2024年8月10日土曜日

ジャッキー・コーガン(USA、2012年作)監督:アンドリュー・ドミニク

 本作の邦題『ジャッキー・コーガン』を見る限り、うん、これは、あの『ジャッキー・ブラウン』(1997年作)の「兄弟編」かと思う。しかし、内容的に見ると、『パルプ・フィクション』(1994年作)をブラッド・ピット版にしたものかとも思う。(B.ピットは、本作の製作者の一人でもある。)

 『ジャッキー・ブラウン』も『パルプ・フィクション』も監督はQ.タランティーノで、オーストラリア人監督Andrew Dominikは、タランティーノ「信者」に思える。本作の原作は、George V. Higginsの小説『Cogan' Trade』(1974年作)で、本作のストーリー展開はほぼ原作に則っているのであるが、脚本も書いているA.Dominikは、時代背景を2008年に持ってきているところが本作のストーリー上の「ミソ」なのである。

 USAの2008年というと、民主党のB.オバマと共和党のJ.マッケインとの間の大統領選挙の選挙戦の最中である。映画中に出てくるテレビ中継で演説するB.オバマの崇高な論理と、B.ピット演じるJ.コーガンが「処理する」下世話の「仕事」との間に存在する、隔絶的な距離感こそが本作の眼目であろう。J.コーガンに言わせれば、アメリカとは、その内容が何であれ、「ビジネス」の国なのであり、民主主義の理想などはどうでもいいのである。

 となれば、この批評を書いている2024年には、C.ハリスとD.トランプとの間の大統領選挙戦が行なわる予定であるが、B.オバマからC.ハリスにつながる民主党の連続性に対して、J.マッケインからD.トランプに変わる、共和党の政治的方針の変化には目を見張るものがある。

 話しが若干逸れたが、本作の英語原題は『Killing them softly』という。この原題から連想するのは、『Killing me softly with his song』というポップ・ソングである。こちらの歌の邦題は、『やさしく歌って』となっているが、この曲は、Roberta Flackという黒人女性歌手が1973年に歌って世界的にもヒットした作品であり、これにより、彼女は、グラミー賞の最優秀レコード賞、最優秀楽曲、最優秀女性ヴォーカルで受賞したのである。当時はこれ程、知名度の高かった曲である。

 この曲の原題『Killing me softly with his song』が邦題でなぜに『やさしく歌って』となったかは筆者の知るところではないが、「やさしく殺して」としては、憚られるものを日本の音楽会社は感じたのであろうか。しかも、Killingは現在進行形であるから、命令形とは異なる形である。故に、意味的にも異なってくる。何れにしても、「殺す」と「やさしく」が殆んど逆説的に結び付いているところにこの曲の歌詞の秀逸さがあるのである。一方、本作の原題『Killing them softly』では、killは正にそのものずばりであり、そこには詩的誇張は全くないのである。

 尚、R.Flackが歌って有名になった曲は、実は、Lori Liebermanという女性のユダヤ系シンガーソングライターが自分の音楽体験を基にして既に1972年に発表していたものである。ギターの弾き語りで静かに歌うL.Liebermanのプレゼンテーションは、控え目過ぎたということであろうか、ヒットにはつながらなかった。

 この「控え目さ」と呼応するが如く、本作のストーリーの内容は、些末で、矮小である。つまり、「パルプ・フィクション」なのであり、その意味で、本作の「山場」は、ジャッキー・コーガンが、自分が顔を知られていることから、わざわざニューヨークから呼んだ、知り合いの殺し屋ミッキーとのやり取りであろう。この、アル中の、売春婦と寝ることしか頭にない殺し屋ミッキーを、James Gandolfiniが秀逸に演じている。同じく秀逸なのは、本作における撮影で、スローモーション撮影と光を上手く使ったキャメラは、印象的である。調べると、撮影監督のオーストラリア人Greig Fraserは、『Dune』(2021年作)でアカデミー賞撮影賞を受賞している。さもありなんというところであろうか。

2024年8月4日日曜日

イコライザー The Final(USA、2023年作)監督:アントワーン・フークワ

 本作は、三部作のシリーズもののファイナル版である。シリーズの一作目は、原案が英語の原題では同名の『The Equalizer』という、1980年代にUSAで放映されたテレビ映画シリーズである。このテレビ映画シリーズは、日本では『ザ・シークレット・ハンター』という邦題名で放映されたということをウィキペディアで知って、筆者は早速、ある日本のテレビ映画シリーズを思い出した。『必殺シリーズ』である。

 この『必殺シリーズ』は、1970年代の初めに第一シリーズが放映されたが、その時は、『必殺仕掛人』という題名であった。その後、何シリーズもテレビ用、劇場用に映画化されたが、その中には、『必殺仕事人』、『必殺仕置人』、『必殺仕留人』などという題名があった。この『必殺シリーズ』の基本的なストーリー構造は、ある悪人に痛めつけられた被害者、或いは、その関係者が、「裏稼業」の必殺のプロに頼んで、その復讐のために仇を取ってもらう。そのためには依頼人は依頼金を支払わなければならないという仕組みである。この依頼金の要素を除くと、本作のストーリー構造も『必殺シリーズ』のそれと似ており、それで、筆者は、この日本のテレビ映画シリーズを思い出した次第である。

 ところで、「仕事人」、或いは、「仕掛人」が「仕事」を引き受ける場合、観ている者に道徳的・倫理的「反感」が出ないように、ストーリー上の「仕掛け」があった。ここが「ミソ」であり、本作の倫理的前提と比較するためにも、この「ミソ」を一言述べておこう。まず、単なる勧善懲悪の行為にしない。この大前提の下、「1.晴らせぬ恨みを晴らす」、「2.世のため、人のためにならない殺しはやらない」、「3.合法的には裁くことができない悪人のみを殺める」、「4.殺しに当たり、万が一にも間違いがないように調べ上げる」、「5.あくまで正義の味方ではないので、殺しの代償として依頼金を取る」などの「裏稼業の掟」がある。

 これらの「掟」の内、5番以外は、本作にも当てはまっていると言えよう。4番の事前調査は本作でもはっきりは出ていないが、ストーリーが展開する中で、R.マッコールの行為の対象者が当然の「報復」を受けて妥当である気持ちが高められる。とりわけ、3番の観点が本シリーズでは強いのではなかろうか。悪の行為によって、均衡が失われた状態を「報復」という行為、事実上は私的制裁なのであるが、この行為によって、正義の均衡が取り戻される。この均衡を取り戻す行為、乃至は人間のことをEqualizerイコライザーというのである。あの算数の記号「=」、つまり、「イコール」状態にすることである。

 ところで、「イコライザー」は、音響機器としてもあり、この機器は、ウィキペディアによると、以下のように定義されている:

 『イコライザーの原義は「均一化(equalize)器」で、録音再生環境(例: マイクロフォン・レコーダー・録音スタジオ、スピーカー・再生会場)がもつ周波数特性の歪み補正や、マスタリングにおける曲ごとの音質的差異の平均化などを意図している。』

 という訳で、『The Equalizer』という英語原題を邦訳した場合、『必殺仕掛人』のタイトルにもじって、訳してみると、「必殺均一人」となるであろうが、これでは駄洒落が過ぎるので、「必殺報復人」としてみては如何であろうか。

2024年8月2日金曜日

バカ塗りの娘(日本、2023年作)監督:鶴岡 慧子

 「コスパ」や「タイパ」の観点から物事が測られる現代日本では、「伝統工芸」とは、これらの基準のどちらも「悪い」、正に、真逆の存在で、美術工芸の国フランスならまだしも、現代日本では、これらが廃れるのも無理はないのであろう。そういう、現代日本社会で「分の悪い」伝統工芸の中でも、更に「割が合わない」のが、津軽塗である。なぜなら、*「塗っては研ぐという大変手間のかかる技法は、40数回の工程と2ヶ月以上の日数を費やして仕上げ」られるからである。こういう「バカ丁寧」に作られる津軽塗であるからこそ、この漆塗製品を作る工程「漆工」は、「バカ塗り」と呼ばれる。本作の表題の一部にこれが出ている理由である。(*印の引用は、青森県漆器協同組合連合会のインターネットのサイトより)

 青森県の西部にある、弘前市を中心都市とする津軽郡の伝統産業の一つが津軽塗であるが、津軽塗職人の青木清史郎は、津軽塗の将来を悲観している。経済的に苦しい家計に耐えられずに妻は家から出ていった。長男は美容師になって、家は継がないと言う。娘の美也子はその器ではないと見ている父親は、なぜか津軽塗をやってみたいという娘を信じられない。こうして、本作のストーリーが展開するのであるが、やはり、美也子の心境や意欲に説得性がないので、映画を観ていて、「本当なのか?」と疑問符が何度も湧いてきていたのは、筆者だけではないのではなかろうか。

 しかも、映画の終盤が、美也子がグランド・ピアノの外装の塗りをあれほどカラフルに仕上げたことで、それが評価されてパリに呼ばれていくという成功譚になっていることに更に違和感が隠せないのである。今では、塗った面の光沢や強度を高めるために漆にセルロースナノファイバー(CNF)を混ぜる技術が開発されていると言うし、素地(「きじ」)に木地ではなく合成樹脂を使ったり、天然の漆の代わりに合成塗料を用いた「合成漆器」も存在している。美也子が、もしそのようなものを使ったとしたら、これでは、津軽塗の本来の独自性を逆に失わせることになってはいないかと思われるからである。

 それでは、「津軽塗の本来の独自性」とは何か?木地には、伝統工芸であるから、青森県産のヒバが使われる。これは、津軽の伝統工芸である限り、当然である。生漆(きうるし)に、セルロースナノファイバーを混入させることは、たとえそれが「伝統工芸」であるとしても、あり得る。例えば、輪島塗では、下地塗の行程で、生漆に米糊、そして焼成珪藻土を混ぜて何層にも厚く塗る。大体、漆自体が、その多くを中国から輸入している状態である。国産の上質の漆は、岩手県二戸(にのへ)市浄法寺町で採れる漆で、その生産量は、日本での漆の総使用量44トン(2016年度)の5%にも満たない2トン以下であると言う。

 こう見てくると、津軽塗を津軽塗たらしめているのは何かと言うと、模様の出し方にあるのである。漆器の代表格は、京都の公家を相手とした京漆器であろうが、京漆器は、京都の洗練された公家文化に合わせるように、木地を薄くし、上質の漆を塗った上に、加飾として蒔絵を施すことがその特質である。これに対して、津軽塗では、その技法の一つとして「唐塗」というものがあり、この技法では、蒔絵を施さずに、仕掛けベラを使って凹凸を付けながら漆を盛り上げて塗り、更にその上に別色の色漆(朱漆、黄漆、実は緑色の「青漆」)を何層にも亘って塗っては、その表面を砥石や炭で研いでいき、この四十八の工程の中で、言わば、漆の中から斑点模様を研ぎ出すのである。この技法が「研ぎ出し変わり塗」の技法の一つであると言われ、これこそが、津軽塗を津軽塗たらしめている技法なのである。この津軽塗の特異性が、映画では、はっきりと出されていなかったことを残念に思う。

 仮にもっと津軽塗の特異性を強調しようとするのであれば、青森県漆器協同組合連合会がそのサイト上で説明している、唐塗と並ぶ三つの技法、「七々子塗」(或いは、菜種を蒔いて仮飾とするので、「菜々子塗」とも言う)、七々子塗を更に豪奢に加飾した「錦塗」、そして「紋紗塗(もんしゃぬり)」の、三つの技法の内、紋紗塗を使うべきである。なぜなら、この紋紗塗こそが、津軽塗の技法の中では最も独特なものであると言われているからである。黒漆と炭粉を主体とした黒一色の渋い仕上がりは、映画に出てくるピアノの外装の塗装に似合っているのではないか。黒漆で塗り上げた後に、更に黒漆で線描を主とした総模様を描き、それに、津軽地方で「紗」と呼ばれるもみ殻の炭粉を蒔いて塗装する。その上で、更にこれを研いで模様を出し、磨き上げるのが「紋紗塗」の技法である。しかも、この技法に関しては、明治維新以後の作例は少ないと言われている。であれば、美也子はこの技法を現代に復活させるべきではなかったのか。正に、これこそが伝統を守るということであろう。

2024年7月29日月曜日

クロッシング・デイ(USA、2008年作)監督:ブライアン・グッドマン

 学校のあの「道徳」の時間に語られるエピソード、人徳のある人や高潔な人の伝記を聞かされたり、読まされたりした時の、あの「気まずさ」がこの映画にはある。或いは、こう言ったらよいであろうか。あることを悟った人間に、未だ悟ってはいないこちらに、悟ったらこうなのであると伝道された時の、こちらとあちらの「隔たり」感である。逆に、「ああそうですか。それで?」と言いたくなる「反抗心」がむらむらと湧いてくる。そんな感覚である。

 確かに、Brianブライアンが辿った、犯罪の泥沼から抜け出した、その道は正しい。逆に、ブライアンの竹馬の友Paulie(「ポール」と読むようである)が突き進んだ悪の道はその好対照をなす。それでも、観ている者としてそこに何か突き放された感覚が、筆者には残るのである。

 主人公と名前が同じ監督Brian Goodman(苗字がまた人徳を示す「good man」)は、脚本も共同で書いており、また、本作の一役(主人公二人を手下としてこき使う小悪党Pat Kelly役)で出ているという、思入れようで、ウィキペディアによると、実は、本作は、彼が「悔いて」俳優になる前の、彼の半生をほぼ実話的に描いたものであると言う。故に、ストーリーの舞台も、監督自身が生まれ育ったボストン市南部の地域で、カトリック教徒が多いところであると言う。これが、ニューヨークであったら、同じ反社組織でももっと「イタリア臭」がして、恐らく、Brianも犯罪の泥沼から逃れられなかったかもしれない。

 さて、本作の日本上映に当たって製作されたポスターの、謳い文句の「嘘さ加減」はかなりひどいと言わなければならない。まず、「全てを賭けて、のし上がる男たちの挽歌!」である。主人公二人は死なないことから、本作は、「挽歌」ではない。また、組織の中で「のし上がる」つもりのない二人は、ただのチンピラの雑魚である。次に、「アウトローアクション大作」とは、ただの暴力場面の誇大宣伝である。そして、「壮絶なクライマックス」とはお世辞でも言えない現金輸送車襲撃の顛末である。大体、邦題の『CrossingDay』とは、原題『What Doesn't Kill You』のどこをどうやって捻ると出てくるのか、甚だ疑問である。

2024年7月28日日曜日

ターミネーター:新起動/ジェニシス(USA、2015年作)監督:アラン・テイラー

 『ターミネーター(1)』(1984年作)は、G.オーウェルの小説の表題『1984』からそのイメージだけは取ったのか、1984年と製作年と同じ年がストーリーの時間軸になっている作品で、A.シュヴァルツェネガー演じるT-800型はこの作品に登場する、連続女性殺人魔の悪玉である。

 元作より上出来という『ターミネーター2』(1991年作)ではT-800型は善玉となり、悪玉が液体合金で出来たT-1000となる。1997年の「最後の審判の日」を阻止するために、母親のサラとその息子のジョン・コナーが活躍する。

 『ターミネーター3』(2003年作)では、1997年に起こるはずの、マシーン側が人類殲滅のために引き起こすことになっていた核戦争は阻止されたかに思われたが、二十歳の青年になったジョン・コナーは、2004年、2032年のマシーン軍から送られてきた女性型ターミネーターT-X型にしつこく襲われながらも、T-800型の改良型T-850に守られ、かつ、後に妻となる女性獣医ケイトと知り合い、彼女と伴に「最後の審判の日」をアメリカ軍の地下壕で迎える。制作年の翌年に起こった核戦争は、やはり阻止できなかったのである。

 これをストーリー的に受けた『ターミネーター4』(2009年作)では、人類軍の指導者となったジョン・コナー(Chr.ベール)が、「最後の審判の日」から14年経った2018年になっても抵抗運動を続けていたが、自分の父となる、孤児少年のカイルをマシーン軍から奪回しようとする中、サイボーグである、元重犯罪者たるマーカス・ライトに助けれて生き延びるというストーリー展開となる。という具合に、ターミネーター・ワールドの存続にはここに至ってストーリー的には袋小路に入った感がある。

 こうして、「ターミネーター」のリブートの必要性が製作者側に強くあったのであろう。「ターミネーター5」とでも言える本作『ターミネーター:新起動/ジェニシス』(2015年作)では、ジョン・コナーが生まれる前のストーリーが再度描かれ、しかも、ストーリー上、もう一本の時間軸が導入される。即ち、これまでの1984-1997-2004-2018-2029/2032という時間軸に対して、1984-1997-2017-2029という、言わば、カイルの視点から見た時間軸が本作では描かれる。そして、この時間軸上における1984年には善玉・悪玉両方のT-800型と、既にT-1000が存在し、2017年にはT-3000なるものが、驚くべき存在として送り込まれていたのである。事程さように、本作は、どんでん返しを含んだ、かなり手の込んだストーリー展開であるが、そこに何かご都合主義の「臭い」が感じられ、筆者にはしっくり行かないものが残る作品である。

 結局、本作では「新起動」とはならず、その次回作(2019年作)でも「再起動」は起こらなっかったのである。「ターミネーター・ワールド」、これで終わっては欲しくないのであるが、さて、「起死回生」はあるのであろうか。

2024年7月21日日曜日

潜水艦クルスクの生存者たち(フランス/ベルギー/ルクセンブルク、2018年作)監督:トマス・ヴィンターベア

 本作は合作映画で、フランス、ベルギーそしてルクセンブルクが資本を出して撮られた作品である。ストーリーがロシア連邦の原子力潜水艦Kurskクルスク沈没がテーマであるから、ロシア連邦も製作に関わってもいい訳ではあるが、ことは、「今は時めく」ウラディミール・プーティンの初めての大統領時代のことでもあり、製作者側は、そのストーリー展開において、「忖度」したようである。本作には、プーティンの「プの字」も出てこない。実は、プーティンは、1999年から2000年まで連邦首相をやった後、2000年5月に彼の履歴では初めての大統領職に就く。その約三ヶ月後にクルスク沈没事件が起きたが、その時の彼の対応の冷たさに一時的にその人気が下がったという、曰く付きの事件であるからである。作中、クルスク乗員の家族を入れた二回目の「説明会」で、この会を取り仕切っていたのはロシア連邦海軍ペトレンコ大将(スェーデンの名優Max von Sydow)ではなく、ウィキペディアによると、プーティン本人であったという。

 しかし、問題の本質は、製作者側の「自己検閲」にあるのではなく、国家秘密、とりわけ軍事秘密の秘匿のためには、助けられる23名の人命をも犠牲にする、所謂「国家理性」の冷血さにあると言うべきである。映画の終盤の遭難者の追悼の儀式において、ペトレンコ海軍大将が行なった追悼の辞は、欺瞞に満ちたものであり、それを見逃さないぞと睨めつける、主人公アヴェリン海軍大尉の息子ミーシャの目こそ、本作のクライマックスであると言える。これがあってこそ、同じ場でミーシャが、ペトレンコ海軍大将の握手のために差し出された手を拒む行為に出たことのストーリー上の説得性があるのである。そして、それを受けて、ペトレンコ海軍大将を演じる、スェーデン人の名優Max von Sydowが、欺瞞を見抜かれた者の羞恥心とそれを隠そうとする内面的葛藤を少しの顔の動きで殆んど天才的に表現したことへ、筆者は万雷の拍手を送るものである。von Sydowは、本作を撮った二年後にフランスで亡くなる。享年90歳であった。

 さて、この秘匿されなければならなかった軍事秘密とは何であったか。それは、原潜Kurskが、ロシア連邦海軍の現役の最新鋭潜水艦であったことである。ソヴィエト・ロシア或いは単にロシアの潜水艦には、その兵装において、魚雷原潜と有翼ロケット原潜があり、有翼ロケット原潜には弾道ミサイル潜水艦と巡航ミサイル潜水艦の二つの型式がある。この巡行ミサイル潜水艦の内、その第三代原潜に当たるのが、949型(NATO側からは「オスカー型」と呼ばれる)が建造された。この949型式は、多数の巡航ミサイルを一度に発射して仮想敵国の空母打撃群を逆に打撃するための対水上艦打撃潜水艦として特化したものである。949原型型は、一番艦が既に1980年に就役しているが、この型は二隻建造されたのみで、この原型型の改良型「949A」は、1986年から就役が開始され、11隻が竣工した。この11隻の内の一隻がKurskで、その艦番号はK-141である。「K」とは、ロシア海軍では「潜水巡洋艦」たることを示す。

 K-141艦は、ソ連崩壊後の1992年に建造が開始され、94年5月に進水、同年12月に就役した。つまり、949A型の10隻目としてロシア海軍北方艦隊に配属された。という訳で、949A型は、ソヴィエト時代に設計・承認された、ソヴィエト連邦の原潜設計技術の極致を体現している潜水艦であり、潜水艦建造の歴史から言っても、全長154m、最大幅18,2mの史上最大の攻撃型潜水艦であった。ここにどうしても守りたいロシア側の軍事機密があったのであり、それは、23名の乗組員を犠牲にしてでも守りたいものであったのである。

 本艦の兵装は、巡航ミサイル24発、魚雷24発、艦首にある魚雷発射管六本である。乗員は、士官44名、下士官・兵68名の112名であり、Kurskの遭難時には乗員111名、司令部要員5名、便乗者2名の、合計118名が乗船していた。

 就航してから運用された約五年間の間に、Kurskが完遂した任務は、僅かに一度だけであり、それは、1999年にコソボ紛争に対応するためにこの地域に派遣されたUSA第六艦隊の動静を監視するために、同艦がほぼ六ヶ月に亘り監視行動を担ったものであった。それ以外は、乗り組み員は地上勤務が多かったと言い、このことが事故が起きる遠因になっているとも言う。

 事故の原因は、映画で描かれている通り、そして、ロシア政府ののちの事故調査報告が述べる通り、過酸化水素を推進燃料とする65㎜魚雷(別の説もあるが、「ウェーキ・ホーミング魚雷」と呼ばれた魚雷)が爆発したことによる。これは、高濃度過酸化水素HTPが不完全な溶接個所から漏れ出たことに因るものであった。この魚雷の爆発が魚雷発射管から外に向かったのではなく、艦内に向かったこと、更に、爆風が換気ダクトを通じて戦闘司令部区画(第二区画)に及び、ここにいた将校達36名を行動不能にしたことで、緊急浮上の措置が全くなされず、また、二分後の更に大きな魚雷数発の誘爆発により、少なくとも第三区画、場合によっては、第四・五区画までが被害を受け、これにより、原子炉発電部が停止し、更に魚雷発射室の真下にあったという非常用バッテリーまでが使えなくなったことにより、艦からの外部への連絡が不能になるという事態が、第二次爆発を辛うじて生き延びて第九区画(艦尾タービン室)に逃げた23名の生き残りには致命的であった。

 事故原因をUSA潜水艦との衝突と主張するロシア海軍側は、独自の救助艇を一隻派遣するが、救助は成功せず、8月12日の事故発生後、9日経った8月21日にロシア側の要請に基づき、イギリス・ノールウェーが送った救助艇から潜水夫が緊急脱出用のハッチを開けることに成功して、約110mの海底に沈んだ艦内に入ることが出来たが、時すでに遅し、乗り組員全員の死亡が確認された。(素人考えではあるが、Kurskの全長が約160mであるから、艦体を艦首を頭にして海底から逆さに立てたら、艦尾側は50m水上から出る計算である。)

 のちの検証に拠ると、一時的に生き延びた23名は、室内の酸素不足による窒息死であり、溺死ではないことが確認されたと言う。本作が描くような、二酸化炭素を除去し、酸素を発生させるカートリッジの取り扱いの誤りにより、室内に火災が生じ、これにより、室内の酸素が急速に奪われたことによる、窒息死があったと言う。その23名の中にドミトリー・コレスニコフKolesnikow海軍大尉(本作中の主人公アヴェリン海軍大尉)がおり、彼こそが暗闇の中、手探りで23名の名前を書き上げた本人であった。

2024年7月3日水曜日

眼下の敵(USA、1957年作)監督:デック・パウエル

 ナチスドイツのUボート艦長von Stolbergフォン・シュトルベルクの名前の一部になっている「von」から、この艦長の出身階層が貴族であることには間違いがないであろう。海軍将校であることから、恐らくはドイツ北部の黒海沿岸やバルト海沿岸、或いはその近くの内陸部の出身であろうと推察できる。そして、自らが、士官学校時代からの戦友である第一当直士官Schwafferシュヴァファー海軍中尉に(名前は「Heinieハイニー」で、von Stolberg艦長はSchwafferのことを名前で呼んでいる)、自分は軍人の家の出身であり、自分の息子達二人も軍人に育て上げたが、一人は飛行機乗りとして戦死し、一人は、同じく潜水艦乗りとして、海の藻屑となって海の底に沈んでいるという身の上話しをしているところから推察すると、von Stolbergは、場合によっては、ドイツ東部にあるElbeエルベ河以東の下層の土地貴族層Junkerユンカー層出身かもしれない。Otto von Bismarckを代表とする彼らこそ、プロイセン王国軍隊の屋台骨を将校連として支えた社会階層であるからである。

 von Stolbergは、Heinieハイニーに誇らしげに言う:『俺は、息子達に教えたものだ。「闘う、義務を遂行する、そして、質問はしない。」と。』自らもそのように叩き込まれたプロイセン軍人精神を、自らの息子達にも叩き込んだ訳であるが、それは、前近代的な「騎士道精神」にもつながることになり、このことが、彼がUボートを浮上させて、魚雷に被弾した駆逐艦にUボートの艦砲砲撃で沈没させようした、戦場における「栄誉礼」の動機であった。このことは、von Stolbergの「驕り」ではなかったのであり、アメリカ人のMurrell艦長がそれをvon Stolbergの「失敗」と評価している点で、独米間の価値観の違いもまた見られて、本作のストーリーにより深みを与えている。

 何れにしても、本作は、第二次世界大戦中の潜水艦と駆逐艦との戦いを描いた古典的作品であるが、それは単なる戦争アクションものに終わっておらず、最後には戦時におけるヒューマニズムを詠う佳作となっている点で一見の価値ある作品となっている。

 Uボート艦長von Stolbergを演じるのが、当時のドイツ映画界を代表する男優Curd Jürgensクルト・ユルゲンスであり、これに対するUSA海軍護衛駆逐艦艦長Murrell艦長を演じるのが、R.ミッチャムで、両男優の演技も本作の見どころであろう。

ユリシーズ(イタリア、1954年作)監督:マリオ・カメリーニ

 『オデュッセイア』は、古代ギリシャ神話の英雄で、知略の人オデュッセウスの冒険譚を詠った韻文の叙事詩で、24の「歌」から成っている。時系列的にはトロイア戦争が終わって、トロイアから故郷のイタケーに戻る行程が描かれるのであるが、文学的には、『オデュッセイア』では、初めの方で、オデュ...