シリーズ第六作
時:不明、何れにしても戦前
場所:浅草
対立抗争:浅草のヤクザ組織同士の縄張り争い(玉の井の私娼窟)
高倉は悪玉組織の客人で、池辺は、悪玉組織の代貸で、二人は義兄弟である。池辺は後に破門される。
ヒロイン:高倉と相思相愛の仲の女で、事情があって善玉組織の姐さんとなる:小山明子
日本人慰安婦がどうやって中国大陸に送り出されていったか、その経緯が推察される、ストーリー
悪玉親分から破門された風間、秀次郎に向かって言う:
「後生大事に守ってきた渡世の仁義も、もう縁はねえ!今の俺にゃ、生まれた時には別々だが、死ぬ時はいっしょの、おめえだけだ!」
秀次郎は、叩き割ろうとしていた義兄弟の盃を既に懐に入れていたが、雪の中、風間に近づいていき一声掛ける:「兄弟(きょうでえ)!」
風間は、苦笑いをして、左の口角をやや引き上げる。と、テーマソングはまた鳴り出し、そのBGMをバックに、風間と秀次郎は長ドスを左手に下げながら、並んで死地に歩き出すのであった。
本作、日本人慰安婦がどうやって中国大陸に送り出されていったか、その経緯が推察される、ストーリーでもある。現墨田区にあった玉の井は、戦前からの私娼窟で、映画の中で爆殺される売春婦も、少なくとも約千人はここにいたと言われる私娼たちの一人だったのである。
2025年2月26日水曜日
昭和残侠伝-唐獅子仁義(日本、1969年作)監督:マキノ雅弘
シリーズ第五作
時:昭和初期
場所:東京から移動して名古屋経由で信濃の小諸
対立抗争:国有林の入札を巡る伝統的組と、これと対抗する悪徳ヤクザ組織
高倉は伝統的組の客人で、池辺は、対抗するヤクザ組織の客人である。お互いがお互いの組の親分を刺殺した因縁がある。
ヒロイン:高倉に好意を持つ女で、池辺の妻:藤純子
場所:東京から移動して名古屋経由で信濃の小諸
対立抗争:国有林の入札を巡る伝統的組と、これと対抗する悪徳ヤクザ組織
高倉は伝統的組の客人で、池辺は、対抗するヤクザ組織の客人である。お互いがお互いの組の親分を刺殺した因縁がある。
ヒロイン:高倉に好意を持つ女で、池辺の妻:藤純子
おるいのためにも、どうかこのあっしに死に花を咲かせてやっていただきます
いつものテーマソングをBGMに森の中を行く秀次郎を左側からお供をするカメラは(1時間20分代)、秀次郎に近づいたり、離れたりする(二回)。それから、カットが少々早くなり、ショットがバストと、頭から膝までのアメリカン・ショットとを交互に繰り返す(四回)。すると、そこから更にカットのテンポを速めて、秀次郎の肩までのプロフィールが九回連続の「激写」となる。十回目からまたバストのショットに戻ると、秀次郎は森の小道を抜け出る。そこから、道を右に曲がる秀次郎の後ろ姿のショットになり、テーマソングの一番が終わる直前、秀次郎の後ろから、オフの「秀次郎さん!」と呼ぶ風間の声が聞こえる。ここまでで、1時間21分代ちょっとである。第五作の本作以降の、本シリーズの最後の九作目までの編集を担当したのは、田中修で、彼の、キャメラマンの坪井誠とのこの仕事は、蓋し、日本アカデミー・編集賞ものであろう。
さて、本作のストーリーの目玉は、何と言っても、藤純子の役回りである。風間は、藤が演ずる、元柳橋芸者おるいの旦那で、ストーリーの始めに、風間は因縁あって秀次郎と対決し、左腕を切られてその腕が使えなくなってしまっていたという曰く付きである。それにまた、おるいは、やくざとのいざこざで左手に怪我をした秀次郎を偶然に手当てをして、それが縁で、秀次郎のことも悪くは思っていない。そのおるいと秀次郎の気持ちの関わり合いがなんとも色っぽい。とりわけ、おるいを演じる藤が、成熟した女の香を濃厚に匂わせ、しかもそれに不倫の感覚が混ぜ込む演技には、観ている40代以降の男性の誰もが「悩殺」されたと思われる。それでも、操を通して、愛する夫、風間の腕の中で死んだおるいの薄幸は、本作の男と男の世界に、男と女の色恋沙汰の、言わば、「白薔薇」の絵を添えるものである。
昭和残侠伝-血染の唐獅子(日本、1967年作)監督:マキノ雅弘
シリーズ第四作
時:昭和初期
場所:浅草、上野
対立抗争:鳶職人をまとめる伝統的組と、工事利権を得ようとするヤクザ組織
高倉は伝統的組の者で、池辺は、対抗するヤクザ組織の代貸しである。映画後半、池辺は破門される。
ヒロイン:高倉に惚れる女で、池辺の妹:藤純子
時:昭和初期
場所:浅草、上野
対立抗争:鳶職人をまとめる伝統的組と、工事利権を得ようとするヤクザ組織
高倉は伝統的組の者で、池辺は、対抗するヤクザ組織の代貸しである。映画後半、池辺は破門される。
ヒロイン:高倉に惚れる女で、池辺の妹:藤純子
男同士と 誓ったからは
死んでくれよと 二つの笑顔 本作、ストーリーが少々変則で、善玉・悪玉の割り振りがはっきりし過ぎており、とりわけ、秀次郎の内面の葛藤が、秀次郎が完全に善玉側に立ってしまっていることで、薄い。風間は悪玉側だが、秀次郎とは元々幼馴染とあっては、男二人の義理の立場の対立の局面がこれまた薄くなっている。さらに、二人の女(芸者染次と、風間の妹文代)に慕われる秀次郎は、殆ど押しかけ女房的な文代(藤純子)とは、所帯持ちになる直前である。となれば、「さすらい」の秀次郎のイメージもこれまた薄い。そして、どもりの竹(津川雅彦)に伴われて、秀次郎と風間が殴り込みを掛けるとなると、秀次郎と風間の男同士の関係の緊密感がやはり薄らいでしまう。となると、復讐を終えた秀次郎と後を追ってきた文代の、「濡れ場」のラストに、何か物足りなさの感じを受けるのは筆者だけであろうか。
とは言え、本テーマソングの二番は、『昭和残侠伝』の本質を突いてあまりあるものがある:
男同士と 誓ったからは
死んでくれよと 二つの笑顔
喧嘩馴染みの お前(風間)と俺(秀次郎)さ
何も言うまい その先は
背中(せな)で吠えてる唐獅子牡丹
昭和残侠伝(日本、1965年作)監督:佐伯 清
1965年から始まった本シリーズ『昭和残侠伝』が、高倉健主演の何本かのシリーズものの中で、最も魅力を感じさせる、その理由は俳優・池辺良の存在であろう。伝統的に仁義を守る善玉一家と、仁義を守らない新興悪玉一家の対立をストーリーの背景にして、これに高倉を慕う紅一点(第一、第二作の三田佳子、第三、第四、第五、第七作の藤純子、第六作の小山明子、第八作の松原智恵子、第九作の星由里子)を絡ませ、恋には晩熟の、さすらいの渡世人・高倉が、堪えに堪えて、最後に悪玉親分を切り倒す、これが『昭和残侠伝』のストーリーの基本構造である。しかし、この最後の、懲悪の「道行き」には渋い相方が付くことが、このシリーズの「味噌」であり、斬り合いの中で死んでいく悲劇の相方を体現したのが、俳優・池辺なのである。
1918年生まれの池辺は、このシリーズ制作当時は、40歳代後半で、嘗ての二枚目青春スターの過去を背負って、どこか翳りのある、知的で苦み走った男性像を表象している。しかも、側頭と後頭部を刈り上げ、頭の上部だけ長めにするという、当時としては印象的な髪形で、それに、とりわけ黒の着物を、(本当は「いなせに」と言いたいところだが、これは気の早い若い人に言う言葉であると言うから)「粋に」着こなす池辺は、正に和製のダンディズムの権化と言えるであろう。こんな池辺に死地への道行きの相方を務めてもらっては、さすがの健さんも男冥利に尽きたことは想像に余りある。
1918年生まれの池辺は、このシリーズ制作当時は、40歳代後半で、嘗ての二枚目青春スターの過去を背負って、どこか翳りのある、知的で苦み走った男性像を表象している。しかも、側頭と後頭部を刈り上げ、頭の上部だけ長めにするという、当時としては印象的な髪形で、それに、とりわけ黒の着物を、(本当は「いなせに」と言いたいところだが、これは気の早い若い人に言う言葉であると言うから)「粋に」着こなす池辺は、正に和製のダンディズムの権化と言えるであろう。こんな池辺に死地への道行きの相方を務めてもらっては、さすがの健さんも男冥利に尽きたことは想像に余りある。
2025年2月15日土曜日
三文オペラ(西ドイツ/フランス、1963年作)監督:ヴォルフガング・シュタウテ
クルト・ウルリヒ映画制作会社は、『三文オペラ』の映画化を1950年代後半には発表しており、その上映を58年・59年のシーズンに行ないたいとしていた。最初は、当時の西ドイツで最良の映画人の一人であったHelmut Käutnerヘルムート・コイトナーに監督を依頼し、この時から既にC.ユルゲンスの主役は決まったいた。しかし、H.コイトナーは監督職から降板し、様々な経緯を経て、結局、東ドイツから西ドイツに活動の中心拠点を移してから数年しか経っていなかったW.シュタウテが、本作の監督を引き受けることとなる。
彼は、本作の撮影が開始される60年10月の約二年前から、脚本の共同執筆に骨を折っていた。結局、取得した映画化権の期限が切れるところから、本作の撮影に踏切り、撮り終えた訳であるが、USAへ上映権が販売されると、買い取ったUSAの映画会社が、監督のW.シュタウテの許可を得ることなく、サミー・デイヴィスJr.の場面を付け足したのである。故に、映画冒頭の、サミー・デイヴィスJr.が「メッキー・メッサ―のモリタート」を歌う部分は、英語となっており、ドイツ語版でもその吹き替えは行なわれていない。
脚本の共同執筆をしていたW.シュタウテは、B.ブレヒトが1920年代後半に書いた『三文オペラ』のストーリーを、より映画撮影当時の1960年代の状況にマッチしたものにしようとしていた。その素案では、ロンドンのSohoソーホー地区に住む下層住民が、ブルジョワ階級が自分達の生活を脅かすのに対抗して、その抗議運動の一環として、『三文オペラ』を上演したという風にストーリーの枠組みを読み替えたのであった。
しかし、この案は、1956年に死んだB.ブレヒトの遺志執行人たるHelene Weigelヘレーネ・ヴァイゲルによって拒否され、W.シュタウテは仕方がなくほぼ原作通りに映画化せざるを得なかったのである。
とは言え、W.シュタウテは、可能な範囲で自らの可能性を模索している。確かに、映画は、正に、演劇舞台の真ん前にカメラを据えて、劇場での演技をそのままに撮影したようにされてはいるが、本作では、わざと金を掛けた舞台背景にし、わざと人工的に汚くした服装にエキストラの乞食達を装わせ、わざと高額な出演料を払わせる国際的俳優陣に演技をさせたのであった。また、原作中に出てくる歌の順序を変えて本作では歌が登場する。それぐらいの芸術上の「自由」は、W.シュタウテは得たようである。また、ストーリーの展開は、登場人物が歌を歌っている最中に場面が展開するようにしてあり、あたかもミュージカル的な手法である。これは、映画人たるW.シュタウテが、「叙事詩的流れ」を提唱する演劇人たるB.ブレヒトの舞台劇とは異なるものとして本作を制作しようとして苦心した点であろう。
彼は、本作の撮影が開始される60年10月の約二年前から、脚本の共同執筆に骨を折っていた。結局、取得した映画化権の期限が切れるところから、本作の撮影に踏切り、撮り終えた訳であるが、USAへ上映権が販売されると、買い取ったUSAの映画会社が、監督のW.シュタウテの許可を得ることなく、サミー・デイヴィスJr.の場面を付け足したのである。故に、映画冒頭の、サミー・デイヴィスJr.が「メッキー・メッサ―のモリタート」を歌う部分は、英語となっており、ドイツ語版でもその吹き替えは行なわれていない。
脚本の共同執筆をしていたW.シュタウテは、B.ブレヒトが1920年代後半に書いた『三文オペラ』のストーリーを、より映画撮影当時の1960年代の状況にマッチしたものにしようとしていた。その素案では、ロンドンのSohoソーホー地区に住む下層住民が、ブルジョワ階級が自分達の生活を脅かすのに対抗して、その抗議運動の一環として、『三文オペラ』を上演したという風にストーリーの枠組みを読み替えたのであった。
しかし、この案は、1956年に死んだB.ブレヒトの遺志執行人たるHelene Weigelヘレーネ・ヴァイゲルによって拒否され、W.シュタウテは仕方がなくほぼ原作通りに映画化せざるを得なかったのである。
とは言え、W.シュタウテは、可能な範囲で自らの可能性を模索している。確かに、映画は、正に、演劇舞台の真ん前にカメラを据えて、劇場での演技をそのままに撮影したようにされてはいるが、本作では、わざと金を掛けた舞台背景にし、わざと人工的に汚くした服装にエキストラの乞食達を装わせ、わざと高額な出演料を払わせる国際的俳優陣に演技をさせたのであった。また、原作中に出てくる歌の順序を変えて本作では歌が登場する。それぐらいの芸術上の「自由」は、W.シュタウテは得たようである。また、ストーリーの展開は、登場人物が歌を歌っている最中に場面が展開するようにしてあり、あたかもミュージカル的な手法である。これは、映画人たるW.シュタウテが、「叙事詩的流れ」を提唱する演劇人たるB.ブレヒトの舞台劇とは異なるものとして本作を制作しようとして苦心した点であろう。
2025年2月12日水曜日
三文オペラ - マック・ザ・ナイフ(USA/オランダ/ハンガリ―、1989年作)監督:メナヘム・ゴーラン
本作は、原作演劇『三文オペラ』の、B.ブレヒトの風刺性とK.ヴァイルの音楽的アヴァンギャルド性を削ぎ取った単純なミュージカル作品である。しかも、主題のテーマは、プエルトリコ人ラウル・ジュリアが演じるMac the Knifeと、同じくラテン系アメリカ人の血が入ったジュリア・ミゲネス演じる娼婦Jennyとの間の「腐れ縁」の愛である。このサイトの映画ポスターでは分からないが、ウィキペディアに出ているポスターでは、二人が熱烈にキスする直前のシーンが採用されており、的を射えている。
尚、本作の終盤フィナーレでの展開は、『三文オペラ』もその通りであり、何も本作の脚本の独創ではない。そもそも、悲劇のバロック・オペラが終章にデウス・エクス・マキナが出て、一挙に問題が解決するというハッピーエンドは、伝統的なオペラの悲劇のエンディングである。
原作演劇『三文オペラ』の初上演は、1928年のことであるが、この演劇の原作は、ジョン・ゲイの『乞食のオペラ』であり、こちらは、1728年が初上演である。つまり、『三文オペラ』と『乞食のオペラ』の間には丁度200年の差がある訳であるが、『三文オペラ』では、ある女王の戴冠式が、本作の映画と同様に一つのプロットとなっており、それが、ヴィクトリア女王の戴冠式であるとすると、1837年のことになる。となると、正に、『乞食のオペラ』と『三文オペラ』のほぼ中間地点となる。こう考えると、ブレヒトは、実に上手い、作品の時間的設定を行なったと言えるであろう。
原作演劇『三文オペラ』では、メッキ―・メッサ―、即ち匕首のメッキ―と、「乞食王」ピーチャムの箱娘ポリーの関係が中心であるのであるが、本作では、マックとジェニーの関係に焦点が置かれており、また、本作では、ジェニーとはJenny Diverと、『三文オペラ』とは異なり、しっかり述べられているので、このJenny Diverとは誰のことかを少々説明しておこうと思う。
Jenny Diverは、本名をMary Youngといい、1700年頃にアイルランドで生まれた。両親に捨てられた後、施設で育ち、裁縫師の技術を身に付けるものの、ロンドンに移り住み、そこで、女スリの窃盗団に仲間入りすることになる。結局、そのリーダー格になり、綽名でJenny Diverと呼ばれる。彼女は18世紀前半で最も悪名高い存在となるが、彼女は中・上流の市民と交わり、教養もあり、身なりもよく、魅力的な存在であったと言う。
1733年と38年に二度、司法に捕まるものの素性が同定出来なかったことから、一時アメリカ大陸にあるヴァージニアに送られたりもしたが、イギリスに戻ってきて、再び自由の身となる。1741年1月に三度目に捕まり、この時には、素性が分かったことから、結局、アメリカへの強制送還を逃れた重罪の故に死刑の処罰を受ける。同年3月18日、他の死刑判決を受けた人間と共に、死刑に処される。その際、彼女は黒いドレスを纏っていたと言う。
尚、本作の終盤フィナーレでの展開は、『三文オペラ』もその通りであり、何も本作の脚本の独創ではない。そもそも、悲劇のバロック・オペラが終章にデウス・エクス・マキナが出て、一挙に問題が解決するというハッピーエンドは、伝統的なオペラの悲劇のエンディングである。
原作演劇『三文オペラ』の初上演は、1928年のことであるが、この演劇の原作は、ジョン・ゲイの『乞食のオペラ』であり、こちらは、1728年が初上演である。つまり、『三文オペラ』と『乞食のオペラ』の間には丁度200年の差がある訳であるが、『三文オペラ』では、ある女王の戴冠式が、本作の映画と同様に一つのプロットとなっており、それが、ヴィクトリア女王の戴冠式であるとすると、1837年のことになる。となると、正に、『乞食のオペラ』と『三文オペラ』のほぼ中間地点となる。こう考えると、ブレヒトは、実に上手い、作品の時間的設定を行なったと言えるであろう。
原作演劇『三文オペラ』では、メッキ―・メッサ―、即ち匕首のメッキ―と、「乞食王」ピーチャムの箱娘ポリーの関係が中心であるのであるが、本作では、マックとジェニーの関係に焦点が置かれており、また、本作では、ジェニーとはJenny Diverと、『三文オペラ』とは異なり、しっかり述べられているので、このJenny Diverとは誰のことかを少々説明しておこうと思う。
Jenny Diverは、本名をMary Youngといい、1700年頃にアイルランドで生まれた。両親に捨てられた後、施設で育ち、裁縫師の技術を身に付けるものの、ロンドンに移り住み、そこで、女スリの窃盗団に仲間入りすることになる。結局、そのリーダー格になり、綽名でJenny Diverと呼ばれる。彼女は18世紀前半で最も悪名高い存在となるが、彼女は中・上流の市民と交わり、教養もあり、身なりもよく、魅力的な存在であったと言う。
1733年と38年に二度、司法に捕まるものの素性が同定出来なかったことから、一時アメリカ大陸にあるヴァージニアに送られたりもしたが、イギリスに戻ってきて、再び自由の身となる。1741年1月に三度目に捕まり、この時には、素性が分かったことから、結局、アメリカへの強制送還を逃れた重罪の故に死刑の処罰を受ける。同年3月18日、他の死刑判決を受けた人間と共に、死刑に処される。その際、彼女は黒いドレスを纏っていたと言う。
2025年1月20日月曜日
大空に乾杯(日本、1966年作)監督:斎藤 武市
本作の制作年1966年とは、第一回東京オリンピックが開催された1964年の二年後のことであり、第一回東京オリンピックとは、産業国家としての日本が国際的に認められた「報償」とでも言えるものである。1966年とは、つまり、敗戦、闇市、朝鮮戦争特需、「奇蹟の復興」、そして、「所得倍増計画」を謳えた高度経済成長政策が一定の成果を上げた戦後約20年の期間が経過して、一段落した時期と言える。そして、社会運動としての世界的な学生運動が起こる68年まであと二年、73年の「石油ショック」まで、あと七年の時間的立ち位置である。
このような時間的立ち位置を鑑みるに、昭和三十年代(1955年から64年まで)の経済発展の「バラ色の夢」は、昭和四十年代に入ってもこのまま夢想し続けることが出来ると、制作年の66年段階では大方の日本人は信じていたのではないか。
映画の冒頭のプロットの、「スポ根」ものを思わせる「ステュワーデス物語り」は、国内航空線の羽田・大阪間が、プロペラ機ではなく、ジェット旅客機が使われている話しである。しかし、大病院の内科の部長(下元勉が好演)と言えば、中産階層上位に位置するであったろうが、その父親の娘(吉永小百合)が希望して就職しているところを見ると、国際線「ステュワーデス」への憧れはこの時点でも未だに強かったのであろう。現在では、考えられないことではないか。
一方、浜田光夫が演じている「ゲルピン」の貧乏学生である。浜田の社会階層的背景は、下層階層のものであり、北九州の炭鉱地帯・筑豊で育っている。正に、高度経済成長に伴なう石炭から石油への「エネルギー革命」の下、経済発展の途上で切り捨てられていった炭鉱夫の生活を知っている人間である。このような社会的背景を持って育った浜田が、大学の偏差値が低い「園芸大学」で自ら望んで勉学しようとしていることは興味深い。1960年代は、水俣病、四日市ぜんそくなどの環境汚染、公害問題が、人々の意識にのぼってきた時期である。とすれば、園芸に興味を抱く浜田は、日本におけるエコロジー運動を担う存在になるかもしれない可能性を持った人間であったとも言える。
更に、吉永の母親(佐々木すみ江が熱演)は、病院長の娘だった女性であるが、ストーリー上の現代たる60年代半ばに、新興宗教に凝っている人間である。消費文明の浅薄さに何か心の「空洞」を感じて、その「穴」を埋めるために日本では60年代から新興宗教が流行り出していたと言われる。脚本家二氏は、しっかりと当時の日本社会の傾向を捉えていたとも言え、その30年後の「オウム真理教」のテロ行為が、このような社会的傾向の悪しき帰結の一つであったと考えると、本作を単純な日活青春映画として片付けてしまのは残念にも思える。
ウィキペディアで調べてみると、本作には同名の原作小説があると言う。著者は、1931年に新潟県で生まれた若山三郎という人間で、作家になる前は、在日米軍のための特殊通訳を務めていた人物である。即ち、英語が出来たということで、本作のストーリーの下地はこの通訳時代に培ったものであろう。吉永の年上の同僚十朱幸代が体現する「合理的な近代女性」像は、なるほど、若山の作家になる前の前身から来ているのであろうか。彼女は、自分が仕事中に乗らない自家用車をレンタカーとして貸し出し、自分のマンションのアパートには若い家政夫(!)を住まわせて家事をさせ、自分がいない時には、この家政夫にマネージさせて、居間をパーティー会場としてレンタルするという「合理主義者」である。作家若山は、1960年代に通訳業を辞めて本業の作家となるが、彼こそが、昭和30年代に一大ブームとなったという「貸本小説」の売れっ子小説家の一人であったと言われ、『お嬢さんの...』とか、『青春の...』とかという題名の作品を多作している。若山は、現代日本で言えば、高校生当たりをターゲットとするジュヴナイル小説の小説家の先駆けの一人であったと思われる。
さて、それでは、本作もその一本である「日活青春映画」とは何であったか。筆者の、すぐに思い出せる、戦後の日本映画史的な規定としては、特撮・怪獣映画の東宝、現代家庭劇の松竹、ヤクザ映画の東映で、日活と言えば、「ロマンポルノ」である。但し、この「ロマンポルノ」は、日活の1970年代以降の製作路線であり、それ以前は、日活の路線の一つは、「青春映画」路線なのであった。
という訳で、ここで少し、日活に焦点を当てて、日本映画史を綴ってみたい。「日活」とは、「日本活動写真株式会社」の略称であり、「活動写真」という語感からして古い。この古い名称に劣ることなく、1912年創立の日活は、映画製作会社としては一時期中断するのではあるが、日本で現存する最古の映画製作会社である。
日活は、最初は剣戟映画の製作会社として「名門」となるが、その一方では、早くから映画女優を適用したりする前衛性を見せるものの、会社経営の失敗が祟って、1930年代末には、会社株を松竹と東宝に保有される状況となり、42年の「戦時統合」では、更に、製作部門を新進の「大映」に移譲して、自らは、映画配給・上映の専業会社に「堕して」いた。
敗戦後も日活は、大映の映画作品や洋画の上映で経営を続けていたが、大手の東宝・松竹にこの部門でも経営的に圧迫され、1950年代の前半に始まる日本映画界の第二の絶頂期を横目で見ながら、日活の映画製作部の再興を準備していた。こうして、1954年に製作再開第一作『国定忠治』を公開する。その翌年の55年が日本映画界の絶頂期のピークであったことを鑑みると、日活の製作再開は、少々遅きに過ぎた感がある。
更に、製作再開第一作が『国定忠治』であることからも推測できる通り、制作スタッフでは日活が嘗て使っていた人間を引き戻せたとしても、俳優の引き抜きには難航し、新派・新国劇の俳優を使わざるを得なかったことを物語っている。そんな中で、石原慎太郎の小説『太陽の季節』を原作とした56年の同名作品は、無軌道な青年男女の生態を描いた作品として反社会的な「太陽族」を生み出す社会現象となる程であった。これを受けて、日活は、低予算で、若者向けの「無国籍アクション映画」製作路線を採ることにし、そのために、他社の二番手俳優の引き抜きや新人俳優の発掘・養成に乗り出し、「和製ジェームズ・ディーン」こと赤木圭一郎などのスターを生み出す。
このようにして生み出された「看板スター」の男性陣は、赤木などが「日活ダイヤモンドライン」と、また、女性陣は、浅丘ルリ子などが「日活パールライン」と呼ばれた。吉永もこの「パールライン」を形成する一員として60年に日活に入社している。
その二年後、吉永は、映画『キューポラのある街』で、埼玉県川口市の鋳物工場で働く熟練労働者の娘役で主役を演じて、ブルーリボン賞主演賞を17歳の若さで授賞して、一躍スターとなる。更に、この映画でも既に、「日活グリーンライン」の一員を構成する浜田が脇役を演じており、この二人が、50年代後半の「アクション映画」路線に取って代わって、60年代の日活の「青春映画路線」の立役者となるのである。こうして、二人を主役として、本作も「日活青春映画路線」に乗っかった一作品になる訳であるが、本作で二人の脇役を演じる、どういう訳かセーラー服が余り似合わない和泉雅子は、吉永ともう一人の松原智恵子と「日活三人娘」と呼ばれた存在であった。
1971年から始まる「ロマンポルノ」路線は、経営に喘ぐ日活の苦肉の策であったが、この路線では、宮下順子などの新しいスターは生み出せても、従来の吉永などの「清純派スター」は日活から離れていくことを意味した。しかし、正にこの路線こそが、低予算で制作することを義務付けられた「監督の卵」達のために、実践的訓練の場を提供することにもなり、ここで育った監督達がその後の日本映画界を担う存在となっていくのである。
このような時間的立ち位置を鑑みるに、昭和三十年代(1955年から64年まで)の経済発展の「バラ色の夢」は、昭和四十年代に入ってもこのまま夢想し続けることが出来ると、制作年の66年段階では大方の日本人は信じていたのではないか。
映画の冒頭のプロットの、「スポ根」ものを思わせる「ステュワーデス物語り」は、国内航空線の羽田・大阪間が、プロペラ機ではなく、ジェット旅客機が使われている話しである。しかし、大病院の内科の部長(下元勉が好演)と言えば、中産階層上位に位置するであったろうが、その父親の娘(吉永小百合)が希望して就職しているところを見ると、国際線「ステュワーデス」への憧れはこの時点でも未だに強かったのであろう。現在では、考えられないことではないか。
一方、浜田光夫が演じている「ゲルピン」の貧乏学生である。浜田の社会階層的背景は、下層階層のものであり、北九州の炭鉱地帯・筑豊で育っている。正に、高度経済成長に伴なう石炭から石油への「エネルギー革命」の下、経済発展の途上で切り捨てられていった炭鉱夫の生活を知っている人間である。このような社会的背景を持って育った浜田が、大学の偏差値が低い「園芸大学」で自ら望んで勉学しようとしていることは興味深い。1960年代は、水俣病、四日市ぜんそくなどの環境汚染、公害問題が、人々の意識にのぼってきた時期である。とすれば、園芸に興味を抱く浜田は、日本におけるエコロジー運動を担う存在になるかもしれない可能性を持った人間であったとも言える。
更に、吉永の母親(佐々木すみ江が熱演)は、病院長の娘だった女性であるが、ストーリー上の現代たる60年代半ばに、新興宗教に凝っている人間である。消費文明の浅薄さに何か心の「空洞」を感じて、その「穴」を埋めるために日本では60年代から新興宗教が流行り出していたと言われる。脚本家二氏は、しっかりと当時の日本社会の傾向を捉えていたとも言え、その30年後の「オウム真理教」のテロ行為が、このような社会的傾向の悪しき帰結の一つであったと考えると、本作を単純な日活青春映画として片付けてしまのは残念にも思える。
ウィキペディアで調べてみると、本作には同名の原作小説があると言う。著者は、1931年に新潟県で生まれた若山三郎という人間で、作家になる前は、在日米軍のための特殊通訳を務めていた人物である。即ち、英語が出来たということで、本作のストーリーの下地はこの通訳時代に培ったものであろう。吉永の年上の同僚十朱幸代が体現する「合理的な近代女性」像は、なるほど、若山の作家になる前の前身から来ているのであろうか。彼女は、自分が仕事中に乗らない自家用車をレンタカーとして貸し出し、自分のマンションのアパートには若い家政夫(!)を住まわせて家事をさせ、自分がいない時には、この家政夫にマネージさせて、居間をパーティー会場としてレンタルするという「合理主義者」である。作家若山は、1960年代に通訳業を辞めて本業の作家となるが、彼こそが、昭和30年代に一大ブームとなったという「貸本小説」の売れっ子小説家の一人であったと言われ、『お嬢さんの...』とか、『青春の...』とかという題名の作品を多作している。若山は、現代日本で言えば、高校生当たりをターゲットとするジュヴナイル小説の小説家の先駆けの一人であったと思われる。
さて、それでは、本作もその一本である「日活青春映画」とは何であったか。筆者の、すぐに思い出せる、戦後の日本映画史的な規定としては、特撮・怪獣映画の東宝、現代家庭劇の松竹、ヤクザ映画の東映で、日活と言えば、「ロマンポルノ」である。但し、この「ロマンポルノ」は、日活の1970年代以降の製作路線であり、それ以前は、日活の路線の一つは、「青春映画」路線なのであった。
という訳で、ここで少し、日活に焦点を当てて、日本映画史を綴ってみたい。「日活」とは、「日本活動写真株式会社」の略称であり、「活動写真」という語感からして古い。この古い名称に劣ることなく、1912年創立の日活は、映画製作会社としては一時期中断するのではあるが、日本で現存する最古の映画製作会社である。
日活は、最初は剣戟映画の製作会社として「名門」となるが、その一方では、早くから映画女優を適用したりする前衛性を見せるものの、会社経営の失敗が祟って、1930年代末には、会社株を松竹と東宝に保有される状況となり、42年の「戦時統合」では、更に、製作部門を新進の「大映」に移譲して、自らは、映画配給・上映の専業会社に「堕して」いた。
敗戦後も日活は、大映の映画作品や洋画の上映で経営を続けていたが、大手の東宝・松竹にこの部門でも経営的に圧迫され、1950年代の前半に始まる日本映画界の第二の絶頂期を横目で見ながら、日活の映画製作部の再興を準備していた。こうして、1954年に製作再開第一作『国定忠治』を公開する。その翌年の55年が日本映画界の絶頂期のピークであったことを鑑みると、日活の製作再開は、少々遅きに過ぎた感がある。
更に、製作再開第一作が『国定忠治』であることからも推測できる通り、制作スタッフでは日活が嘗て使っていた人間を引き戻せたとしても、俳優の引き抜きには難航し、新派・新国劇の俳優を使わざるを得なかったことを物語っている。そんな中で、石原慎太郎の小説『太陽の季節』を原作とした56年の同名作品は、無軌道な青年男女の生態を描いた作品として反社会的な「太陽族」を生み出す社会現象となる程であった。これを受けて、日活は、低予算で、若者向けの「無国籍アクション映画」製作路線を採ることにし、そのために、他社の二番手俳優の引き抜きや新人俳優の発掘・養成に乗り出し、「和製ジェームズ・ディーン」こと赤木圭一郎などのスターを生み出す。
このようにして生み出された「看板スター」の男性陣は、赤木などが「日活ダイヤモンドライン」と、また、女性陣は、浅丘ルリ子などが「日活パールライン」と呼ばれた。吉永もこの「パールライン」を形成する一員として60年に日活に入社している。
その二年後、吉永は、映画『キューポラのある街』で、埼玉県川口市の鋳物工場で働く熟練労働者の娘役で主役を演じて、ブルーリボン賞主演賞を17歳の若さで授賞して、一躍スターとなる。更に、この映画でも既に、「日活グリーンライン」の一員を構成する浜田が脇役を演じており、この二人が、50年代後半の「アクション映画」路線に取って代わって、60年代の日活の「青春映画路線」の立役者となるのである。こうして、二人を主役として、本作も「日活青春映画路線」に乗っかった一作品になる訳であるが、本作で二人の脇役を演じる、どういう訳かセーラー服が余り似合わない和泉雅子は、吉永ともう一人の松原智恵子と「日活三人娘」と呼ばれた存在であった。
1971年から始まる「ロマンポルノ」路線は、経営に喘ぐ日活の苦肉の策であったが、この路線では、宮下順子などの新しいスターは生み出せても、従来の吉永などの「清純派スター」は日活から離れていくことを意味した。しかし、正にこの路線こそが、低予算で制作することを義務付けられた「監督の卵」達のために、実践的訓練の場を提供することにもなり、ここで育った監督達がその後の日本映画界を担う存在となっていくのである。
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