2022年11月24日木曜日
15ミニッツ(USA、2001年作)監督:ジョン・ハーツフェルド
Andy Warholの有名な「格言」„In 15 minutes everybody will be famous.” から本作の題名『15ミニッツ』は採られているのであるが、本作は、謂わば劇中劇、「映画の中の映画」を見せることでストーリー構造のメタ・レベルを示す。そのことで、制作、創作のレベルが、作品の鑑賞のレベルに取り込まれるのである。そのことは、確かに、作品の構造を深めるためには、いい手ではあるのであるが、これは、既にやりつくされている感のある手法なので、創作の「作戦」としては、今ではもう「二番煎じ」であり、それ自体としては新鮮味が余り無くなっているのもまた実態であろう。それでもなお、この手を使うのであれば、そこには、「新趣向」を試みることが要求されるが、さて、本作ではそれができているか。
本作は、ストーリー的には三つの層から出来ている。一つは、N.Y.警察の殺人課の、ベテランで老獪な刑事エディ・フレミング(ロベルト・デ・ニーロがいつものようにこの役を上手くこなしている)と、消防署管轄の刑事捜査担当である、若き捜査官ジョーディ・ウォーソーとの、ほとんど父子的な関係の展開である。
第二の層は、犯罪とメディアの関係である。とりわけ、特ダネ・キャスターであるロバート・ホーキンス(Kelsey Grammerケルシー・グラマーがその役を見事に体現)が、如何に視聴率確保のために倫理的境界をたやすく乗り越えていくか、その巧言令色な「したたかさ」に焦点が当てられているレベルである。
第三層目が、ロシア人出身の犯罪者Emilエミールとそのチェコ人の相棒Olegオレグが巻き起こす犯罪の数々である。そして、映画好きのオレグが万引きしたカムコーダーで撮る映像が、更にストーリーのメタ・レベルを形成しているのである。オレグは、自分が見た、1946年制作のアメリカ映画『素晴らしき哉、人生!』に感動を受けたと映画の冒頭で語り、ことあるごとに自分をその監督である「フランク・キャプラ」と名乗るのである。ここに本作の監督John Herzfeldジョン・ハーツフェルドに隠された意図があるのであろうか。
監督ハーツフェルドは、本作ではプロデューサーの一人でもあり、また脚本も書いている。という訳で、上述の四重構造のストーリーは、監督自身の意図を強く反映していると見て差し支えないが、観ていて、よく言えば重層的と言えるものが、その取り扱いの浅薄さで、集中力のない、焦点の定まっていない作りになっているともまた言えるのである。
この作品の浅薄感は、ラスト直前のショー・ダウンで、帰責能力なしということで、フレミング殺害の懲罰を逃れようとするエミールを、ウォーソーがほとんどリンチ的に射殺し、その後は、颯爽として現場を去るという、ウエスタン的パッピー・エンドでさらに強まるのである。
さて、最初の質問に戻って、本作において、「映画の中の映画」による新趣向が提示されたか、であるが、本作、惜しい哉、そこまでには踏み切れなかったと言えるだろう。
本ストーリーの映画の画像に、ソラリゼーション、白黒などの効果も含めて、カムコーダーで撮られた映像を上手く取り入れた、フランス出身のキャメラマン、Jean-Yves Escoffierジャン=イヴ・エスコフィエ、そして、編集のSteven Cohenスティーヴン・コーエンの力量は買うものの、ストーリー的には、犯罪者がヴィデオで映像を撮影するという、ストーリーのメタ・レベルが、映画の後半から、ストーリーの他の層に食い込んでいくのであるが、結局は食い破れずにメタ・レベルに押し込まれてしまう。個人的には、寡聞にしてその他の例を観たことがないのであるが、メタ・レベルと他のストーリーとの関係が逆転するところまで行けば、そこに新趣向が出たと思うのである。が、さて、そこまで「映画作家」性を、元々俳優上がりの監督J.ハーツフェルド(1947年生まれ)に求めるのは、少々酷いのかもしれない。
2022年11月23日水曜日
ディア ドクター(日本、2009年作) 監督:西川 美和
しかしながら、本作冒頭のシーン、偽医者が逃亡してからの村人のドタバタと、このシーンに直後に続く、研修医と偽医者の、交通事故一歩手前の「邂逅」とは、如何にも笑いを誘おうというわざとらしさが何となく感じられて、いただけない。
但し、主役を演じている笑福亭鶴瓶の個性に監督が呑まれて、果たして監督自身の演出が効いているのか、キャスティングの妙と言えば、それはそれで収まるかもしれないが、監督が本来的には脚本家出であることを勘案すると、疑問とする面も多々ありである。
しかし、である。ストーリー全体を人間喜劇として一括りにし、冒頭の事件ばりの描き出しで物語の現在軸を出し、これに回想場面を適宜入れていき、この展開を以って、「偽医者」の人間像を描こうとする、この女流監督の、原作者・脚本家としての手腕は並々ではないものを感じさせる。
とりわけ、無くてもよかったのではないかと巷で取り沙汰されているというラスト・シーンは、蓋し、偽医者が、村で関わった病人八千草に、失踪後もう一度関わっていくということで、偽医者が持つ人間性の深みを強調するものであり、ストーリーの全体像に真実味を持たせる上で絶好のエピソードである。
また、このラスト・シーンでの八千草の演技は、絶妙である。最初は、気が付かずにいたものが、不意に気が付き、事の次第に驚く。しかし、すぐに事情を察知し、これに笑顔で応える。この笑顔がまた複雑な笑いを込めており、わずか10秒にも満たない演技でありながら、それまでの90分前からのストーリー展開を凝縮させる力を持っているのである。
自分の娘に知らせたくない病いを持ち、それでも自分の病気がどう進行しているのか、不安で知りたくて、結局は、偽医者に診察させる八千草。そして、その病状を偽る嘘を偽医者にも頼む八千草。元々嘘の身分の偽医者が、患者に嘘を頼まれるという、謂わば人生の「皮肉」である。そして、この事情を頭に入れてラスト・シーンの八千草の笑みを読むと、そこに、嘘がバレないようにという遊び心の「共犯者」の笑みが紛れ込んでいるのではないか。この複雑なる笑みを体現した八千草薫という女優の演技力に筆者は脱帽するものである。
2022年9月24日土曜日
弟とアンドロイドと僕(2022年作) 監督:阪本 順治
「自己とは、それ自身、抽象概念であり、フィクションにすぎないのだ。」
ダニエル・デネット
まず、寡聞にして、「ダニエル・デネット」とは誰なのか、恥ずかしながら分からなかった。それで、それが誰であるか調べると、Daniel Dennettとは、USAの哲学者、認知科学者であると言う。その認知科学に関しての彼の発言が、上のテーゼと関わるのであろう。それぞれの人間が持っている、或いは、持っていると思っている「自己」とは、本来は存在しない、ただの「虚構」なのであるとここでは解釈すべきなのか?彼は言う:
意識をつかさどる中央処理装置「カルテジアン劇場」(Cartesian Theater)などというものは、存在せず、意識とは、空間的・時間的に並列した複数のプロセスから織り出され、構成されるものである。(ウィキペディアによる)
この立場から、さらには、複数のプロセスから織り出される「意識」は、進化が可能なのであり、デネットは、AI、人工知能が何れは意識を持つことも不可能ではないと主張する。ここまで来ると、監督の阪本順治が、なぜ、デネットの上述のテーゼを挙げたのかは、題名に「アンドロイド」があるので、分からなくもないが、 本作のストーリーを突き詰めていくと、デネットの、このテーゼは、本作のメッセージとは殆んど関係がない。
なぜなら、本作では、自らの人間としての存在を体感できない人間が、自分自身をアンドロイドと認識し、その自己認識から、自分のDoppelgängerドッペルゲンガーを「創造」する。しかも、その創造されたアンドロイドの動力源が、死んだ鳥や生きたミミズであるとなると、そこには、人間対ヒューマノイドというSF的問題をテーマ化する気が、阪本監督にはないことが明らかとなるからである。阪本監督にとっては、それは、むしろ、非合理的人間実存の問題なのである。
主人公は、桐生薫という、ある大学の「機械工学ユニット長」である。「長」ではあるが、部下はいないようであり、学生に講義はするが、黒板にチョークで何やらの数式を何面も、それも両手で書くのであるが、学生とは目も合わせずでの講義である。
右足を制御する脳の部位が不正常なので、この男は、びっこを曳いて歩く。それもあるのか、大学への通いには自転車を彼は使う。しかも、雨が降ってでもある。と言うか、本作は、全編が雨が降ったままなのである。異常な気象現象であるが、これは、桐生の本人の内面をも反映しているようである。
大学から自宅への道を自転車で走ると、途中には、自動車は通れないような狭い、洞窟のような自然石のトンネルがあり、そこを抜けるとすぐに、桐生の自宅がある。元々は、戦前からの由緒ある個人病院宅である。時々はSF映画に相応しくメタリックな色調を採るカメラは、建物内では色調が暖かいものとなり、これにより、建物やその内装の大正的、少なくとも戦前的レトロ感覚が誇張される。
建物の中に置かれた調度品の内で、気になるものがある。あの、足を乗せるために両脇に突き出た部分がある、産婦人科に備え付けてある診察台である。この寝にくい診察台の上で桐生は寝る。それが、何を意味するか。恐らくは、自分を産んだ母への想いであろうか。なぜなら、桐生は、両親に、物心が着くか着かないうちに「捨てられた」からである。
想像するに、父親が桐生家に婿として入ったのではないだろうか。父親は、その内に、他に、日活ロマンポルノ女優風祭ゆきが扮する愛人を作り、桐生家を出ていく。桐生家の娘であった母親は、そのことに耐えられずに衝撃的に自殺して、薫を「見捨てる」。それが、薫にはトラウマになっているのである。
こうした、心に傷を負った薫を慰めてくれたのが、ひょっとして、Isaac AsimovのSF小説であったのかもしれない。建物の中を検分するように見渡すカメラは、ある、古びた本を映し出す。『われはロボット』という題名である。翻訳者は、小尾芙佐(おび ふさ)である。
『われはロボット』とは、I.アシモフが1950年に発表した、初期のロボットものSFの短編集であり、本書において有名なロボット工学三原則が示され、アシモフはロボットSFの第一人者としての地位を確立することになるのであるが、小尾は、早川書房の女性翻訳者として、このアシモフの古典的作品を共同翻訳し、1963年に上梓している。つまり、今(2022年)からほぼ60年前の本である。薫は何歳の時にこの本を読んだのであろうか。
さて、以上を読んで、本作は何と「暗い」ストーリーであろうか、と思われる方がいるかもしれないのであるが、本作には、何とはなしではあるが、ある種のHumorフモールがある。
「異常」とは、常とは異なることである。常とは、普通のことであり、その普通と異なると、そこには、二重の意味での「可笑しみ」が生まれる。可笑しいから、変であり、可笑しいから、笑えるのである。この笑える部分が、滑稽なのであり、脚本も書いている阪本監督は、その可笑しみを、意図してか、或いは意図せずにか、よく出している。
そして、この「可笑しみ」をよく体現しているのが、大阪人俳優豊川 悦司(とよかわ えつし)である。本作で、豊川は、阪本監督と5本以上目の共作となる。1958年に大阪府で生まれた阪本 順治監督は、基本的には脚本も書く監督であり、筆者は、その代表作であるという『大鹿村騒動記』(2011年作)や『北のカナリアたち』(2012年作)などは観ていないが、本作での「滑稽味」は、数ある阪本作品でも独特のものかもしれない。
撮影監督は、儀間眞悟で、阪本監督とは、『団地』(2016年作)他、数本で共作している。一方、美術監督は、「阪本組」の一員と言える原田満生で、彼は、1998年以降、阪本監督の15本の作品で共作しており、阪本監督の『顔』(2000年作)を以って、第55回毎日映画コンクールで、美術賞を、同じく阪本監督の『亡国のイージス』(2005年作)を以って、第29回日本アカデミー賞で、優秀美術賞を受賞している。
2022年9月16日金曜日
プリデスティネーション(オーストラリア、2014年作)監督:ミヒャエル&ペーター・シュピーリヒ兄弟
本作の原作は、USAのSF作家ロバート・A・Heinleinハインラインの『輪廻の蛇』である。この原作は、『ファンタジイ・アンド・サイエンス・フィクション』誌の1959年3月号で最初に掲載された。『輪廻の蛇』とは、上手く邦訳したと言えるが、原作の原題は、'—All You Zombies—' で、これは、映画でも台詞の一部として登場するのであるが、こう言われても、日本人には通じないであろうと考えた翻訳者が、蓋し、上手く、要点を衝いて、意訳している。
さて、『輪廻の蛇』となれば、当然、「ウーロボロス (ouroboros)という言葉が浮かび上がってくるが、それは、古代の象徴の一つで、自らの尾を噛んで円環状となったヘビ、或いは、龍を図案化したものである。語源は、「尾を飲み込む(蛇)」の意の古代ギリシア語から来ているが、古代エジプト文明、アステカ文明、北欧神話やヒンドゥー教においても同様のシンボルが見られると言う。
ウーロボロスには、一匹が輪になって自分で自分の尻尾を食むタイプと、二匹がいっしょに輪になって相食むタイプがある。その象徴的な意味は、ヘビが自らの尾を食べることで、始まりも終わりも無い完全なもの、更には、「不老不死」としての意味も備わっていると言う。「神は死んだ」という箴言で有名になったドイツの哲学者ニーチェは、「過ぎ去ったものが、すべての将来的なものの尻尾に噛みついている。」と言い、彼の有名なテーゼ「永劫回帰」を、過去と未来の時空間で言い換えている。
では、本作の題名『プリデスティネーション』(Predestination)とは、何であろうか。「プリ」とは、「前もって」の意味であり、「デスティネーション」とは、「到着地、行先」で、併せて、前もって行き先が決まっていること、つまり、キリスト教神学の「予定説」の意味である。世界に出現する一切のことは、神が永遠の昔から事前に予定してあるものであるという説である。そして、本作では、原作同様に、あるバーテンダーが、ヴァイオリンのケースの形をしたポータブル型タイムマシンを使って、この「神」の役を演じる。それは、神学的に言えば、人間の驕り、不遜であり、神の罰を受けるべき行為であろう。
さて、本作はオーストラリア映画であるが、脚本も書いている双子の兄弟監督ミヒャエル&ペーター・シュピーリヒ(Spierig、英語読みでスピエリッグ)は、元々は北ドイツで生まれた映画人である。彼らは、R.A.ハインラインの二匹で一つの円環を形成するウーロボロスのストーリーを、もう一つの円環を加えて、それを8の字にし、これを横倒しにして、さらに、一本の線ではなくて、1枚の細長く切った紙をねじって、表側の紙の一端を裏側の紙の別の一端に貼り付けた時に出来る立体的な8の字円環、つまり、無限ループに書き換えたのであった。実に考え抜かれた、原作を越えるストーリー展開である。JaneとJohnが絡むストーリー展開が、横倒しの8の字の一つの円環を形作るとすると、バーテンダーを巡る運命がもう一つの円環を構成し、この二つの円環が交わるのが、1970年のニューヨークにあるバーである。時空間は、1945年から1985年までの40年間を行ったり来たりする。
ジェーンとジョンのストーリーでは、ジェーンの生い立ちが、時系列を正当に過去から現在に向けて、映画の前半で語られることにより、USAの1945年から1963年までの歴史的雰囲気が再現されるが、ジェーンが、他人とは協調できないタイプであり(それは、ジェーンの赤毛と緑色の補色の色の組み合わせで表現される)、孤独に孤児院時代を過ごし、自分が有能である自負から、宇宙関連の仕事に付きたい夢を抱いて(当時のUSAのアポロ計画を考えよ)、ある組織「Space Corp」の採用試験の試練に耐えるのである。ここで、上手くレトロ感覚の未来主義の雰囲気が出ていて、秀逸である。
しかし、ジェーンがアンドロギュノス、両性具有ということから、それを本人に知らせないまま、採用試験の過程で落とされる。1963年、失望の中で、偶然知り合った男性と恋に落ち、妊娠する。翌年には女の子を産むが、帝王切開の手術の際に、大量出血のために、女性の器官を切除しなくてはならなくなる。こうして、ジェーンがジョンに性転換する、彼女の数奇な運命が展開する。このストーリー展開に、更に、例のバーテンダーの運命と連続爆弾魔Fizzle Bomberの事件が関わってくるのである。
2015年のオーストラリア映画テレビ芸術アカデミー賞(Australian Academy of Cinema and Television Arts Awards, AACTA Awards)では、9部門でノミネートされ、その内、Sarah Snookに、最優秀主演女優賞が、Ben Nottに、撮影賞が、Matt Villaに、編集賞が、そして、Matthew Putlandに、美術賞が、授与された。
2022年8月21日日曜日
オズランド(日本、2018年作) 監督:波多野 貴文
上は、あるTVアニメ・シリーズの主題歌の第一節である。上の歌詞を読んで、「ああ、あのアニメ!」と思い出せる方は、アニメの通と言えよう。
そのアニメとは、1969年に放映された『アタックNo.1』である。『巨人の星』が男性版スポコンものの代表格であるとすれば、この『アタックNo.1』が女性版スポコンものの代表である。
スポーツ根性ものの醍醐味は、努力が報われて、勝者になれる、或いは、勝者になれるかもしれないという、ポジティブな思いを共有できるところにある。もちろん、そこには「敗者」もいるのであり、努力が報われない、ネガティブな側面もあるのではあるが。
この「醍醐味」は、スポーツの場面からそれを職業の場面へと移すと、新入社員の「成長」という形で味わえるものである。本作も、基本的にはこの、新入り根性ものの系列に入る作品である。そして、本作の女性主人公も成長する。ただ、ストーリー展開として、設定場所が遊園地であり、人を楽しませることの難しさという点での、ストーリーの深まりがないのは残念である。
さて、遊園地側の登場人物の殆どが「ノー天気」でポジティブな人間として描かれる中で、一人だけ、表面の明るさにも関わらず、それがどこから来るのか分からないのであるが、ある翳りを見せる登場人物がいる。「オズの魔法使い」と言われる、女性主人公の上司、「小塚」である。(「こづか」ではなく、「おづか」と読ませるところが「味噌」であり、ここから「おず」、つまり「オズ」が出てくるという、駄洒落ではあるのであるが。)
役柄自体にこの「翳り」を見せる必要はない訳で、これは役者の「芸」ではないかと思い、調べてみたら、この俳優が西島俊秀であった。ウィキペディアで経歴を調べると、国際的にも話題となった映画『ドライブ・マイ・カー』(2021年作、濱口竜介監督)で主人公役をやっている男優である。この映画の西島の演技をニューヨーク・タイムズ紙が次のように批評している:
西島の演技は、「鋭い批判的な知性を合わせ持っており、そのメランコリックで控えめな存在感が映画の重要なカギとなっている」と。(ウィキペディアによる)
この批評を読みながら、本作での役作りも、さもありなんと頷くのは筆者だけであろうか。
オンリー・ゴッド(デンマーク、フランス、2013年作) 監督:ニコラス・W.・レフン
エマニュエル夫人は、タイに駐在している外交官夫人ということになっており、その日々の倦怠(アンニュイ)さから抜け出し、夫の「理解」もあり、次第に性に目覚めていくというのが、そのストーリーの大筋であるが、その背景には、タイという異国情緒が利用されており、そこには、ヨーロッパの社会通念、社会倫理、道徳一般が通用していない、特殊空間としてのタイであるからこそ、白人女性の性的解放もおおらかに唱えられるという、ヨーロッパ中心主義的視点が見え隠れしていた。その性的解放の一つとして、エマニュエル夫人が、タイ・ボクシングの、ある対戦の「賞品」になるという場面も登場したのであった。
原題を『Only God Forgives 神のみぞ、赦され給う』という、フランス・デンマーク合作映画たる本作でも、ストーリーの背景は、タイであり、ここは、ヨーロッパの道徳観念一般が通用していない、「無法」な特殊空間としてのタイである。ここでは、国技である一騎討ち格闘技「ムアイ・タイ」の技を極めた者が「神」なのである。彼こそが、犯罪者を罰することができるのであり、神の如く、犯罪者を容赦できるのである。この、地上に降りた神の名を「チャン」といい、私服なのであるが、制服警官を付き従えて、犯罪者を私刑/リンチして歩くのである。私刑の後、チャンは、Karaoque・バーで、目に涙を溜めて、恍惚として熱唱する。
しかし、本作のメインテーマは、暴力の神聖さではなく、ある白人男性の「帰巣願望」なのである。この願望は、言葉の真正な意味で、血に塗られた形で、叶えられるのであるが、蓋し、本作の眼目は、このことを描くことにあるのであり、暴力やリンチの許されるタイも、神の如きチャンの存在もこれを正当化するための供え物にしか過ぎない。
さて、本作がこの「帰巣願望」を描く必要性が、どこから来るのかと言うと、思うに、本作の脚本も書いている、コペンハーゲン生まれの監督、Nicolas Winding Refn (デンマーク語読みで、「ネゴラス・ヴェンデング=レフン」)にある。彼の、母親との関係がどんなものであったのか、それが、本作にどう関わっているのか、気になるところである。
Wendingとは、撮影キャメラ・ウーマンたる母親の苗字で、Refnが映画監督たる父親の苗字である。両親に連れられてニューヨークに移住し、そこでNikolasはどれだけ母親の愛情を受けて育ったのか。彼は、学校はデンマークで卒業する。卒業と伴に、ニューヨークに戻り、当地のアメリカン・アカデミー・オブ・ドラマティック・アーツに入学するも、暴力沙汰でそこを放校される。彼が暴力をテーマによく作品を撮っていることに、彼が暴力に魅了されているのではないかという「不安」が筆者の頭をよぎる。
アメリカの演劇学校を追い出された後、Nikolasは、再びデンマークに舞い戻って、短編映画などを撮ったりしていたところ、1996年に発表した、初期作品『Pusher』(製作国:デンマーク)で注目を集める。経済的理由から、『Pusher II』(2004年作)、『Pusher3』(2005年作)を撮り、珍しく他人の書いた脚本で、童顔の俳優ライアン・ゴズリングを主人公とした作品『Drive』で、2011年にカンヌ映画祭で監督賞を取る。その2年後に、同じくR.ゴズリングを主役に据えて、自らの脚本で本作を撮ることになるのであるが...
本作のビートを効かした、何かおぞましい背景音楽も印象的であるが、音楽担当は、アメリカ人で、元ドラマーのCliff Martinezである。スティーブン・ソダーバーグ監督の『セックスと嘘とビデオテープ』、『トラフィック』、『ソラリス』、『コンテイジョン』を手掛けているそうで、であれば、やはり中々のものであるが、Wending監督とは、ウィキベテアによると、『Drive』で既に共演している。
私見、本作は観て、視覚的「後遺症」を残す「暴力映画」である。故に、観ようとされる方はそれなりの覚悟があられたい。
のさりの島(日本、2021年作) 監督:山本 起也
本作にも、天草フィルム・コミッションなどはクレジットされていないが、天草市が製作協力し、バックパッカーの「オレオレ詐欺師」が、行きずりに天草に寄って、ストーリーが展開するとなると、観光宣伝映画の「危険」は、高かったが、本作をそれでも見たのは、俳優藤原季節が出る映画のトレーラーを偶然に数本見て、興味が湧き、本作で主演を演じるということで、事実上の観光宣伝映画で、どんな演技をするか一度観たかったからであった。
観ての評価は、彼は、2020年の第42回ヨコハマ映画祭で、映画『佐々木、イン、マイマイン』と劇場版『his』(いわば、日本版『ブロークバック・マウンテン』か )で以って、だてには最優秀新人賞を取ってはいないと言う感想である。将来の彼の活躍を期待する。
さて、この藤原にたかられる老婆役を演じたのが、原知佐子で、顔に見覚えがあったので、調べてみると、どの作品でその印象が残ったのかはもはや思い出せないが、経歴では、彼女の夫は実相寺昭雄であった。実相寺と言えば、アンファン・テリブルなTV映画監督として、『ウルトラマン』にも関わった人間で、1970年制作の白黒映画『無常』(実存主義とエロスをテーマとした映像美の傑作)が思い出される。そして、原の経歴の最後には、本作が原の遺作になったという記述があった。(合掌)
最後に、もう一つ気になったのは、ストーリー中、天草市の過去を撮った8㎜映画を編集し、それを天草市民に見せるというプロットである。山本起也(たつや)監督が、京都芸術大学映画科の教授でもあれば、さもありなんという、ある種、理論的なアプローチである。
そのプロットの展開過程を見て、映像自体にはメディアとしてはまだ未来があるであろうが、映画館というものは、このコロナ禍がそのプロセスをさらに加速させた形で、「過去の遺物」となってしまっているという実感である。本作では、映画館は過去の撮影物を見せるノスタルギーの場であり、最早、映像媒介の未来を担うものではないということである。
映画館と同様に、天草市「銀天街」は、かつての華やかさを失い、寂しいシャッター通りに今なってしまっている。ストーリー中にも「地方創生」の問題が登場してくるが、観光に頼る、他力本願の「町おこし」では、先が見えている。東京一極集中の体制を打破するためには、地元の農業を基幹産業としたアウタルキーな地域主義的な経済構造の構築こそが必須であると、筆者は、本作を観ながら、改めて思った。
ユリシーズ(イタリア、1954年作)監督:マリオ・カメリーニ
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まず画像に、「この一篇を雲の彼方に散った若人のために捧ぐ」と流れる。 すると、早速、当時の実写の場面が写し出され、恐らくマリアナ沖海戦か、沖縄戦における神風特攻作戦の場面が一部特撮を混ぜて見せられる。(特撮:日活特殊技術部;やはり、戦前からの東宝・特撮部、円谷英二班のものには...