仮名書きにするのも、戦後のことであると言う。)

 陸軍病院と言ってもそれは壕であり、壕の中で、看護要員は、従軍看護婦の指導の下、包帯替えなどの患者の世話をしたり、外科壕の外に出て、危険な水汲みや飯上げ(炊飯部から炊けた飯を運んでくる作業)、そして、遺体の処理に携わり、5月25日以降、「陸軍病院」の移動と行動を共にして彼女達は沖縄本島を南下していった。南部では、学徒隊は、各外科壕六カ所(15m程の深さのある壕で、現地では「ガマ」と呼ばれていた)に分散していた。こうして、6月18日に学徒隊の解散命令が出ると、自己責任で安全な場所に逃げて、生き延びよということになるが、戦場を右往左往する中、この日から23日までに、学徒隊の百余名が亡くなったと言う。生徒・教員240名の学徒隊の内、陸軍病院関連で亡くなったのは、136名であった。大変な死亡率である。また、動員されなった女子生徒でもこの沖縄戦の最中に命を落とした女子生徒が91名いたと、戦後の調査で明らかにされている。

 和子の同窓生・比嘉トミ(和泉雅子)は、危険な飯上げ当番の際に、機銃掃射を受けて負傷し、歩けない傷を負う。そのため、彼女自身も「病棟」に横たわることになるが、病院移動で壕の中に取り残されたままにされる。そして、軍が配る、青酸カリの入った牛乳を飲まされて、彼女は苦しみながら非業の最期を遂げることになる。

 和子の淡い恋の相手たる西里は、現地戦時招集の鉄血勤皇隊の一員として、和子の目の前で戦死していったが、和子自身も、彼女のことを「お姉さま」と呼ぶ後輩と伴に抱き合って、崖の上で口で手榴弾のピンを抜いて、自爆する。何故か?米軍に投降する選択肢は彼女にはなかったのである。彼女が竹槍訓練をしている時に、ある陸軍軍曹は女子生徒の前で言う:

「この沖縄にアメリカが上陸するようなことがあれば、鬼のような奴らは、まず、君らのような若い娘を捕まえるぞ。そして、奴らは君らを素っ裸にする。そうやって、戦車の前面に縛りつけるんだぞ!」

戦時における性暴力の問題が、和子の自決の背景にあったこと、そして、この問題は、21世紀になっても、未だに起こっていることを我々は心に刻む必要があろう。

 映画は、女性が書いたような平仮名書道体で読める次の文章で終わる:

沖縄戦で散った
殉国学徒の数は
師範 中学 女学校
あわせて 一五〇三名(「ひめゆり学徒隊」の他にも幾つかの学徒隊があった。)
教え子を引率して
仆れた教師 九二名
このように若い学徒の
犠牲者を出した戦争は
世界史上どこにも
その例を見ないという

 この文章が一行ずつ映し出される間、ある曲のメロディーが辛うじて聞き取れる位の音量で流れる。吉永が歌っている主題歌でもあるが、これは作中、女子生徒達が陣地構築の勤労奉仕をさせられていた時に、彼女達が「やさしい少尉さん」と呼んでいた太田少尉(和田浩治)が海岸の作業現場にやって来て、それを見た引率の音楽教員・東風平恵位(こちんだ・けいい)が音頭を取って、生徒達が輪になって歌う場面でも聴かれる曲である。タイトルは『相思樹(そうしじゅ)の歌』といい、太田少尉が作詞したもので、それに東風平が作曲して、『別れの曲(うた)』として、彼女達の卒業式で歌うつもりでいたものであった。しかし、彼女達は卒業前に学徒隊に動員され、この歌は、女子生徒達の間で時々歌われて、戦争を生き延びたのであった。戦後は、軍隊行進調ではない、揺れるような八分の六拍子のこの曲は、戦時中に自らの青春の夢を叶えられずに戦禍に斃れていった同窓生のための、鎮魂の歌となって、今に歌い継がれている。

 まずは、この曲の歌詞を挙げておこう:

第一連(卒業生が在校生に向けて):
目に親(ちか)し 相思樹(そうしじゅ)並木
往きかえり 去り難(がた)けれど
夢の如(ごと) 疾(と)き年月(としつき)の
往きにけむ 後(あと)ぞくやしき

第二連(在校生が卒業生に向けて):
学舎(まなびや)の 赤きいらかも
別れなば なつかしからむ
吾が寮に 睦(むつ)みし友よ
忘るるな 離(さか)り住むとも

第三連(卒業生が在校生に向けて):
業(わざ)なりて 巣立つよろこび
いや深き 嘆きぞこもる
いざさらば いとしの友よ
何時(いつ)の日か 再び逢わん

第四連(在校生が卒業生に向けて):
微笑みて 吾等おくらむ
過ぎし日の 思い出秘めし
澄みまさる 明るき まみ(「眼差し」のこと)よ
健やかに 幸多かれと 幸多かれと

 作詞者の太田博少尉は、44年八月に沖縄に送られてきた野戦高射砲第79大隊第二中隊に所属する部隊の将校であった。その彼が、高射砲陣地構築の作業にやって来ていた師範学校女子部の生徒の健気な働きぶりに感動し、一部の女子生徒の卒業の時期も近くなっていたことから、『卒業生に贈る詩』と題する一篇を書き上げたのである。それを知った同校の音楽教員・東風平がこれに曲を付けることとなり、『別れの曲(うた)』となる。

 東風平恵位は、1922年に宮古島に生まれ、41年に沖縄師範学校に入学した。努力して難関であった東京音楽学校(現、東京藝術大学)に入学するも、学徒動員で繰り上げ卒業となり、43年十月に母校の女子部の音楽教員として赴任していた。こうして、彼が『別れの曲(うた)』を作曲することになる。女子生徒達は、何かの機会にはよくこの曲を口ずさんでいたと言うが、ある時、以下のような印象的な事柄が起こったと言う。それを、ウィキペディアから直接に引用する:

 「東風平が、学園を訪れる機会もないままに作詩した太田の心情を思いやり、昭和20年(1945年)1月のある日曜日の夜、太田を学園の寄宿舎に招いた。東風平は見学の最後に、とある一室の前で立止まり、みんなで「別れの曲」を歌ってみなさいと話しかけた。歌声を耳にして寮内にいた乙女たちが一室に群れ集い、時ならぬ大合唱が夜の静寂の学園に響き渡った。心を通わせた太田が学徒たちの合唱を聞くことができるように、東風平の深い思いやりが実った瞬間だった。歌いなれた讃美歌のメロディにも似たコーラスを聞いた太田少尉にとって、推敲を重ねた自分の詩作が歌となって人に感動を与えた初めての経験であり、直立不動の姿勢で自らも深い感動とともに詩人としての喜びの中にあった。」

 1921年に東京で生まれた作詞者の太田は、30年に福島県郡山市の伯父の養子となり、そこの郡山商業学校を卒業して、郡山商業銀行に務めていたが、学校時代から詩作に励んだクリスチャンの文学青年でもあった。徴兵された42年以降も、詩作ノートを離さずに詩作をし続け、ひめゆり学徒隊の最後の地・糸満市にほど近い所で、45年6月20日に意味のない突撃攻撃で戦死した。作曲者の東風平も、太田少尉と前後する日時に、教え子達と共に避難していたガマの中に米軍のガス弾が投げ込まれ、教え子達と共に戦没している。

  『別れの曲』は、いつしか、この五七調の作詞の第一連の一行目に出てくる「相思樹」という聞き慣れない言葉で呼ばれようになり、学徒隊の生き残りの生徒の間で戦後歌い継がれる。ひめゆりの塔も戦後まもなくの46年に建立されるが、1972年の沖縄返還までは、沖縄は米軍の占領下にあり、本土との行き来はままならなった。返還後の1975年に、東風平の嘗ての同窓生で、東風平の生死を別れて以来ずっと慮っていた、高知大学教授・橋本憲佳がある琉球大学講師を通じて、東風平の運命と『別れの曲』の存在を知ることとなる。返還により沖縄を訪れるために、もはやヴィザが必要ではなくなっていたこともあり、橋本は早速沖縄に渡り、戦地を訪れ、『別れの曲』を探し求めたが、戦禍で楽譜は逸失しており、橋本は何人ものひめゆり学徒隊の生存者を訪れて、歌い継がれていたメロディーを採譜したと言う。そして、76年五月、橋本によって合唱曲に編曲された『相思樹の歌』は、本土で初めて演奏され、今日に至っていると言う。

 恐らくは、師範学校の前にあった並木道の両側の木々を、在校生と卒業生に見立て、お互いがお互いを相思いあう場として、詩人太田はイメージしたのであり、それを受けて、音楽家・東風平も八分の六拍子の揺れるようなメロディーを構想したのであったろう。二人の戦火を越えての希望の祈りを、ひめゆり学徒隊の女子生徒も戦後へと歌い継いだのである。

 追記:このブログ記事の投稿日は、2025年9月2日であり、奇しくも、日本が東京湾上の戦艦の上で連合国との無条件降伏書に調印した日から80年経った日である。

2025年8月27日水曜日

潜水艦ろ号未だ浮上せず(日本、1954年作)監督:野村 浩将

 朝焼けか夕焼けか、雲が多い空の下に太陽の光を反射して大海原が写されている。この場面を背景として、次のような言葉が読める:

省みれば幾星霜
波静かなる大海原に
平和の鐘鳴響くとき
今も尚海底深く眠る
幾多潜水艦乗員の霊に
此の一篇を捧ぐ

 その空を覗くように、今度は潜望鏡からの視点が一度取られると、すぐさま、実写撮影に繋がる。浮上する潜水艦の場面で、画面のすぐ左に潜水艦に取り付けれている砲が見える。浮上したところで画面が変わり、三人の乗組員が双眼鏡や中型・大型望遠鏡を使って、見張りをしている。本作に協賛している日本光学工業株式会社が提供している物であろう。(他には、沖電気、東京計器製造所が本作に協賛しており、潜水艦内の計器盤などは、これらの会社の物であろうと思われる。)

 すると、見張員が左前方30度に敵小型機二機を発見し、潜水艦は「急速潜行」する。一度深く潜行するが、通信・聴音長永田大尉(小笠原弘)が何も異常がないことを申告すると、艦長佐々木中佐(藤田進;呂号潜水艦であれば、普通は少佐)は潜望鏡深度18を指示し、潜望鏡で海上を探る。敵艦艇がいないことを確認して、再び浮上する。そこに、第六艦隊司令長官から、横須賀にある潜水艦基地に二ヶ月振りに帰投すべく指令が入る。ここまでのシークエンスでは、潜水艦模型の特殊撮影を一部入れながら、実写とセット撮影部分とを交互に繋げてストーリーが展開する。移動カメラで艦内を見せる部分では、本作の主役である呂号潜水艦の内部が中型潜水艦の割に随分余裕のある設計で、筆者には違和感を覚えさせる。

 水兵には入湯上陸をさせ、士官は、料亭で、長官主催の慰労会が開催され、ここで、各将校の人柄が描かれる。副長の堀田先任士官(丹波哲郎)は、きびきびした、如何にも有能そうな海軍大尉であり、同じく大尉の永田聴音長は、水中測的担当で、電波探知儀(電探)の技術改良に没頭していて余り面白味のないやもめの士官である。一方、軍医長の立花中尉(中山昭二)は、料亭「松政」に出ている芸者と既にいい仲になっており、宴会は早々に切り上げて芸者と別の小部屋に「急速潜行」する。掌水雷長の小島特務少尉(岬洋二;故に、肩章は、黒地に細い黄色い線が一本入って、桜の一つ星)は、上陸してすぐに横須賀の町にある小鳥屋に出掛け、飼っているインコに上手い餌を与えようという、いかめしい面相にしては好人物である。佐々木艦長自身、宴会は早々にして去り、自宅に幼い息子に会いに行く。妻も可成りの年齢がいっている女性のように見え、佐々木は随分と遅くなってから、目に入れても痛くない子供が出来たのであろう。このようにして、各登場人物の性格描写が比較的丁寧になされており、本作に好感が持てる。こうして、潜水艦ろ号は出航命令を再度受ける。

 サンパンが陥落した後であるから、時は、1944年七月以降である。目的地は、東京とニューギニアを結ぶ東経線上、緯度は約フィリッピンのセレベス島南端に位置にするメレヨン島である。(現ミクロネシア連邦内にあり、別名は、ウォレアイ環礁である。戦争中は日本軍守備隊約七千名中、約五千名がここで戦病死して、「戦わずして玉砕した悲劇の島」と言われるが、戦後、ここから約千六百名が復員した。)任務は、この前線基地を守備する日本軍に食糧を輸送することで、本来の潜水艦活動から離れたものであった。ガダルカナル島がいわゆる「餓島」となった「ガダルカナル島の戦い」(43年二月に日本軍撤退)と同様の運命であるが、この時期には、日本側に制空権、制海権がなくなっている状況での窮余の策であった。(駆逐艦による輸送を「ネズミ輸送」と言ったのに対して、潜水艦によるものを「モグラ輸送」と呼んだ。)

 次のろ号潜水艦の任務は、沖縄戦に伴ない「水上特攻」を敢行した不沈艦大和が沈没した45年四月以降の同年七月の、「残存四十数隻を投入する潜水艦特攻作戦」である。ここら辺のストーリー展開は、無声映画よろしく間字幕を使ってのものであるが、何れにしても、ろ号潜水艦もまたこの潜水艦特攻作戦を担う一艦として、勇壮な軍艦マーチと帝国海軍の「帽振れ」に伴なわれて、横須賀港を中部太平洋方面に出航する。

 佐々木艦長が機嫌よく艦橋で、西郷隆盛の西南戦争を題材とした熊本民謡の『田原坂(たばるざか)』を唸っているところに、丁度通信が入る。それによると、原子爆弾を積んだ重巡洋艦イアンディアナポリスがテニアン方面に航行中であると言う。

 こうして索敵中の潜水艦ろ号は、まず、空母一隻を撃沈する。当然、これに対して、潜水艦ろ号は、米駆逐艦に爆雷攻撃を仕掛けられ、これを十数時間、海中で耐える。次第に酸素ボンベが空になって、艦内の乗組員が呼吸困難に陥っているところ、ろ号潜水艦は電探でインディアナポリスを感知、これに魚雷戦を仕掛ける。さて、潜水艦ろ号の運命や如何?


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 まず、題名の「潜水艦ろ号」について述べようと思う。これは、正式には、「呂号」と記すべきものであり、ある一つの潜水艦に付けられ得る名称ではなく、潜水艦の大きさからこれを分類するための冠称である。つまり、水上基準排水量による違いにより、大日本帝国海軍では、1923年以降(つまり、ワシントン海軍条約以降)、1000トン以上の潜水艦を伊号、1000トン以下、500トン以上のものを呂号、500トン以下のものを波号と呼んだ。

 そして、この水上基準排水量の違いは、潜水艦の用途の違いをも意味する。波号潜水艦は、基本的には日本近海を守備範囲とし、特定の用途のために使用された初期・旧型潜水艦であったと言ってよく、呂号潜水艦は、基地から洋上に出て、哨戒活動を主に行なった二等潜水艦であった。

 一方、伊号潜水艦の中では、とりわけ、艦隊行動に適した、つまり、艦隊に同行できる速度を満たす艦級があって、この型式を「海軍大型潜水艦」(略して、「海大型」)といい、これに対して、伊号潜水艦の中で、「巡洋潜水艦」(略して、「巡潜」)とも言われて、長距離の外洋航行能力を保持し、敵方の通商を破壊する目的で建造された潜水艦型式もあった。

 故に、呂号潜水艦は、「海大型」に対して、「海中型」と別称してもよいのであるが、太平洋戦争中に投入された呂号潜水艦には、艦級により、海中型の呂六型二隻、海中型の呂35型18隻、更に、他の呂型をより小型にして量産しやすくした呂百型18隻があったのである。これらの呂号潜水艦38隻は、一隻を除いて、戦闘海域で戦没しており、呂号潜水艦全体で見ると、撃沈した艦艇は、駆逐艦一隻と輸送艦数隻のみに留まるのである。故に、本作のラストシーンが描く「潜水艦
ろ号」の「大活躍」(空母一、重巡洋艦一、駆逐艦一を轟沈)は、誠に「大本営発表」の偽の「戦果」である。この偽りの「戦果」では、流石に、呂号潜水艦元乗組員で、今は水底にいるはずの英霊もゆっくり眠ってはいられないのでないか。

 更に、原子爆弾を載せた重巡洋艦インディアナポリスの轟沈である。確かに、インディアナポリスは日本の潜水艦に沈められたが、それは、呂号ではなく、伊号潜水艦によってであり、しかも、かの重巡洋艦が「新型爆弾」を運び終えて、帰投する途中であったのである。「新型爆弾」が日本に投下されたのは、日本人であれば、誰でも知っているはずであり、このように誰でも分かる嘘を何故に本作は吐かなければならないのか。これでは、希望的観測を現実と取り違えて戦争遂行を誤った戦時中の誤りをここでもう一度犯したいとでも言うかのようである。

 そして、本作で描かれる潜水艦
ろ号の外部並びに内部の問題である(美術:新藤誠吾)。本作は実写性を高めるために白黒で撮っているが(撮影:山中晋)、それは、また、実写フィルムを所々挿入するところから、それとの整合性をとるために、白黒にしなければならなかった理由もあった訳である。ウィキペディアによると、挿入されている実写部分は、1944年に撮られた戦争記録映画『轟沈』からのものであり、別のインターネットの記事によると、この記録映画で登場する潜水艦は、伊型潜水艦の幾つかの艦級であると言う。であるから、国策ドキュメンタリー映画に登場する伊型潜水艦に合わせるために、セット作成した「潜水艦ろ号」も伊型潜水艦のサイズを採らざる得なかったのである。故に、見た感じが本作の潜水艦の内部がゆったりしたものであると見えたのも当然である。同様に、「潜水艦ろ号」に取り付けてある単装砲は、恐らくは伊型のものであるようであり、砲戦をやろうとすれば、呂型の高角砲や連装機銃では対駆逐艦では歯が立たないはずである。

 事程左様に、本作の脚本は出鱈目が多く(脚本担当:新井一及び監督の野村浩将;原案:髙橋一郎)、本作の最初に謳ってある高尚な英霊に敬仰する気持ちとは裏腹に、本作には、戦争娯楽映画の負の側面が露わに出ているとしか言いようがない。

 最後に、本作でも言及される第六艦隊について述べておこう。この艦隊は、潜水艦艦隊とでも言えるもので、それまで戦艦を中心とする各艦隊に配属されていた潜水戦隊を統合して運用しようと言うことで1940年11月に編成されたものである。これは真珠湾攻撃の約一年前のことである。41年12月の艦隊編成では、三つの潜水戦隊があり、一つの潜水戦隊は、二つから四つの潜水隊から構成されている。そして、一潜水隊は、基本、潜水艦三隻から成っている。ウィキペディアによると、全ての潜水艦は、伊号潜水艦であった。

 これが、44年四月になると、潜水戦隊がろくに編成できなくなり、編成できても、複数の潜水隊で成り立っているのではなく、伊号艦に加えて呂号艦も入れて、十隻前後で一潜水隊にしている。この時の「第七潜水戦隊」では、第51潜水隊のみから出来ており、しかも、この潜水隊は、全艦呂号百型艦(「呂号小型」)であり、11隻で構成されていた。(因みに、ガダルカナル島攻防戦後の1943年春以降は、米海軍側の対潜能力は、日本側が逆探しかなかったのに対して、聴音機、電波探信儀共に性能が向上しており、更には、濃密な対潜哨戒機の投入により、潜水艦に必要な海上航行さえも難しくなっていた。そして、米駆逐艦は、英国海軍が対Uボート戦で開発したヘッジホッグ、つまり、多数の小型弾24個を楕円状に一度に発射し、その内の一発が爆発すれば、全部が誘爆する新兵器を導入して、マリアナ沖海戦では目に見える「戦果」を挙げている。これに対して、日本側は、太平洋戦争開戦時からの、潜水戦隊を艦隊の前面に押し出し、哨戒任務とともに、敵艦隊を邀撃・漸減する散開線戦術に終戦まで拘り、本来、潜水艦戦が意味を持っていた後方遮断戦、インド洋で一定の成果を挙げていた通商破壊戦に踏み切れなかったのである。)

 45年六月の最終の艦隊編成では、一潜水戦隊と五潜水隊のみとなっており、この時期には大体の呂号潜水艦が戦没していたので、伊号潜水艦と、更には、波号潜水艦も駆り出されて、艦隊を形成したというさんざんたる状況であった。それでも未だ呂号潜水艦で戦闘艦として残っていたのは、呂号46、50、109の三艦のみであり、この内、終戦前に戦没したのが、呂号46と109であるので、本作の「潜水艦ろ号」に該当するのは、時期的に言うと、この内のどちらかということになるが、ウィキペディアによると、両艦とも、既に45年五月に沖縄方面で亡失していた。呂号50は、中国・大連の港で終戦を迎え、46年四月、米軍により、五島列島沖で爆破、海没処分を受けて、今も海底に眠っている。

2025年8月21日木曜日

オブリヴィオン(USA、2013年作)監督:ジョセフ・コスィンスキー

  本作のストーリー上の現在は、西暦2077年である。今年は2025年であるから、約50年後の近未来の話しである。しかし、本作の制作年は、2013年であったから、この時点から見ると、64年後のストーリーで、しかも、「異星人」Scavengersスカヴェンジャーズ(「街路清掃人」、「ハゲタカなどの屍体を漁る動物」を意味する差別的表現)が地球を侵略し出したのが、2017年のことであるから、制作年の四年後には、エイリアン侵攻が始まって、その侵攻から60年が経った時期のことを描くのが、このディストピア作品である。(因みに、現実の世界で2017年に何が起こったか。第一次トランプ政権が誕生している。)


 Unit49(ユニット・フォー・ナイン)は、男女のチームから成っている。JackとVikaである。ジャック(コードネーム:Tech 49)は、トンボを巨大化したような飛行物体で一帯を見張り、武装したドローンが故障すれば、それを見つけ出して修理する修理屋でもある。一方、ヴィカは、コントロール・タワーから、ジャックにナヴィゲーションを与え、例えば、墜落したドローンの場所を知らせたりするインフォメーション・オフィサーである。


 彼等は、地表から千メートルもあろう高度の高さにあるコントロール・タワーで勤務しており、このタワーは同時に二人のスタイリッシュな住居でもあり、プール付きでもある。ガラス張りの部屋からは、夜には、その一部が破壊された月が見え、月の破壊された部分は、月の周りを回っている。

 月の一部が破壊されたのは、スカヴェンジャー(以下、映画内でも使われている「スカヴ」と略す)が地球に侵攻した時のことで、それにより、地球は、大規模な地殻変動が起こり、大陸は大津波に襲われた。こうして、スカヴは地球上に侵攻してきた訳であるが、この侵攻を食い止めるために、人類側は最後の手段として、核兵器を使用せざるを得ず、地球は放射能汚染で人類が住めない区域が出来たため、生き残った少数の人類は、土星の惑星タイタンに移住した。しかし、この核兵器使用により地球はスカヴの侵攻を食い止めることが出来、それでも生き残っている一部のスカヴがゲリラ戦を続けている。彼等は、ドローンを撃ち落し、それに使われている核燃料を、文字通り、「掠め取り」、それを今度は、タイタンに住んでいる人類のためのエネルギー供給に設置されているhydro rigハイドロ・リグ(海水から重水素を生成し、それを貯蔵する巨大プラント)を破壊したりするのに使うのである。

 Unit49は、Sallyという司令官から指示を受けて、活動しているが、Sallyは、地球の軌道を回っている「Tet」という黒い物体の中にいるらしい。「Tet」とは、tetrahedronというギリシャ語から来ており、tetra-が「四」を、hedronが「座、面」を意味して、「四面体」を指す。この言葉の最初の三文字を採って、「Tet」と名付けられた物体である。「四面体」は、別名、「三角錐」ともいい、円錐の底面が円であるのに対して、角錐の底面が三角形で、角錐として、最も面数が少ない四面で、三角形が四枚合わさって四面体を形成するので、tetrahedronという言い方も可能なのである。この三角錐の底辺の三角形を上部にし、尖った錐の部分を下にして、Tetは地球の軌道を回っている。そして、重水素採取用プラントからエネルギーの供給を受けているのである。

 このTetにいると思われるSallyから、Unit49は司令を受け、任務を遂行しているのであるが、外で働くTech 49に特に当てはまることがある。それは、スカヴに囚われて、情報がUnit49からスカヴ側に流れないように、ジャックもヴィカも過去の記憶は消されていることである。そこから、本作の題名『Oblivion』が採られており、この言葉は、英語で、「忘却」を意味する。さて、Unit49は、何を忘却しているのであろうか。そして、対スカヴ闘争はTet側の勝利に終わるのであろか。

 本作の撮影監督は、Claudio Mirandaで、チリ出身でUSAで活躍している人物である。デイヴィット・フィンチャーの『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』(2008年作)で、デジタル式映画撮影作品としては、初めてアカデミー賞と全米撮影監督協会賞にノミネートされた実績を持つ。故に、本作での、モード・グラビア雑誌の写真のようにスタイリッシュな映像に本作は冴えている。

 一方、ストーリーはどうであろうか。原作は本作の監督でもあるJoseph Kosinskiが共同制作した、ある未公開のグラフィック・ノヴェルであるそうであり、確かに、SF娯楽作品としては十分に観るに堪える作品である。しかし、ストーリーとしては、これまでのSF作品のいいところを取ってきて、継ぎはぎしたような感じである。まずは、題名『忘却』から、1990年作の『トータル・ルコール』が思い出される。核戦争による地球の荒廃と人類の存在位置という点では、1968年作の『猿の惑星』のストーリー展開に何か似ている。黒い壁面のTetの存在とその役割という点では、『2001年宇宙の旅』に本作がオマージュしているのではないかとも思われるが、実際、『2001年宇宙の旅』の英語原題は、『A Space Odyssey』で、本作のJackが元々船長であった宇宙船は、Odyssey号というのである。更に、クローン人間の問題は、SF作品としては、山ほどあるであろう。

 とは言え、次の点を、ストーリーの展開上、本作の序盤で上手く組み入れている。つまり、イギリス人Thomas Macaulayトーマス・マコーリー男爵が19世紀前半に書き上げた詩編『Lays of ancient Rome古代ローマの歌物語』の第XXVII章が引用される部分である:

Then out spake brave Horatius,
The Captain of the Gate:
"To every man upon this earth
Death cometh soon or late.
And how can man die better
Than facing fearful odds,
For the ashes of his fathers,
And the temples of his Gods.“

 この歌物語は、古代ローマにいた独眼の勇敢なホラティウスが、エトルリア人の大軍が攻めてきた時に、テヴェレ川に掛かっている橋を戦友二人と三人で守りきった英雄譚で、自分たちの後ろにある橋の土台を壊させながら、この間にエトルリア兵と戦い、頃を見計らって、戦友二人を退却させ、自分は鎧を身に付けたままテヴェレ川に飛び込んで、一説には神々のご加護により助かった、一説にはそのまま溺れ死んだという内容のものである。

 この一節が、本作最後のクライマックスに効いてくるのは、流石にニクイ演出と言える。


2025年8月12日火曜日

泣け!日本国民 最後の戦斗機(日本、1956年作)監督:野口 博志

 まず画像に、「この一篇を雲の彼方に散った若人のために捧ぐ」と流れる。

 すると、早速、当時の実写の場面が写し出され、恐らくマリアナ沖海戦か、沖縄戦における神風特攻作戦の場面が一部特撮を混ぜて見せられる。(特撮:日活特殊技術部;やはり、戦前からの東宝・特撮部、円谷英二班のものには見劣りする。)

 続けて、次の挿入文が流れる:
「沖縄敗れ 日本の空と海は 米機動部隊に征圧された」
「終戦近く」
(つまり、沖縄戦が終わった45年6月下旬以降のことになる。)

 こうして、タイトルロールは、『最後の戦斗機』という題名から始まる。背景は、雲の上の風景で、最初の「雲の彼方に散った若人」に合わせたようであり、BGMは、ハミングによる、まるで鎮魂歌を聞いているかのようである(音楽:牧野由多可)。(作中では多くの軍歌、例えば、「定番」である『同期の桜』や、学徒動員による飛行予備学生が多い訳であるから、当然に学生歌『デカンショ節』などが作中歌われ、聞こえる。)

 本作の原作は、谷本敏雄作の『黒い河』により、脚本は三人掛かりである。タイトルロールは、監督名「野口博志」で締めくくられるが、背景は、雲上を飛ぶ五機編隊(先頭を一機が要となり、後方に扇状に開く形)の戦闘機になっている。(BGMは、『海行かば』である。)

 太い機体からそれは、零戦ではないことはすぐに分かったが、シーンが変わって、それは二人乗りの日本の飛行機(二人乗りであるところから、戦時中の艦上爆撃機「彗星」たり得るが、戦後は破壊されているであろうから、これは、米軍のお払い箱のプロペラ機であろう)であることが分かる。一機は、機体が故障したのであろう、次第に戦列から離れて、高度を低めていく。他の四機は、更に、前進して、雲間から米機動部隊を発見すると、右に旋回して、突っ込んでいく。実写場面となり、日本機が米空母などに体当たりする場面が映し出されたり、稚拙な特撮場面が見られたりする。

 故障機からは故障の連絡が本部の航空基地に入るが、司令官・関根少佐(西村晃:自身に特攻隊員であった実体験あり)は、「特攻は、必死必殺であり、帰還はあり得ない」と言って、故障機の帰還を拒んだところから、故障機は自爆せざるを得ないことになり、犬死は無駄であると考える分隊士・白井中尉(葉山良二演じる、本作の主人公)は、少佐に抗議していたのである。武士道の古典『葉隠』にも、犬死はするなと書いてある。

 「国民精神総動員」と書かれた全体主義国家のスローガンが街中に見られる中、恐らく南九州(鹿児島か?)にある海軍航空基地がある町には、海軍士官倶楽部「ちよもと」があり、この日は、新司令官関根少佐の着任を祝しての宴会が催される。関根は、フィリッピン戦線から「転戦」してきた佐官級将校で、断末魔に喘ぐ帝国海軍の最後のあがきである「特別攻撃」で、「必死必殺」の標語を以って「海軍飛行予備学生」を特攻隊員として死地に送り出す軍人である。彼の配下に、第二〇三海軍航空隊があった。

 この頃には不沈艦大和も撃沈されており、連合艦隊なるものは帝国海軍には最早存在しておらなかった。故に、母艦海軍航空隊なるものも存在しておらず、陸上基地航空隊のみしかあり得なかったのである。第二〇三海軍航空隊は、元々は、戦闘機乗りを養成する「厚木航空隊」が44年二月に改編されて出来た航空隊で、それ以降、戦闘航空部隊として各地を転戦していた。翌年の二月に編成された宇垣纒中将率いる第五航空艦隊に、第二〇三海軍航空隊も編入されるが、それまで黙認という形で行なわれていた「特攻」が、艦隊編成の基本方針としてここにはっきり謳われることとなった訳で、宇垣は長官訓示で全員に特攻の決意を全艦隊に徹底させていた。

 海軍航空隊は、航空「艦隊」を構成する航空「戦隊」を形作る一つの単位である。そして、一海軍航空隊は、幾つかの航空「分隊」で編成されており、一航空分隊は、普通は、九機で成り立っている。更に、一航空分隊は、三つの班に分かれ、それぞれを中尉または少尉、更には、他国の航空部隊では余り見られないのではあるが、兵曹長が指揮するのである。映画によると、鹿児島の鹿屋にある航空基地には五航艦の司令部があるようであり、そこから、補充の戦闘機が五機、送られてくる。こうして、五航艦の参謀も特攻作戦の督励に移動してくる中、敵艦載機の基地攻撃で、「同期の桜」たる戦友が機銃で撃たれて戦死すると、負傷により特攻隊員から一時外されて情報係りとなっていた白井中尉は志願して、特攻出撃隊員となる。

 しかし、搭乗していた戦闘機が故障して戦列を離脱した白井(頭に締めた鉢巻きには「八紘一宇」の文字が見える)は、海上に不時着して、同乗していた二兵曹は溺死したのにも関わらず、白井は救助されて出撃後の一週間後に、基地に帰還する。白井は、特攻の理由を以って、二階級特進の「軍神」となっていたのである。「必死必殺」を豪語する関根少佐は、元々「犬死はしない」と誓っている白井中尉を謹慎処分にする。早速、次の出撃命令を受けるものの、今回も搭乗機の故障で帰還した白井には、航艦司令部も知るところとなり、銃殺の刑が科せられるのではないかというところまで、事態はエスカレートする。

 このように錯綜する中、結局、白井は、自分の大学の先輩で航空隊の副官をやっている戦友・遠藤中尉(大坂志郎が、後輩と上官の間に立つ者の苦悩を好演)の「介添え」を受けて、二人で最後に残っていた戦斗機に乗って、笑顔で(!)雲の彼方に飛んでいったのである。

 さて、このように「男の戦時世界」が描かれる一方で、それに関わる「女の戦時世界」も描かれる。海軍士官倶楽部「ちよもと」は、その名の通り、海軍士官が訪れる、商売上手な女将(北林谷栄)が営む料亭であるが、ここには住み込みの芸者が五人ほどおり、その中の一人にあき子(渡辺美佐子が好演)がいた。彼女は、気が強くて粋のある芸者で、「ちよもと」に来る特攻隊員とは枕を一緒にして、出撃前の特攻隊員に「筋金」を入れてあげる、言わば、内地の「慰安婦」であった。ふとしたことで白井中尉と知り合った彼女は、誘惑しても乗ってこない白井の潔癖さに、普通の男にはない魅力を感じ、白井を好きになってしまう。そして、最後には、銃殺になるかもしれない白井を思い、彼のために命を落としてしまう哀しい存在である。

 他方には、「身体は汚れているが、心は清い」あき子に対して、「身体は病気で冒されているが、心は愛に貫かれた」女性、則子(芦川いづみ)がいる。彼女は、白井が学生時代に知り合った高等女学校の生徒で、二人は愛を誓い合い、白井が軍隊に招集された後も、お互いがそれぞれ記念の対の鈴を持っていることで、遠く離れていても、思っている心ではお互いがすぐ側にいる存在として、愛によって結ばれていたのである。結核で弱っている身体であったが、則子は、虫が知らせたのか、東京から鹿児島まで白井に会いにくる。実は、二人が再会したのは、白井が最初に特攻に出撃する前日で、白井は、そのことを則子に告げることを躊躇したのである。翌日、白井が出撃したことを回りから聞いて知った則子は、そのまま海岸に向かう。そして、あるそりたった岩の上にきりっと立ったままの則子は、じっと海を見つめたままで、シーンはカットされる。(58分台)その後、帰還した白井が、遠藤副官の好意で、則子が書き上げた、以下のような遺書を読む機会がある:

 「静かな海原です。則子は、この海のどこかで死んでいった白井さんと同じように海に身を沈めます。もう別れなくてもいい。そして、永遠に別れることのない平和な国で、白井さんと誓った通り、二人で一つの美しい命を生きるのです。ただ、心残りは、貴方のお母様を一人ぼっちにしたことです。お可哀そうなお母様。則子は、遠い海の向こうから白井さんとご一緒にお護り致します。白井さんにお会いしてから、短いけれど、楽しかった数々の思い出、これが則子の美しい人生の花でした。則子は、この美しい花を咲かせるために生まれてきました。そして、その花が散った時、則子の命は燃え尽きてしまうのです。今は何も思い残すことなく、則子は海に入っていきます。海の向こうにいる貴方の所へ。」(78分台から約二分間)

 この美しい純愛を引き裂いたのは、戦争である。民族共同体の仮想の中、国家のために死ねと言われ、死ぬには拘泥しないが、犬死はしないという、最後の線での抵抗を示した白井中尉と、彼が自分を思いながら死地に向かい、死んでいったと思い込んだ則子は、白井へのこの世での愛を貫くために、彼が英霊として生きているはずの海の世界へと投身自殺したのであった。

 先の「環」太平洋戦争では、この白黒の反戦映画が描いたような悲劇がいくらあったことであろうか。それは、日本人だけではない。アメリカ人、イギリス人、オランダ人、そして、中国人、東南アジア人にも、戦争による多くの悲劇が起こったのである。そして、この「環」太平洋戦争を引き起こしたのが日本であったことも我々日本人は忘れてはならない。(八十周年目の八月十五日を迎えるに当たって筆者は強く思う。)

2025年8月7日木曜日

空爆特攻隊(USA、1969年作)監督:ボリス・セイガル

 大英帝国の空軍RAF(Royal Air Force)が対ナチス・ドイツ帝国に空からの反攻を本格的に始めるのは、ようやく、1941年になってからである。何故なら、大英帝国は、1940年夏以降、「イングランド航空戦」を戦わなくてはならず、それが、長くて41年春まで掛かる。そして、北アフリカ戦線で英米連合軍が北アフリカ上陸後にロンメル軍団に優位を築くのは、42年夏であるから、この北アフリカ戦線へも爆撃機が割かれてもいたのである。

 このRAFに加わることになるのが、USA「陸軍」航空部隊United States Army Air Forces(USAAF)であり、対独戦略爆撃を担当することになるのは、USA陸軍第八Air Forceであった。因みに、対イタリア戦略爆撃を担当したのは、第九Air Forceであった。

 1941年12月7日(USA側の時間)の真珠湾攻撃により、USAは対日交戦状態となるが、日独伊三国同盟により、ナチス・ドイツもまた対USAへの宣戦布告を行なう。USA陸軍第八Air Forceがイギリス本土に移駐するのは、42年7月であるから、既に約半年でイギリスに移駐していたことになり、その翌月から対独戦略爆撃が始まる。このことは、USA軍の兵站力の強さを思わせる。

 この1942年段階での対独戦略爆撃について、あるUSA爆撃部隊・准将(グレゴリー・ペック)の作戦遂行上の苦悩を描いた作品が名作『頭上の敵機Twelve O'Clock High』(1949年作、ヘンリー・キング監督)である。「Twelve O'Clock High」とは、ドイツ空軍戦闘機がUSA爆撃機B-17を攻撃する際、防備の比較的薄い爆撃機の「船首」を目がけて、爆撃機から見て、12時方向真上から攻撃を仕掛けてくることを言う。

 「Flying Fortress(空飛ぶ要塞)」とは、USA製四発重爆撃機B-17に付けられた別称で、B-24 Liberator(「解放者」)と並んで、第二次世界大戦中のUSAを代表する重爆撃機である。B-17よりも後に開発されたB-24は、当然、より性能が高く、汎用性も高かったが、B-17は、堅牢性が高く、破損を受けてもドイツからイギリスに生還できる可能性が高かったところから、クルーには、「空の女王」と呼ばれ、B-24よりも好まれていたと言う。その点を描いたのが、『Memphis Belleメンフィス・ベル(「メンフィスのカワイ子ちゃん」)』(1990年作、M.・ケイトン=ジョーンズ監督)で、ストーリーの時点は『頭上の敵機』より後で、本作と同じ1943年のことである。

 時は、1943年ともなると、RAFのランカスター四発爆撃機が行なう夜間絨毯爆撃に対して(ドイツ空軍のイギリス空襲への報復措置)、USA第八Air Force軍が担当する昼間「精密」爆撃も軌道に乗りつつあり、本作がストーリーを盛り上げるために述べ立てる「危険性」は、確かに、P-51マスタングの護衛戦闘機がドイツ上空まで付き添って来られる44年以降よりは高いはずであるが、42年の状況よりは低かったはずである。故に、本作冒頭の爆撃機18機を駆ったフランス東部のMetzメッツ市に対する空爆作戦は何も「秘密」にする程のものではなかったのである。(故に、本作の邦題『空爆特攻隊』は、可成りの誇大表示である。)

 しかも、本作の原作となるRalph Barkerが書いた『The Thousand Plane Raid』(本作の原題でもあり、Raidとは「急襲」の意味)は、実は、RAFが1942年五月に敢行したケルン爆撃の史実に基づくものであって、千機以上の爆撃機を投入しての爆撃作戦は、何もUSA陸軍航空部隊の独創的な作戦ではないのである。更に言えば、本作でクライマックスとされる、ベルリンより南にあるMerseburgメルゼブルクへの空爆も、実は、対象とされる、Bf109 メッサーシュミット機と並ぶドイツ名戦闘機Focke-Wulf 190フォッケ・ヴルフ190の製作工場(本社はブレーメン)は、筆者が調べたところでは、この地Merseburgにはなかったと思われるのである。Merseburgの近郊には、Leunaロイナという場所にドイツの軍需産業にとって重要な化学工場、とりわけ、石炭から燃料を製造する工場があり、この地に対する大規模空襲が行なわれるようになるのは、1944年五月からである。何れにしても、以上のように、本作のストーリーは可成りいい加減なものであることが想像できる。

 さて、「爆撃機千機投入作戦」は、RAFのBomber Commandを指揮することになったArthur Harrisアーサー・ハリス空軍元帥が、対独戦略爆撃の効用を大々的に宣伝するために考えついた作戦であった。こうして、未だ十分に爆撃機が足りていない状況であったにもかかわらず、北ドイツのハンブルクを攻撃地と定めて、英軍の各所に当たって、爆撃機を探し求め、1.047機をかき集めることが出来たのである。天候に大きく左右される夜間攻撃は、結局、1942年五月30日の夜に、二次目標であった、西部ドイツにあるケルン市に向けられた。

 このような「爆撃機千機投入作戦」は、その後、エッセン、ブレーメン、ベルリン、ミュンヘンに対して敢行されたが、これ程の大量投入とまでは行かなくとも、ドイツでの空襲でドイツ国民を大きく動揺させたものとしては、1943年夏のハンブルク空襲と1945年二月のドレースデン空襲である。

 エルベ川沿いの「ヴェネツィア」と呼ばれた文化都市ドレースデンに、休戦条約締結の五月八日まであと三ヶ月もない時期に大空襲を掛ける戦略的意味は殆んどなかったのであるが、それは、日本で言えば、東京大空襲の後の45年五月か六月に京都に空襲することと同様な意味合いを持ったのがこのドレースデン空襲であった。(この記事を書いている2025年八月六日、広島への原爆投下80周年の日に、ドイツの地のドレースデンでは、第二次世界大戦中に投下された不発爆弾が三個が発見され、無事に処理されたと言う。先日にはケルンでも同じ不発弾処理が同じ年の25年にニュースになっている。処理されたのは、あの最初の「爆撃機千機投入作戦」で投下された爆弾であったのであろうか。ドイツでは、「あの先の大戦」が終わって80年経っても未だに戦時中に投下された連合国軍の投下爆弾が発見されるのである。)

 一方、43年七月下旬からのハンブルク空襲はその死者が約三万四千人にも上った大惨事であった。ナチス・ドイツがソヴィエト連邦への侵攻を始めたのが、42年六月であったが、これを受けた、スターリン側の連合国へのヨーロッパ第二次戦線の構築の要求を宥めようとして、イギリス側は、戦略爆撃の方法を変えることにする。即ち、それまで、軍需施設や鉄道網の破壊に集中した爆撃攻撃を、無差別絨毯爆撃攻撃に転換し、とりわけ、工場労働者が住む住宅地域に焼夷弾を集中的に落とし、以って、住居を焼き払い、ドイツ産業の生産力を低下させるのみならず、ドイツ国民の士気を挫くことを目指すことにしたのである。このような文脈で、上述の42年五月の最初の「千機爆撃機投入作戦」が続行され、翌年七月下旬に、ユダヤ教の神が道徳的に堕落したGomorrahゴモラの市民の上に「硫黄と火の雨」を降らせて罰を与えた如く、ハンブルクに対して、「ゴモラ作戦」が決行される。

2025年8月4日月曜日

フライング・フォートレス(USA、2012年作)監督:マイク・フィリップス

 1939年九月にナチス・ドイツがポーランド西部を侵攻したことで、第二次世界大戦は勃発した。ファシズム・イタリアは、同じ全体主義のナチスの動向を注視していたが、ドイツが40年の対仏戦で圧勝すると、この年の六月十日に対英・仏に宣戦を布告する。

 これを受けて、翌日の六月11日、早速イギリスを飛び立ったRAFの爆撃隊は、途中で燃料を補給しつつ、イタリアのトリノにあったフィアット工場を爆撃し、また、未だ南仏に駐留していたイギリスの航空派遣部隊が、六月中旬に北イタリアの工業地帯、即ち、ジェノヴァ、トリノ、ミラノなどを戦略的に爆撃した。フランスのヴィシー政権が誕生すると、もちろん、この動きは止まり、イギリスは、対ナチス・ドイツとの「イングランド航空戦」に引き込まれる。

 大英帝国のRAFの対枢軸国への反攻が始まるのは、ようやく、1941年になってからであり、対イタリアへの本格的反攻も翌年の10月下旬になってからであった。北アフリカのロンメル軍団を北アフリカから追い出す見通しが付いたからである。こうして、北アフリカに駐留していたRAFの爆撃部隊は、1940年と同様に、北イタリアの工業地帯への戦略爆撃を開始する。42年12月に、北アフリカのチュニジアやアルジェリアなどに本拠を置くUSA陸軍第九Air Forceが戦略爆撃に参加し(対独戦略爆撃を担当したのは、第八Air Force)、南イタリアのナポリを攻撃する。このナポリ及びシチリア島にある町々への攻撃は1943年半ばまで続く。43年七月に連合軍のシチリア島侵攻が行なわれると、これ以降、連合国による、人口の多いイタリア諸都市に対する絨毯爆撃が連続して行われ、戦略爆撃の本来的目的である、インフラの破壊と住民の反ファシズム政権への動員が本格化する。同年七月12日には、イタリアで行なわれた空爆でそれまで最も大きな被害が出たトリノ空襲が遂行され、この空襲により、約800名の一般市民が死亡した。そして、この作戦に連動したものとして、本作でそのクライマックスとされる、最初のローマ大空襲は、米英爆撃隊の共同作戦「クロスポイント」として七月19日に実行される。これには約500機の爆撃機が参加することになる。この中の一機が、本作の主役たるB-17爆撃機Lucky Lass(「幸せを呼ぶ娘っ子」)号となる。

 約500機の米英連合爆撃隊は昼頃を中心にして約三時間、三波に分かれて爆撃を敢行し、とりわけ、ローマ市の東部にあるSan Lorenzo地区(貨物駅と製鉄所)を爆撃した。爆弾量は、合計一千トンに及ぶ。この攻撃により、約1.500人が死亡し、約1.600人が負傷した。多数の建物も破壊され、その内の一つが教皇バジリカ教会であるSan Lorenzo教会であった。

 時の教皇ピウスXII世はSan Lorenzo地区に早速赴き、住民に慰めの言葉を掛けたが、教皇庁は、連合国側に抗議の声明を出し、USA大統領F.ルーズヴェルトに対し、ローマのキリスト教世界の「首都」としての性格を尊重し、今後このような爆撃が聖都に行なわれないように要請し、また、イタリアの政権に対しては、軍事司令部をローマから移動させて、連合国側にローマ空襲の口実を与えないように呼び掛け、ローマを「開城都市」として宣言した。(映画では、連合国側がヴァティカンに連絡を取り、また、事前に爆撃地域を告知してあり、ビラで地域住民が爆撃地域から避難するように呼び掛けてあるという設定である。本当であろうか?)

 この作戦の六日後、ムッソリーニ政権は倒れ(つまり、今日でいう「レジーム・チェインジ」)、戦略爆撃の本来の目的が達成された、歴史上最初の事例となる。九月八日、イタリアと連合国との休戦協定が成立する。

 しかし、43年九月以降、イタリアを占領しているドイツ軍に対する地上攻撃支援の意味を持つ、今度は戦術爆撃を米英連合爆撃隊は、とりわけ、中部イタリアに対して敢行する。その空爆が持つ戦争犯罪に繋がる側面が最悪に出たケースが、ローマから南にあるモンテカシーノ修道院に対する爆撃で、ここにドイツ軍の監視所が置かれると誤認した連合軍は、約400機の爆撃機を動員して、この修道院を建物の土台が分からなくなるまで爆撃したと言う。こうして続けられた、イタリアにおける対独戦の結果、連合軍は、聖都ローマを占領することとなるが、それは、1944年六月四日、対ローマの最初の大空襲から約11ヶ月が経ってからのことであった。(ウィキペディアによると、この期間のローマ爆撃「キャンペーン」で約600機の連合国爆撃機が失われ、約3.600人の連合国航空兵が戦死したと言われている。)

 本作の題名『Flying Fortress』(「空飛ぶ要塞」)は、USA製四発重爆撃機B-17に付けられた別称で、B-24 Liberator(「解放者」)と並んで、第二次世界大戦中のUSAを代表する重爆撃機である。B-17よりも後に開発されたB-24は、当然、より性能が高く、汎用性も高かったところから、偵察機や対潜哨戒機にも使われた機種であるが、B-17は、堅牢性が高く、破損を受けてもドイツからイギリスに生還できる可能性が高かったところから、乗組員には、「空の女王」と呼ばれ、B-24よりも好まれたと言う。その点を描いたのが、『Memphis Belleメンフィス・ベル(「メンフィスのカワイ子ちゃん」)』(1990年作、M.・ケイトン=ジョーンズ監督)で、ストーリーは本作と同じ1943年のことで、ある対独戦略爆撃飛行を描く。一方、本作は、同じ1943年でありながら、対イタリア戦略爆撃飛行を描き、Lucky Lass号の渾名が称する如く、損傷を受けながらも、自陣の航空基地近くまで到達し、砂漠上に乗組員がパラシュートで降下し、機体は失われるものの、乗組員の一部が無事に基地に帰還するストーリーである。『Memphis Belleメンフィス・ベル』での護衛戦闘機がP-51マスタングであったのに対し、本作では、戦闘機としてCurtiss P-40トマホーク/キティ―ホークが護衛して、ドイツ軍戦闘機メッサーシュミット機とドッグファイトを展開するのも、興味深い点であろう。(P-40は、大戦初期においては、Bf109 メッサーシュミット機には対抗できる戦闘機ではなかったと言われており、本作に登場するP-40は改良型のキティホークIV型であるらしい。)

 同じく地中海乃至イタリアでの航空戦を描いた『キャッチ22』(1970年作、M.ニコルズ監督)では、登場する爆撃機は、双発中型爆撃機B-25ミッチェルであり、この作品では、戦略爆撃の問題性が風刺的に描かれている点、本作の無批判なストーリー展開に一つの視点を示すものとして、併せてご覧になることをお勧めする。

ユリシーズ(イタリア、1954年作)監督:マリオ・カメリーニ

 『オデュッセイア』は、古代ギリシャ神話の英雄で、知略の人オデュッセウスの冒険譚を詠った韻文の叙事詩で、24の「歌」から成っている。時系列的にはトロイア戦争が終わって、トロイアから故郷のイタケーに戻る行程が描かれるのであるが、文学的には、『オデュッセイア』では、初めの方で、オデュ...