2023年2月11日土曜日

クリスティーン(USA、1983年作)監督:ジョン・カーペンター

ホラー版『アメリカン・グラフィティー』はいかが?


 「Christineクリスティーン」が突然カー・ラジオを操つる。独りでにカー・ラジオが掛かり、車内はクリーム・ソーダを緑色に着色したようになった。ラジオのボリュームが幾らか上がって、カー・ラジオのスピーカーから曲が流れ出てくる。年代はうまく特定できないが、恐らく車のモデルからして、1950年代末のロックンロール系の曲であろう。(音楽は、一部は監督のJ.Carpenterが担当)

 この、50年代、60年代への懐古趣味といい、音楽の選曲の好みといい、はたまた、ストーリーの演じられる場所がハイ・スクールということで、筆者は、1983年作の本作を楽しみながら、G.ルーカス監督、F.F.コッポラ製作の『アメリカン・グラフィティー』(1973年作)を懐かしくも思い出していた。

 あの映画では、1960年代初頭のヒット・パレードの如く、これでもか、これでもかという具合にロックンロールが聴けたものであった。そして、車という偶像への畏敬もまた、この映画では青春の一つの要素として重要な役割を演じていた。

 さて、Stephen Kingの同名の小説を原作とする本作品のストーリーであるが、これは、車という外形の事物に人間がフェティシズム的に偏愛し、この人間の愛に今度は呪物対象物がそれに応えて自ら動き出すという、例のギリシャ神話のピュグマリオーン王と象牙の彫刻ガラテアの恋愛ストーリーを、ホラーとして変形させたものである。(或いは、このようなObject Sexuality対物性愛を、1979年に自分はベルリンの壁と結婚していると主張した、スェーデン人女性芸術家「エイヤ=リータ・エクレフ=ベルリナー=マウアーEija-Riitta Eklöf Berliner-Mauer」現象という。 )

 ホラー映画とは、その人間の原初的な恐怖感だけに訴えるということで、本来B級映画としてしか存在し得ないものである。しかし、そのB級性においてもそこに傑作と駄作とがあるのであり、ホラー映画の「巨匠」J.カーペンター監督の本作品は、カーペンター監督の作品歴の中でも秀作の一つに入るものであろう。

 音楽と供にその濃厚なフィルムの色彩感覚も1950年代にマッチさせてあり、監督のセンスのよさを感じさせる。(撮影監督は、この時期のCarpenter組のDonald M. Morganである。)1958年型のPlymouth Furyプリムス・フューリー(Sportcoupé型)の特殊赤色塗装(Toreador Red)が、如何にも「クリスティーン」と呼ばれる、この車への情熱を代弁している。

 ホラー映画というと血だらけのシーンを連続させたり、わざと観衆を驚かせるように大胆な編集をしたりと、下品な小手先を使う作品がままある中、本作品、映画作りを職人的にこなしている監督の「粋」が感じられて、好感が持てる。

 惜しむらくは、この映画の制作でプリムス・フューリーが、恐らくは20台近くが壊されていると聞いていることで、オールド・タイマー・ファンが、映画の終盤ともなると、少々悲しくもなきにしもあらずであろうことは、容易に想像できることである。

2023年2月8日水曜日

トゥルー グリット(USA、2010年作)監督:コーエン兄弟

 原作の『True Grit』は、1968年に新聞連載小説として発表された、ジャーナリスト兼小説家のCharles M. Portisの長編小説である。Portis自身が、ルイジアナ州の真北にあるArkansasアーカンソー州出身であり、小説のストーリーもアーカンソー州にあるFort Smithから始まる。小説では、当時14歳であった主人公であるMattie Rossが、あたかも自分の自叙伝を書いているように、1928年時点からの懐古としての視点が採られている。

 1968年度のヒット作となった原作は、早速同年にはH.Hathawayハサウェイ監督により、同名の映画化がなされ、翌年に初上映を飾った。J.Wayneウェインが、連邦保安官MarshalのReuben „Rooster(雄鶏)“ Cogburn役を、70年に映画『イチゴ白書』でのLinda役で映画史上忘れられない女優となるKim Darbyが、Mattie役を担う。当然ストーリーの重点はJ.ウェインに置かれ、彼は、この役で、その年のアカデミー賞男優賞を獲得する。

 一方、2010年に原作の二度目の映画化となる本作では、ストーリーは、年を取ったMattieの懐古の視点からの、オフレコのナレーションを以って、語られる。M.Damon演じるTexas Rangerテキサス・レインジャー、LaBoeufラ・ボフ(フランス系移住民の子孫か)の絡み方が若干異なる以外は、本作の脚本は、ほぼ原作に忠実になぞられて書かれてある。

 本作の原題も、原作同様であるが、邦題では、69年作で、『勇気ある追跡』とされているので問題はないとして、本作では、英語の原題をそのままカタカナ化しているのは、問題であろう。Trueは分かるとして、普通の日本人には分からないGritを「グリット」では、何のための邦題か。Gritを「勇気」と訳すことも可能ではあるが、英語辞書によると、この言葉は、「珪質砂岩、堅実、堅忍、気概、闘志、意気、肝っ玉」と、様々な訳が付いている。Trueとの関係で、思うに、True Gritを「真実の気概」と訳するとすれば、本作の描き方から言って、別の解釈が成り立つのではないか。„Rooster(雄鶏)“ Cogburnの、本当の気概とは、毒蛇に咬まれたMattieを助けるために、Mattieの愛馬を乗り潰し、その後は、Mattieを両腕で抱えて、息も絶え絶えに走り続けた、その後ろ姿に示されたのではないか。

 さて、本作の監督は、Coenコーエン兄弟である。コーエン兄弟と言えば、あのユダヤ人的ブラック・ユーモアが「ミソ」である。という訳で、筆者は、それなりに捻りにひねった皮肉をストーリーに期待して観ていたのであるが、それは、原作をほぼ忠実に追うばかりで、そこには、皮肉や風刺が効いた「捻り」が、殆んどない。

 俳優J.Bridgesブリッジスは、本作で„Rooster(雄鶏)“ Cogburn役を、左目に眼帯を掛けたJ.Wayneに対抗して、右目に眼帯を掛けて、熱演する。その彼がコーエン兄弟と初めて組んで撮った傑作『ビッグ・リボウスキ』(1998年作)を思えば、本作での皮肉の捻りのなさが意外とさえ言える。

 コーエン兄弟の、1984年以来の作品歴を鑑みるに、その後期の制昨年歴に数えられる本作を以って、コーエン兄弟の創作力も、後期に入って、いまいち若干低下したかと疑われる程であるが、調べてみて、本作の製作総指揮がS.スピルバーグであると分かると、この甘いストーリー展開は、むべなるかなとも思われる。何れにしても、コーエン兄弟作品としては、本作を以ってして、作品経歴史上、最高の興行収入を得たと言う。

2023年1月31日火曜日

キャッチ-22(USA、1970年作)監督:マイク・ニコルズ

諷刺とは何と難渋な作業であろうか!


 近松門左衛門が言ったというその創作論に所謂「虚実皮膜論」というものがある。即ち、「芸といふものは実と虚との皮膜の間にあるもの也」と。

 別の言葉で言えば、「虚(うそ)にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間に慰みが有るもの也」。芸術とは虚構と現実との相互関係の中にあるものであり、その違いは紙一重であるべきであろう。フィクションが全く現実から離れてしまえば、それは単なるファンタジーであり、夢物語である。そこには人間の真実を描いて訴えるものがない。現実をそのまま映すだけでは(現実にはそれは不可能であるが、)それはフィクションではないのであり、誇張していえば、それは、つまり芸術ではないのである。現実の混沌を捨象・抽象してそこから現実の真実の姿を抉り出すこと、そこにこそ芸術の芸術たる本質があるのである。

 さて、上述の論理が特に厳しく当てはまるのが、諷刺やパロディーである。諷刺やパロディーは、その創作の土台となる元のものから離れすぎると諷刺やパロディーではなくなってしまうからである。

 本作は、その制作当時の1970年前後のベトナム戦争という具体的な対象があり、その文脈の中での戦争批判ということでその作品の価値がとりわけ高く評価されたのであるが、筆者の目から言わせれば、その諷刺は誇張されすぎており、その誇張によって戦争の本質がより明確に摘出されているとは残念ながら言いがたいのである。

 確かに印象的な場面がいくつかある。双発のB25爆撃機ミッチェル(太平洋戦争中の1942年に東京を初空襲した爆撃機と同機種)の編隊が、イタリアのある歴史的文化都市に向かっている。何故その文化都市フェラーラが爆撃に値する戦略的意味を持っているのか、それを自問した先頭機の爆撃手、つまり名優Alan Arkinアラン・アーキン演ずるところの主人公John Yossariánヨサリアン大尉は、フェラーラの町に爆撃する進入路にあたる海上で爆弾を投下してしまう。すると、僚機もまたそれに倣って爆弾を投下して、爆弾は海上で爆発して、海水の飛沫が遠くの青空とフェラーラの町を背景に高く舞い上がるというシーンである。戦略空爆の非倫理性がここに見事に描かれている。

 また、敵のドイツ空軍にそのアメリカ軍航空隊基地が夜間に爆撃されるシーンでは、何とその夜間空襲の誘導をやっているのが、John Voightが演じる、味方のMainderbinderマインダーバインダー中尉で、この軍需物資の配給係を担当している中尉は、敵とも通牒して自分の物資横流しの商売を上手くやり抜こうとしていたのであった。ここに軍需産業に対する痛烈な批判が込められているのは、誰も見逃さないであろう。「死の商人」には、敵・味方の区別はないのであり、どちらも「お客さん」であり、要は、武器を威勢よく使ってくれればいいのである。

 このような的をついた諷刺もあることはあるのではあるが、私見、本作においては全般的にはその諷刺は誇張されすぎている感が強く、そのために本作が現実への批判力をかなり失ってしまっていることは残念ながら否めない。改めて、諷刺作品の創作の難しさを思い知らされる。

 原作者は、ニューヨーク市生まれのユダ人Joseph Hellerジョセフ・ヘラーで、彼は、そのユダヤ人的ユーモアも以って、自身が体験した経験を作品化した。彼の、長編小説のデビュー作品である。

 ウィキペディアによると、彼は、「1942年、19歳の時にアメリカ陸軍航空隊に入った。2年後に第二次世界大戦のイタリア戦線に送られ、B-25の爆撃手として60回出撃した。ヘラーは後に戦争の時のことを回想して『初めは面白かった...そこには何か輝かしいものがあるような気がした。』と語った。戦争から戻ると、ヘラーは『英雄のように感じた...私が飛行機に乗って戦い、60回も出撃したことで、楽な偵察飛行みたいなものだと言ったとしても、人々は目を見張るようなことと考えた。』と言った。」とのことであり、この話から考えると、ヘラー自身はそれ程、戦争に対して批判的であったとも思えない。

 原作の題名『Catch-22』は、catch自体が、英語で「陥穽、落とし穴」を意味し、数の22自体は、適当に採った数字であるが、作中では、軍紀第22条を意味し、それは、「狂気に陥った者は、自ら請願すれば、除隊できる。但し、そうであれば、自己の狂気を意識できるのであるから、この程度ではまだ狂っているとは認められない。(故に除隊できない)」というものである。この言葉は、「板挟みの状況」を指し、1960年代のスラングにさえなったと言う。

 1961年の発表当時、USAでは、賛否両論の評価が下り、べた褒めするものから、「無秩序で読むに耐えず、粗野だ」というものまであったと言う。USAでの、61年の発表年での販売冊数はそれ程でもなかったが、イギリスでは、爆発的に売れ、発売から一週間でベストセラーとなる。それが、翌年には、ペーパーバック版ということも相まってか、USAに飛び火し、一千万部も売るヒット作となるのである。

 本映画の脚本家Buck Henryバック・ヘンリーもまたニューヨーク生まれのユダヤ人である。最初はコメディアンとして活動していたが、傍ら、脚本も書くようになり、映画の脚本としては、彼の処女作品である、青春映画『卒業』(1967年作)で、受賞は出来なかったが、いきなり、アカデミー賞脚本賞にノミネートされた。

 この映画『卒業』の監督が、本作の監督でもあるMike Nicholsマイク・ニコルズである。彼は、ロシア系ユダヤ人として、1931年にドイツはベルリンで生まれた。父親は医者としてロシア革命から逃れ、さらに、30年代末にナチス政権から逃れて、ニューヨークに移住する。息子のマイクは、最初は心理学を勉学していたが、次第に舞台芸術に惹かれ、50年代にコメディー・デュオ・グループの一員として舞台上に立つ。60年代には、ブロードウェイの舞台監督、劇作家として活動し、映画界には、1966年作品『ヴァージニア・ウルフなんか怖くない』で登場に、このデビュー作品でいきなりアカデミー監督賞にノミネートされる。そして、翌年の発表作『卒業』で、アカデミー監督賞を射止めるのである。この時にいっしょに仕事をした脚本家のB.Henryと、ニコルズは、本作『キャッチ22』でも協働することになるのである。

 原作者、監督、脚本家と、ユダヤ的ジョークが分かる人間たちが制作した本作、それが戦争風刺映画として成功したかしなかったか、本批評の最初の方で述べた通り、筆者にはいささか大きな疑問が残る出来であったと言わざるを得ないところである。

2023年1月27日金曜日

キャロル(英国、USA、2015年作)監督:トッド・ヘインズ

 本作の原作を書いたP.Highsmithが「Claire Morgan」という別名を使って発表した小説『The Price of Salt』は、女性同士の「性的志向」をテーマとしたもので、その発表された年代である1952年を鑑みると、その内容から言い、その発表された時代と言い、当然「偽名」で出版されなれければならない小説だった。

 時は正に「赤」狩りのマッカーシー旋風が吹き荒れた1950年代前半、公職に就いている男性職員が同性愛であることが「バレれば」、その職場を追われるという時代だったのである。発表当時既にかなりの反響があった、この小説を書いた本人が、ほぼ40年経った1990年に『Carol』と題名を変え、当時の「偽名」を今度はP.Highsmithの名前で再公表したのである。時代の変遷と言ってしまえばそれまでであるが、その変遷のためにどれだけの人間たちがそのために闘ってきたのかを思うと、考えさせらるものがある。

 そういう1950年代の時代の制約があればこそ、また、禁断の「罪」を犯すハードルが高ければ高いほど、それを求める「憧憬」は強くなるものでもある。監督のTodd Haynesは、脚本家と共に原作にほぼ忠実にストーリーを追う。但し、テレ-ズがキャロルに接触を取るのは、キャロルが人形ではなく、鉄道模型をクリスマスのプレゼントに買った際に、革の手袋を玩具売り場に忘れていったからであり、また、テレーズは、舞台美術の方面ではなく、女性カメラマンとして自己実現を遂げる意図を持っており、実際にNYタイムズでその意図が満たされる手前まで行っていた点が、原作と異なる点であろう。

 丁寧な時代考証(美術監督はJesse Rosenthal)、時代の雰囲気を的確に醸し出す楽曲選択、更に、美しくも切ない映像(撮影はEdward Lachman;映像素材は、スーパー16㎜コダック・フィルム)、どれを取っても、監督Todd Haynesは、この甘美な映画的世界を再現している。監督は、既に2002年に『エデンより彼方に』で、1950年代後半の社会的・人種的偏見を乗り越えた人間同士の触れ合いのあるべき姿を謳った作品を世に問うており、その意味でも的確な仕事をしていると言える。本作は、1950年代のレトロ・タッチで、見ごたえのある映画的世界を久しぶりに堪能したい方には必見の作品である。

 米国アカデミー賞6部門でノミネートされた本作は、カンヌ国際映画祭で、テレーズ役を演じたRooney Maraルーニー・マーラが女優賞を獲得した。彼女の、小柄な顔の作り、知的な眼、鼻筋から両端に、少々太めであるが、すっと伸びた眉毛が、極めて印象的であり、これらが、また、金髪のCate Blanchettと好対照をなして、蓋し、適切な配役である。

2023年1月21日土曜日

カポーティ(USA、2005年作)監督:ベネット・ミラー

自分が「冷血漢」だから書けた作品『冷血』


 筆者は、1924年にニュー・オリンズで生まれ、1984年にロス・アンジェルスで薬物中毒の結果病死したTruman Capoteトルーマン・カポウティの作品を読んだことがない。だから、その文学的、アメリカ文学史上におけるその意義についてはそれがどうなっているからは知らないし、また、言えない。

 しかし、少なくとも映画『ティファニーで朝食を』(1961年作)を観た時、脚本が意外と内容が深く、その、一応ラヴ・コメディー仕立てである内容が、しかし、アメリカの知識人階層の屈折した、ある種の恥部を描きだしているところに、あの当時筆者は、中々感心したものであった。そして、このインデぺンデント映画『カポーティ』(2005年作)を観て、あの清純なヘップバーンが出ていた、殆どコールガールの線の一歩手前にまで入り込んでいたその役柄が、実は、この作家によってその原作が58年に発表されていたことに気付いて、今更ながら、この作家の、その内面の複雑さが納得できた。

 さて、カポウティが『冷血』(1965年、公式には66年発表、映画化は67年)という作品で目指そうとした「ノンフィクション・ノベル」とは、実は自己撞着である。「ノベル」とは本来的にはフィクションであり、その虚構性を捨てるとは、それは、即ち、自己否定なのである。正に、この矛盾の領域でカポウティがその創造性を賭けたのは、確かに「勇気ある」冒険ではあるが、それはまた、自己存在の意義を賭けた危険な試みであったと言えるであろう。

 それ故、この作品で更に名を成したカポーティが、その後、作品を殆ど書けなくなったといのもまた肯けることなのである。そして、その創作過程が、自分に心を許す犯罪者の心理を操作しながらのものであり、場合によっては欺瞞に満ちた操作によって創作という作業が可能であったことを、この静謐で、真実を見極めようとする映画作品が暴いて見せてくれる。

 この点で、筆者は、監督Bennett Millerと、二人の死刑囚がカポウティ宛に書いた約40通ほどの手紙を基本的に土台として初めての脚本を書いた脚本家Dan Futtermanの、真実に向けた容赦ない態度に敬服するものである。脚本の原作は、伝記作家Gerald Clarkeが書いた、カポウティ自身が「お墨付き」を与えた『カポウティ:ある伝記』(1988年発表)である。

 本作は、米国並びに英国アカデミー賞の該当年度に、作品賞、監督賞、最優秀助演女優賞(Catherine Keener)、脚本賞にノミネートされ、最優秀主演男優賞(Philip Seymour Hoffman)を受賞した。

  Philip Seymour Hoffmanフィリップ=シーモア・ホフマンは、1967年にニューヨーク州で生まれた性格俳優であった。高校時代から演劇に興味を持ち、1990年代の初めから映画に出演するようになる。その後、2000年代前半までは、とりわけ、インデペンデント系の映画に出演し、批評家の目に止まる演技を見せる。

 実は、ホフマンは、本作の監督ミラーと、そして脚本のファッターマンとは、高校時代からの知人・友人の関係であった。同い年のミラーとファッターマンは、中学時代からの親友で、二人は演劇に興味を抱いていた。高校になって、ある演劇のサマーキャンプに参加するが、そこで、彼らは、ホフマンと知り合いになる。

 その後、それぞれがそれぞれの道に進むことになるが、1990年代の初めにドキュメンタリー映画を撮り、その後宣伝映画の制作に忙しくしていたミラーのところに、俳優業をしていたファッターマンが、自分が付き合っていた伝記作家のG.クラークから、上述の二人の死刑囚の、カポウティ宛の手紙を見せれら、それに触発されたファッターマンが脚本を書くことを決意し、さらに、この話を親友であるミラーに持っていく。映画制作の構想を二人が練る中で、二人は、直ぐに、カポウティ役は友人のホフマンしかないと思ったと言う。こうして、親友・友人のトリオが、本作を以って、2006年の様々な映画賞にノミネートされたり、映画賞を受賞したりすることになる。

 こうして、性格俳優の座を勝ち取ったホフマンではあったが、2014年2月に麻薬・薬物の過剰服用のため急死する。薬物依存には長らく悩んでいたということで、自分が有名になった役T.カポウティと同じ運命を辿るとは、本人も思ってはいなかったであろう。享年46歳であった。黙禱

2023年1月19日木曜日

ボーン・アイデンティティー(USA、2002年作)監督:ダグ・リーマン

男の「汗臭さ」を嗅ぎたい人にはお勧め


 秘密諜報部員が主人公になる映画のストーリーは、大胆に二種類に分類するとすると、こうなる:

 ジェームズ・ボンド映画のストーリー展開がそのひとつの典型で、敵陣に何とか潜り込み、そこで諜報活動を行い、相手方の活動を妨害または阻止するというものである。とどのつまりは、ボンドの活躍に脚光を浴びせることになる。この日向を歩くスパイに対して、言わば日陰を歩むスパイの運命を描くタイプがある。

 秘密諜報組織の汚い陰謀の一つの歯車となり、その歯車は、やがてその組織に冷酷に闇から闇に葬る形で抹殺されていく。一例を挙げるとすれば、R.バートン主演の1965年の作品『寒い国から帰ったスパイ』がある。

 本作もストーリー展開から言えば、後者のタイプに入り、それ自体としては目新しいものがなく、平凡とさえ言える。この作品のよさは、しかし、何と言ってもアクション映画としての「クラシック性」である。

 もちろん、この映画にも飛び道具が出てくるのではあるが、その体を使った格闘場面の迫力にこそ、この映画の真髄があると筆者は言いたい。

 『マトリックス』のアクション場面は、それは観ていて圧倒感があるにはあるのであるが、何か薄っぺらで、皮のスーツの下に本物の肉体が、痛みを感じながら、格闘しているという印象が余りない。それに対して、このMatt Damonマット・デイモンが主役になっている作品では、その格闘シーンに骨が軋む「身体性」があり、主人公の、地に足を付けた存在感が観ている者に伝わってくるのである。この地味ではあるが、存在感のある演出に拍手を送りたい。この点をまた、M.デーモンが与える、アメリカ人好青年が持つ、ある種の「真面目な印象」が、よく補完しており、これまた、キャスティングの妙とも言える。

 もう一つ、この作品で特筆に価するのは、カメラワークである。大写しではないが、普通の拡大度でカメラはそのシーンに入っていく。であるから、対象が画面からはみ出たりすることがあるが、それがまた、場面に緊張感を与えて中々いい。そして、これを受ける形で、場面の大胆なカットが行われる。このコンビネーションが、上述の迫力ある格闘場面を可能ならしめているのである。(蛇足であるが、初期のボンド映画では、格闘シーンにスピード感と迫力を与えるために、その場面のコマ取りを少なくするという「ずるい」手を使っている。)

 こうして、この『Jason Bourneジェイソン・ボーン』シリーズの映画的骨格が出来あっがった訳である。原作者は、アメリカ人ベストセラー作家Robert Ludlumラッドラムで、彼のJ.Bourne三作シリーズがこのシリーズの原作となっている。『Jason Bourne自己同一性』(1980年作)、『Jason Bourne至高権』(1986年作)、そして、『Jason Bourne最後通牒』(1990年作)の三作である。

 このシリーズには、スピンオフ作品や、M.デイモンが再度主役となる、原作にはない第四作作品があったりはするのではあるが、2004年作の第二弾を経て、シリーズ第三弾目作品(2007年作)は、2002年の第一作目を方向性を堅持し、さらにその方向性を完璧にこなしているという点で、一見の価値ありである。それが証拠には、第三弾目の作品は、米国アカデミー賞で編集賞、録音賞、音響効果賞を、英国アカデミー賞でも、同様に編集賞、音響賞を、そして、全米映画俳優組合賞でスタント賞を獲得しているのである。

 

2023年1月11日水曜日

ブラックホーク・ダウン(USA、2001年作)監督:リドリー・スコット

従軍カメラマンの目で撮られたドキュメンタリー的劇映画


 命からがらモガディシュー市内の戦闘区域を撤退してきたアメリカ兵十数人は、駆け足で国連軍の管理下にあるスポーツ競技場を目指していた。そのスポーツ競技場へのゲートに続く道路上、あと200メートルもあるであろうという所である。

 突然、煙に包まれた中から現地のソマリア人の子供達が数人、笑いながら、そしてアメリカ兵に手招きをしながら、アメリカ兵を先導するように道をいっしょに走り出てくる。この子供達の笑顔を、モガディシュー市内の前日の15時40分以降一昼夜を掛けた市街戦の「地獄」と比べると、それは何という違いであることか。

 すると、道路上に、ビジネスマンなのであろう、スーツを身につけたソマリア人が携帯電話を掛けながら何か話している光景が目に入ってくる。今までの異常であるはずの戦闘状態の中に突然表出した日常的行為。しかし、それはアメリカ人の目から見た世界の捉え方であり、内戦状態の中に生きているソマリア人にとっては戦闘状態こそ「常態」であり、その常態の中で、所謂「日常的」生活もまた営まれているのである。沿道には、アメリカ兵を歓迎しているのか、揶揄しているのか、これまた現地のソマリア人達が立ち並んでアメリカのエリート兵士に手を振っている。

 このソマリア人の「世界」から隔絶した世界が、実は、国連軍やアメリカ軍のベース・キャンプなのであり、駆け足で、そして疲れきって競技場のゲートをくぐりぬけた、これらアメリカ兵士を出迎えてくれたのは、パキスタン人風の軍属らしき数名で、彼らは、手にお盆を持って、「死地」から逃れてきたアメリカ兵たちにコップに入った水を差し出してくれる。何という違いであろうか。

  安心感がどっと溢れ出る。この競技場は、ソマリアという「海」の中の絶海の孤島であり、植民地主義的「地上の楽園」である。こうして、二日間に亘って繰り広げられた「モガディシューの戦い」が事実上終わった。それは、本来一時間で終わるはずであった、アメリカ派遣軍の独断専行の作戦だったのであるが……。

  約二時間二十分のうち二時間は戦闘場面に費やされている本作品は、その戦闘場面がまるで従軍カメラマンがその場にいて撮ったような、リアルで迫力のある作品である。ロケット弾が当たって下半身がちぎれた人体や、トラックのドアを突き破ったロケット弾が胴体に突き刺さって即死する兵士、吹き飛ばされた右足の応急処置が上手くいかず大量出血で死ぬ兵士などと、戦場の現実と真実 (「自分が殺られるか、殺られないか、自分が左右することは出来ない」) が余すところなく描かれており、「散花」した18人の(19人ではない)アメリカ兵の戦死の場面をほとんど個々に記録しようとしているかのような印象である。

 一方、確かに自分の子供に撃たれて死ぬソマリア人民兵のある父親や、恐らく自分の夫であろう、その殺られた夫の銃を取って仇を討とうとするソマリア女性が撃たれるシーンなどがあることはあるが、基本的にはウンカの如くに押し寄せるソマリア人民兵が機銃掃射で次から次へとなぎ倒されていくという、かつてのベトナム戦争のベトコン兵の無名性とこれは同じレベルの表現である。この「モガディシューの戦い」で、それが、たとえ千人以上の死者をソマリア民兵の側で出したことが本当だとしてもである。結局はアメリカ人の視点で撮られている映画であることを頭に入れて見る必要があるであろう。

 ところで、 この映画の製作者は、例の言語道断の駄作、安っぽいCG技術で作られた映像に彩られた、陳腐なメロドラマ・戦争映画『パール・ハーバー』の製作者である。イギリス人監督R.スコットは、あの『パール・ハーバー』の監督よりは才能があるのであろう。映画は中々よく取りまとめられており、ストーリー自体はアメリカ万歳の愛国主義映画には堕してはいない。しかし、突き詰めると、その内容は、個々の兵士の「仁義」、即ち「戦友は置き去りにしない」という極小化されたレベルのストーリーであり、この作品には、『アポカリプス・ナウ』のようなテーマの大局性の次元が欠如している。ジェノサイドの蛮行に国際連合軍が介入することの是非が語られていないのである。

 登場人物の一人が映画の中で語っているように、兵隊として考えすぎないことがいいのか。つまるところは、兵隊も「父親」なのであり、「英雄」も「ウォー・ジャンキー」なども本来存在せず、兵隊とはただ戦友を助けるために戦争をしているというのか。これがこの作品のメッセージだとすれば、これでは筆者には物足りない。こう考えると、映画の最初のプラトンの箴言の、中途半端な引用が象徴的である。即ち、「戦争の終わりを見る者はただ死者のみなり」と。では、諸君考えてみよう。戦争に生き残った者はどうするべきであるのか、と。

リヴェンジャー・スクワッド 宿命の荒野(アイルランド/ルクセンブルク合作、2018年作)監督:ランス・デイリー

 21世紀の初年に起こった9.11.(ナイン・イレヴン)は、世界を変え、今年2026年は、あれから四半世紀が経った年となる。現在のトランプ現象も、この世界の変化と関連するものと見ることも出来るが、9.11.こそは、USAが対アフガニスタン戦争を遂行することになった原因であった。そ...