「エロ、グロ、ナンセンス」とは、1930年代の日本における大衆文化の傾向を端的にまとめた表現である。イギリスのB級映画製作会社Hammer Film Productionsによる本作の「嗜好」をこれになぞらえるならば、「エロ、グロ、エレメンタリー」ということになろうか。
本作の映画素材がTechnicolorであることに若干の驚きを隠せないところであるが、Holmes映画初のカラー作品たる本作の終盤に藤色のロングドレスを着て登場するセシル嬢が、本作の「エロ」の部分を表しているであろうか。少々言い過ぎのところがあるかもしれないが、それでもそう言えるのは、セシル嬢は、初対面のサー・ヘンリー・バスカヴィル準男爵から接吻を自分から奪うからである。Chr. Lee演じるところのサー・ヘンリーは早速セシル嬢に悩殺されてしまう。(準男爵とは、英語でBaronetで、この世襲爵位で最下位の爵位は、Knightより上位で、Baronより下位にあるものである。身分は貴族ではなく平民で、敬称は「サー」である。但し、サー・ヘンリー、乃至サー・ヘンリー・バスカヴィルはありではあるが、姓のみの「サー・バスカヴィル」とは呼称されない身分であると言う。)
それでは、「グロ」の方であるが、こちらはイギリスの伝統的ゴシック小説の作法に則って、魔の大型ハウンド犬にまつわる伝承が本作の序盤に登場する。このケルベロスの魔犬が夜に目を光らせて、呪われたバスカヴィル家の人間を襲うというのである。
そして、本作は名探偵Sherlock Holmesホルムズが主役を演じる探偵映画であるから、当然に「elementary」ということになろう。「ナンセンス」よりは、合理的推理能力が基本であるからである。因みに、よく言われて名台詞になっている「Elementary, my dear Watson.」は、あるサイトによると、Conan Doyleコウナン=ドイル氏の作品に一度も登場したことがないそうである。
何れにしても本作は、ゴシック・ホラー的おどろおどろしい雰囲気を未だ漂わせる19世紀末イングランドを背景として、犯人捜しの醍醐味は余りないのでこれは無理として、Hammer Film Productionsの大スターPeter Cushingが演じるところのSherlock Holmesなる人物の、殆んど「超人」の如き性格的特異性を「愉しむ」べき作品であると筆者は言いたい。
さて、イギリスのハマー・フィルム・プロダクションズは、その元々の設立は、1934年であったが、一時期の中断などがあり、戦後の1949年に再創立された。1955年に発表したSFホラー映画『原子人間』を世界的にヒットさせると、「Hammer Horror」のブランドが生まれた。この成功を見て、1930年代から1940年代にかけて怪奇映画のブームを作ったUSAのユニバーサル映画社がその再来を期待して、古典派ホラー映画のリメイクをHammer Filmの方に打診したのである。こうした経緯もあって、Hammer Filmは、1957年にワーナー・ブラザースからの出資を受けて、ユニバーサル・ホラーの代表作とも言われる『フランケンシュタイン』(1931年作)のカラー版リメイクを撮る。これが、『フランケンシュタインの逆襲』(1957年作)であった。この作品の監督が、Terence Fisherテレンス・フィッシャーで、フランケンシュタイン男爵役にはPeter Cushing、そして、人造モンスター役にChr. Leeが起用された。このカラー・リメイク版は、その残酷性とグロテスク性で、試写会では懸念が表明されたのであるが、公開されると、一挙に世界的なヒットを記録する。この好結果を受けて、Hammer Filmは続けて、ユニバーサル・ホラーの第一作目であった『魔人ドラキュラ』(1931年作)のリメイクとして、『吸血鬼ドラキュラ』(1958年作)を撮る。これも大ヒットとなり、この二作の成功により、Hammer Filmはホラー映画製作会社として約10年間、世界の映画界に君臨することになる。そのHammer Horror映画が、1959年にFisher, Cushing, Leeの「黄金トリオ」で撮った作品が、本作である。
元々はテレビ映画畑のPeter Cushingは、上述の『フランケンシュタインの逆襲』で狂気の科学者フランケンシュタイン男爵を演じて、映画界のスターとなり、『吸血鬼ドラキュラ』では、「正義の吸血鬼ハンター」・ヴァン・ヘルシングを演じており、二作とも、狂気であるかは別として、何かについて専門的知識を持った人間を体現している。その意味で、本作での役Sherlock Holmesも、犯罪に関しての専門的知識を持っており、前二作と同系統の人間像を体現していると言えるであろう。この専門性に、Holmesの場合、更に、鋭い観察力、鋭利な分析力、そして、透徹した推理力が加わる。そして、これらの性格を、Peter Cushingの鷲を思わせる鋭い眼光と尖った鼻先がよく形象している。この意味で、この配役は、正にキャスティングの勝利であると言える。因みに、Holmesのトレード・マークとも言える、1.鹿撃ち帽(deerstalker hat:頭の上にあるリボンを外すと、両耳を覆うことが出来、また、前と後ろの庇があるので、キャップではなく、ハット )、2.インヴァ―ネス・コート(Inverness coat:ケープ付きの丈の長いスコットランド風コート)、そして、3.Calabash Pipe(瓢箪から作ったパイプで、柄から吸い口の部分が強く曲がっている形のベント・タイプのパイプ)も、イングランド人俳優Peter Cushingによく似合う。
1859年にスコットランドで生まれ、自身をむしろ歴史小説家と自認していたArthur Conan Doyleは、医業の傍ら、小説を書いていた。こうして、彼はある時Sherlock Holmesなる人物を主役とする探偵小説を書き上げる。その第一作目が『緋色の研究』(1887年発表)という二部に分れた長編小説である。第一部では、医師Watsonが探偵Sherlock Holmesと知り合う経過とロンドンで起こった事件が描かれ、第二部では、その事件が起こった遠因がUSAにあることが語られるという趣向である。Conan Doyleは、この三年後、Sherlock Holmesシリーズの第二作目の長編『四つの署名』を発表する。この作品も二部構成で、第一部では、大英帝国陸軍大尉の娘メアリー・モースタン嬢の登場とロンドンでのある殺人事件が、第二部では、その殺人事件の遠因となる、インドでの大英帝国派遣軍での出来事が語られる。(話しの終わりには、めでたく美貌のモースタン嬢とDr.ワトスンが結ばれる。)
以上の二冊は余り評判にもならず、Conan Doyleは、1890年にベルリンでの医学会議に参加したりしたが、1891年には何を思ったか、資格もないのに眼科医としてロンドンで開業をし始める。しかし、資格がないのであるから、患者が彼の診療所に来るわけもなく、暇に暇を重ねている内に、ある月刊誌のために、Sherlock Holmesを主人公とした連載短編小説を書くことにする。これが意外にも当たって大人気となり、歴史小説家としてのConan Doyleは困惑するものの、結局は、12編を書く次第となる。これが、短編集『シャーロック・ホームズの冒険』として1892年に単行本として発刊される。更に、二年後には第二の短編集『シャーロック・ホームズの回想』(1894年発表)が出されるが、本来、歴史小説家して自負しているConan Doyleとしては、シャーロック・ホームズの人気は自分の意とするところではなかったので、彼は、1893年12月号の短編『最後の事件』でシャーロック・ホームズが格闘の末、滝つぼに落ちて亡くなったことにしてしまったのである。
1894年以降は、再び歴史小説家として、ナポレオン戦争時代をテーマとした『ジェラール准将』を書き、それなりの販売数には達したものの、『シャーロック・ホームズ』ものの人気には及ばず、時代は世紀末を迎える。それは、国際政治的には、1899年に勃発した「ボーア戦争」を意味し、この植民地主義戦争は、大英帝国の威信に関わるものとなった。なぜなら、この戦争において、歴史上初めて、大国による戦争犯罪が問題視されたからである。ウィキペディアに挙げられている箇所をここに引用しておく:
「...ボーア戦争はゲリラ戦争と化していた。民家がゲリラの活動拠点になっていると見たイギリス軍は焦土作戦を実施した...1900年9月には、ゲリラが攻撃してきた地点から16キロ四方の村は焼き払ってよいとの方針が定められている...イギリス軍の焦土作戦で焼け出されたボーア人の多くは強制収容所に送られたが、そこの環境は劣悪であり、2万人以上の人々が命を落としていった...」
「焦土作戦」は、独ソ戦におけるソ連軍側の作戦でもあったとしても、「強制収容所」はナチス・ドイツの政策であり、これと同じことを世紀末前後の大英帝国軍を行なっていたことは、強く記憶に留めたいところであるが、このような状況に対しての、Conan Doyleの、1902年3月の『ボーア戦争における原因と行ない』での反論も興味深い:
「イギリス軍が民間人の家を焼くのは、そこがゲリラの拠点となった場合のみ(であり、)責任は最初にゲリラ戦法を行った側(ボーア人)にある。...(さらに、強制収容所については)焼け出された婦女子を保護するのは文明国イギリスの義務である。収容所内では食糧もしっかり出されている。それにもかかわらず収容者の死亡率が高いのは病気のせいだが、イギリス軍内でも病死者が続出しており、差別的な取り扱いではない。...(また、イギリス軍人によるボーア人婦女子強姦については)いかなる戦争でも女性は既婚・未婚問わず憎悪に晒される。避けられないことだ...」と大英帝国を擁護したのである。
この帝国主義戦争擁護の小冊子は、イギリスで大きな反響を呼ぶこととなり、その「愛国主義的な」活動に対して、Conan Doyleは、1902年10月に国王エドワードVII世より、Knight Bachelorに叙されたのであった。
この間、ボーア戦争に志願したのにもかかわらず、年齢を理由に軍隊には入れず、仕方がないので、自由意志で戦地医療奉仕団の一員として志願して、Conan Doyleは、1900年3月に他の医師と共に軍医として戦地に赴く。約四ヶ月で帰国し、『大ボーア戦争』を執筆し、10月には総選挙に戦争支持派で出馬し、落選する。
こういう政治的な動きのある時期に、1901年3月、Conan Doyleは、戦地で罹った腸チフスの後遺症に悩まされていたことから、ノーフォーク州に行って、療養していたのであるが、その時に、ボーア戦争で知り合ったジャーナリストの知人バートラム・F.ロビンソンと再会し、彼から、彼の出身地Dartmoorで言い伝えられている「黒い魔犬」についての伝説を聞いたのである。Dartmoorは、ロンドンより西に行き、その最西端にあるCornwoll半島の中央部にあるCounty(州)である。
この伝承に着想に得て書き上げたのが本作と同名の原作である。この原作の執筆の際には、Conan Doyleは、Dartmoorに調査に行っていると言う。Dartmoorとは、泥炭の厚い層に覆われた原野や、底なし沼ともなる湿地(Moorムーア)からなる、平均標高約520mの高地で、ヒツジや子馬の放牧の他、花崗岩や陶土の採掘が行なわれた地域である。このDartmoorの中央にはPrincetownプリンスタウンがあり、ここには、1806年には、対仏戦争の絡みで、この地に刑務所が建設され、ナポレオン戦争の際のフランス人捕虜をここに収容したと言う。本作でも、ある刑務所を脱走した「凶悪犯」のプロットが出てくるが、これは、この刑務所のことを言っているのである。Conan Doyleの現地調査が原作のプロット展開に上手く働いた結果である。
こうして、Sherlock Holmesシリーズの長編第三作目『バスカヴィル家の魔犬』が20世紀に入った初年の1901年に発刊されたのである。一度死なせたことになっていたSherlock Holmesは、生き返させるわけにはいかないので、事件が起こった年をその死の以前とし、それを以って、Sherlock Holmesは、問題なく再び、活躍することが出来たという訳である。
2025年4月26日土曜日
2025年4月20日日曜日
壮烈第六軍!:最後の戦線(西ドイツ、1959年作)監督:フランク・ヴィスバール
1950年代に入ると、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)でも第二次世界大戦をテーマとした戦争映画が撮られるようになるが、一部には、戦時中のナチスドイツ国防軍の戦いぶりをあたかも正当化しようとするような描き方がないでもなかった。そのよい例が、『激戦モンテカシノ』(ドイツ語原題:「モンテカシノの緑色の悪魔」;Harald Reinlハラルト・ラインル監督、1958年制作)であろう。イタリアのモンテカシノ僧院に疎開してあった多数の美術品を、USA軍の攻撃の前に救うために努力するドイツ国防軍の将校・兵隊の姿が描かれる。モンテカシノ山はドイツ国防軍第1落下傘兵師団が守備をしている陣地であり、落下傘兵の兵科の色は緑色であった。そこからこの「緑の悪魔」という異名が付いた訳である。
この時期には、未だ、「清潔な」国防軍というイメージは生きており、このような作品が、確かに一部は歴史的事実に基づくストーリーでもあることから、制作することが可能であった。しかし、この「清潔な」国防軍のイメージは、遅くとも1990年代には崩れる。第二次世界大戦中の歴史を検証する90年代の作業の中で、ドイツ国防軍も、ナチス党とその下部組織、例えば親衛隊などと同様に、とりわけ東部戦線においては組織的に戦争犯罪を行なっていたことが判明したからである。
このような1950年代の西ドイツの戦争映画と比較すると、本作ははっきりと戦争指導部を批判しており、その意味で、本作が反戦映画であると考えてよいであろう。そして、このような明確な反戦映画が撮り得たのは、一重に監督Frank Wisbarの意志によるところが大きい。プロイセン王国の幼年学校を出ている彼は、軍隊が何たるところであるかは肌身に感じていたはずである。その彼が、やはり、映画畑に進出し、ナチスの文化担当者と映画制作の方針で対立したこと、そして、自分の妻が非アーリア人であったことから、1938年11月の反ユダヤ主義のポグローム「水晶の夜」を以って、妻とUSAに亡命したことは、彼の政治的潔癖性を証左する証拠であったと言える。
そのFrank Wisbarが50年代の半ばに映画制作の成功者としてUSAから西ドイツに戻ってきたことは、ドイツの映画産業界での彼の活動に有利に働いたことは確かであろう。こうして、彼は、言わば「戦争もの」四本を撮り始める。その最初が、本作の前年の58年に発表した『サメと小魚』というU-ボート映画であった。そして、1960年には四作目に当たる『将校達の工場』を発表している。この四作目の映画は、自分の幼年学校時代の経験を生かした、ナチス時代の士官学校をテーマとした作品であった。
本作の原作となるFrank Wössフランク・ヴェスの『Hunde, wollt ihr ewig leben』が発表されたのが、1957年である。この原作が出て、恐らくFrank Wisbarは、早速映画化の権利を交渉したであろうが、それは、自作の『サメと小魚』の制作の構想を練っていた時期か、或いは、その撮影に取り掛かっていた時期であった。そして、ウィキペディアのよると、本作の脚本作成には二年が掛かっているということであり、Frank Wisbarは、脚本共同作成者Frank Dimen (フランク・ディーメン)とHeinz Schröter (ハインツ・シュレーター)と綿密にスタリーングラード攻防戦を調べ上げたと言う。尚、H.シュレーターも本作の原案となる『スタリーングラードからの最後の命令』を書いていると言う。
この時期には、未だ、「清潔な」国防軍というイメージは生きており、このような作品が、確かに一部は歴史的事実に基づくストーリーでもあることから、制作することが可能であった。しかし、この「清潔な」国防軍のイメージは、遅くとも1990年代には崩れる。第二次世界大戦中の歴史を検証する90年代の作業の中で、ドイツ国防軍も、ナチス党とその下部組織、例えば親衛隊などと同様に、とりわけ東部戦線においては組織的に戦争犯罪を行なっていたことが判明したからである。
このような1950年代の西ドイツの戦争映画と比較すると、本作ははっきりと戦争指導部を批判しており、その意味で、本作が反戦映画であると考えてよいであろう。そして、このような明確な反戦映画が撮り得たのは、一重に監督Frank Wisbarの意志によるところが大きい。プロイセン王国の幼年学校を出ている彼は、軍隊が何たるところであるかは肌身に感じていたはずである。その彼が、やはり、映画畑に進出し、ナチスの文化担当者と映画制作の方針で対立したこと、そして、自分の妻が非アーリア人であったことから、1938年11月の反ユダヤ主義のポグローム「水晶の夜」を以って、妻とUSAに亡命したことは、彼の政治的潔癖性を証左する証拠であったと言える。
そのFrank Wisbarが50年代の半ばに映画制作の成功者としてUSAから西ドイツに戻ってきたことは、ドイツの映画産業界での彼の活動に有利に働いたことは確かであろう。こうして、彼は、言わば「戦争もの」四本を撮り始める。その最初が、本作の前年の58年に発表した『サメと小魚』というU-ボート映画であった。そして、1960年には四作目に当たる『将校達の工場』を発表している。この四作目の映画は、自分の幼年学校時代の経験を生かした、ナチス時代の士官学校をテーマとした作品であった。
本作の原作となるFrank Wössフランク・ヴェスの『Hunde, wollt ihr ewig leben』が発表されたのが、1957年である。この原作が出て、恐らくFrank Wisbarは、早速映画化の権利を交渉したであろうが、それは、自作の『サメと小魚』の制作の構想を練っていた時期か、或いは、その撮影に取り掛かっていた時期であった。そして、ウィキペディアのよると、本作の脚本作成には二年が掛かっているということであり、Frank Wisbarは、脚本共同作成者Frank Dimen (フランク・ディーメン)とHeinz Schröter (ハインツ・シュレーター)と綿密にスタリーングラード攻防戦を調べ上げたと言う。尚、H.シュレーターも本作の原案となる『スタリーングラードからの最後の命令』を書いていると言う。
可能な限り史実に基づいて本作を撮りたいという、三人の脚本作成者の願いは、まずは、戦時中に映画館で上映された週間時事ニュースを出来るだけ使おうというところに現れていると言える。ストーリー展開に合うような場面を探し出すのは、大変な作業であったろうことは想像に難くないが、探し出したそれらの場面を細かくつなぎ合せた、女性編集担当のMartha Dübberマルタ・デュバー女史の並々ならぬ苦労も如何ばかりであったかと思われる。
この現実味を出そうというFrank Wisbarの「情熱」は、スタリーングラード市の建物の地下に置かれたドイツ国防軍の野戦病院のシーンにも現れている。21世紀の現代では考えられないであろうが、このシーンは全員傷痍軍人に出演してもらっていると言う。戦後も未だ15年も経過していない時期であり、この時期には未だ多数の傷痍軍人が生存していたはずである。日本でも1960年代初めまでは、傷痍軍人の方の姿が街角に見られたことを考えあわせれば、そうであろうかと納得できよう。
また、本作が劇映画であることの印象を少なくしようと、タイトル・ロールやエンディング・ロールも意図してカットしてある。故に、本作上映当時には、スタッフ、キャスティングの名前を書いたチラシを上映後に観客に配布したと言う。
本作後半のスタリーングラードでの市街戦を描く場面は、観ていて、本物の廃墟を使って撮影したのではないかを思わせる迫真性があるが、これは、西ドイツ中西部にある大学町Göttingenゲッティンゲにあったスタジオ敷地内に作ったセットであり、市街戦の撮影場面では実弾が使用されたと言う。この迫真性のあるセット作成に対して、美術担当のWalter Haag(ヴァルター・ハーク)、映画建築担当のWilhelm Vierhaus(ヴィルヘルム・フィーアハウス)、Hans Kunzner(ハンス・クンツナー)は、1959年度ドイツ映画賞において、美術・映画建築賞を授賞している。
この現実味を出そうというFrank Wisbarの「情熱」は、スタリーングラード市の建物の地下に置かれたドイツ国防軍の野戦病院のシーンにも現れている。21世紀の現代では考えられないであろうが、このシーンは全員傷痍軍人に出演してもらっていると言う。戦後も未だ15年も経過していない時期であり、この時期には未だ多数の傷痍軍人が生存していたはずである。日本でも1960年代初めまでは、傷痍軍人の方の姿が街角に見られたことを考えあわせれば、そうであろうかと納得できよう。
また、本作が劇映画であることの印象を少なくしようと、タイトル・ロールやエンディング・ロールも意図してカットしてある。故に、本作上映当時には、スタッフ、キャスティングの名前を書いたチラシを上映後に観客に配布したと言う。
本作後半のスタリーングラードでの市街戦を描く場面は、観ていて、本物の廃墟を使って撮影したのではないかを思わせる迫真性があるが、これは、西ドイツ中西部にある大学町Göttingenゲッティンゲにあったスタジオ敷地内に作ったセットであり、市街戦の撮影場面では実弾が使用されたと言う。この迫真性のあるセット作成に対して、美術担当のWalter Haag(ヴァルター・ハーク)、映画建築担当のWilhelm Vierhaus(ヴィルヘルム・フィーアハウス)、Hans Kunzner(ハンス・クンツナー)は、1959年度ドイツ映画賞において、美術・映画建築賞を授賞している。
2025年4月13日日曜日
軍法会議(USA、1955年作)監督:オットー・プレミンジャー
ポスターに軍服を着たG.クーパーが見えるので、本作は戦争映画ではないかと思ったら、それは間違いである。本作の題名『軍法会議』(原題:The Court-Martial of Billy Mitchell)が正しくも暗示するように、本作は、法廷劇である。そして、本作は、法廷劇を描くことで、「Air Forceアメリカ空軍の父」と言われるBilly Mitchellの人柄とそのヴィジョンが如何に正しかったかを明らかにする作品である。
どの程度かは知る由もないが、ある程度は(Mitchellのことをウィキペディアで読んでみると、「可成り」)理想化されているB. Mitchell像を、善良な優等生ながら、内には人間的威厳を秘めた人間を演じさせるには持って来いの役者G.クーパーが体現している。しかも、本作では、Mitchellが自分の持ったヴィジョンに対して如何に確信的であったか、そして、彼がその確信に対して如何に堅固であったかという本人の性格性が加味されている。
どの程度かは知る由もないが、ある程度は(Mitchellのことをウィキペディアで読んでみると、「可成り」)理想化されているB. Mitchell像を、善良な優等生ながら、内には人間的威厳を秘めた人間を演じさせるには持って来いの役者G.クーパーが体現している。しかも、本作では、Mitchellが自分の持ったヴィジョンに対して如何に確信的であったか、そして、彼がその確信に対して如何に堅固であったかという本人の性格性が加味されている。
このヴィジョンと信念の人Billy Mitchellを「審問」するのが、ロッド・スタイガーが名演している辣腕の軍事法律家Guillionギヨン少佐で、彼が、その巧妙な論述で、軍律を破り、(上官に対する)軍人的忠誠心に欠けたと言うMitchellの「罪」を暴きだすのである。愛国に基づく自己の信念と、それに対立する軍人的忠誠心を巡るこの論争場面こそが本作のクライマックスである。論戦の醍醐味という点で、本作は、法廷劇の、知的であるが、スリリングな展開を満喫させてくれる。
監督は、Otto Premingerオットー・プレミンガーで、本作が撮られた前年の54年には『帰らざる河』(M.モンロー主演のウェスタン)を制作している。画面比率2.55:1のCinemaScopeで撮られた本作の撮影素材は、「WarnerColor」と聞き慣れない素材であるが、調べてみると、元はEastman Colorで、映画会社Warnerがこれを使ったことで、「WarnerColor」と呼称しただけのことであると言う。本作と同様に55年に制作された『エデンの東』(エリア・カザン監督)の映像素材もWarnerColorであり、こちらは、Eastman Colorらしく冴えた色調であるのに対して、本作での色調は、何かくすんだものであり、歴史的出来事を回顧して述べる本作のスタンスには合っている色調に思える。
さて、この軍人的忠誠心の立場から、Mitchellを厳しく「異端審問」するギオン少佐の、暗示される「狂信性」がこの場面では気になるところであるが、ウィキペディアによると、ノンクレジットではあるが、マッカーシズムで迫害された、いわゆる「ハリウッド・テン」の一人であるダルトン・トランボが脚本作成に加わっており、この点を鑑みると、本作での軍人的忠誠心を「体制への忠誠心」と読み替えることも出来るのではないか。アメリカ映画界の「反逆児」と言われたOtto Preminger(オーストリア=ハンガリー二重帝国領内にあった、現ウクライナ領のウィシュニジャで生まれたユダヤ系オーストリア人で、1935年にナチス台頭によりUSAの移住)が本作の監督を務めており、筆者の類推はさもありなんと思われないでもない。尚、主役を務めたG.クーパーは、R.レーガン同様、マッカーシズムには協力的であったと言う。そうであれば、この配役は、政治的な皮肉とも言える。
それでは、本作の問題の人Billy Mitchellのことをここで述べておこう。
William Lendrum Mitchell(Billyは綽名)は、1879年12月にフランスはニースで生まれた。何故ニ―スなのかは筆者には不明であるが、恐らくUSAの民主党の政治家であった父親が母親といっしょにニースに滞在していたからであろう。ウィスコンシン州で育ち、ワシントンD.C.で大学での勉学を始めたものの、自身を1897年にUS陸軍二等兵として名簿登録させ、1898年に勃発した米西戦争に参加するために大学を18歳で一時中退する。同年5月に、第1ウィスコンシン歩兵連隊M中隊に入隊し、Mitchellは、それを受けてすぐに当時准将であったArthur MacArthur(その息子のDouglasダグラスは、あの日本占領軍最高指揮官となる人物で、本作にも軍法会議判事の一人として登場)配下の部隊に配属され、フィリピン諸島に送られる。米西戦争の絡みでUSAは、スペインの植民地であったフィリピン諸島も占領することになるが、ここでは1899年からは1902年まで続く米比戦争(のちのベトナム戦争に比肩する)に展開することになり、彼は、この戦争にもルソン島で参加する。映画でも描かれる通り、ここでマラリア病に罹患したようである。
父親のコネで早期に将校になると、US通信部隊に転属され、1900年から04年まで、アラスカで勤務する。また、1908年に飛行機の飛行ショウを見学したことを受けて、早速ヴァージニア州にある飛行学校で授業を受ける。こうして、彼の飛行機乗りとしての経歴が始まる。
1912年に陸軍参謀本部に通信部隊の将校(大尉か?)として32歳で召喚され、21名中の参謀本部将校の内で、最年少の将校となる。16年5月に通信部隊所属の航空隊の臨時指揮官となるも、指揮官たらざる不品行の故、その役職から外される。しかし、その二ヶ月後には、少佐に昇進し、飛行士としての不断の研鑽を買われて、US第1軍飛行部チーフに命ぜられる。
既に14年8月に第一次世界大戦が勃発していたが、その第一次世界大戦にUSAも17年4月に参戦すると、Mitchellは、スペインからパリに入り、そこでUS航空部の事務所を開設する。そして、英仏の空軍部隊の司令官と連絡を取り合いながら、飛行機の性能や空戦戦術を研究する。まもなく、アメリカ軍独自の航空作戦を実施するようになり、Mitchellは、大胆で奇抜な作戦をやり抜く航空部隊司令官の名声を得る。同年5月に中佐に、更に同年10月には暫定的に大佐に昇進する。
フランス東部St. Mihiel(サン・ミイエール)での戦いは18年9月に行なわれたが、この戦いでMitchellは、他の連合国の空軍部隊も傘下に入れて、合計1481機の飛行機を駆った大作戦を指揮した。これは、約700機の戦闘機、約370機の偵察機、約320機の昼間爆撃機、約90機の夜間爆撃機を投入した、第一次世界大戦で最大の航空作戦であった。この作戦により制空権の確保が如何に重要なものであるかが明らかにされたのであり、これが、Mitchellのその後の言動の基底となった認識であったと思われる。
こうして、Mitchellは、暫定的に准将の階級を与えられ、フランス内に駐屯しているすべてのUS航空部隊の指揮権を保持した。大戦が終わった時には、Mitchellは、外国のものを含む幾つもの勲章を授与され、航空作戦の第一人者と褒め讃えられたが、上官に対する不遜な態度は彼に対する不評となっており、これは、本作でのストーリー展開の理由を頷けさせる。
19年1月にMitchellがUSAに「凱旋」すると、彼がUS航空部隊の司令官となるものと航空部隊員から期待が寄せられていたのに反して、本作にも登場するPershing陸軍将軍は、ある砲兵将校を航空部隊の指揮官とする。その翌月末、Mitchellは、軍事航法部長に任命される。しかし、これは戦時部署であり、平和条約が結ばれた後は、半年のみ置かれるべき部署であった。故に、この年4月には軍事航法部は解体され、Mitchellは、Air Service部の部長付き事務局の第三位の部長代理に命ぜられ、20年6月以降は、それまで保持していた暫定的な准将階級から降格されて、元の通信部隊付き中佐となった。この降格は、USAの軍隊によくあることではあったが、このことがMitchellにとっては自分が正当に評価されていないという不満につながったことは容易に想像できる。
その同じ月の20年6月、USA議会では陸軍再編成案が決まり、これにより、航空部隊は、歩兵、砲兵の次に第三に重要な戦闘部隊として認められた。その翌月、Mitchellは、正規軍通信部隊付きの大佐に昇進し、同月、Air Serviceのアシスタント・チーフに任命され、准将級扱いとされた。まもなく、通信部隊のみではなくすべての陸軍の航空部隊の大佐となり、21年3月にUS陸軍Air Serviceのアシスタント・チーフに任命された後、翌月、正式に准将の階級を得た。この時期、Mitchellは、民間用並びに軍事用航空技術の開発にも力を入れ、雪上着陸装置、爆撃用照準器、航空魚雷などを考案する。
さて、Mitchellの空軍独立論は、取りようによっては、海軍廃止論にもなりかねない激烈さを含んでいたことから、海軍は、陸軍航空部隊のMitchellに対して否定的な立場に立っていた。ある海軍会議の席上、飛行機による爆撃により戦艦を沈めてみせるとMitchellが豪語したことから、Mitchellを牽制するために、海軍側は、独自の海軍飛行部隊を使って、お払い箱となっていた戦艦Indianaを20年11月に航空攻撃で沈める実験を実施した。確かに戦艦Indianaは沈んだのであるが、実は、戦艦に仕掛けてあった爆薬が爆発して艦は沈んだのであり、飛行機から落とされた爆弾は、砂を詰めた見せかけの爆弾であったことが、ある新聞にすっぱ抜かれた。
これで海軍の面目は丸つぶれになり、海軍側は渋々認めざるを得なくなって、Mitchellが望む実験が実施されることになった。これが、本作の当初に描かれる戦艦空爆のシークエンスである。陸軍側も裏でMitchellの左遷を謀ったのであるが、軍事省大臣が一般の関心がこの件に関した高かったことから実験実施に動き、こうして、陸・海軍双方が没収されたドイツの艦船を使って行なう実験「プロジェクトB」が実施されることになった。
US陸軍Air Serviceのアシスタント・チーフに任命され、正式に准将の階級を得たその翌月の21年5月に、Mitchelは、飛行機125機、隊員1000名の、第1暫定航空旅団を編成し、対艦空爆の訓練に入った。同年6月と7月に、Mitchellの飛行部隊は、海軍上層部側からの色々な制約を掛けられながらも、海軍航空部隊と共に、ドイツの駆逐艦G102と小型巡洋艦Frankfurtを沈めた。使用された爆撃機は、双発のMartin MB-1機であった。
同年7月20日朝は、今度はドイツの戦艦Ostfrieslandを使っての実験である。小型爆弾による空爆で、Ostfrieslandは多少の損傷を受けただけであった。海軍側の制約で、攻撃毎に調査班が損傷の具合を調査する。海が荒れて、調査班がOstfrieslandに中々乗船できなかったことから、Mitchellの部隊は50分近くも上空で待機せざるを得ず、大型爆弾はこの日は落とせないままであった。翌日は、500kg爆弾が投下され、三発がOstfrieslandに命中した。調査のため一旦攻撃を中止し、昼に空爆は再開された。イギリス軍が使用した双発爆撃機Handley Page Type O二機とMartin MB-1爆撃機六機が、今度は910kg爆弾を落とした。爆弾六発が間を置かずに、作戦予定通り、戦艦の近くに落ちて、戦艦の脇腹を破壊した。Ostfrieslandは、一発目が落ちて、22分後の12時40分に沈没した。これを、USS Henderson号に招待されていた外国の武官はつぶさに観察したと言われているが、本作の映画でも、外国武官の中で背の低い、日本人の海軍武官と思われる人間が船上にいるのが描かれている。実験は、その後も間を開けて、21年9月から23年9月まで行なわれ、この時にはUSS戦艦Alabama、Virginia、New Jerseyが沈めれら、2000kg爆弾が一部使用された。
海軍の威信を揺るがし、Mitchellの意見の正当性を確証したこの実験は、21年11月から22年2月まで太平洋地域における海軍軍縮を目的として開催されたワシントン会議が開催されている時期に実施されたのであり、このことは、軍事的、政治的意味を以った出来事であったと言える。
しかし、実験によってMitchellの意見の正当性が証明されたにも関わらず、陸軍Air Service内のMitchellと上司の対立は覆うべくもなくなり、結局、Mitchellは、煙たがられて、22年と24年に二回に亘り、ヨーロッパ、アジア、ハワイ地域に視察旅行に出される。
22年の視察では、Mitchellは、イタリア軍人で、空軍の独立を論じる空戦理論家Giulio Douhetと知り合い、大いに意気投合したようである。Giulio Douhetは、その前年に『Il domino dell'aria』(空の支配)という著書を出しており、Mitchellは、これを部分的に英訳して、それを自分の部隊内に回覧させたようである。(第一次世界大戦中、Giulio Douhetは、持論を説いて、厳しくイタリアの戦争指導部を非難したことから、軍法会議に掛けられて一時的に軍の監獄に入れられた。これは、自説を説いたことで軍法会議に掛けられたMitchellと同様の運命であった。)
また、24年の視察後には、Mitchellは、324頁に及ぶ報告書を提出しており、その中で、日本こそが太平洋地域において対米の敵国となり、ハワイ島は日本の航空部隊に攻撃されであろうことを予見した。しかも、それが「ある晴れた日曜日の朝」というところまで的中していたが、戦艦無用論を唱えるMitchellは、空母の役割を過小評価していたところがあり、ハワイに飛んでくる日本の爆撃機は、太平洋のどこかの島から飛んできた長距離爆撃機であろうと、Mitchellは推測していた。彼の報告書は、翌年の25年には本として出版され、その題名は『Winged Defense』(翼を持った防衛)であった。この本の売れ行きは、4500冊程で、余り大きな反響は呼ばなかったと言われている。
丁度この時期、Mitchellは、US下院のある委員会に呼ばれた。と言うのは、軍事省が、陸・海軍関係の飛行部隊の予算を合わせて、Air Service部門を拡大的に改革し、General Headquarters Air Force空軍総司令部を創設することを提案していたからである。これに対して、海軍は反対しており、これに怒ったMitchellは、このUS下院の委員会で、痛烈に陸・海軍上層部を批判したのであった。
そのような中、25年3月にMitchellのAir ServiceでのAssistant Chiefの職が期限切れになったのをこれ幸いと、彼は大佐の階級に引き戻され、更には、第8軍管区にあるSan Antonioの航空部隊付き将校に移動させられた。あり得る降格ではあったが、軍事省と陸軍上層部が彼を左遷した処置として十二分に解釈できる部署移動であった。
こうして、25年9月に本作でも描かれる飛行船USSシェナンドー号の遭難事故が、更に、水上機三機が西海岸からハワイに向かう途中に遭難した事件が起きたことから、Mitchellは、これに関して例外的な声明を発表し、「国家防衛におけるほとんど反逆罪的軍事行政」として、陸・海軍上層部の無能ぶりを糾弾した。同年11月、大統領命によりMitchellに対する軍法会議が行なわれる。映画とは異なり、裁判長はCharles P. Summerall将軍であった。裁判は、七週間開廷され、同年12月17日に「有罪」の判決が出され、Mitchellは、翌年の26年2月1日付けを以って陸軍から除隊となった。
Mitchellは、除隊後は、1928年に『第一次世界大戦の回想』を、1930年に『航空路』を発表して、引退先のヴァージニア州で著述生活を送ったが、1936年2月19日、ニューヨーク市の病院で心臓病が原因で他界した。享年56歳であった。
仮に彼が長生きをして、1941年12月7日(日本時間8日)に、彼が予言した真珠湾奇襲攻撃が実際に起こったことを知ったら、彼は何と言ったことであろうか。彼が念願したAir Forceは、第二次世界大戦後の1947年に創立された。
監督は、Otto Premingerオットー・プレミンガーで、本作が撮られた前年の54年には『帰らざる河』(M.モンロー主演のウェスタン)を制作している。画面比率2.55:1のCinemaScopeで撮られた本作の撮影素材は、「WarnerColor」と聞き慣れない素材であるが、調べてみると、元はEastman Colorで、映画会社Warnerがこれを使ったことで、「WarnerColor」と呼称しただけのことであると言う。本作と同様に55年に制作された『エデンの東』(エリア・カザン監督)の映像素材もWarnerColorであり、こちらは、Eastman Colorらしく冴えた色調であるのに対して、本作での色調は、何かくすんだものであり、歴史的出来事を回顧して述べる本作のスタンスには合っている色調に思える。
さて、この軍人的忠誠心の立場から、Mitchellを厳しく「異端審問」するギオン少佐の、暗示される「狂信性」がこの場面では気になるところであるが、ウィキペディアによると、ノンクレジットではあるが、マッカーシズムで迫害された、いわゆる「ハリウッド・テン」の一人であるダルトン・トランボが脚本作成に加わっており、この点を鑑みると、本作での軍人的忠誠心を「体制への忠誠心」と読み替えることも出来るのではないか。アメリカ映画界の「反逆児」と言われたOtto Preminger(オーストリア=ハンガリー二重帝国領内にあった、現ウクライナ領のウィシュニジャで生まれたユダヤ系オーストリア人で、1935年にナチス台頭によりUSAの移住)が本作の監督を務めており、筆者の類推はさもありなんと思われないでもない。尚、主役を務めたG.クーパーは、R.レーガン同様、マッカーシズムには協力的であったと言う。そうであれば、この配役は、政治的な皮肉とも言える。
それでは、本作の問題の人Billy Mitchellのことをここで述べておこう。
William Lendrum Mitchell(Billyは綽名)は、1879年12月にフランスはニースで生まれた。何故ニ―スなのかは筆者には不明であるが、恐らくUSAの民主党の政治家であった父親が母親といっしょにニースに滞在していたからであろう。ウィスコンシン州で育ち、ワシントンD.C.で大学での勉学を始めたものの、自身を1897年にUS陸軍二等兵として名簿登録させ、1898年に勃発した米西戦争に参加するために大学を18歳で一時中退する。同年5月に、第1ウィスコンシン歩兵連隊M中隊に入隊し、Mitchellは、それを受けてすぐに当時准将であったArthur MacArthur(その息子のDouglasダグラスは、あの日本占領軍最高指揮官となる人物で、本作にも軍法会議判事の一人として登場)配下の部隊に配属され、フィリピン諸島に送られる。米西戦争の絡みでUSAは、スペインの植民地であったフィリピン諸島も占領することになるが、ここでは1899年からは1902年まで続く米比戦争(のちのベトナム戦争に比肩する)に展開することになり、彼は、この戦争にもルソン島で参加する。映画でも描かれる通り、ここでマラリア病に罹患したようである。
父親のコネで早期に将校になると、US通信部隊に転属され、1900年から04年まで、アラスカで勤務する。また、1908年に飛行機の飛行ショウを見学したことを受けて、早速ヴァージニア州にある飛行学校で授業を受ける。こうして、彼の飛行機乗りとしての経歴が始まる。
1912年に陸軍参謀本部に通信部隊の将校(大尉か?)として32歳で召喚され、21名中の参謀本部将校の内で、最年少の将校となる。16年5月に通信部隊所属の航空隊の臨時指揮官となるも、指揮官たらざる不品行の故、その役職から外される。しかし、その二ヶ月後には、少佐に昇進し、飛行士としての不断の研鑽を買われて、US第1軍飛行部チーフに命ぜられる。
既に14年8月に第一次世界大戦が勃発していたが、その第一次世界大戦にUSAも17年4月に参戦すると、Mitchellは、スペインからパリに入り、そこでUS航空部の事務所を開設する。そして、英仏の空軍部隊の司令官と連絡を取り合いながら、飛行機の性能や空戦戦術を研究する。まもなく、アメリカ軍独自の航空作戦を実施するようになり、Mitchellは、大胆で奇抜な作戦をやり抜く航空部隊司令官の名声を得る。同年5月に中佐に、更に同年10月には暫定的に大佐に昇進する。
フランス東部St. Mihiel(サン・ミイエール)での戦いは18年9月に行なわれたが、この戦いでMitchellは、他の連合国の空軍部隊も傘下に入れて、合計1481機の飛行機を駆った大作戦を指揮した。これは、約700機の戦闘機、約370機の偵察機、約320機の昼間爆撃機、約90機の夜間爆撃機を投入した、第一次世界大戦で最大の航空作戦であった。この作戦により制空権の確保が如何に重要なものであるかが明らかにされたのであり、これが、Mitchellのその後の言動の基底となった認識であったと思われる。
こうして、Mitchellは、暫定的に准将の階級を与えられ、フランス内に駐屯しているすべてのUS航空部隊の指揮権を保持した。大戦が終わった時には、Mitchellは、外国のものを含む幾つもの勲章を授与され、航空作戦の第一人者と褒め讃えられたが、上官に対する不遜な態度は彼に対する不評となっており、これは、本作でのストーリー展開の理由を頷けさせる。
19年1月にMitchellがUSAに「凱旋」すると、彼がUS航空部隊の司令官となるものと航空部隊員から期待が寄せられていたのに反して、本作にも登場するPershing陸軍将軍は、ある砲兵将校を航空部隊の指揮官とする。その翌月末、Mitchellは、軍事航法部長に任命される。しかし、これは戦時部署であり、平和条約が結ばれた後は、半年のみ置かれるべき部署であった。故に、この年4月には軍事航法部は解体され、Mitchellは、Air Service部の部長付き事務局の第三位の部長代理に命ぜられ、20年6月以降は、それまで保持していた暫定的な准将階級から降格されて、元の通信部隊付き中佐となった。この降格は、USAの軍隊によくあることではあったが、このことがMitchellにとっては自分が正当に評価されていないという不満につながったことは容易に想像できる。
その同じ月の20年6月、USA議会では陸軍再編成案が決まり、これにより、航空部隊は、歩兵、砲兵の次に第三に重要な戦闘部隊として認められた。その翌月、Mitchellは、正規軍通信部隊付きの大佐に昇進し、同月、Air Serviceのアシスタント・チーフに任命され、准将級扱いとされた。まもなく、通信部隊のみではなくすべての陸軍の航空部隊の大佐となり、21年3月にUS陸軍Air Serviceのアシスタント・チーフに任命された後、翌月、正式に准将の階級を得た。この時期、Mitchellは、民間用並びに軍事用航空技術の開発にも力を入れ、雪上着陸装置、爆撃用照準器、航空魚雷などを考案する。
さて、Mitchellの空軍独立論は、取りようによっては、海軍廃止論にもなりかねない激烈さを含んでいたことから、海軍は、陸軍航空部隊のMitchellに対して否定的な立場に立っていた。ある海軍会議の席上、飛行機による爆撃により戦艦を沈めてみせるとMitchellが豪語したことから、Mitchellを牽制するために、海軍側は、独自の海軍飛行部隊を使って、お払い箱となっていた戦艦Indianaを20年11月に航空攻撃で沈める実験を実施した。確かに戦艦Indianaは沈んだのであるが、実は、戦艦に仕掛けてあった爆薬が爆発して艦は沈んだのであり、飛行機から落とされた爆弾は、砂を詰めた見せかけの爆弾であったことが、ある新聞にすっぱ抜かれた。
これで海軍の面目は丸つぶれになり、海軍側は渋々認めざるを得なくなって、Mitchellが望む実験が実施されることになった。これが、本作の当初に描かれる戦艦空爆のシークエンスである。陸軍側も裏でMitchellの左遷を謀ったのであるが、軍事省大臣が一般の関心がこの件に関した高かったことから実験実施に動き、こうして、陸・海軍双方が没収されたドイツの艦船を使って行なう実験「プロジェクトB」が実施されることになった。
US陸軍Air Serviceのアシスタント・チーフに任命され、正式に准将の階級を得たその翌月の21年5月に、Mitchelは、飛行機125機、隊員1000名の、第1暫定航空旅団を編成し、対艦空爆の訓練に入った。同年6月と7月に、Mitchellの飛行部隊は、海軍上層部側からの色々な制約を掛けられながらも、海軍航空部隊と共に、ドイツの駆逐艦G102と小型巡洋艦Frankfurtを沈めた。使用された爆撃機は、双発のMartin MB-1機であった。
同年7月20日朝は、今度はドイツの戦艦Ostfrieslandを使っての実験である。小型爆弾による空爆で、Ostfrieslandは多少の損傷を受けただけであった。海軍側の制約で、攻撃毎に調査班が損傷の具合を調査する。海が荒れて、調査班がOstfrieslandに中々乗船できなかったことから、Mitchellの部隊は50分近くも上空で待機せざるを得ず、大型爆弾はこの日は落とせないままであった。翌日は、500kg爆弾が投下され、三発がOstfrieslandに命中した。調査のため一旦攻撃を中止し、昼に空爆は再開された。イギリス軍が使用した双発爆撃機Handley Page Type O二機とMartin MB-1爆撃機六機が、今度は910kg爆弾を落とした。爆弾六発が間を置かずに、作戦予定通り、戦艦の近くに落ちて、戦艦の脇腹を破壊した。Ostfrieslandは、一発目が落ちて、22分後の12時40分に沈没した。これを、USS Henderson号に招待されていた外国の武官はつぶさに観察したと言われているが、本作の映画でも、外国武官の中で背の低い、日本人の海軍武官と思われる人間が船上にいるのが描かれている。実験は、その後も間を開けて、21年9月から23年9月まで行なわれ、この時にはUSS戦艦Alabama、Virginia、New Jerseyが沈めれら、2000kg爆弾が一部使用された。
海軍の威信を揺るがし、Mitchellの意見の正当性を確証したこの実験は、21年11月から22年2月まで太平洋地域における海軍軍縮を目的として開催されたワシントン会議が開催されている時期に実施されたのであり、このことは、軍事的、政治的意味を以った出来事であったと言える。
しかし、実験によってMitchellの意見の正当性が証明されたにも関わらず、陸軍Air Service内のMitchellと上司の対立は覆うべくもなくなり、結局、Mitchellは、煙たがられて、22年と24年に二回に亘り、ヨーロッパ、アジア、ハワイ地域に視察旅行に出される。
22年の視察では、Mitchellは、イタリア軍人で、空軍の独立を論じる空戦理論家Giulio Douhetと知り合い、大いに意気投合したようである。Giulio Douhetは、その前年に『Il domino dell'aria』(空の支配)という著書を出しており、Mitchellは、これを部分的に英訳して、それを自分の部隊内に回覧させたようである。(第一次世界大戦中、Giulio Douhetは、持論を説いて、厳しくイタリアの戦争指導部を非難したことから、軍法会議に掛けられて一時的に軍の監獄に入れられた。これは、自説を説いたことで軍法会議に掛けられたMitchellと同様の運命であった。)
また、24年の視察後には、Mitchellは、324頁に及ぶ報告書を提出しており、その中で、日本こそが太平洋地域において対米の敵国となり、ハワイ島は日本の航空部隊に攻撃されであろうことを予見した。しかも、それが「ある晴れた日曜日の朝」というところまで的中していたが、戦艦無用論を唱えるMitchellは、空母の役割を過小評価していたところがあり、ハワイに飛んでくる日本の爆撃機は、太平洋のどこかの島から飛んできた長距離爆撃機であろうと、Mitchellは推測していた。彼の報告書は、翌年の25年には本として出版され、その題名は『Winged Defense』(翼を持った防衛)であった。この本の売れ行きは、4500冊程で、余り大きな反響は呼ばなかったと言われている。
丁度この時期、Mitchellは、US下院のある委員会に呼ばれた。と言うのは、軍事省が、陸・海軍関係の飛行部隊の予算を合わせて、Air Service部門を拡大的に改革し、General Headquarters Air Force空軍総司令部を創設することを提案していたからである。これに対して、海軍は反対しており、これに怒ったMitchellは、このUS下院の委員会で、痛烈に陸・海軍上層部を批判したのであった。
そのような中、25年3月にMitchellのAir ServiceでのAssistant Chiefの職が期限切れになったのをこれ幸いと、彼は大佐の階級に引き戻され、更には、第8軍管区にあるSan Antonioの航空部隊付き将校に移動させられた。あり得る降格ではあったが、軍事省と陸軍上層部が彼を左遷した処置として十二分に解釈できる部署移動であった。
こうして、25年9月に本作でも描かれる飛行船USSシェナンドー号の遭難事故が、更に、水上機三機が西海岸からハワイに向かう途中に遭難した事件が起きたことから、Mitchellは、これに関して例外的な声明を発表し、「国家防衛におけるほとんど反逆罪的軍事行政」として、陸・海軍上層部の無能ぶりを糾弾した。同年11月、大統領命によりMitchellに対する軍法会議が行なわれる。映画とは異なり、裁判長はCharles P. Summerall将軍であった。裁判は、七週間開廷され、同年12月17日に「有罪」の判決が出され、Mitchellは、翌年の26年2月1日付けを以って陸軍から除隊となった。
Mitchellは、除隊後は、1928年に『第一次世界大戦の回想』を、1930年に『航空路』を発表して、引退先のヴァージニア州で著述生活を送ったが、1936年2月19日、ニューヨーク市の病院で心臓病が原因で他界した。享年56歳であった。
仮に彼が長生きをして、1941年12月7日(日本時間8日)に、彼が予言した真珠湾奇襲攻撃が実際に起こったことを知ったら、彼は何と言ったことであろうか。彼が念願したAir Forceは、第二次世界大戦後の1947年に創立された。
2025年4月6日日曜日
ベルリン物語(西ドイツ、1948年作)監督:ロベルト A. シュテムレ
本作の脚本を書いているGünter Neumannギュンター・ノイマンは、1913年にベルリンで生まれた。彼は、ギムナジウム卒業後、音楽大学で勉学するが、1929年以降、Kabarett der Komikerカバレット デア コーミカーという小芸術劇場で、「鍵盤上のコメディアン」として活動する。W. Finckらが29年に創設した「Die Katakombe」でもG. Neumannは中心的な役割を演じ、上演演目の設定役を勤める。ナチス政権の抑圧により「Katakombe」が上演活動が出来なくなると、G. Neumannは、再び、Kabarett der Komikerに戻り、そこでレヴュー演目を上演する。第二次世界大戦が始まると、前線慰問活動を行なったり、連合軍の捕虜になると、収容所劇団を結成したりした。
終戦と伴に、G. Neumannはベルリンに戻ってくるが、当地で早速、小芸術劇場の演目の作家として活動し始め、レヴュー作品『すべてが演技』(47年作)と『Schwarzer Jahrmarkt闇の歳の市』(48年作)で当たり作を書く。この『闇の歳の市』が本作の原作になっている。
本作にもプロットとして一時出てくる「ベルリン封鎖」の時期(48年から49年に掛けて)には、G. Neumannは、西ベルリンで風刺雑誌『Insulaner島国の住人』を編纂し、これを受けて、ラジオ放送番組「Die Insulaner」を制作し、これが、RIAS(リアス:Rundfunk im amerikanischen Sektorアメリカ・セクターの放送局)の大好評人気番組となる。「島国」とは、ソ連軍管理下にある東ベルリンと東部ドイツに囲まれた「陸の孤島」のような西ベルリンのことを指しており、そのような西ベルリン市民の日常を東西冷戦の枠組みの文脈の中で面白可笑しく描いたものであった。G. Neumannは、本作の脚本を書く前には、既にナチス政権時代の1939年に一本脚本を書いており、翌年には、レヴュー映画の音楽とそれへの歌詞を書いている。本作以後は、とりわけ、音楽映画のために曲と作詞を書いて、1960年代後半まで活動した。
本作でも、歌が歌われる場面が数回あり、これらは作詞を含めてG. Neumannの創作である。とりわけ、本作の後半、「女六人に男一人の割合」の妄想に囚われてOttoがベルリンの街中を歩くと、丁度六人のベルリン女性に言い寄られる場面があるが、これは、歌あり、踊りありの、正にレヴュー映画的な場面である。
それでは、最後に、本作の原作となったG. Neumannの『Schwarzer Jahrmarkt』について述べておこう。
まず、題名であるが、これは、Schwarzmarkt(闇市)とJahrmarkt(歳の市)を掛け合わせたものである。「Marktマルクト」は、週毎に市場で開かれる市(いち)であるが、年に二回は、大きな市が開催される。日本語の「歳の市」は冬に開かれる大きな市であるが、ドイツでは、夏と冬に大きな市が開催される。故に、そのような大きな市のことを「Jahrmarkt」と呼び、ここに沢山の出店が出て、また、食べ物屋や催し物の店も出る訳である。
戦後のドイツは、日本と同様に、敗戦に伴ない、物資不足から、当然に「闇市」が横行する。この人間の欲望が剝き出しになる「闇市」に、庶民の生活と直結した「歳の市」の風物を掛け合わせて、このレヴュー作品は、歌と踊りを間に入れながら、敗戦直後のドイツの風景を22のスケッチとして描いた訳である。そこから、この作品の副題には、「Eine Revue der Stunde Null」(時間ゼロの一つのレヴュー)が付けられている。「Stunde Nullシュトゥンデ ヌル」とは、軍事的、政治的、道義的破綻を受けて、ドイツがゼロから始めなければならないという標語のような言葉であり、これは、日本における「一億総懺悔」とニュアンスが異なるが、これと似たような概念である。
この出し物は、ベルリンの小芸術劇場「Ulenspiegel」(Ulenspiegelは、Eulenspiegelオイレンシュピーゲルの低地ドイツ語の別形)で1947年12月頭から上演され、本作に登場するHans Deppeや、G. Neumannの妻で、本作でも脇役を演じているTatjana Saisなどが出演している。スケッチでは、復員兵、反動的保守主義者などが取り扱われるが、本作のOttoに当たる「Herr Häufigヘア ホイフィヒ」(「度々」さん)がここでは登場する。本作の題名「Otto Normalverbraucher」も「一般消費者オットー」を意味し、本作が批評からも大衆からも支持されたヒット作品となったことから、題名自体が、ドイツ語辞書に採用され、現在でも通用している言葉となっている。
終戦と伴に、G. Neumannはベルリンに戻ってくるが、当地で早速、小芸術劇場の演目の作家として活動し始め、レヴュー作品『すべてが演技』(47年作)と『Schwarzer Jahrmarkt闇の歳の市』(48年作)で当たり作を書く。この『闇の歳の市』が本作の原作になっている。
本作にもプロットとして一時出てくる「ベルリン封鎖」の時期(48年から49年に掛けて)には、G. Neumannは、西ベルリンで風刺雑誌『Insulaner島国の住人』を編纂し、これを受けて、ラジオ放送番組「Die Insulaner」を制作し、これが、RIAS(リアス:Rundfunk im amerikanischen Sektorアメリカ・セクターの放送局)の大好評人気番組となる。「島国」とは、ソ連軍管理下にある東ベルリンと東部ドイツに囲まれた「陸の孤島」のような西ベルリンのことを指しており、そのような西ベルリン市民の日常を東西冷戦の枠組みの文脈の中で面白可笑しく描いたものであった。G. Neumannは、本作の脚本を書く前には、既にナチス政権時代の1939年に一本脚本を書いており、翌年には、レヴュー映画の音楽とそれへの歌詞を書いている。本作以後は、とりわけ、音楽映画のために曲と作詞を書いて、1960年代後半まで活動した。
本作でも、歌が歌われる場面が数回あり、これらは作詞を含めてG. Neumannの創作である。とりわけ、本作の後半、「女六人に男一人の割合」の妄想に囚われてOttoがベルリンの街中を歩くと、丁度六人のベルリン女性に言い寄られる場面があるが、これは、歌あり、踊りありの、正にレヴュー映画的な場面である。
それでは、最後に、本作の原作となったG. Neumannの『Schwarzer Jahrmarkt』について述べておこう。
まず、題名であるが、これは、Schwarzmarkt(闇市)とJahrmarkt(歳の市)を掛け合わせたものである。「Marktマルクト」は、週毎に市場で開かれる市(いち)であるが、年に二回は、大きな市が開催される。日本語の「歳の市」は冬に開かれる大きな市であるが、ドイツでは、夏と冬に大きな市が開催される。故に、そのような大きな市のことを「Jahrmarkt」と呼び、ここに沢山の出店が出て、また、食べ物屋や催し物の店も出る訳である。
戦後のドイツは、日本と同様に、敗戦に伴ない、物資不足から、当然に「闇市」が横行する。この人間の欲望が剝き出しになる「闇市」に、庶民の生活と直結した「歳の市」の風物を掛け合わせて、このレヴュー作品は、歌と踊りを間に入れながら、敗戦直後のドイツの風景を22のスケッチとして描いた訳である。そこから、この作品の副題には、「Eine Revue der Stunde Null」(時間ゼロの一つのレヴュー)が付けられている。「Stunde Nullシュトゥンデ ヌル」とは、軍事的、政治的、道義的破綻を受けて、ドイツがゼロから始めなければならないという標語のような言葉であり、これは、日本における「一億総懺悔」とニュアンスが異なるが、これと似たような概念である。
この出し物は、ベルリンの小芸術劇場「Ulenspiegel」(Ulenspiegelは、Eulenspiegelオイレンシュピーゲルの低地ドイツ語の別形)で1947年12月頭から上演され、本作に登場するHans Deppeや、G. Neumannの妻で、本作でも脇役を演じているTatjana Saisなどが出演している。スケッチでは、復員兵、反動的保守主義者などが取り扱われるが、本作のOttoに当たる「Herr Häufigヘア ホイフィヒ」(「度々」さん)がここでは登場する。本作の題名「Otto Normalverbraucher」も「一般消費者オットー」を意味し、本作が批評からも大衆からも支持されたヒット作品となったことから、題名自体が、ドイツ語辞書に採用され、現在でも通用している言葉となっている。
2025年3月24日月曜日
潜水艦イ-57降伏せず(日本、1959年作)監督:松林 宗恵
大日本帝国海軍の潜水艦内を走る白いスカートの曳光線
潜水艦内と言えば、「男の世界」、そこに白いスカートとは、考えられない組み合わせであるが、本作では、この組み合わせがキーポイントの一つとなっている。と言うのは、本艦イ-57潜水艦は、太平洋戦争の戦局も押し迫った1945年6月、ある外交官をマレー半島にある大日本帝国海軍基地ペナンから、スペイン領カナリア諸島に運ぶ任務を帯びたからであった。例のポツダム宣言が出る前に、日本に有利な停戦条件を引き出すためであると言う。
この某国外交官は、Bergerというが、ベルジェールとは、フランス語系の名前であり、その「某国」とは、スイス国であると思われる。フランス語系スイスの出身なのであろう。そして、ジュネーヴに住んだことがあるらしい、この外交官Bergerに同行しているのが、その娘のMileneミレーヌであり、彼女こそ、白いスカートを履いた姿で潜水艦内を駆け抜けた本人なのであった。
彼女を乗せたイ-57潜水艦の航路は、ペナン基地を出て、マラッカ海峡を通り、インド洋に出て、マダガスカル沖へ向かい、更に、喜望峰沖経由で、東部大西洋をアフリカ大陸に添う形で北上し、スペイン領カナリア諸島に到達すると言うものである。(映画内での台詞によると、10000海里の行程であると言う。)
何故スペイン領かと言うと、ナチスの軍事的援助を受けたファシスト・フランコ将軍は、賢明にも第二次世界大戦中は中立の立場を取っていたからであり、ナチス・ドイツと同盟関係にあった日本としては、当然ナチス・ドイツには好意的なスペイン経由で、ヨーロッパに入り、ポツダム宣言の内容に影響を与えるかもしれないスイス外交官を遣欧したという訳であった。
本作は、その原作小説を読んでいないので、最終的な判断はできないが、多分に戦時海洋冒険映画の体裁を備えており、本作のストーリーの感触からして、脚本はそれに乗っ取ったものであると想像する。故に、上述の「白いスカートの、二十歳の我儘な天使」も登場するという仕掛けである。冒険映画には、必ずヒロインが必要であるからである。
とは言え、本作における、上述の航行ルートは、全くのフィクションではなく、実は、実例がある。このルートを更に北に延ばすと、1944年半ばまでは(つまりノルマンディー上陸作戦までは)、ドイツ占領下のフランス大西洋岸にあるUボート基地ブレストに着くことになる。そして、このぺナンからブレスト港乃至ロリアン港への、約70日間掛かる航路こそが、いわゆる「遣独潜水艦作戦」の航路なのである。
「遣独潜水艦作戦」とは、第二次世界大戦中、普通の通商船では不可能になっていた独日間の物資・技術交換を隠密裏に潜水艦を使って行なおうというもので、1942年から44年まで五次に亘って行なわれた。ペナンからフランスまでの往路に関しては、1942年、43年3月、43年12月の遣独作戦は成功しているが、復路では、42年と43年12月で失敗しており、往復路で成功したのは、43年3月の第二次遣独潜水艦・伊号第八潜水艦であった。この時の作戦で、復路で、駐独大使館付海軍武官であった、ある海軍少将を無事に日本に連れて帰っている。
一方、ドイツからの「遣日潜水艦作戦」も二回あり、44年の二回目は失敗したが、43年の一回目は成功して、UボートU511がペナンに到着し、この艦が日本海軍に無償譲渡されて、呂号第五百潜水艦と命名された。
それでは、呂号とか伊号とかという名称が何を意味するか、ここで少々説明しておくと、これは、水上基準排水量による違いである。大日本帝国海軍では、1923年以降(つまり、ワシントン海軍条約以降)、1000トン以上の潜水艦を伊号、1000トン以下、500トン以上のものを呂号、500トン以下のものを波号と冠称した。
呂号・波号潜水艦は、基本的には日本近海を守備範囲とし、特定の用途のために設計された潜水艦であったと言ってよい。一方、伊号潜水艦の中では、とりわけ、艦隊行動に適した、つまり、艦隊に同行できる速度を満たす潜水艦があって、この型式を「海軍大型潜水艦」(略して、「海大型」)といい、これに対して、伊号潜水艦の中で、「巡洋潜水艦」(略して、「巡潜」)とも言われて、長距離の外洋航行能力を保持し、敵方の通商を破壊する目的で建造された潜水艦型式もあった。故に、本作のような長距離の特殊任務に対応できる潜水艦とすれば、「伊号巡潜」が選択されなければならなかったはずである。
「伊号巡潜」クラスには、その開発年代や設計変更によって、更に、11の艦級があった。1920年代後半から就役し始めた「巡潜1型」を皮切りに、「巡潜甲型」(伊号第九以降)、「巡潜乙型」(伊号第十五以降)、「巡潜丙型」(伊号第十六以降)、更に、これらの改良型という具合であった。
この某国外交官は、Bergerというが、ベルジェールとは、フランス語系の名前であり、その「某国」とは、スイス国であると思われる。フランス語系スイスの出身なのであろう。そして、ジュネーヴに住んだことがあるらしい、この外交官Bergerに同行しているのが、その娘のMileneミレーヌであり、彼女こそ、白いスカートを履いた姿で潜水艦内を駆け抜けた本人なのであった。
彼女を乗せたイ-57潜水艦の航路は、ペナン基地を出て、マラッカ海峡を通り、インド洋に出て、マダガスカル沖へ向かい、更に、喜望峰沖経由で、東部大西洋をアフリカ大陸に添う形で北上し、スペイン領カナリア諸島に到達すると言うものである。(映画内での台詞によると、10000海里の行程であると言う。)
何故スペイン領かと言うと、ナチスの軍事的援助を受けたファシスト・フランコ将軍は、賢明にも第二次世界大戦中は中立の立場を取っていたからであり、ナチス・ドイツと同盟関係にあった日本としては、当然ナチス・ドイツには好意的なスペイン経由で、ヨーロッパに入り、ポツダム宣言の内容に影響を与えるかもしれないスイス外交官を遣欧したという訳であった。
本作は、その原作小説を読んでいないので、最終的な判断はできないが、多分に戦時海洋冒険映画の体裁を備えており、本作のストーリーの感触からして、脚本はそれに乗っ取ったものであると想像する。故に、上述の「白いスカートの、二十歳の我儘な天使」も登場するという仕掛けである。冒険映画には、必ずヒロインが必要であるからである。
とは言え、本作における、上述の航行ルートは、全くのフィクションではなく、実は、実例がある。このルートを更に北に延ばすと、1944年半ばまでは(つまりノルマンディー上陸作戦までは)、ドイツ占領下のフランス大西洋岸にあるUボート基地ブレストに着くことになる。そして、このぺナンからブレスト港乃至ロリアン港への、約70日間掛かる航路こそが、いわゆる「遣独潜水艦作戦」の航路なのである。
「遣独潜水艦作戦」とは、第二次世界大戦中、普通の通商船では不可能になっていた独日間の物資・技術交換を隠密裏に潜水艦を使って行なおうというもので、1942年から44年まで五次に亘って行なわれた。ペナンからフランスまでの往路に関しては、1942年、43年3月、43年12月の遣独作戦は成功しているが、復路では、42年と43年12月で失敗しており、往復路で成功したのは、43年3月の第二次遣独潜水艦・伊号第八潜水艦であった。この時の作戦で、復路で、駐独大使館付海軍武官であった、ある海軍少将を無事に日本に連れて帰っている。
一方、ドイツからの「遣日潜水艦作戦」も二回あり、44年の二回目は失敗したが、43年の一回目は成功して、UボートU511がペナンに到着し、この艦が日本海軍に無償譲渡されて、呂号第五百潜水艦と命名された。
それでは、呂号とか伊号とかという名称が何を意味するか、ここで少々説明しておくと、これは、水上基準排水量による違いである。大日本帝国海軍では、1923年以降(つまり、ワシントン海軍条約以降)、1000トン以上の潜水艦を伊号、1000トン以下、500トン以上のものを呂号、500トン以下のものを波号と冠称した。
呂号・波号潜水艦は、基本的には日本近海を守備範囲とし、特定の用途のために設計された潜水艦であったと言ってよい。一方、伊号潜水艦の中では、とりわけ、艦隊行動に適した、つまり、艦隊に同行できる速度を満たす潜水艦があって、この型式を「海軍大型潜水艦」(略して、「海大型」)といい、これに対して、伊号潜水艦の中で、「巡洋潜水艦」(略して、「巡潜」)とも言われて、長距離の外洋航行能力を保持し、敵方の通商を破壊する目的で建造された潜水艦型式もあった。故に、本作のような長距離の特殊任務に対応できる潜水艦とすれば、「伊号巡潜」が選択されなければならなかったはずである。
「伊号巡潜」クラスには、その開発年代や設計変更によって、更に、11の艦級があった。1920年代後半から就役し始めた「巡潜1型」を皮切りに、「巡潜甲型」(伊号第九以降)、「巡潜乙型」(伊号第十五以降)、「巡潜丙型」(伊号第十六以降)、更に、これらの改良型という具合であった。
本作で言うところの「潜水艦イ-57」は、「伊号第五十七潜水艦」として実在した潜水艦名ではあるが、この艦の型式は、「海大III型b」で、42年6月のミッドウェー海戦参加直前に、「伊号第百五十七潜水艦」と改称され、終戦まで生き延びた艦である。
参考に、第五次遣独潜水艦作戦でのフランスへの往路、大西洋にて44年6月に米軍空母艦載機により沈没させられた伊号第五十二潜水艦は、巡潜丙型改の艦級であり、航続距離は、水上16ktで21000海里であった。
この型とは別ではあるが、同じく「伊号第五十」の番号代の潜水艦には、第五十四、第五十六、第五十八の三艦がある。これは、艦級は、「乙型改二」であり、本作の冒頭にも登場する「人間魚雷・回天」を搭載するために設計し直されたものである。故に、本作に登場する「イ-57」は、この型に近いものと判断してよいであろう。第五十四艦と第五十六艦は44年、45年にそれぞれ太平洋で戦没したが、第五十八艦は、本作のストーリーとも関係のある、ある「戦績」を上げている。
本作のラストシーンには、字幕として八月五日が登場する。つまり、広島への原爆投下の前日である。時は前後するが、伊号第五十八潜水艦は、同年七月末、マリアナ近海で米海軍重巡洋艦一隻を捕捉し、魚雷六本を発射した。その内三本が命中して、この重巡洋艦は、あっと言う間に艦前方から沈没した。これが帝国海軍による連合国側艦船撃沈の最後となったのであるが、戦後になって、この撃沈された重巡洋艦は、インディアナポリスであり、この艦が、広島・長崎に投下された原子爆弾をテニアン島に輸送した後、レイテ島に移動途中に撃沈されたことが分かったのである。終戦まであとほぼ二週間前のことであった。
ポツダム会談中に行なわれた日本側の無条件降伏への要求、つまりポツダム宣言(45年7月26日)は、確かに、大日本帝国にとって回避すべき事柄ではあったが、対日戦争における終戦への道筋は、実は、ポツダム会談の前の、ヤルタ会談でほぼ決められていた訳で、このヤルタ会談での、いわゆる「極東密約」は、既に45年2月に結ばれていたのであった。故に、本作で言うところのポツダム会談に特使を送れば、日本の終戦に有利な条件が未だ引き出せるという判断は始めから無理筋のことであった訳で、この点でも、本作のストーリーの枠組みには説得力がないものであったと言える。これもまた、本作の原作が戦時海洋冒険小説でないかという推理の傍証の一つではなかろうか。
本作の監督は、松林宗恵(しゅうえ)で、彼は戦前は映画に「仏心を注入したい」と考え、東宝の撮影所の助監部に入った後、海軍第三期兵科予備学生となり、1944年には海軍少尉に任官されて、部下150名を連れて南支那廈門島の陸戦隊長なったという経歴を持つ人物である。故に、海軍式敬礼、「帽振れ」、軍装については本作では安心して観られる。本作の前には、『人間魚雷回天』(新東宝、1955年作)を、本作後には、『太平洋の翼』(東宝、1963年作)、『連合艦隊』(東宝、1981年作)などの戦争映画を撮っている。
東宝は、戦前では国策プロパガンダ映画を比較的多く撮っており、また、特撮では、円谷英二を起用していた映画会社で、戦後も、本作のような戦争映画で製作していた。こうして、松林監督と円谷特撮監督とが本作のような潜水艦もので協働することになった訳である。
画面アスペクトは、シネマスコープに似せた「東宝スコープ」のワイドスクリーンで、本作はこのシステムによる第一作目となる。また、本作は白黒映画であるが、ウィキペディアによると、円谷の要請により、特撮にはブルーバック合成を導入し、その合成画面用に、白黒映画であるにも関わらず、カラーフィルムを使用したと言う。それは、カラーフィルムをモノクロに変換することにより、とりわけ、ラストの戦闘場面での潜水艦艦上の戦闘員の姿、彼等を覆う水柱などをクリアーでシャープに映像化できるからであったと言う。
参考に、第五次遣独潜水艦作戦でのフランスへの往路、大西洋にて44年6月に米軍空母艦載機により沈没させられた伊号第五十二潜水艦は、巡潜丙型改の艦級であり、航続距離は、水上16ktで21000海里であった。
この型とは別ではあるが、同じく「伊号第五十」の番号代の潜水艦には、第五十四、第五十六、第五十八の三艦がある。これは、艦級は、「乙型改二」であり、本作の冒頭にも登場する「人間魚雷・回天」を搭載するために設計し直されたものである。故に、本作に登場する「イ-57」は、この型に近いものと判断してよいであろう。第五十四艦と第五十六艦は44年、45年にそれぞれ太平洋で戦没したが、第五十八艦は、本作のストーリーとも関係のある、ある「戦績」を上げている。
本作のラストシーンには、字幕として八月五日が登場する。つまり、広島への原爆投下の前日である。時は前後するが、伊号第五十八潜水艦は、同年七月末、マリアナ近海で米海軍重巡洋艦一隻を捕捉し、魚雷六本を発射した。その内三本が命中して、この重巡洋艦は、あっと言う間に艦前方から沈没した。これが帝国海軍による連合国側艦船撃沈の最後となったのであるが、戦後になって、この撃沈された重巡洋艦は、インディアナポリスであり、この艦が、広島・長崎に投下された原子爆弾をテニアン島に輸送した後、レイテ島に移動途中に撃沈されたことが分かったのである。終戦まであとほぼ二週間前のことであった。
ポツダム会談中に行なわれた日本側の無条件降伏への要求、つまりポツダム宣言(45年7月26日)は、確かに、大日本帝国にとって回避すべき事柄ではあったが、対日戦争における終戦への道筋は、実は、ポツダム会談の前の、ヤルタ会談でほぼ決められていた訳で、このヤルタ会談での、いわゆる「極東密約」は、既に45年2月に結ばれていたのであった。故に、本作で言うところのポツダム会談に特使を送れば、日本の終戦に有利な条件が未だ引き出せるという判断は始めから無理筋のことであった訳で、この点でも、本作のストーリーの枠組みには説得力がないものであったと言える。これもまた、本作の原作が戦時海洋冒険小説でないかという推理の傍証の一つではなかろうか。
本作の監督は、松林宗恵(しゅうえ)で、彼は戦前は映画に「仏心を注入したい」と考え、東宝の撮影所の助監部に入った後、海軍第三期兵科予備学生となり、1944年には海軍少尉に任官されて、部下150名を連れて南支那廈門島の陸戦隊長なったという経歴を持つ人物である。故に、海軍式敬礼、「帽振れ」、軍装については本作では安心して観られる。本作の前には、『人間魚雷回天』(新東宝、1955年作)を、本作後には、『太平洋の翼』(東宝、1963年作)、『連合艦隊』(東宝、1981年作)などの戦争映画を撮っている。
東宝は、戦前では国策プロパガンダ映画を比較的多く撮っており、また、特撮では、円谷英二を起用していた映画会社で、戦後も、本作のような戦争映画で製作していた。こうして、松林監督と円谷特撮監督とが本作のような潜水艦もので協働することになった訳である。
画面アスペクトは、シネマスコープに似せた「東宝スコープ」のワイドスクリーンで、本作はこのシステムによる第一作目となる。また、本作は白黒映画であるが、ウィキペディアによると、円谷の要請により、特撮にはブルーバック合成を導入し、その合成画面用に、白黒映画であるにも関わらず、カラーフィルムを使用したと言う。それは、カラーフィルムをモノクロに変換することにより、とりわけ、ラストの戦闘場面での潜水艦艦上の戦闘員の姿、彼等を覆う水柱などをクリアーでシャープに映像化できるからであったと言う。
尚、本作の撮影に当たっては、創立後五年も経っていない海上自衛隊が全面協力し、撮影当時唯一の潜水艦であった「くろしお」が本作に使われた。この潜水艦は、米国からの貸与艦で、元々はガトー級潜水艦USS Mingo(SS-261)であったものである。艦船に詳しくない筆者ではあるが、それでも、観ていて、外観から何か伊号潜水艦らしくないなとは感じられていたのであるが。
知的でスマート、しかも英語を上手く操る海軍少佐役を池辺良が好演しており、この池辺艦長を補佐する女房役・先任士官を三橋達也が演じている。また、一般水兵と士官の間に立ち、水兵達の気持ちも代弁できる立場の竹山上曹役を漫才師・南道郎(みちろう)が演じており、悪辣な下士官をやらせれば最適な役者であろうが、本作では、そのしゃがれ声と独特なユーモア感がとりわけ印象的で、善き下士官役を演じている。
知的でスマート、しかも英語を上手く操る海軍少佐役を池辺良が好演しており、この池辺艦長を補佐する女房役・先任士官を三橋達也が演じている。また、一般水兵と士官の間に立ち、水兵達の気持ちも代弁できる立場の竹山上曹役を漫才師・南道郎(みちろう)が演じており、悪辣な下士官をやらせれば最適な役者であろうが、本作では、そのしゃがれ声と独特なユーモア感がとりわけ印象的で、善き下士官役を演じている。
2025年3月4日火曜日
ジョン・ウィック:パラベラム(USA、2019年作)監督:チャド・スタエルスキー
本作は、John Wickシリーズの第三作目であるが、第二作目が第一作目よりよかった分、同じ脚本家Derek Kolstadが他の脚本家と共同で書いている割には、本作は、その質を落としているように見える。第一作目以来の「殺戮の乱舞」は、三作目になると、やはりマンネリ化して、詰まらなくなる。それがあったのか、今回のモロッコでの銃撃戦シーンには、JohnにSofia(Halle Berryハル・ベリー)を加えて、更に三匹の格闘犬を入れた「乱舞」になっている。さて、見応えがあるか。筆者にはなかった。
また、ジョン・ウィック・ワールドも、今回、「会長会」乃至「上座会」の上に更に「最長老」が存在すること、また、「会長会」は、「裁定人」なる者を送り、これによって掟を守らなかった者に処罰を下すことが出来ることなどが、今回の見るべき展開であるが、ストーリー展開のインパクトとしては弱いように思われる。
さて、副題にある「Parabellumパラベルム」とは、ラテン語の警句「Si vis pacem, para bellum 汝、平和を欲さば、戦への備えをせよ!」の最後の二文字を採って、それをつなぎ合わせたものである。誰の言葉からの引用なのかはっきりしないと言うが、ローマ帝国時代末期の紀元後四世紀に書かれた軍事書によるのではないかと言われている。何れにしても、「平和」であるためには、それなりの戦備が整っていなければならないと解釈される警句であると言う。正に、ストーリーの内容に当てはまる警句であり、実際、映画内でも「コンティネンタル・ホテル」ニューヨーク支店のオーナーが、裁定人が送った部隊とホテル内で戦闘を繰り広げる前に、この警句が引用されるのである。
因みに、ドイツの兵器産業DWM社(DWMデー・ヴェー・エム社:ドイツ武器弾薬製造社)が使った社訓が上記の格言であり、日本で「ルガー拳銃」と呼ばれている、DWM社製拳銃が、「パラベラム拳銃」と呼ばれている。また、同社が開発した拳銃用弾薬も「パラベラム弾」と言われている。
参考:DWMデー・ヴェー・エム社とは、Deutsche Waffen- Munitionsfabrik AGの略で、ドイツ武器・弾薬製造工場・株式会社の略である。1871年にドイツ第二帝国が成立し、ドイツの産業革命が第二段階を迎えて本格化するのが、1870年代で、この時期に多くの企業が起業された。その中には、もちろん、武器産業、火薬製造企業、金属薬莢製造企業も存在し、1880年代末までに幾つかの企業の合併・併合が繰り返され、この過程を通じて、1896年にDWM株式会社がベルリンを本社として設立された。
実は、DWM社の設立に際しては、ドイツ西南部、ネッカー川沿いにあるMauser社(本来「マウザー」と発音するが、日本では「モーゼル銃」の名で知られている会社)も参画しており、1898年にドイツ帝国陸軍に正式採用された小銃Gew98は、基本設計はMauser社による。Gewehrゲヴェアは、小銃の意味で、「98」は正式採用された1898年から来ている。五発を一度に装填できる装填クリップが使われたのが、この小銃の特徴の一つで、第一次世界大戦中は、ドイツ歩兵は、この小銃を使って戦った。
一方、拳銃では、このDWM社の武器開発技師Georg Lugerゲオルク・ルーガーが改良を重ねて製作した自動装填式拳銃P08が有名である。日本では「ルガー拳銃」として知られているこのPistole(ピストーレ:拳銃)は、1908年にドイツ帝国軍に正式採用され、手作りで製造されたこの拳銃が野戦では故障しやすいことから、将校用の拳銃として使われた。この拳銃は、第二次世界大戦が始まる直前の1938年まで使用され、この年にP.38が新式の拳銃として、ナチス国防軍に正式採用される。故に、この拳銃が「P.38」と呼ばれる訳であるが、この拳銃の開発は、Walther有限会社によるものであった。尚、Waltherは、ドイツ語では、「ヴァルター」というので、この拳銃は、正しくは、「ヴァルター・ペー・38」と発音したいところである。この拳銃の銃弾も、「9㎜パラベラム弾」であった。
また、ジョン・ウィック・ワールドも、今回、「会長会」乃至「上座会」の上に更に「最長老」が存在すること、また、「会長会」は、「裁定人」なる者を送り、これによって掟を守らなかった者に処罰を下すことが出来ることなどが、今回の見るべき展開であるが、ストーリー展開のインパクトとしては弱いように思われる。
さて、副題にある「Parabellumパラベルム」とは、ラテン語の警句「Si vis pacem, para bellum 汝、平和を欲さば、戦への備えをせよ!」の最後の二文字を採って、それをつなぎ合わせたものである。誰の言葉からの引用なのかはっきりしないと言うが、ローマ帝国時代末期の紀元後四世紀に書かれた軍事書によるのではないかと言われている。何れにしても、「平和」であるためには、それなりの戦備が整っていなければならないと解釈される警句であると言う。正に、ストーリーの内容に当てはまる警句であり、実際、映画内でも「コンティネンタル・ホテル」ニューヨーク支店のオーナーが、裁定人が送った部隊とホテル内で戦闘を繰り広げる前に、この警句が引用されるのである。
因みに、ドイツの兵器産業DWM社(DWMデー・ヴェー・エム社:ドイツ武器弾薬製造社)が使った社訓が上記の格言であり、日本で「ルガー拳銃」と呼ばれている、DWM社製拳銃が、「パラベラム拳銃」と呼ばれている。また、同社が開発した拳銃用弾薬も「パラベラム弾」と言われている。
参考:DWMデー・ヴェー・エム社とは、Deutsche Waffen- Munitionsfabrik AGの略で、ドイツ武器・弾薬製造工場・株式会社の略である。1871年にドイツ第二帝国が成立し、ドイツの産業革命が第二段階を迎えて本格化するのが、1870年代で、この時期に多くの企業が起業された。その中には、もちろん、武器産業、火薬製造企業、金属薬莢製造企業も存在し、1880年代末までに幾つかの企業の合併・併合が繰り返され、この過程を通じて、1896年にDWM株式会社がベルリンを本社として設立された。
実は、DWM社の設立に際しては、ドイツ西南部、ネッカー川沿いにあるMauser社(本来「マウザー」と発音するが、日本では「モーゼル銃」の名で知られている会社)も参画しており、1898年にドイツ帝国陸軍に正式採用された小銃Gew98は、基本設計はMauser社による。Gewehrゲヴェアは、小銃の意味で、「98」は正式採用された1898年から来ている。五発を一度に装填できる装填クリップが使われたのが、この小銃の特徴の一つで、第一次世界大戦中は、ドイツ歩兵は、この小銃を使って戦った。
一方、拳銃では、このDWM社の武器開発技師Georg Lugerゲオルク・ルーガーが改良を重ねて製作した自動装填式拳銃P08が有名である。日本では「ルガー拳銃」として知られているこのPistole(ピストーレ:拳銃)は、1908年にドイツ帝国軍に正式採用され、手作りで製造されたこの拳銃が野戦では故障しやすいことから、将校用の拳銃として使われた。この拳銃は、第二次世界大戦が始まる直前の1938年まで使用され、この年にP.38が新式の拳銃として、ナチス国防軍に正式採用される。故に、この拳銃が「P.38」と呼ばれる訳であるが、この拳銃の開発は、Walther有限会社によるものであった。尚、Waltherは、ドイツ語では、「ヴァルター」というので、この拳銃は、正しくは、「ヴァルター・ペー・38」と発音したいところである。この拳銃の銃弾も、「9㎜パラベラム弾」であった。
ジョン・ウィック:チャプター2(USA、2016年作)監督:チャド・スタエルスキー
第二作目が、例外的に、第一作目より上手くでき上っているケースがある。例えば、『ターミネーター』シリーズであろう。この幸福なケースは、本シリーズにも当てはまる。何故か?
D. コルスタッドは、1974年生まれのアメリカ人で、大学では経営学を勉学したが、卒業後、思うところがあり、映画脚本家になろうとして、彼が24歳の時、カルフォルニア州に移住する。それ以来約15年ほど努力を続けて、2012年に初めてアクション映画の脚本を採用してもらう。その二年後、K.リーヴスの提案により、自分が持ち込んだ、ある脚本の名称を「John Wick」と変えることになるが、この名前は、K.コルスタッドの母方の祖父の名前であると言う。こうして、前作と本作の脚本も担当することになったという経緯がある。因みに、2021年制作の映画で、意外にヒットした作品『Mr.ノーバディ』の脚本を書いているのも、このD.コルスタッドである。
それでは、「ジョン・ウィック・ワールド」とはどんな世界であろうか。まず、第一作目から分かっていたことは、裏社会では、殺し屋達が多数存在し、犯罪組織に雇われて殺しを執行するのであるが、その殺し屋達の稼業をサポートする「コンティネンタル・ホテル」という組織があることである。
この「コンティネンタル・ホテル」は、裏世界ではそれなりの権力を持っており、ホテル内では殺しは行なってはならないとする「掟」を殺し屋達に課すことが出来るのである。そして、本作により、「コンティネンタル・ホテル」には、ニューヨーク店だけではなく、ローマ本店も存在し、恐らく、世界的なチェーンを組んでいる組織であることが分かる。
一方、「ジョン・ウィック・ワールド」には、ニューヨーク市マンハッタン区南部にあるBowery(バウワリー)地区のホームレス達を組織する犯罪・情報地下組織が存在し、そのKingの地位に収まっているのが、バウワリ―・キングである。(Bowery King;『マトリックス』で顔が売れた役者ローレンス・フッシュバーンが演ずる。)18世紀前半にイギリスで上演された『乞食のオペラ』のストーリーを思い出させるセッティングである。あそこでも、ロンドンの乞食達が「乞食王」ピーチャム氏に統率されている。
これに対し、以上の勢力に隠然たる力を振るっているのが、12の席あるというHigh Tableハイ・テーブルと呼ばれる存在で、これは、犯罪組織の中でもより強力な上部組織で、言わばCrime Lordクライム・ロードとでも言えるボス中のボス達が構成する「上級役員会」のようなものである。カモラ、ラシアン・マフィア、チャイニーズ・マフィアなどのボスがこの会長会に入っていると言う。High Tableの名称は、恐らく、アーサー王伝説に登場する「円卓の騎士」にあやかってのものであろうが、「円卓」とは、13の席(13席目はいつも空席)がある「Round Table」のことである。本作の日本語版のHigh Tableの訳が「首長連合」となっているのは、筆者としては不満がある。内容的には関係がないのではあるが、仏教用語に「上座部:じょうざぶ」というのがあり、この「上座」が「High Table」に字義的に上手く適合するので、これを「上座会」としては、如何であろうか。
主人公John Wickはユーモアがない人間であるが、本作では気の利いた場面がある。Johnは、宿泊先であるコンティネンタル・ホテル・ローマ本店で、「仕事」をするために、武装用の銃器を取り揃えることにする。このホテル内の部署の専門員は。「ソムリエ」と呼ばれており、「オードブル」から「メイン」を経て、「デザート」に至るまで、それぞれの「料理」に合う「ワイン」、即ち、銃器をこの「ソムリエ」がサジェスチョンする場面は、中々「薬味」が効いていて、「美味しい」のである。因みに、このローマ本店のオーナー兼支配人役を演じているのが、Franco Neroで、往年の「マカロニ・ウエスタン」(蓋し、日本の映画興行師達が考え出した傑作の映画用語)のスターの一人であり、筆者は、この配役の妙に敬意を表するものである。
カモラの女ボス殺害の場面、カモラがイタリアの犯罪組織であることから、そのイタリアらしい、絵画が掛けられた室内空間での銃撃・乱闘戦、そして、鏡張りの部屋での決闘と、本作では、その美的センスが至るところに表象されており、観る者の目を楽しませてくれる。
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