2025年6月18日水曜日

青い山脈(日本、1963年作)監督:西河 克己

 冒頭から立派な天守閣が大きく映し出され、早速、この城にまつわる話しが講談調で語られる:

 「慶長五年八月一八日の朝まだき、雲霞の如く寄せる敵の大軍三万八千に攻め立てられ、城を守る二千五百の家臣悉く斬り死に、城主は悲痛な割腹を遂げ、残る婦女子もまた共に相抱いて刺し合い、一族すべて運命を城と共にしたのである。(ここでカメラは城を完全に斜め下から見上げるような視角を取り、同時に城は陽が射さして急に明るくなる。)爾来、この城はこの町のシンボルとして三百六十年の歳月を市民と共に生きてきた。」

 この口上が終わるや否や、画面は音楽と共に動転して、「青い山脈」の赤い題字が登場する。併せて、背景は後方に山々を見渡す場面となる。そして、あの有名な、敗戦直後のヒット歌謡曲の一曲『青い山脈』が流れ始めるのである。

 四番ある歌詞の内、三番は敗戦直後を思い出させるので本作ではカットされてあるが、最初は男女によって交互に歌われるこの主題歌(作詞:西條八十、作曲:服部良一)は、希望や夢を謳い上げる。その中でも二番が本作との関連で内容的に見て面白い。

(二)
 古い上着よ さようなら
 さみしい夢よ さようなら
 青い山脈 バラ色雲へ
 憧れの 旅の乙女に
 鳥も啼く  

四行目の「憧れ」が「旅」に掛かるか「乙女」に掛かるかは、はっきりしないのではあるが、ここは、旧習を捨てて、バラ色の未来に向けて旅立っているのは、憧れの若き乙女であると理解できなくもない。であれば、この乙女像は、映画の冒頭で語られた「封建的」女性像とは異なるものであり、このようなコントラストに照らし出されて、ストーリーは展開する。

 この伝統的城下町には、ある私立の女子高等学校がある。この女子校は、約80年の伝統を誇る女学校であり、その名も「貞淑女子高等学校」という。「貞淑」とは、「貞操が固く、心が清く、しとやかである」という意味であり、まさしく、この伝統に則った女子教育が行なわれている女子校なのである。この学校には、東京の女子大を出たインテリの若い女教師・島崎先生(芦川いづみ)が教職に就いており、三年生のAクラスを担任している。このクラスには高校二年の時に男女共学校から転向してきた寺沢新子(吉永小百合)がいる。男女交際にもオープンで積極的な寺沢は、同じクラスで茶髪の眼鏡っ子・松山浅子(進千賀子)が書いた偽のラブレターをもらい、それを担任の島崎先生に見せて相談する。母校を愛すると言いながらの、人を嬲りものにしようとするこの卑劣な行為を学級ホームルームで問題化した島崎先生に対して、松山を中心とするグループはクラス内で相談し、次のような要求を黒板に書き付けたのであった:

一.私達の愛校の精心を悔辱したことを取り消して下さい。

二.生徒の風記問題は生徒の自治に任せて下さい。

三.母校の伝統を尊長して下さい。

それでは、この三つの要求を読んで、四つの間違いを見つけて下さい。

 遅くとも既に1960年代の前半から始まっている生徒の国語能力のレベル低下はさて置き、愛校心と母校の伝統を強調する一方で、生徒の自治が主張されているという点で、これは面白い対照であり、戦後の民主的教育が、敗戦後18年も経つと、ここまで浸透しているのかと、筆者には一つの驚きを禁じ得ない。

 本作の同名原作は、通俗大衆作家・石坂洋次郎が『朝日新聞』に連載小説として1947年に発表したものである。同年には、教育基本法と学校教育法が施行されたばかりであり、新制中学一年を除いては、旧制の高等女学校(五年制;原作の寺沢新子は高等女学校五年生で、年齢17歳)と旧制の高等学校(三年制であれば、修了時で二十歳の男子生徒)が未だに存在していた時期である。このような過渡期における高等女学校生徒と旧制高等学校男子生徒との間の男女交際を「新しい民主主義の息吹き」の下、これにフモールを込めて描いた作品がこの原作であった。

 日本の「ヌヴェル・ヴァーグ」の旗手の一人大島渚は、ウィキペディアによると、その「通俗的良識の甘さ」を批判しながらも、以下のように、自分が15歳の時にこの作品を読んだ時のことを回想している:

 「この戦後最初の新聞連載小説が、私たちに与えた新鮮な感動については、それを実際にあじわった人間以外には、いくら説明しても、それを実感として伝えることはできないだろう。(中略)私は今もなお『青い山脈』の文章のひとつ、ひとつ、ことに登場人物の会話のひとつ、ひとつを昨日の記憶のようになまなましく、生理的に思い出すことができる」

 更にウィキペディアによると、文芸評論家の高橋源一郎は、主人公六助の友人で、庭球部のマネージャーであり、しかも、兵役経験者で高等学校一の読書家である「ガンちゃん」こと富永安吉の存在に注目している。この役を本作では、若い高橋英樹が演じている。この「ガンちゃん」は、大学の文学部二年生で、ラグビー部に所属しており、彼は、本作のクライマックスに当たるPTA役員会の席上で、様々な賢人の箴言を引用して、会議の進行に影響を与えようとする、少々ユーモラスな役回りである。後年の高橋には余り予想できない役柄である。

 さて、この原作は、既に1949年に一度映画化されており、フォーカスは、島崎先生を演じた原節子に当てられている。1957年版では、島崎先生役を司葉子が、寺沢新子役を雪村いづみが演じている。この版でも、脚本は、49年版同様に、東宝の代表的脚本家であった井出俊郎が書いており、このことは、三度目の劇映画化である本作(但し、製作は日活)においても同様であった。もちろん、井出も時代に合わせて、「吉永小百合と言えば西河監督」と言われるくらい「吉永小百合もの」を1960年代に撮った西河克己監督と共に、ストーリーを「現代化」しなければならない部分(例えば、アマチュア無線によるPTA役員会の実況中継など)があったり、更には、ストーリー自体のフォーカスを、島崎先生ではなく、吉永・浜田の日活青春映画「ゴールデン・コンビ」に当てる必要があったりする違いがあるのではあるが。そして、もちろん、明朗快活な青春映画として、本作も「健康な」ハッピーエンドで終わる。

 このように、本作が観てすぐ忘れてもいいような日活青春映画の一本であるように思われるのではあるが、筆者は、上述の、高橋英樹演じる「ガンちゃん」が繰り出す、時には場違いな、時には、当を得た箴言の数々と、彼が学生服を着てわざと真面目くさって行なう、必ずしも理路整然としたものではない演説を聞いていて、これを2025年の現代日本の現状と突き合わせてみなざるを得なくなり、若干暗い気持ちになったのも正直なところである。

 既に別の場面でソクラテスや孔子を引用していた「ガンちゃん」は、PTA役員会の席上で、指名もされないのに、すーと立って、次のような箴言をぼっそりと言う:
ゲーテ曰く、新しき真理に最も有害なるものは古き誤りである。
セネカ曰く、思慮深き者はたやすく怒らず。
ピタゴラス曰く、怒りは無謀に始まり、後悔に終わる。

 そして、島崎先生が偽のラブレターを学級ホールルームで問題化したことにより生徒達の反発を招いた点で、この彼女の行動が正当であったかをPTA役員会が議論をしている最中、文学部二年生の「ガンちゃん」は次のような演説をぶつ:

 「そもそも現代社会における性道徳の混乱と頽廃とは、我々日本人に課せられた必然的、歴史的宿命でありますが、近頃、その一面のみを誇大視して歴史を逆行させようとする動向が見え始めております。世に復古調とか、リバイバル・ムードなどと言って、教育勅語を復活させようとする傾向などは甚だ遺憾であります。かのキンゼイ博士やバン=デ=ベルデ教授の研究を待つまでもなく、アダムとイブの昔より我々男性と女性の健康なる結合こそ、より健全なる社会の発展を齎すものでありまして、感情も意思も生理的欲求も率直に表現できなかった過去の生活に逆行させようとする時代錯誤的思想は絶対に遺憾であります。終わり!」(映画の1:14分代から約70秒間)

 原作では旧制高等学校一の読書家と言われた「ガンちゃん」に劣らない読書家ぶりを本作の「ガンちゃん」も発揮している訳であるが、「キンゼイ博士」とは、1940年代末から50年代に掛けてUSAの白人男女を対面調査して「キンゼイ報告」という形でその性生活の在り様を書き上げた、元々は昆虫学者で、この報告を以って、性科学の分野の地平を開拓した人物である。

 また、「バン=デ=ベルデ教授」とは、テオドール・ヘンドリック・ファン・デ・フェルデ(Theodor Hendrik van de Velde)のことで、彼はオランダ人産婦人科医として1926年に『完全なる結婚』なる本を発表した人物である。オランダ語で書かれたこの本は、世界中で翻訳され、結婚生活と性生活のマニュアル本となったが、日本においては、ウィキペディアによると、既に1930年に抄訳本が出されたものの発禁となり、戦後すぐの1946年に完訳本が、同年にはまた抄訳廉価版が出版されたことから、この抄訳本が二年連続のベストセラーとなっていた。この本は、更に本作と同年の63年には再刊されている具合で、本作の脚本家井出俊郎も、つとに少なくともこの本の題名は知っていたはずであろう。

 何れにしても、教育勅語の復活などという「時代錯誤的思想」復活の問題は現代政治的には2010年代にも政界に上がってきたことであり、教育基本法の「改定」も含めた教育現場での現状を鑑みるに、本作に描かれた女性の自立への賛歌を、憧憬と哀惜の念を以って今更ながらに観たのは筆者のみであろうか。

 最後に、映画の冒頭にあった落城の逸話について、調べたことをここに書いて、筆を置こうと思う。本作のロケ地が滋賀県彦根であると知って、彦根市について調べてみると、映画に出てくる海沿いの場面だと思われた箇所は、琵琶湖であることに気付いた。映画に登場する木造の校舎は未だにあるのか定かではないが、彦根市には、城下町としての面影が残っており、木造り平屋の町家が「城町」という地域に今でも保存されているようである。左の口角の下にホクロを付けて南田洋子が演じる気っ風のいい芸者・梅太郎の置き屋があるのもこの「城町」の一角であろう。

 映画の冒頭に登場するお城が、彦根城で、ここからは琵琶湖や鈴鹿山脈が見える。「青い山脈」とは本作では鈴鹿山脈のことかもしれないが(或いは伊吹山脈か)、同じく井伊家彦根城から見えるのが、佐和山で、ここには佐和山城があった。映画の冒頭で語られる戦国時代の落城の逸話は、実は、この佐和山城での出来事であった。そこで、手っ取り早いので、佐和山城の戦いをウィキペディアから引用する:

 「慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで三成を破った徳川家康は、小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城を攻撃した。城の兵力の大半は関ヶ原の戦いに出陣しており、守備兵力は2800人であった。城主不在にもかかわらず城兵は健闘したが、やがて城内で長谷川守知など一部の兵が裏切り、敵を手引きしたため、同月18日、奮戦空しく落城し、父・正継や正澄、皎月院(三成の妻)など一族は皆、戦死あるいは自害して果てた。江戸時代の『石田軍記』では佐和山城は炎上したとされてきたが、本丸や西の丸に散乱する瓦には焼失した痕跡が認められず、また落城の翌年には井伊直政がすぐに入城しているので、これらのことから落城というよりは開城に近いのではないかとする指摘もある。」

 これを映画冒頭の口上と比較すると、口上は次の通りである:

 「慶長五年八月十八日の朝まだき、雲霞の如く寄せる敵の大軍三万八千に攻め立てられ、城を守る二千五百の家臣悉く斬り死に、城主は悲痛な割腹を遂げ、残る婦女子もまた共に相抱いて刺し合い、一族すべて運命を城と共にしたのである。爾来、この城はこの町のシンボルとして三百六十年の歳月を市民と共に生きてきた。」

 つまり、まず、日付が異なる。「八月十八日」とは、九月十七から十八に掛けてのこと、「敵の数三万八千」は、実は、一万五千、味方の数は、ほぼ同数、しかし、城主、つまり石田三成は、関ヶ原の戦場に出ていて、留守であった。この戦いで石田家は滅亡したと言ってよいであろうが、落城したのは、映画に映っている彦根城ではなく、関ヶ原の戦いの「裏切者」小早川秀秋を先鋒とする徳川勢に攻め立てられた佐和山城であったのである。

 と、まあ、我々が本作冒頭で聴いたのは、芸術の自由を謳歌した「創作」講談(或いは、「歴史改竄」)であった訳であるが、筆者にはこの講談、むしろ会津城陥落を思い起こさせていた。

2025年6月10日火曜日

幻の光(日本、1995年作)監督:是枝 裕和

 本作、画面の構図と色彩感覚がいい。画面の構図は、監督・是枝裕和の才能であろう。色彩感覚は、むしろ撮影監督・中堀正夫の持ち味であろうか。

 原作は、神戸出身の作家・宮本輝の1978年発表の同名小説である。筆者は原作を読んでいないので、本作のストーリー(脚本:荻田芳久)が原作のそれとどれほど異なるのか分からないが、関西出身の筆者の友人の言によると、本作の前半のストーリー展開の地は、兵庫県の尼崎ではないかということで、何れにしても、どうも社会の底辺で生きている人間達が住んでいる地区のようである。ウィキペディアによると、実際、原作者・宮本は1957年から小学校時代を尼崎で過ごしており、土地柄は肌身で感じていたはずである。

 そして、本作では、まず、主人公・ゆみ子の少女時代が描かれ、小学生と思しき彼女の体験が語られる。それもあるのか、カメラの視点の高さが、子供の背の高さに近いように思われる。しかも、ここでは、その子供の視点が路地の一方から他方へ抜けるように見ているような画面構成が多用される。この点、筆者には名匠小津の特徴的画面構成を思い出されたが、面白いのは、その路地の出口が、暗い画面の手前に比べて異常に明るのである。正に、トンネルを抜ける所が明るいという、あの「眩しい」感覚である。

 このトンネルの構図は、再婚してゆみ子が能登に住むようになり、ゆみ子の息子が相手方の夫の連れ子の娘と一緒に遊んでいる時にも出てくる。カメラはトンネルの手前に据え置かれたまま、血の繋がらない姉弟は、暗いトンネルの中に入っていく。トンネルの奥は明るく、能登の山野の緑色や黄緑色がこちら側からも見え、その色彩の景色は、トンネルの中にある水溜まりにも反射している。ゆみ子の子供時代の構図とは異なり、ここでは色彩に溢れ、しかも、トンネルの奥の自然の景色の一箇所が光っており、そこからトンネルの中を通って、それがカメラまで届き、更に画面を見る者にもまた射通すようである。これもまた、タイトルの通りの「幻の光」であろうか。

 もう一つ、構図的に印象的な場面は、同じく姉弟が自然の中で遊んでいる場面である。カメラが山地に段々畑状に整地された田圃を撮っている。田圃には既に水が溜められてあり、その水は鏡のように空を静謐に反射している。その田圃の向こう側は、日本海である。この構図の中に、画面の中央を左から右に抜けるように通っているあぜ道があり、ゆみ子の息子がたどたどしくもスキップするようにあぜ道を通って画面の左から入ってくる。その男の子を追いかけるようにして女の子も付いていく。あぜ道の反対側に男の子が転げ落ちるのではないかとハラハラしながら観衆は見守っているのであるが、二人の姉弟は無事に画面の右に抜けていく。是枝監督は、長編劇映画第一作目から、子役を使うのが上手いのである。

 筆者が本作の構図と色彩に圧倒されたのは、本作の終盤の、ある一シーンである。傷心に駆られたゆみ子が外に佇んでいると、ゆみ子が住む村で死者が出たのであろう。その死者を弔う葬列の一行が、小雪が降る中、彼女の近くを通り過ぎてゆく。すると、ゆみ子もその葬列に釣られて、間隔を置いてその後を付いてゆく。時は、既に夕暮れ時であり、空は夕暮れの群青色である。日本海の暗い青色が水平線の所で空の群青色と邂逅する。この大自然の中を葬列の闇が画面の中央の右から左へと水平線に沿うように抜けていくのである。そのうしろを一つの黒い人影が追いながら。壮大な自然の中で人の生の「終着点」を見ながら、ゆみ子は、自らの意識の中で極大化されていた心の傷を相対化できたのであろうか。

 是枝監督は、何故、自分の劇場映画デビュー作に、中堀正夫撮影監督を起用したのであろうか。両者の映画人としての経歴を見ても、その接点が見当たらないのではあるが、ここで中堀撮影監督の経歴を簡単に述べておく。

 中堀撮影監督は、1943年に東京で生まれたキャメラマンである。父の影響を受けて、写真家になるつもりで日本大学藝術学部に入学するが、その在学中に大学の先輩の誘いを受けて、特撮を手掛ける円谷特技プロダクションの現場に参加することになる。大学卒業後は、就職難であったこともあり、『ウルトラマン』の制作準備に関わることとなり、ちょうど人手を求めていた円谷プロダクションへ撮影助手として入社する。こうして、同じく『ウルトラマン』の制作に関わっていた、「奇才」実相寺昭雄と知り合うこととなり、中堀は、実相寺組撮影監督となるのである。テレビ番組演出、テレビ映画監督畑出身の実相寺監督が、長編劇映画第一作目として1970年に世に問うた作品『無常』は、ロカルノ国際映画祭でグランプリを受賞したが、この作品の撮影を共同担当したのは中堀であった。こうして、中堀は、1970年代、80年代のアヴァンギャルド映画作家の一人たる実相寺監督の奇抜な画面構成に耐え得る撮影技術を磨き、実相寺が亡くなるまで、十数本の作品を撮ることになる。本作が制作された1995年の三年前の1992年に、中堀は、江戸川乱歩原作の『屋根裏の散歩者』を
実相寺監督と撮っているが、ウィキペディアの経歴には、彼と是枝の「交差点」は見え出せず、中堀が本作の撮影に関わることになる。そして、本作により、中堀は、ヴェネツィア国際映画祭における特別賞に当たるオゼッラ金賞(Osella d'oro:現在は存在しない賞)の撮影賞を受賞する。

 それでは、是枝裕和監督の映画人としての経歴を見てみよう。1962年に東京で生まれた是枝は、物書きになろうと、早稲田大学第一文学部文芸学科に入学し、ここを卒業する。母親譲りの映画好きから在学中から映画館に足繁く通い、卒論は創作脚本であった。大学卒業後の1987年に番組制作会社テレビマンユニオンに入社し、ここでテレビ番組制作の下積み生活を過ごす。こうして、是枝は、フジテレビのドキュメンタリー番組『NONFIX』(命名は、「ノンフィクション」からではなく、「固定されていない」という意味)で番組を担当するようになり、1991年に『しかし…福祉切り捨ての時代に』を制作する。生活保護を打ち切られた女性と、水俣病和解訴訟で患者と国の板挟みとなったある厚生官僚の、二つの自死をテーマとしたこの番組は早くもギャラクシー賞優秀作品賞を受賞し、是枝は、同じ番組の枠組みで、『もう一つの教育〜伊那小学校春組の記録〜』(1991年)、『公害はどこへ行った…』(1991年)、『日本人になりたかった…』(1992年)、『映画が時代を写す時 侯孝賢とエドワード・ヤン』(1993年)、『彼のいない八月が』(1994年)と立て続けに発表する。

 是枝は、これ以外にも別の放送局の別の番組の枠組みでドキュメンタリー映画を制作するのであるが、テレビマンユニオンに在籍のまま、映画監督してデビューすることを決め、本作を制作することになる。ここで、とりわけ注目したいのは、恐らく是枝がデビュー作品を何にするかを思案していたであろう時期の、本作発表の二年前に出された『映画が時代を写す時 侯孝賢とエドワード・ヤン』である。

 侯孝賢(ホウ・シャオシェン)と楊德昌(エドワード・ヤン)は、台湾ニューシネマの代表的監督の二人である。本作の音楽を担当しているのが、 陳明章と同じく台湾人音楽家であり、是枝自身、家族の縁で台湾とは関係があるのである。是枝の祖父は、奄美生まれで、そこから台湾に渡り、是枝の父はその関係で台湾で生まれている。そう言う背景を是枝が持っている訳で、その彼が、1980年代、90年代の台湾ニューシネマの動向に映画人として興味を持たない方が可笑しい程である。そして、ウィキペディアの日本語版での「台湾ニューシネマ」の特徴を読んでみると、正に、本作を含む是枝監督の映画作りの方針がここにまとめられているように筆者には思われる。それ故、少々長いのであるが、それをここに引用しようと思う:

 「台湾ニューシネマに属する作品群とそれまでの台湾映画とで最も異なる点は、その写実性にある。従来の台湾映画が政治宣伝的色彩国策映画や、現実社会とは遊離したいわゆるヒーローもの中心だったのに比べ、台湾ニューシネマの作品には、台湾人の日常生活や台湾社会が抱える問題などに直接向き合い、それを丹念に追うことを通じて、ときには台湾社会の暗部にまで光をあてるといったような内容の作品が多い。

また、黄春明など、いわゆる郷土作家の文芸作品を積極的に題材に取り上げていること、それまで公共の場での使用が禁じられてきた台湾語などの方言を台詞に使用するなど、画期的な手法を取り入れていることなども大きな特徴である。

その他、ストーリー展開がはっきりしないこと、スローテンポで、抑揚を抑えた展開のものが多いことなども特徴として挙げることができる。」

 という訳で、台湾ニューシネマの特徴を箇条書きにすると、①写実性、②日常性、③社会問題との関り、④郷土性、⑤方言の使用、⑥ストーリー展開の曖昧性、⑦スローテンポの語り の七つの特徴をここで拾い上げることが出来る。そして、面白いことにこのすべての特徴が、少なくとも本作における作品の特質と合致するのではないか。

 写実性は、是枝がドキュメンタリー映画畑出身である点で、その制作態度の前提中の前提と言っていい点であろう。幼馴染同士が結婚して子供をもうけるという日常性は、夫の理由が分からない自殺で以って一挙にドラマ化する。こうして、自殺という社会問題がストーリー展開に関わってくる。しかも、関西弁を話す主人公が後妻に入って、日本海側の能登に行くことで、別の風土の中で、自殺された妻が自分の心の傷を見直すことになる。自然の中で遊ぶ子供達の姿を入れたり、能登の風物詩を描いたりしながら、ゆっくりとストーリーは展開する。しかし、物語りは、主人公ゆみ子が自殺された者の心の痛みにどのような決着を付けたかは観ている者にははっきりと分からないままで、彼女の、義理の父親との何気ない会話で終わる。

 是枝は、本作以降、自作の劇映画には自ら脚本を書く姿勢を貫く。編集も2023年制作の最近作『怪物』以外は、自分で担当している。そして、彼は、長編劇映画第二作目『ワンダフルライフ』(1999年作)で自分の組の撮影監督を見つけたようであった。山崎裕(ゆたか)である。しかし、作品賞、監督賞を数々受賞している是枝作品で、撮影賞(日本アカデミー賞)を獲得することになるのは、本作以来、『万引き家族』(2018年作)と『怪物』(2023年作)の二作を待たなければならない。この二作の撮影監督は、近藤龍人(りゅうと)である。故に、劇場映画デビュー作に、中堀正人を人選したことは、誠にラッキーであったとも言えるのである。

 映像素材は、Fujiフィルムで、自然の風景の撮影に適した素材であり、撮影機材は、Arriflex 535, Zeiss Super Speed Lensesである。さすがは、Zeissレンズで、本作の映像は、誠に鮮やかに撮られている。

2025年5月15日木曜日

あにいもうと(日本、1953年作)監督:成瀬 巳喜男

 DVDのカバーのスチール写真の構図に何故か惹かれて本作を見てしまった。普段着の和服の京マチ子が、身体の左側を下にし、両足を揃えてちょっと折った姿勢で直に畳の上に寝ている。左肘を立て、左手に頭を載せて、京マチ子は横になっているのであるが、その顔はふくれっ面であるようである。そのすぐ後ろには、森雅之が見える。彼は、何か大工職人のような服装で、頭には、よく労働者が被るキャスケット帽(レーニンが好んで被っていたので「レーニン帽」とも、乃至は、中国人民解放軍兵士が被っていたので、「人民帽」とも呼ばれる帽子)を被って、大股を開いてちゃぶ台に腰掛けている。

 この二人が兄・妹なのであるが、実は、このスチール写真のシーンは本作には出てこないので、本作を観おわって、若干、裏切られたような気もしないのではないが、この二人の京・森が、筆者にはミスマッチのキャスティングであったので、余計に残念な感じが強くなったのである。

 まず、本人二人が与える年齢と演技上の年齢が合わないように見える。室生犀星の同名原作によると、兄・伊之助は、28歳で、妹・もんは、23歳であると言う。演じている森は40歳代に、京は、少なくとも30歳代初めに見える。更に、演じている職業柄からして、京はまあまあ納得できても、森に関しては、墓石を彫る石工職人という感じではない。どっかのホワイトカラーの人間が、無理やりブルーカラーの人間をわざと「べらんめえ調」に演じている感じが滲み出てくるからである。

 そして、何よりも、室生犀星の同名原作を読んでいないので、何とも判断が付きかねるのであるが、本作の脚本を書いている女性脚本家水木洋子の手になる脚本における「あにいもうと」の「確執」の度合いに何かすっきりと来ないのである。

 川(ロケ地は多摩川)を越えて東京に働きに出たもんが、いいところの家のある坊ちゃん・大学生(堀越英二)に孕まされて里に戻ってくる。それに対して、父親でもない兄の伊之助が過剰反応する。兄自体、どこかの女給と関係があるようであり、仕事をやらせれば、いい仕事をするタイプの職人であるが、普段からまともに仕事をしているようには見えないタイプなのである。そんな彼が、妊娠して戻ってきた妹に「ふしだら」であるとは言える立場ではない。

 「いもうと」が「女」として戻ってきたことへの心理的屈折が「あに」の方にあるとすれば、親がいない家庭環境とか、親がいても兄・妹を強く結び付ける出来事とかがあったなどの、とりわけ、兄側の心理的な前提条件が本作で描かれていないと説得力がない。それ故、この兄の妹に対する過剰反応が不可解過ぎるのである。

 とは言え、他の配役はよい。伊之助ともんの父親たる赤座(山本礼三郎)は、嘗ては川仕事の人夫頭で鳴らした男ではあったが、今は、コンクリートを使って護岸工事をやる会社に仕事を取られて、近くの飲み屋で嘗てを懐かしんでくだを巻くだけである。であるから、妊娠して戻ってきた娘に説教する意気もなくなっている。ここは、この現代を描いて、それが家族に与える影響を描いて秀逸である成瀬監督の得意技であろう。

 この夫にかしずく妻・りき(浦辺粂子がいつものように好演)は、川沿いの茶店を切り回し、冬はおでんを、夏はかき氷を川沿いを歩く人々に提供し、物の仕入れには、嘗て自分の子供を育てた時に使った乳母車を使用するといった具合である。その、人生の荒波にも何か飄々とそれを受け流す、雑草のような生命力を秘めた、りきの生活力に、尊敬の念さえ起きる存在である。   

 もんとは対照的な、もんの妹のさん(久我美子)は、東京で看護学校に通っており、着実に生活設計を立てて、自分の目的に邁進するタイプの「やり手」である。このもんとさんの二人の姉妹の性格の対照も本作の面白いところである。

 さて、本作の同名原作小説であるが、こちらの方は、室生犀星が1934年に書いて『文芸春秋』に発表したものである。ウィキペディアによると、主人公の赤座もんは、室生犀星の養母・赤井ハツをモデルにしていると言う。筆者には、養母ハツの姿が伊之助の妹もんに投影されていることに、意外感を持つ。投影の対象が、伊之助の母りきではないのである。

 そこで、室生犀星の複雑な父母関係をここで照らし出してみようと思う。

 室生は、1889年に金沢市で生まれた。金沢市内には犀川が流れており、その西側に住んでいたところから、また、国府犀東という漢詩人がおり、それへの対抗心もあってか、「犀西」に、これを更に書き換えて、「犀星」とメルヘンチックにしたと言う。犀星の生まれと生立ちは、ウィキペディアに上手くまとめられているので、それを以下に引用する:

 「加賀藩の足軽頭だった小畠家の小畠弥左衛門吉種と、その女中であるハルの間に私生児として生まれた。生後まもなく、生家近くの雨宝院(真言宗)住職だった室生真乗の内縁の妻、赤井ハツに引き取られ、ハツの私生児として照道の名で戸籍に登録された。住職の室生家に養子として入ったのは7歳のときであり、この時から室生照道を名乗ることになった。」

 つまり、犀星は、女中の私生児として生まれ、すぐに里子に出され、養母・赤井ハツの私生児として育ち、更には七歳の時に、ハツの内縁の夫である寺の住職の養子に入ったという生立ちである。インターネットの「青空文庫」で適切な作品を見つけたので、その一部を更に引用する:

 ...母は小柄なきりっとした、色白なというより幾分蒼白い顔をしていた。私は貰われて行った家の母より、実の母がやはり厳しかったけれど、楽な気がして話されるのであった。
 「お前おとなしくしておいでかね。そんな一日に二度も来ちゃいけませんよ。」
 「だって来たけりゃ仕様がないじゃないの。」
 「二日に一ぺん位におしよ。そうしないとあたしがお前を可愛がりすぎるように思われるし、お前のうちのお母さんにすまないじゃないかね。え。判って――。」
 「そりゃ判っている。じゃ、一日に一ぺんずつ来ちゃ悪いの。」
 「二日に一ぺんよ。」
 私は母とあうごとに、こんな話をしていたが、実家と一町と離れていなかったせいもあるが、約束はいつも破られるのであった...


 生母ハルは、相方が亡くなると、結局、小畠家から追い出され、その行方が分からなくなってしまう。故に、犀星は、母ハルには永遠の憧憬を持ち続けたようである。これに対して、養母の赤井ハツについては、同じ作品『幼年時代』(大正八年:1919年発表)で以下のように犀星は記している:

  ...私は養家へかえると、母がいつも、
「またおっかさんところへ行ったのか。」とたずねるごとに、私はそしらぬ振りをして、
「いえ。表で遊んでいました。」
 母は、私の顔を見詰めていて、私の言ったことが嘘だと言うことを読み分けると、きびしい顔をした。私は私で、知れたということが直覚されると非常な反感的なむらむらした気が起った。そして「どこまでも行かなかったと言わなければならない。」という決心に、しらずしらず体躯が震うのであった。
「だってお前が実家(さと)へ行っていたって、お友達がみなそう言っていましたよ。それにお前は行かないなんて、うそを吐つくもんじゃありませんよ。」
「でも僕は裏町で遊んでいたんです。みんなと遊んでいたんです。」
 私は強情を張った。「誰が言い附けたんだろう。」「もし言い附けたやつが分ったらひどい目に遭わしてやらなければならない。」と思って、あれかこれかと友達を心で物色していた。
「お前が行かないって言うならいいとしてね。お前もすこし考えてごらん。此家(ここんち)へ来たら此処(ここ)の家のものですよ。そんなにしげしげ実家へゆくと世間の人が変に思いますからね。」
 こんどは優しく言った。優しく言われると、あんなに強情を言うんじゃなかったと、すまない気がした。
「え。もう行きません。」
「時時行くならいいけれどね。なるべくは、ちゃんとお家(うち)においでよ。」
「え。」
「これを持っておへやへいらっしゃい。」
 母は私に一と包みの菓子をくれた。私はそれを持って自分と姉との室へ行った。  

 母は叱るときは非常にやかましい人であったが、可愛がるときも可愛がってくれていた。しかし私はなぜだか親しみにくいものが、母と私との言葉と言葉との間に、平常の行為の隅隅に挟まれているような気がするのであった...


 つまり、犀星は、ここで、養母ハツに対して「しっくりこない」心のしこりがあったことを告白している。このことを本作に当てはめると、もんがこの心のしこりを起こさせる存在として、もんに養母ハツを投影したのではないか。そこには、あくまでも憧憬の対象としての生母ハルをもんの母りつに重ねていた心理的機微もあったのではないか。そうして、犀星自身はもんの兄の視点を取って、その自らの心のしこりを、もんの妊娠を契機として、もんの兄・伊之助の心のしこりとして発現させたのではないか。このように、伊之助のもんに対する「過剰反応」が解釈できるかもしれない。何れにしても、犀星の原作『あにいもうと』を筆者は一度読んでみたいと思う。

 原作の雑誌上での発表は1934年で、単行本に所収されたのはその翌年である。36年には、木村荘十二監督下、『兄いもうと』という題名で原作の最初の映画化がなされる。故に、本作は、劇映画化の二回目(53年作)に当たり、監督は、溝口健二とは別の意味での「女性映画」監督である成瀬巳喜男である。尚、二回目の映画化の前年の52年には水谷八重子らが大阪歌舞伎で原作を上演している。

 成瀬は、私見、1951年作の『めし』で、自らの監督としての特長の「方程式」、すなわち、女性を主人公にした現代劇を、原作は女性作家のものとし、その脚本を女性脚本家に書かせて撮るというやり方を確立している。本作では、この「方程式」からは若干外れて、男性の犀星が書いた原作を、女性脚本家水木洋子に脚本化させ、兄と妹とを主人公にしている。但し、もんとさんとの絡み、さんが体現する現代女性としての、より自立的な生活設計への志向を描いているところは、本作がさすがは「女性映画監督」成瀬の手によるものであることを肯けさせてくれる。

2025年5月13日火曜日

めぐりあう時間たち(USA、2002年作)監督:スティーヴン・ダルドリー

 自分の誕生日にあんなバースデー・ケーキを作ってもらってうれしいと思うであろうか:恐らくはチョコレートがたっぷり入った黒に近い焦げ茶色のケーキ、それに、飾りとして円形のケーキの縁取りにホイップ・クリームが載せられてあるのであるが、その色が濃い青色なのである。筆者には合わない色彩感覚である。


 このケーキを幼い息子のリッチーと一緒に作ったのは、1951年のロスアンジェルスに住んでいる中流家庭の主婦Mrs. Brownであった。蜂蜜色のフィルターを掛けて撮られているこの1950年代初頭のUSA社会は、第二次世界大戦が終わって六年が経ち、物質的には恵まれているはずである。第二次世界大戦から復員して再び職に就いたMr. Brownは、恐らく高校時代に知り合ったMrs. Brownに、他の女の子とは異なった雰囲気の彼女に惹かれていて、復員してすぐに求婚したのであろう。息子のリッチーは五歳位の年齢である。そして、Mrs. Brownは、二人目の子供を妊娠中である。つわりが強いのか、やさしい夫Danが仕事で出掛けようとしている時も寝室にいる。どういう訳か手にしている本は、イギリスの女流作家Verginia Woolfの作品『Mrs. Dalloway』で、Mrs. Brownは、この小説の一行目を読み始めた: "Mrs. Dalloway said she would buy the flowers herself."


 こうして、1951年のロスアンジェルスと、1923年の、ロンドン市街から南東に15km程離れた嘗ての宮殿都市リッチモンドとに時間的架け橋が掛けられたのである。1923年のある朝、Verginia Woolfは、目が覚めて思い付いた上述の第一文をペンで書き留めた。こうして書き始められたV. Woolfの新作は1925年に、彼女自身とユダヤ人の夫Leonardが1917年以来経営している出版社「Hogarth Press」から出されることになる。装丁の表紙絵(装画)は、V. Woolfより三歳年上の姉Vanessaが描いており、VerginiaとVanessaが如何に緊密な関係にあったかが想像される。作家Clive Bell(クライヴ・ベル)と結婚したところからBellと名乗るVanessaは、Cliveとの間に、本作にも登場する長男と次男を儲けるが、本作にも登場する娘Angelicaは、Cliveが同性愛関係にあった画家Duncan Grantとの間の子供である。(この点、興味のある方は、「Bloomsberries」と呼ばれた知識人グループのことを調べてみるとよいであろう。)

 小説『Mrs. Dalloway』は、James Joyceジェームズ・ジョイスが『ユリシーズ』(1922年発表)で使った手法、即ち、「意識の流れ」を基底においた叙述法を早速用いた実験小説であり、主人公の51歳のMrs. Dalloway夫人がその日の晩に催す社交会を準備するためにウエストミンスター界隈の花屋に出掛ける、1923年6月のある水曜日の朝からの一日を描くものである。ウエストミンスターにはBig Benがあり、ここから定刻に鐘の音が刻まれていく。(このBig Benが刻む時の鐘の音から、本作の題名「The Hours」が出てくるのであり、V. Woolfも自分の作品をそのように名付けようと思っていた。)

 こうして、Mrs. Dallowayが外界から受ける印象が更に彼女の連想や思い出を呼び起こす。それがまた他の登場人物の意識の流れとも混ざりあっていく。こうして、Mrs. Dallowayの一日が描かれるのである。彼女は、信頼がおけ、社会的にも成功はしているが、知的にはつまらない夫Richardと結婚しており、この日の夜会には、自分に嘗てプロポーズしたことのある、そして、今インドから一時帰国しているPeterも来ることになっていた。(Peterは、映画中のLouisのように、予定の時間より早く夜会に現れる。)そして、嘗て一度熱い接吻を交わしたことがある女友達のSally(映画中に同名の役あり)も今晩来る予定である。

 このMrs. Dallowayの日常の生活に対して、ほぼ並行して別のストーリーの筋が描かれる。第一次世界大戦からの復員兵Smithが、戦争で受けたトラウマを解消できずに、神経症を患っている筋である。1923年6月のある水曜日、とうとうこの神経症に耐えられなくなったSmithは、ある精神病院を訪れるのであるが、即同日、入院しなければならないとされ、それに絶望した彼は病院の窓から身を投げて自殺をする。

 このSmithの運命をMrs. Dallowayの夜会に招かれた精神科医が夜会で話題にすることで、Mrs. Dallowayも知ることになり、こうして、それまで、並行して流れていた二本のストーリーの筋が繋がるという展開で、『Mrs. Dalloway』の物語りは終わるのである。

 さて、Mrs. Dallowayの名前は、Clarissaというが、1951年から半世紀経った2001年のニュー・ヨークで出版社に勤めるClarissa Vaughan(クラリッサ・ヴォーン)は、Sallyという恋人と同棲をしている。テレビ局の仕事か何かで朝帰りしてきたSallyに起こされたClarissaは、自分で花屋に花を買いに行くと言う。と言うのは、この日、自分の嘗ての恋人で詩人のRichard(小説『Mrs. Dalloway』ではMrs. Dallowayの夫の名前)が名のある文学賞を取ったので、自分のアパートで授賞パーティーを催そうというのである。花を買ったついでにエイズにかかっているRichardのロフトに行く。この日の晩にパーティーがあることをRichardに告げて、彼に心の準備をさせるためである。文学者であるRichardには、Clarissaの名前と、夜会ということで、『Mrs. Dalloway』が思い出されたのであろう。早速、Richardは、Clarissaのことを「Mrs. Dalloway」と呼ぶのである。

 こうして、1923年にV. Woolfが描くMrs. Dalloway、1951年のMrs. Brown、そして、2001年のClarissaが、時代と空間を越えて重層的に繋がり、本作のストーリーは展開していく。

 この三層の時代を技巧豊かに組み合わせた、流れるように澱みもなく構築されたストーリー展開の妙は、アカデミー賞ものである。脚本は、イングランド出身の劇作家David Hare(ヘアー)による。彼は、映画『Wetherby(ウェザビ―)』(1985年作)という作品で監督も務め、この作品でベルリン国際映画祭銀熊賞を授賞している。本作では、米・英アカデミー脚本賞でノミネートはされたが、授賞しなかったものの、全米脚本家組合賞を授賞しており、このことは、如何にこの脚本がよいものであるかの証左であろう。

 本作には原作があり、原作がV. Woolfの『Mrs. Dalloway』をどのように使って、ストーリーを構築しているのか、更に、脚本家のHareがその原作を映画にアダプトするためにどのように改変したのかは誠に興味あるところである。原作者Michael Cunningham マイケル・カニングムは、自作の題名を『The Hours』として、V. Woolfが『Mrs. Dalloway』に元々付けようとした題名を採る。そして、その時間層を1923年、1949年、1999年とする。原作の発表が、1998年であるから、ニュー・ヨークでの時間層を一年だけ先送りし、その半世紀前ということで、ロスアンジェルスの時間層が1949年となった訳である。1923年の時間層は移動のさせようがないのは当然である。映画脚本では、今度は本作の上映が2002年であるので、一年だけ早めて2001年とする。何れにしても、そうすることによりニュー・ヨークの時間層は、21世紀のものとなる。その50年前は1951年であり、21世紀において、それを20世紀の半ばの世相と較べてみると、如何に性的志向の問題で21世紀初頭のUSA社会が解放されているかが分かるであろう。(その約四半世紀後の2025年のUSAの状況を鑑みると、USAの現況が政治も含めて如何に後退したものであるかが肯ける。)

 1923年のMrs. Dallowayは、上層階層の婦人であり、少なくとも家事からは自由な存在である。これは、Mrs. Dallowayを描く作者V. Woolfの存在形態とも同様のものである。彼女達は、一般庶民と比較すれば、「恵まれた」存在である。それに対して、1949年乃至は1951年のMrs. Brownは、中流家庭の存在で、主婦として完全に夫に経済的に依存している。とすれば、主婦としてだけの存在に空虚感を感ずる女性にとっての「閉塞感」は、如何ばかりであったか。筆者としては、V. Woolfを演じたニコール・キッドマンよりも、Mrs. Brownを演じたジュリアン・ムーアにアカデミー賞主演女優賞を授与したいところである。そして、Mrs. Brownの隣人として急に彼女を訪れ、自分の子宮腫瘍の悩みを打ち明けるKittyの存在も興味深い。子供を産めなくなることで、自己の妻たる存在意義を否定されるかもしれないと慄くKittyに感情を動かされたMrs. Brownは、自然の成り行きで思わずKittyの唇に自分の唇をやさしく重ねたのであった。しかし、Kittyは、自分の問題にのみ関心が振り向けられているから、Mrs. Brownの口付けが何の意味を持つのか理解できずに、その場を去ってしまう。この何気ない役であるKittyを演じたToni Colletteには注目すべきであろう。尚、「Mrs. Brown」という名前は、V. Woolfが1924年にある文学評論で使った名前であり、彼女によれば、「Mrs. Brown」とは、普通の庶民の女性一般を代表させた名前であると言う。

 最後に、本作の音楽を担当したPhilip Glassである。ユダヤ系アメリカ人の作曲家である彼は、クラシック音楽のみならず映画音楽にも関わっており、本作における、ある程度水量の嵩んだ渓流の流れのような、連続的に動的な背景音楽を作曲している。彼の音楽が、特徴的で印象的であるところから調べてみると、Paul Schraderが監督した『ミシマ:4章からなる伝記』(1984年作)の音楽を担当していた人物である。同じ日本人として興味ある情報であると思う。

2025年5月7日水曜日

源氏九郎颯爽記 秘剣揚羽の蝶(日本、1962年作)監督:伊藤 大輔

 物語りの終盤に入り、刺青者・初音の鼓は追手に追われていることに気付く。そこで、股旅者の姿から着替えて、今度は白色の着流しに身を包んだ侍姿は、逆に追手を待ち、自分の前に宿敵の追手が現れたところで、決め台詞を吐く:


 「故なくして虐げられる者、正しき者、弱き者が、救いを求めて我が名を呼べば、白い揚羽の蝶が羽ばたく。(ここで、懐に入れてあった両手を袖からさっと出し、左手を小刀の柄に、右手を大刀の柄に、両手を交差させて掛け、両刀を一気に抜く。そうして、万歳をするようにして両刀を上段に構えて、つまり、アゲハ蝶が二枚の羽根を上に揚げ揃えたようにして、更に台詞を続ける。)冥途の土産に覚えておけ!姓は源氏、名は、九郎!」

 他者を思う正義のヒーローの存在が未だ信じられていた幸福な時代の作品である。

 原作は、柴田錬三郎が書いた同名の作品である。柴田と言えば、「眠狂四郎」であり、「眠狂四郎」と言えば、「円月殺法」である。大刀で円弧を描き、その間に相手を催眠に掛けて敵役を倒す剣法が「円月殺法」であれば、源義経の末裔・九郎の剣法は、「揚羽の蝶」の二刀流で、上段・中段に構えた大刀・脇差を左右から次々と振り出して、相手を追いつめる「秘剣」である。

 本作の制作の前には、既に1957年、58年に二本撮られており、その時代設定は、1840年代末、1854年開国直後となっている。これに対して、同東映時代劇シリーズ『源氏九郎颯爽記』の第三作目は、時代設定が天保年間後期の1840年頃である。となると、両人とも架空の人物ではあるのであるが、「源氏九郎」も「眠狂四郎」と同じ時期に活躍した二枚目剣士ということになる。

 眠狂四郎がニヒルな美男剣士であるのに対して、源氏九郎は、任侠を知る熱血漢剣士で、その同じ任侠道を知る「遠山の金さん」とは、本作では、意気が通じる「仲」と言えよう。水野忠邦が推し進めた「天保の改革」は、1841年から43年までのことで、眠狂四郎は、その水野と間接的に関りがあり、その施策に影で協力する。現実の遠山金四郎景元(かげもと)も1840年に北町奉行所奉行に任ぜられており(43年までで、45年から52年までは南町奉行所奉行)、その翌年の41年からは「天保の改革」の施策の、江戸での実行者として協力させられることになる。

 ただ、本作に登場する、「淫乱の将軍」とは、第11代将軍家斉であるはずであるが、この将軍は、1841年に死んでおり、この将軍の死により、天保の改革も可能になったのであった。家斉の治世は50年にも及び、この間、少なくとも16人の妻妾を持ち、歴代徳川将軍中最多の53人の子女を儲けたと言う。但し、歴史上の最後の子が生まれたのは、1827年のことである。

 家斉が将軍の座にあった時期は、「化政文化」と言われた江戸文化の二度目の興隆期であったが、それは、寛政の改革を第八代将軍吉宗の曾孫として若い時に経験した家斉がそれで政治嫌いになったことにその一つの遠因であったとも言われる。この政治嫌いの家斉は、「俗物将軍」と渾名されたが、それは、幕政は幕閣に任せ、自分は大奥に入り込んでばかりいたからであると言われる。とすれば、歴代将軍中最多の子女を儲けたというのも頷ける。

 同時に、この家斉の「放任主義」は、幕政の規律が効かなくなることも意味し、とりわけ、本来老中の管轄下にあった御側側用人(おそばそばようにん:上級旗本が就ける側衆の中の筆頭)に権勢を与えることになり、その中でも「御側御用取次」に親任された数名が陰然たる政治力を発揮したと言う。そういう「御側御用取次」の一人に家斉の贔屓でなったのが、水野忠篤(ただあつ)で、彼は、林忠英(ただふさ)、美濃部茂育(もちなる)とともに「天保の三侫人(ねいじん:口先が上手く、媚びへつらう人)」の一人と呼ばれたと言う。この三人は、天保の改革により、処断される。本作に登場する高見沢内匠頭(たくみのかみ:内匠寮の長官で、今で言えば、土木建築局の局長)もこの類の「侫人」である。

 本作の監督は、「時代劇の父」と言われた伊藤大輔で、その監督としての活躍は、無声映画時代の1924年から、白黒のトーキー映画時代を経て、カラー映画の時代の1970年までの長きに亘る。さすがに年季の入った監督であるから、スター/スタジオ・システムながら、映画産業の斜陽の翳りが見えてきた1960年代に入っても自分の脚本で映画が撮れたのである。移動レールに載せたカメラによる撮影はもちろんのこと、映画の冒頭では、宿場町の通りをそぞろ歩いて長唄を聞かせる、悪玉のお仙の後ろを追うカメラが、そぞろ歩きに同じく視点が揺れ動く趣向を見せて中々粋である(撮影は、松井鴻)。そして、夜陰の中を動く御用提灯の集団的動きは、美的・詩的でさえある。

 この夜陰の中を集団で動く御用提灯のモチーフは、実は、伊藤作品の初期から見られるもので、彼の長編劇映画作品として唯一と言っていい程に貴重な無声映画作品『御誂次郎吉格子』(1931年作)でも使われているのである。改めてこの作品の配役を調べてみると、本作に登場する「お仙(長谷川裕見子)」と「喜乃(北沢典子:聾唖者役)」の役名が、こちら作品でも見えるのである。大河内傅次郎が演ずるところの次郎吉に激しい恋慕を抱き、彼のために川に身投げするのが、「おせん」、それに対して、浪人の娘で清純な「お喜乃」に惹かれる次郎吉と、時代劇に人情・恋沙汰の恋愛映画の深みを入れ込んだこの作品の脚本を書いたのは、もちろん、伊藤であった。約30年後に撮った本作に同じ名前が登場することに、伊藤監督の何かの思いを感じる。

2025年4月30日水曜日

沈黙の艦隊(日本、1995/1998年作)監督:高橋 良輔

 「SeaBatシーバット:海の蝙蝠」とは、日米が隠密裏に共同開発した原子力潜水艦のコードネームで、この日本初の原潜の完成後は、この原潜は、名目上はハワイを基地とするUSA第七艦隊所属の艦艇であった。この最新鋭の潜水艦(水中排水量:9000t;全長:120m;最大水中速力:55kt、最大潜行進度1250m;兵装:核武装可能なMk48魚雷及びハープーンUSM計50発)には、米軍のオブザーバーの将校一名が同乗したが、それ以外は、艦長も乗組員・総員76名も手練れの日本人潜水艦乗りである。処女航海が始まるとまもなく、海江田艦長は、世界に対して、自身を元首とし、潜水艦SeaBatを唯一の領域とする独立国家建国を宣言し、SeaBatを「やまと」と名付けた。こうして、「やまと」は、USA第七艦隊(漫画版では通常空母「ミッドウェー」旗艦、OVA版では、原子力空母「エンタープライズ」旗艦)を含め、USA原潜、ロシア原潜などとも戦い、やがて、戦局の天王山とも言える「北極海潜行海戦」が始まる。

 この海戦で「やまと」に対抗するのは、「シーウルフ」級USA原潜である。ウィキペディアによると、漫画版では、「シーウルフ」級とされているが、作画時点では、性能諸元が公表されていなかったことから、原作者かわぐちかいじの想像が多分に入って描かれており、1995年から98年にかけてのアニメ・OVA版では、これが、実在の「シーウルフ」級ではなく、「やまと」と同型となる「シーバット」級同型艦とされた。因みに、現実の「シーウルフ」級原潜の性能を記しておくと、水中排水量:9150t、全長:107m、最大水中速力:35kt、潜行深度:610m、兵装:Mk48魚雷、ハープーンUSM、トマホーク、各種機雷計53発であると言う。

 この「海の蝙蝠」対「海の狼」の戦いでは、「アップトリム90」という、現実にはありえない操艦が出てくるが、それでも、意外な作戦展開が見られ、「やまと」ソナー員対「シーウルフ」ソナー員の対決あり、碁盤上での格闘の如き、後手を予想して先手を打っておく魚雷戦のスリルもあり、さすが当時の先進的なメディアとしてのOVA版の「潜水艦もの」の面白さを実写作品以上に見せてくれる。

 さて、かわぐちかいじの原作漫画の掲載時期は、1988年から1996年のことである。1989年には昭和が終わって、平成が始まり、この同じ年には、ベルリンの壁が「落ちて」、東西冷戦も理念上は終わる。しかし、日本は、1993年頃から約十年間続く、バブル崩壊後の「平成不況」に入る。正にこの時期に、この原作漫画が発表され、日米安保の軍事同盟を含めた日本の安全保障の問題の在り方が問われたと言える。「国連の依頼を受けての」という制約が付くものの、本来国内での防衛任務だけに携わるはずの自衛隊が海外派兵させられる事態がまもなく到来する。

 この時代的背景を頭に入れながら、この原作によるOVAのアニメを改めて観ると、この中で唱えられた考えは部分的には革新的なものもあり、面白い。「世界政府」の発想は、既にSF作品でよく言われていることであり、この点では目新しくはない。また、国連軍の創設は、原作で唱えられた「政軍分離」の考えと通じるものであり、以前からあるものである。しかし、現実の軍事戦略においても核武装された原子力潜水艦の軍事的な意味が高まっていたこの時期に、「政軍分離」の世界的体制の構築と、それを保障するものとしての、SSSS (Silent Security Service from the Sea) 、また、これを経済的に補完するものとしての、「やまと保険」のアイディアは独創的であるとさえ言える。

 「やまと保険」とは、何か、ウィキペディアからその一部を引用すると以下のようなものである:

 「英国大手保険会社『ライズ』を介して日本政府が[原子力潜水艦]やまとに保険をかけ、理念に同意した各国政府を保険の引受人、国連を受取人とする。これにより軍産複合体のように戦争が利益を生む構造ではなく、平和が利益を生む構造へシフトさせ、結果的に軍事バランスとも条約とも無関係に平和関係が成立する、新しい安全保障体制である。国連の沈黙の艦隊実行委員長となった、[民自党のハト派派閥である鏡水会の幹事である]大滝曰く『平和を金で買う』保険であり、彼は世界市民一人一人に1ドルからの株主を募り、配当として世界の核兵器廃絶と軍備永久放棄を目指す株式会社を設立することを提唱した。」

 国連が核武装をした原子力潜水艦部隊を就役させ、「やまと保険」で世界市民一人一人を参与させてその経済的担保とするというのは、喩えそれがマンガチックであっても、アイディアとしてはオリジナルティーがあり、これは、日米間の二国間軍事同盟という枠組みと、核兵器に絡む、現在の日本の状況、即ち、核拡散防止条約には批准していながら、唯一の核被爆国としては核兵器禁止条約には参加していない矛盾した政治状況を越える政治的選択肢になり得る。何れにしても、この原作漫画は、『攻殻機動隊』と並んで、読者の政治的好奇心を十二分に満足されてくれる作品であろう。

2025年4月26日土曜日

バスカヴィル家の犬(イギリス、1959年作)監督:テレンス・フィシャー

 「エロ、グロ、ナンセンス」とは、1930年代の日本における大衆文化の傾向を端的にまとめた表現である。イギリスのB級映画製作会社Hammer Film Productionsによる本作の「嗜好」をこれになぞらえるならば、「エロ、グロ、エレメンタリー」ということになろうか。

 本作の映画素材がTechnicolorであることに若干の驚きを隠せないところであるが、Holmes映画初のカラー作品たる本作の終盤に藤色のロングドレスを着て登場するセシル嬢が、本作の「エロ」の部分を表しているであろうか。少々言い過ぎのところがあるかもしれないが、それでもそう言えるのは、セシル嬢は、初対面のサー・ヘンリー・バスカヴィル準男爵から接吻を自分から奪うからである。Chr. Lee演じるところのサー・ヘンリーは早速セシル嬢に悩殺されてしまう。(準男爵とは、英語でBaronetで、この世襲爵位で最下位の爵位は、Knightより上位で、Baronより下位にあるものである。身分は貴族ではなく平民で、敬称は「サー」である。但し、サー・ヘンリー、乃至サー・ヘンリー・バスカヴィルはありではあるが、姓のみの「サー・バスカヴィル」とは呼称されない身分であると言う。)

 それでは、「グロ」の方であるが、こちらはイギリスの伝統的ゴシック小説の作法に則って、魔の大型ハウンド犬にまつわる伝承が本作の序盤に登場する。このケルベロスの魔犬が夜に目を光らせて、呪われたバスカヴィル家の人間を襲うというのである。

 そして、本作は名探偵Sherlock Holmesホルムズが主役を演じる探偵映画であるから、当然に「elementary」ということになろう。「ナンセンス」よりは、合理的推理能力が基本であるからである。因みに、よく言われて名台詞になっている「Elementary, my dear Watson.」は、あるサイトによると、Conan Doyleコウナン=ドイル氏の作品に一度も登場したことがないそうである。

 何れにしても本作は、ゴシック・ホラー的おどろおどろしい雰囲気を未だ漂わせる19世紀末イングランドを背景として、犯人捜しの醍醐味は余りないのでこれは無理として、Hammer Film Productionsの大スターPeter Cushingが演じるところのSherlock Holmesなる人物の、殆んど「超人」の如き性格的特異性を「愉しむ」べき作品であると筆者は言いたい。

 さて、イギリスのハマー・フィルム・プロダクションズは、その元々の設立は、1934年であったが、一時期の中断などがあり、戦後の1949年に再創立された。1955年に発表したSFホラー映画『原子人間』を世界的にヒットさせると、「Hammer Horror」のブランドが生まれた。この成功を見て、1930年代から1940年代にかけて怪奇映画のブームを作ったUSAのユニバーサル映画社がその再来を期待して、古典派ホラー映画のリメイクをHammer Filmの方に打診したのである。こうした経緯もあって、Hammer Filmは、1957年にワーナー・ブラザースからの出資を受けて、ユニバーサル・ホラーの代表作とも言われる『フランケンシュタイン』(1931年作)のカラー版リメイクを撮る。これが、『フランケンシュタインの逆襲』(1957年作)であった。この作品の監督が、Terence Fisherテレンス・フィッシャーで、フランケンシュタイン男爵役にはPeter Cushing、そして、人造モンスター役にChr. Leeが起用された。このカラー・リメイク版は、その残酷性とグロテスク性で、試写会では懸念が表明されたのであるが、公開されると、一挙に世界的なヒットを記録する。この好結果を受けて、Hammer Filmは続けて、ユニバーサル・ホラーの第一作目であった『魔人ドラキュラ』(1931年作)のリメイクとして、『吸血鬼ドラキュラ』(1958年作)を撮る。これも大ヒットとなり、この二作の成功により、Hammer Filmはホラー映画製作会社として約10年間、世界の映画界に君臨することになる。そのHammer Horror映画が、1959年にFisher, Cushing, Leeの「黄金トリオ」で撮った作品が、本作である。

 元々はテレビ映画畑のPeter Cushingは、上述の『フランケンシュタインの逆襲』で狂気の科学者フランケンシュタイン男爵を演じて、映画界のスターとなり、『吸血鬼ドラキュラ』では、「正義の吸血鬼ハンター」・ヴァン・ヘルシングを演じており、二作とも、狂気であるかは別として、何かについて専門的知識を持った人間を体現している。その意味で、本作での役Sherlock Holmesも、犯罪に関しての専門的知識を持っており、前二作と同系統の人間像を体現していると言えるであろう。この専門性に、Holmesの場合、更に、鋭い観察力、鋭利な分析力、そして、透徹した推理力が加わる。そして、これらの性格を、Peter Cushingの鷲を思わせる鋭い眼光と尖った鼻先がよく形象している。この意味で、この配役は、正にキャスティングの勝利であると言える。因みに、Holmesのトレード・マークとも言える、1.鹿撃ち帽(deerstalker hat:頭の上にあるリボンを外すと、両耳を覆うことが出来、また、前と後ろの庇があるので、キャップではなく、ハット )、2.インヴァ―ネス・コート(Inverness coat:ケープ付きの丈の長いスコットランド風コート)、そして、3.Calabash Pipe(瓢箪から作ったパイプで、柄から吸い口の部分が強く曲がっている形のベント・タイプのパイプ)も、イングランド人俳優Peter Cushingによく似合う。

 1859年にスコットランドで生まれ、自身をむしろ歴史小説家と自認していたArthur Conan Doyleは、医業の傍ら、小説を書いていた。こうして、彼はある時Sherlock Holmesなる人物を主役とする探偵小説を書き上げる。その第一作目が『緋色の研究』(1887年発表)という二部に分れた長編小説である。第一部では、医師Watsonが探偵Sherlock Holmesと知り合う経過とロンドンで起こった事件が描かれ、第二部では、その事件が起こった遠因がUSAにあることが語られるという趣向である。Conan Doyleは、この三年後、Sherlock Holmesシリーズの第二作目の長編『四つの署名』を発表する。この作品も二部構成で、第一部では、大英帝国陸軍大尉の娘メアリー・モースタン嬢の登場とロンドンでのある殺人事件が、第二部では、その殺人事件の遠因となる、インドでの大英帝国派遣軍での出来事が語られる。(話しの終わりには、めでたく美貌のモースタン嬢とDr.ワトスンが結ばれる。)

 以上の二冊は余り評判にもならず、Conan Doyleは、1890年にベルリンでの医学会議に参加したりしたが、1891年には何を思ったか、資格もないのに眼科医としてロンドンで開業をし始める。しかし、資格がないのであるから、患者が彼の診療所に来るわけもなく、暇に暇を重ねている内に、ある月刊誌のために、Sherlock Holmesを主人公とした連載短編小説を書くことにする。これが意外にも当たって大人気となり、歴史小説家としてのConan Doyleは困惑するものの、結局は、12編を書く次第となる。これが、短編集『シャーロック・ホームズの冒険』として1892年に単行本として発刊される。更に、二年後には第二の短編集『シャーロック・ホームズの回想』(1894年発表)が出されるが、本来、歴史小説家して自負しているConan Doyleとしては、シャーロック・ホームズの人気は自分の意とするところではなかったので、彼は、1893年12月号の短編『最後の事件』でシャーロック・ホームズが格闘の末、滝つぼに落ちて亡くなったことにしてしまったのである。

 1894年以降は、再び歴史小説家として、ナポレオン戦争時代をテーマとした『ジェラール准将』を書き、それなりの販売数には達したものの、『シャーロック・ホームズ』ものの人気には及ばず、時代は世紀末を迎える。それは、国際政治的には、1899年に勃発した「ボーア戦争」を意味し、この植民地主義戦争は、大英帝国の威信に関わるものとなった。なぜなら、この戦争において、歴史上初めて、大国による戦争犯罪が問題視されたからである。ウィキペディアに挙げられている箇所をここに引用しておく:
 「...ボーア戦争はゲリラ戦争と化していた。民家がゲリラの活動拠点になっていると見たイギリス軍は焦土作戦を実施した...1900年9月には、ゲリラが攻撃してきた地点から16キロ四方の村は焼き払ってよいとの方針が定められている...イギリス軍の焦土作戦で焼け出されたボーア人の多くは強制収容所に送られたが、そこの環境は劣悪であり、2万人以上の人々が命を落としていった...」

 「焦土作戦」は、独ソ戦におけるソ連軍側の作戦でもあったとしても、「強制収容所」はナチス・ドイツの政策であり、これと同じことを世紀末前後の大英帝国軍を行なっていたことは、強く記憶に留めたいところであるが、このような状況に対しての、Conan Doyleの、1902年3月の『ボーア戦争における原因と行ない』での反論も興味深い:

 「イギリス軍が民間人の家を焼くのは、そこがゲリラの拠点となった場合のみ(であり、)責任は最初にゲリラ戦法を行った側(ボーア人)にある。...(さらに、強制収容所については)焼け出された婦女子を保護するのは文明国イギリスの義務である。収容所内では食糧もしっかり出されている。それにもかかわらず収容者の死亡率が高いのは病気のせいだが、イギリス軍内でも病死者が続出しており、差別的な取り扱いではない。...(また、イギリス軍人によるボーア人婦女子強姦については)いかなる戦争でも女性は既婚・未婚問わず憎悪に晒される。避けられないことだ...」と大英帝国を擁護したのである。

 この帝国主義戦争擁護の小冊子は、イギリスで大きな反響を呼ぶこととなり、その「愛国主義的な」活動に対して、Conan Doyleは、1902年10月に国王エドワードVII世より、Knight Bachelorに叙されたのであった。

 この間、ボーア戦争に志願したのにもかかわらず、年齢を理由に軍隊には入れず、仕方がないので、自由意志で戦地医療奉仕団の一員として志願して、Conan Doyleは、1900年3月に他の医師と共に軍医として戦地に赴く。約四ヶ月で帰国し、『大ボーア戦争』を執筆し、10月には総選挙に戦争支持派で出馬し、落選する。

 こういう政治的な動きのある時期に、1901年3月、Conan Doyleは、戦地で罹った腸チフスの後遺症に悩まされていたことから、ノーフォーク州に行って、療養していたのであるが、その時に、ボーア戦争で知り合ったジャーナリストの知人バートラム・F.ロビンソンと再会し、彼から、彼の出身地Dartmoorで言い伝えられている「黒い魔犬」についての伝説を聞いたのである。Dartmoorは、ロンドンより西に行き、その最西端にあるCornwoll半島の中央部にあるCounty(州)である。

 この伝承に着想に得て書き上げたのが本作と同名の原作である。この原作の執筆の際には、Conan Doyleは、Dartmoorに調査に行っていると言う。Dartmoorとは、泥炭の厚い層に覆われた原野や、底なし沼ともなる湿地(Moorムーア)からなる、平均標高約520mの高地で、ヒツジや子馬の放牧の他、花崗岩や陶土の採掘が行なわれた地域である。このDartmoorの中央にはPrincetownプリンスタウンがあり、ここには、1806年には、対仏戦争の絡みで、この地に刑務所が建設され、ナポレオン戦争の際のフランス人捕虜をここに収容したと言う。本作でも、ある刑務所を脱走した「凶悪犯」のプロットが出てくるが、これは、この刑務所のことを言っているのである。Conan Doyleの現地調査が原作のプロット展開に上手く働いた結果である。

 こうして、Sherlock Holmesシリーズの長編第三作目『バスカヴィル家の魔犬』が20世紀に入った初年の1901年に発刊されたのである。一度死なせたことになっていたSherlock Holmesは、生き返させるわけにはいかないので、事件が起こった年をその死の以前とし、それを以って、Sherlock Holmesは、問題なく再び、活躍することが出来たという訳である。

2025年4月20日日曜日

壮烈第六軍!:最後の戦線(西ドイツ、1959年作)監督:フランク・ヴィスバール

 1950年代に入ると、ドイツ連邦共和国(西ドイツ)でも第二次世界大戦をテーマとした戦争映画が撮られるようになるが、一部には、戦時中のナチスドイツ国防軍の戦いぶりをあたかも正当化しようとするような描き方がないでもなかった。そのよい例が、『激戦モンテカシノ』(ドイツ語原題:「モンテカシノの緑色の悪魔」;Harald Reinlハラルト・ラインル監督、1958年制作)であろう。イタリアのモンテカシノ僧院に疎開してあった多数の美術品を、USA軍の攻撃の前に救うために努力するドイツ国防軍の将校・兵隊の姿が描かれる。モンテカシノ山はドイツ国防軍第1落下傘兵師団が守備をしている陣地であり、落下傘兵の兵科の色は緑色であった。そこからこの「緑の悪魔」という異名が付いた訳である。

 この時期には、未だ、「清潔な」国防軍というイメージは生きており、このような作品が、確かに一部は歴史的事実に基づくストーリーでもあることから、制作することが可能であった。しかし、この「清潔な」国防軍のイメージは、遅くとも1990年代には崩れる。第二次世界大戦中の歴史を検証する90年代の作業の中で、ドイツ国防軍も、ナチス党とその下部組織、例えば親衛隊などと同様に、とりわけ東部戦線においては組織的に戦争犯罪を行なっていたことが判明したからである。

 このような1950年代の西ドイツの戦争映画と比較すると、本作ははっきりと戦争指導部を批判しており、その意味で、本作が反戦映画であると考えてよいであろう。そして、このような明確な反戦映画が撮り得たのは、一重に監督Frank Wisbarの意志によるところが大きい。プロイセン王国の幼年学校を出ている彼は、軍隊が何たるところであるかは肌身に感じていたはずである。その彼が、やはり、映画畑に進出し、ナチスの文化担当者と映画制作の方針で対立したこと、そして、自分の妻が非アーリア人であったことから、1938年11月の反ユダヤ主義のポグローム「水晶の夜」を以って、妻とUSAに亡命したことは、彼の政治的潔癖性を証左する証拠であったと言える。

 そのFrank Wisbarが50年代の半ばに映画制作の成功者としてUSAから西ドイツに戻ってきたことは、ドイツの映画産業界での彼の活動に有利に働いたことは確かであろう。こうして、彼は、言わば「戦争もの」四本を撮り始める。その最初が、本作の前年の58年に発表した『サメと小魚』というU-ボート映画であった。そして、1960年には四作目に当たる『将校達の工場』を発表している。この四作目の映画は、自分の幼年学校時代の経験を生かした、ナチス時代の士官学校をテーマとした作品であった。

 本作の原作となるFrank Wössフランク・ヴェスの『Hunde, wollt ihr ewig leben』が発表されたのが、1957年である。この原作が出て、恐らくFrank Wisbarは、早速映画化の権利を交渉したであろうが、それは、自作の『サメと小魚』の制作の構想を練っていた時期か、或いは、その撮影に取り掛かっていた時期であった。そして、ウィキペディアのよると、本作の脚本作成には二年が掛かっているということであり、Frank Wisbarは、脚本共同作成者Frank Dimen (フランク・ディーメン)とHeinz Schröter (ハインツ・シュレーター)と綿密にスタリーングラード攻防戦を調べ上げたと言う。尚、H.シュレーターも本作の原案となる『スタリーングラードからの最後の命令』を書いていると言う。

 可能な限り史実に基づいて本作を撮りたいという、三人の脚本作成者の願いは、まずは、戦時中に映画館で上映された週間時事ニュースを出来るだけ使おうというところに現れていると言える。ストーリー展開に合うような場面を探し出すのは、大変な作業であったろうことは想像に難くないが、探し出したそれらの場面を細かくつなぎ合せた、女性編集担当のMartha Dübberマルタ・デュバー女史の並々ならぬ苦労も如何ばかりであったかと思われる。

 この現実味を出そうというFrank Wisbarの「情熱」は、スタリーングラード市の建物の地下に置かれたドイツ国防軍の野戦病院のシーンにも現れている。21世紀の現代では考えられないであろうが、このシーンは全員傷痍軍人に出演してもらっていると言う。戦後も未だ15年も経過していない時期であり、この時期には未だ多数の傷痍軍人が生存していたはずである。日本でも1960年代初めまでは、傷痍軍人の方の姿が街角に見られたことを考えあわせれば、そうであろうかと納得できよう。

 また、本作が劇映画であることの印象を少なくしようと、タイトル・ロールやエンディング・ロールも意図してカットしてある。故に、本作上映当時には、スタッフ、キャスティングの名前を書いたチラシを上映後に観客に配布したと言う。

 本作後半のスタリーングラードでの市街戦を描く場面は、観ていて、本物の廃墟を使って撮影したのではないかを思わせる迫真性があるが、これは、西ドイツ中西部にある大学町Göttingenゲッティンゲにあったスタジオ敷地内に作ったセットであり、市街戦の撮影場面では実弾が使用されたと言う。この迫真性のあるセット作成に対して、美術担当のWalter Haag(ヴァルター・ハーク)、映画建築担当のWilhelm Vierhaus(ヴィルヘルム・フィーアハウス)、Hans Kunzner(ハンス・クンツナー)は、1959年度ドイツ映画賞において、美術・映画建築賞を授賞している。

2025年4月13日日曜日

軍法会議(USA、1955年作)監督:オットー・プレミンジャー

 ポスターに軍服を着たG.クーパーが見えるので、本作は戦争映画ではないかと思ったら、それは間違いである。本作の題名『軍法会議』(原題:The Court-Martial of Billy Mitchell)が正しくも暗示するように、本作は、法廷劇である。そして、本作は、法廷劇を描くことで、「Air Forceアメリカ空軍の父」と言われるBilly Mitchellの人柄とそのヴィジョンが如何に正しかったかを明らかにする作品である。

 どの程度かは知る由もないが、ある程度は(Mitchellのことをウィキペディアで読んでみると、「可成り」)理想化されているB. Mitchell像を、善良な優等生ながら、内には人間的威厳を秘めた人間を演じさせるには持って来いの役者G.クーパーが体現している。しかも、本作では、Mitchellが自分の持ったヴィジョンに対して如何に確信的であったか、そして、彼がその確信に対して如何に堅固であったかという本人の性格性が加味されている。

 このヴィジョンと信念の人Billy Mitchellを「審問」するのが、ロッド・スタイガーが名演している辣腕の軍事法律家Guillionギヨン少佐で、彼が、その巧妙な論述で、軍律を破り、(上官に対する)軍人的忠誠心に欠けたと言うMitchellの「罪」を暴きだすのである。愛国に基づく自己の信念と、それに対立する軍人的忠誠心を巡るこの論争場面こそが本作のクライマックスである。論戦の醍醐味という点で、本作は、法廷劇の、知的であるが、スリリングな展開を満喫させてくれる。

 監督は、Otto Premingerオットー・プレミンガーで、本作が撮られた前年の54年には『帰らざる河』(M.モンロー主演のウェスタン)を制作している。画面比率2.55:1のCinemaScopeで撮られた本作の撮影素材は、「WarnerColor」と聞き慣れない素材であるが、調べてみると、元はEastman Colorで、映画会社Warnerがこれを使ったことで、「WarnerColor」と呼称しただけのことであると言う。本作と同様に55年に制作された『エデンの東』(エリア・カザン監督)の映像素材もWarnerColorであり、こちらは、Eastman Colorらしく冴えた色調であるのに対して、本作での色調は、何かくすんだものであり、歴史的出来事を回顧して述べる本作のスタンスには合っている色調に思える。

 さて、この軍人的忠誠心の立場から、Mitchellを厳しく「異端審問」するギオン少佐の、暗示される「狂信性」がこの場面では気になるところであるが、ウィキペディアによると、ノンクレジットではあるが、マッカーシズムで迫害された、いわゆる「ハリウッド・テン」の一人であるダルトン・トランボが脚本作成に加わっており、この点を鑑みると、本作での軍人的忠誠心を「体制への忠誠心」と読み替えることも出来るのではないか。アメリカ映画界の「反逆児」と言われたOtto Preminger(オーストリア=ハンガリー二重帝国領内にあった、現ウクライナ領のウィシュニジャで生まれたユダヤ系オーストリア人で、1935年にナチス台頭によりUSAの移住)が本作の監督を務めており、筆者の類推はさもありなんと思われないでもない。尚、主役を務めたG.クーパーは、R.レーガン同様、マッカーシズムには協力的であったと言う。そうであれば、この配役は、政治的な皮肉とも言える。

 それでは、本作の問題の人Billy Mitchellのことをここで述べておこう。

 William Lendrum Mitchell(Billyは綽名)は、1879年12月にフランスはニースで生まれた。何故ニ―スなのかは筆者には不明であるが、恐らくUSAの民主党の政治家であった父親が母親といっしょにニースに滞在していたからであろう。ウィスコンシン州で育ち、ワシントンD.C.で大学での勉学を始めたものの、自身を1897年にUS陸軍二等兵として名簿登録させ、1898年に勃発した米西戦争に参加するために大学を18歳で一時中退する。同年5月に、第1ウィスコンシン歩兵連隊M中隊に入隊し、Mitchellは、それを受けてすぐに当時准将であったArthur MacArthur(その息子のDouglasダグラスは、あの日本占領軍最高指揮官となる人物で、本作にも軍法会議判事の一人として登場)配下の部隊に配属され、フィリピン諸島に送られる。米西戦争の絡みでUSAは、スペインの植民地であったフィリピン諸島も占領することになるが、ここでは1899年からは1902年まで続く米比戦争(のちのベトナム戦争に比肩する)に展開することになり、彼は、この戦争にもルソン島で参加する。映画でも描かれる通り、ここでマラリア病に罹患したようである。

 父親のコネで早期に将校になると、US通信部隊に転属され、1900年から04年まで、アラスカで勤務する。また、1908年に飛行機の飛行ショウを見学したことを受けて、早速ヴァージニア州にある飛行学校で授業を受ける。こうして、彼の飛行機乗りとしての経歴が始まる。

 1912年に陸軍参謀本部に通信部隊の将校(大尉か?)として32歳で召喚され、21名中の参謀本部将校の内で、最年少の将校となる。16年5月に通信部隊所属の航空隊の臨時指揮官となるも、指揮官たらざる不品行の故、その役職から外される。しかし、その二ヶ月後には、少佐に昇進し、飛行士としての不断の研鑽を買われて、US第1軍飛行部チーフに命ぜられる。

 既に14年8月に第一次世界大戦が勃発していたが、その第一次世界大戦にUSAも17年4月に参戦すると、Mitchellは、スペインからパリに入り、そこでUS航空部の事務所を開設する。そして、英仏の空軍部隊の司令官と連絡を取り合いながら、飛行機の性能や空戦戦術を研究する。まもなく、アメリカ軍独自の航空作戦を実施するようになり、Mitchellは、大胆で奇抜な作戦をやり抜く航空部隊司令官の名声を得る。同年5月に中佐に、更に同年10月には暫定的に大佐に昇進する。

 フランス東部St. Mihiel(サン・ミイエール)での戦いは18年9月に行なわれたが、この戦いでMitchellは、他の連合国の空軍部隊も傘下に入れて、合計1481機の飛行機を駆った大作戦を指揮した。これは、約700機の戦闘機、約370機の偵察機、約320機の昼間爆撃機、約90機の夜間爆撃機を投入した、第一次世界大戦で最大の航空作戦であった。この作戦により制空権の確保が如何に重要なものであるかが明らかにされたのであり、これが、Mitchellのその後の言動の基底となった認識であったと思われる。

 こうして、Mitchellは、暫定的に准将の階級を与えられ、フランス内に駐屯しているすべてのUS航空部隊の指揮権を保持した。大戦が終わった時には、Mitchellは、外国のものを含む幾つもの勲章を授与され、航空作戦の第一人者と褒め讃えられたが、上官に対する不遜な態度は彼に対する不評となっており、これは、本作でのストーリー展開の理由を頷けさせる。

 19年1月にMitchellがUSAに「凱旋」すると、彼がUS航空部隊の司令官となるものと航空部隊員から期待が寄せられていたのに反して、本作にも登場するPershing陸軍将軍は、ある砲兵将校を航空部隊の指揮官とする。その翌月末、Mitchellは、軍事航法部長に任命される。しかし、これは戦時部署であり、平和条約が結ばれた後は、半年のみ置かれるべき部署であった。故に、この年4月には軍事航法部は解体され、Mitchellは、Air Service部の部長付き事務局の第三位の部長代理に命ぜられ、20年6月以降は、それまで保持していた暫定的な准将階級から降格されて、元の通信部隊付き中佐となった。この降格は、USAの軍隊によくあることではあったが、このことがMitchellにとっては自分が正当に評価されていないという不満につながったことは容易に想像できる。

 その同じ月の20年6月、USA議会では陸軍再編成案が決まり、これにより、航空部隊は、歩兵、砲兵の次に第三に重要な戦闘部隊として認められた。その翌月、Mitchellは、正規軍通信部隊付きの大佐に昇進し、同月、Air Serviceのアシスタント・チーフに任命され、准将級扱いとされた。まもなく、通信部隊のみではなくすべての陸軍の航空部隊の大佐となり、21年3月にUS陸軍Air Serviceのアシスタント・チーフに任命された後、翌月、正式に准将の階級を得た。この時期、Mitchellは、民間用並びに軍事用航空技術の開発にも力を入れ、雪上着陸装置、爆撃用照準器、航空魚雷などを考案する。

 さて、Mitchellの空軍独立論は、取りようによっては、海軍廃止論にもなりかねない激烈さを含んでいたことから、海軍は、陸軍航空部隊のMitchellに対して否定的な立場に立っていた。ある海軍会議の席上、飛行機による爆撃により戦艦を沈めてみせるとMitchellが豪語したことから、Mitchellを牽制するために、海軍側は、独自の海軍飛行部隊を使って、お払い箱となっていた戦艦Indianaを20年11月に航空攻撃で沈める実験を実施した。確かに戦艦Indianaは沈んだのであるが、実は、戦艦に仕掛けてあった爆薬が爆発して艦は沈んだのであり、飛行機から落とされた爆弾は、砂を詰めた見せかけの爆弾であったことが、ある新聞にすっぱ抜かれた。

 これで海軍の面目は丸つぶれになり、海軍側は渋々認めざるを得なくなって、Mitchellが望む実験が実施されることになった。これが、本作の当初に描かれる戦艦空爆のシークエンスである。陸軍側も裏でMitchellの左遷を謀ったのであるが、軍事省大臣が一般の関心がこの件に関した高かったことから実験実施に動き、こうして、陸・海軍双方が没収されたドイツの艦船を使って行なう実験「プロジェクトB」が実施されることになった。

 US陸軍Air Serviceのアシスタント・チーフに任命され、正式に准将の階級を得たその翌月の21年5月に、Mitchelは、飛行機125機、隊員1000名の、第1暫定航空旅団を編成し、対艦空爆の訓練に入った。同年6月と7月に、Mitchellの飛行部隊は、海軍上層部側からの色々な制約を掛けられながらも、海軍航空部隊と共に、ドイツの駆逐艦G102と小型巡洋艦Frankfurtを沈めた。使用された爆撃機は、双発のMartin MB-1機であった。

 同年7月20日朝は、今度はドイツの戦艦Ostfrieslandを使っての実験である。小型爆弾による空爆で、Ostfrieslandは多少の損傷を受けただけであった。海軍側の制約で、攻撃毎に調査班が損傷の具合を調査する。海が荒れて、調査班がOstfrieslandに中々乗船できなかったことから、Mitchellの部隊は50分近くも上空で待機せざるを得ず、大型爆弾はこの日は落とせないままであった。翌日は、500kg爆弾が投下され、三発がOstfrieslandに命中した。調査のため一旦攻撃を中止し、昼に空爆は再開された。イギリス軍が使用した双発爆撃機Handley Page Type O二機とMartin MB-1爆撃機六機が、今度は910kg爆弾を落とした。爆弾六発が間を置かずに、作戦予定通り、戦艦の近くに落ちて、戦艦の脇腹を破壊した。Ostfrieslandは、一発目が落ちて、22分後の12時40分に沈没した。これを、USS Henderson号に招待されていた外国の武官はつぶさに観察したと言われているが、本作の映画でも、外国武官の中で背の低い、日本人の海軍武官と思われる人間が船上にいるのが描かれている。実験は、その後も間を開けて、21年9月から23年9月まで行なわれ、この時にはUSS戦艦Alabama、Virginia、New Jerseyが沈めれら、2000kg爆弾が一部使用された。

 海軍の威信を揺るがし、Mitchellの意見の正当性を確証したこの実験は、21年11月から22年2月まで太平洋地域における海軍軍縮を目的として開催されたワシントン会議が開催されている時期に実施されたのであり、このことは、軍事的、政治的意味を以った出来事であったと言える。

 しかし、実験によってMitchellの意見の正当性が証明されたにも関わらず、陸軍Air Service内のMitchellと上司の対立は覆うべくもなくなり、結局、Mitchellは、煙たがられて、22年と24年に二回に亘り、ヨーロッパ、アジア、ハワイ地域に視察旅行に出される。

 22年の視察では、Mitchellは、イタリア軍人で、空軍の独立を論じる空戦理論家Giulio Douhetと知り合い、大いに意気投合したようである。Giulio Douhetは、その前年に『Il domino dell'aria』(空の支配)という著書を出しており、Mitchellは、これを部分的に英訳して、それを自分の部隊内に回覧させたようである。(第一次世界大戦中、Giulio Douhetは、持論を説いて、厳しくイタリアの戦争指導部を非難したことから、軍法会議に掛けられて一時的に軍の監獄に入れられた。これは、自説を説いたことで軍法会議に掛けられたMitchellと同様の運命であった。)

 また、24年の視察後には、Mitchellは、324頁に及ぶ報告書を提出しており、その中で、日本こそが太平洋地域において対米の敵国となり、ハワイ島は日本の航空部隊に攻撃されであろうことを予見した。しかも、それが「ある晴れた日曜日の朝」というところまで的中していたが、戦艦無用論を唱えるMitchellは、空母の役割を過小評価していたところがあり、ハワイに飛んでくる日本の爆撃機は、太平洋のどこかの島から飛んできた長距離爆撃機であろうと、Mitchellは推測していた。彼の報告書は、翌年の25年には本として出版され、その題名は『Winged Defense』(翼を持った防衛)であった。この本の売れ行きは、4500冊程で、余り大きな反響は呼ばなかったと言われている。

 丁度この時期、Mitchellは、US下院のある委員会に呼ばれた。と言うのは、軍事省が、陸・海軍関係の飛行部隊の予算を合わせて、Air Service部門を拡大的に改革し、General Headquarters Air Force空軍総司令部を創設することを提案していたからである。これに対して、海軍は反対しており、これに怒ったMitchellは、このUS下院の委員会で、痛烈に陸・海軍上層部を批判したのであった。

 そのような中、25年3月にMitchellのAir ServiceでのAssistant Chiefの職が期限切れになったのをこれ幸いと、彼は大佐の階級に引き戻され、更には、第8軍管区にあるSan Antonioの航空部隊付き将校に移動させられた。あり得る降格ではあったが、軍事省と陸軍上層部が彼を左遷した処置として十二分に解釈できる部署移動であった。

 こうして、25年9月に本作でも描かれる飛行船USSシェナンドー号の遭難事故が、更に、水上機三機が西海岸からハワイに向かう途中に遭難した事件が起きたことから、Mitchellは、これに関して例外的な声明を発表し、「国家防衛におけるほとんど反逆罪的軍事行政」として、陸・海軍上層部の無能ぶりを糾弾した。同年11月、大統領命によりMitchellに対する軍法会議が行なわれる。映画とは異なり、裁判長はCharles P. Summerall将軍であった。裁判は、七週間開廷され、同年12月17日に「有罪」の判決が出され、Mitchellは、翌年の26年2月1日付けを以って陸軍から除隊となった。

 Mitchellは、除隊後は、1928年に『第一次世界大戦の回想』を、1930年に『航空路』を発表して、引退先のヴァージニア州で著述生活を送ったが、1936年2月19日、ニューヨーク市の病院で心臓病が原因で他界した。享年56歳であった。

 仮に彼が長生きをして、1941年12月7日(日本時間8日)に、彼が予言した真珠湾奇襲攻撃が実際に起こったことを知ったら、彼は何と言ったことであろうか。彼が念願したAir Forceは、第二次世界大戦後の1947年に創立された。

2025年4月6日日曜日

ベルリン物語(西ドイツ、1948年作)監督:ロベルト A. シュテムレ

 本作の脚本を書いているGünter Neumannギュンター・ノイマンは、1913年にベルリンで生まれた。彼は、ギムナジウム卒業後、音楽大学で勉学するが、1929年以降、Kabarett der Komikerカバレット デア コーミカーという小芸術劇場で、「鍵盤上のコメディアン」として活動する。W. Finckらが29年に創設した「Die Katakombe」でもG. Neumannは中心的な役割を演じ、上演演目の設定役を勤める。ナチス政権の抑圧により「Katakombe」が上演活動が出来なくなると、G. Neumannは、再び、Kabarett der Komikerに戻り、そこでレヴュー演目を上演する。第二次世界大戦が始まると、前線慰問活動を行なったり、連合軍の捕虜になると、収容所劇団を結成したりした。

 終戦と伴に、G. Neumannはベルリンに戻ってくるが、当地で早速、小芸術劇場の演目の作家として活動し始め、レヴュー作品『すべてが演技』(47年作)と『Schwarzer Jahrmarkt闇の歳の市』(48年作)で当たり作を書く。この『闇の歳の市』が本作の原作になっている。

 本作にもプロットとして一時出てくる「ベルリン封鎖」の時期(48年から49年に掛けて)には、G. Neumannは、西ベルリンで風刺雑誌『Insulaner島国の住人』を編纂し、これを受けて、ラジオ放送番組「Die Insulaner」を制作し、これが、RIAS(リアス:Rundfunk im amerikanischen Sektorアメリカ・セクターの放送局)の大好評人気番組となる。「島国」とは、ソ連軍管理下にある東ベルリンと東部ドイツに囲まれた「陸の孤島」のような西ベルリンのことを指しており、そのような西ベルリン市民の日常を東西冷戦の枠組みの文脈の中で面白可笑しく描いたものであった。G. Neumannは、本作の脚本を書く前には、既にナチス政権時代の1939年に一本脚本を書いており、翌年には、レヴュー映画の音楽とそれへの歌詞を書いている。本作以後は、とりわけ、音楽映画のために曲と作詞を書いて、1960年代後半まで活動した。

 本作でも、歌が歌われる場面が数回あり、これらは作詞を含めてG. Neumannの創作である。とりわけ、本作の後半、「女六人に男一人の割合」の妄想に囚われてOttoがベルリンの街中を歩くと、丁度六人のベルリン女性に言い寄られる場面があるが、これは、歌あり、踊りありの、正にレヴュー映画的な場面である。

 それでは、最後に、本作の原作となったG. Neumannの『Schwarzer Jahrmarkt』について述べておこう。

 まず、題名であるが、これは、Schwarzmarkt(闇市)とJahrmarkt(歳の市)を掛け合わせたものである。「Marktマルクト」は、週毎に市場で開かれる市(いち)であるが、年に二回は、大きな市が開催される。日本語の「歳の市」は冬に開かれる大きな市であるが、ドイツでは、夏と冬に大きな市が開催される。故に、そのような大きな市のことを「Jahrmarkt」と呼び、ここに沢山の出店が出て、また、食べ物屋や催し物の店も出る訳である。

 戦後のドイツは、日本と同様に、敗戦に伴ない、物資不足から、当然に「闇市」が横行する。この人間の欲望が剝き出しになる「闇市」に、庶民の生活と直結した「歳の市」の風物を掛け合わせて、このレヴュー作品は、歌と踊りを間に入れながら、敗戦直後のドイツの風景を22のスケッチとして描いた訳である。そこから、この作品の副題には、「Eine Revue der Stunde Null」(時間ゼロの一つのレヴュー)が付けられている。「Stunde Nullシュトゥンデ ヌル」とは、軍事的、政治的、道義的破綻を受けて、ドイツがゼロから始めなければならないという標語のような言葉であり、これは、日本における「一億総懺悔」とニュアンスが異なるが、これと似たような概念である。

 この出し物は、ベルリンの小芸術劇場「Ulenspiegel」(Ulenspiegelは、Eulenspiegelオイレンシュピーゲルの低地ドイツ語の別形)で1947年12月頭から上演され、本作に登場するHans Deppeや、G. Neumannの妻で、本作でも脇役を演じているTatjana Saisなどが出演している。スケッチでは、復員兵、反動的保守主義者などが取り扱われるが、本作のOttoに当たる「Herr Häufigヘア ホイフィヒ」(「度々」さん)がここでは登場する。本作の題名「Otto Normalverbraucher」も「一般消費者オットー」を意味し、本作が批評からも大衆からも支持されたヒット作品となったことから、題名自体が、ドイツ語辞書に採用され、現在でも通用している言葉となっている。

2025年3月24日月曜日

潜水艦イ-57降伏せず(日本、1959年作)監督:松林 宗恵

大日本帝国海軍の潜水艦内を走る白いスカートの曳光線


 潜水艦内と言えば、「男の世界」、そこに白いスカートとは、考えられない組み合わせであるが、本作では、この組み合わせがキーポイントの一つとなっている。と言うのは、本艦イ-57潜水艦は、太平洋戦争の戦局も押し迫った1945年6月、ある外交官をマレー半島にある大日本帝国海軍基地ペナンから、スペイン領カナリア諸島に運ぶ任務を帯びたからであった。例のポツダム宣言が出る前に、日本に有利な停戦条件を引き出すためであると言う。

 この某国外交官は、Bergerというが、ベルジェールとは、フランス語系の名前であり、その「某国」とは、スイス国であると思われる。フランス語系スイスの出身なのであろう。そして、ジュネーヴに住んだことがあるらしい、この外交官Bergerに同行しているのが、その娘のMileneミレーヌであり、彼女こそ、白いスカートを履いた姿で潜水艦内を駆け抜けた本人なのであった。

 彼女を乗せたイ-57潜水艦の航路は、ペナン基地を出て、マラッカ海峡を通り、インド洋に出て、マダガスカル沖へ向かい、更に、喜望峰沖経由で、東部大西洋をアフリカ大陸に添う形で北上し、スペイン領カナリア諸島に到達すると言うものである。(映画内での台詞によると、10000海里の行程であると言う。)

 何故スペイン領かと言うと、ナチスの軍事的援助を受けたファシスト・フランコ将軍は、賢明にも第二次世界大戦中は中立の立場を取っていたからであり、ナチス・ドイツと同盟関係にあった日本としては、当然ナチス・ドイツには好意的なスペイン経由で、ヨーロッパに入り、ポツダム宣言の内容に影響を与えるかもしれないスイス外交官を遣欧したという訳であった。

 本作は、その原作小説を読んでいないので、最終的な判断はできないが、多分に戦時海洋冒険映画の体裁を備えており、本作のストーリーの感触からして、脚本はそれに乗っ取ったものであると想像する。故に、上述の「白いスカートの、二十歳の我儘な天使」も登場するという仕掛けである。冒険映画には、必ずヒロインが必要であるからである。

 とは言え、本作における、上述の航行ルートは、全くのフィクションではなく、実は、実例がある。このルートを更に北に延ばすと、1944年半ばまでは(つまりノルマンディー上陸作戦までは)、ドイツ占領下のフランス大西洋岸にあるUボート基地ブレストに着くことになる。そして、このぺナンからブレスト港乃至ロリアン港への、約70日間掛かる航路こそが、いわゆる「遣独潜水艦作戦」の航路なのである。

「遣独潜水艦作戦」とは、第二次世界大戦中、普通の通商船では不可能になっていた独日間の物資・技術交換を隠密裏に潜水艦を使って行なおうというもので、1942年から44年まで五次に亘って行なわれた。ペナンからフランスまでの往路に関しては、1942年、43年3月、43年12月の遣独作戦は成功しているが、復路では、42年と43年12月で失敗しており、往復路で成功したのは、43年3月の第二次遣独潜水艦・伊号第八潜水艦であった。この時の作戦で、復路で、駐独大使館付海軍武官であった、ある海軍少将を無事に日本に連れて帰っている。

 一方、ドイツからの「遣日潜水艦作戦」も二回あり、44年の二回目は失敗したが、43年の一回目は成功して、UボートU511がペナンに到着し、この艦が日本海軍に無償譲渡されて、呂号第五百潜水艦と命名された。

 それでは、呂号とか伊号とかという名称が何を意味するか、ここで少々説明しておくと、これは、水上基準排水量による違いである。大日本帝国海軍では、1923年以降(つまり、ワシントン海軍条約以降)、1000トン以上の潜水艦を伊号、1000トン以下、500トン以上のものを呂号、500トン以下のものを波号と冠称した。

 呂号・波号潜水艦は、基本的には日本近海を守備範囲とし、特定の用途のために設計された潜水艦であったと言ってよい。一方、伊号潜水艦の中では、とりわけ、艦隊行動に適した、つまり、艦隊に同行できる速度を満たす潜水艦があって、この型式を「海軍大型潜水艦」(略して、「海大型」)といい、これに対して、伊号潜水艦の中で、「巡洋潜水艦」(略して、「巡潜」)とも言われて、長距離の外洋航行能力を保持し、敵方の通商を破壊する目的で建造された潜水艦型式もあった。故に、本作のような長距離の特殊任務に対応できる潜水艦とすれば、「伊号巡潜」が選択されなければならなかったはずである。

 「伊号巡潜」クラスには、その開発年代や設計変更によって、更に、11の艦級があった。1920年代後半から就役し始めた「巡潜1型」を皮切りに、「巡潜甲型」(伊号第九以降)、「巡潜乙型」(伊号第十五以降)、「巡潜丙型」(伊号第十六以降)、更に、これらの改良型という具合であった。

 本作で言うところの「潜水艦イ-57」は、「伊号第五十七潜水艦」として実在した潜水艦名ではあるが、この艦の型式は、「海大III型b」で、42年6月のミッドウェー海戦参加直前に、「伊号第百五十七潜水艦」と改称され、終戦まで生き延びた艦である。

 参考に、第五次遣独潜水艦作戦でのフランスへの往路、大西洋にて44年6月に米軍空母艦載機により沈没させられた伊号第五十二潜水艦は、巡潜丙型改の艦級であり、航続距離は、水上16ktで21000海里であった。

 この型とは別ではあるが、同じく「伊号第五十」の番号代の潜水艦には、第五十四、第五十六、第五十八の三艦がある。これは、艦級は、「乙型改二」であり、本作の冒頭にも登場する「人間魚雷・回天」を搭載するために設計し直されたものである。故に、本作に登場する「イ-57」は、この型に近いものと判断してよいであろう。第五十四艦と第五十六艦は44年、45年にそれぞれ太平洋で戦没したが、第五十八艦は、本作のストーリーとも関係のある、ある「戦績」を上げている。

 本作のラストシーンには、字幕として八月五日が登場する。つまり、広島への原爆投下の前日である。時は前後するが、伊号第五十八潜水艦は、同年七月末、マリアナ近海で米海軍重巡洋艦一隻を捕捉し、魚雷六本を発射した。その内三本が命中して、この重巡洋艦は、あっと言う間に艦前方から沈没した。これが帝国海軍による連合国側艦船撃沈の最後となったのであるが、戦後になって、この撃沈された重巡洋艦は、インディアナポリスであり、この艦が、広島・長崎に投下された原子爆弾をテニアン島に輸送した後、レイテ島に移動途中に撃沈されたことが分かったのである。終戦まであとほぼ二週間前のことであった。

 ポツダム会談中に行なわれた日本側の無条件降伏への要求、つまりポツダム宣言(45年7月26日)は、確かに、大日本帝国にとって回避すべき事柄ではあったが、対日戦争における終戦への道筋は、実は、ポツダム会談の前の、ヤルタ会談でほぼ決められていた訳で、このヤルタ会談での、いわゆる「極東密約」は、既に45年2月に結ばれていたのであった。故に、本作で言うところのポツダム会談に特使を送れば、日本の終戦に有利な条件が未だ引き出せるという判断は始めから無理筋のことであった訳で、この点でも、本作のストーリーの枠組みには説得力がないものであったと言える。これもまた、本作の原作が戦時海洋冒険小説でないかという推理の傍証の一つではなかろうか。

 本作の監督は、松林宗恵(しゅうえ)で、彼は戦前は映画に「仏心を注入したい」と考え、東宝の撮影所の助監部に入った後、海軍第三期兵科予備学生となり、1944年には海軍少尉に任官されて、部下150名を連れて南支那廈門島の陸戦隊長なったという経歴を持つ人物である。故に、海軍式敬礼、「帽振れ」、軍装については本作では安心して観られる。本作の前には、『人間魚雷回天』(新東宝、1955年作)を、本作後には、『太平洋の翼』(東宝、1963年作)、『連合艦隊』(東宝、1981年作)などの戦争映画を撮っている。

 東宝は、戦前では国策プロパガンダ映画を比較的多く撮っており、また、特撮では、円谷英二を起用していた映画会社で、戦後も、本作のような戦争映画で製作していた。こうして、松林監督と円谷特撮監督とが本作のような潜水艦もので協働することになった訳である。

 画面アスペクトは、シネマスコープに似せた「東宝スコープ」のワイドスクリーンで、本作はこのシステムによる第一作目となる。また、本作は白黒映画であるが、ウィキペディアによると、円谷の要請により、特撮にはブルーバック合成を導入し、その合成画面用に、白黒映画であるにも関わらず、カラーフィルムを使用したと言う。それは、カラーフィルムをモノクロに変換することにより、とりわけ、ラストの戦闘場面での潜水艦艦上の戦闘員の姿、彼等を覆う水柱などをクリアーでシャープに映像化できるからであったと言う。

 尚、本作の撮影に当たっては、創立後五年も経っていない海上自衛隊が全面協力し、撮影当時唯一の潜水艦であった「くろしお」が本作に使われた。この潜水艦は、米国からの貸与艦で、元々はガトー級潜水艦USS Mingo(SS-261)であったものである。艦船に詳しくない筆者ではあるが、それでも、観ていて、外観から何か伊号潜水艦らしくないなとは感じられていたのであるが。

 知的でスマート、しかも英語を上手く操る海軍少佐役を池辺良が好演しており、この池辺艦長を補佐する女房役・先任士官を三橋達也が演じている。また、一般水兵と士官の間に立ち、水兵達の気持ちも代弁できる立場の竹山上曹役を漫才師・南道郎(みちろう)が演じており、悪辣な下士官をやらせれば最適な役者であろうが、本作では、そのしゃがれ声と独特なユーモア感がとりわけ印象的で、善き下士官役を演じている。

2025年3月4日火曜日

ジョン・ウィック:パラベラム(USA、2019年作)監督:チャド・スタエルスキー

 本作は、John Wickシリーズの第三作目であるが、第二作目が第一作目よりよかった分、同じ脚本家Derek Kolstadが他の脚本家と共同で書いている割には、本作は、その質を落としているように見える。第一作目以来の「殺戮の乱舞」は、三作目になると、やはりマンネリ化して、詰まらなくなる。それがあったのか、今回のモロッコでの銃撃戦シーンには、JohnにSofia(Halle Berryハル・ベリー)を加えて、更に三匹の格闘犬を入れた「乱舞」になっている。さて、見応えがあるか。筆者にはなかった。

 また、ジョン・ウィック・ワールドも、今回、「会長会」乃至「上座会」の上に更に「最長老」が存在すること、また、「会長会」は、「裁定人」なる者を送り、これによって掟を守らなかった者に処罰を下すことが出来ることなどが、今回の見るべき展開であるが、ストーリー展開のインパクトとしては弱いように思われる。

 さて、副題にある「Parabellumパラベルム」とは、ラテン語の警句「Si vis pacem, para bellum 汝、平和を欲さば、戦への備えをせよ!」の最後の二文字を採って、それをつなぎ合わせたものである。誰の言葉からの引用なのかはっきりしないと言うが、ローマ帝国時代末期の紀元後四世紀に書かれた軍事書によるのではないかと言われている。何れにしても、「平和」であるためには、それなりの戦備が整っていなければならないと解釈される警句であると言う。正に、ストーリーの内容に当てはまる警句であり、実際、映画内でも「コンティネンタル・ホテル」ニューヨーク支店のオーナーが、裁定人が送った部隊とホテル内で戦闘を繰り広げる前に、この警句が引用されるのである。

 因みに、ドイツの兵器産業DWM社(DWMデー・ヴェー・エム社:ドイツ武器弾薬製造社)が使った社訓が上記の格言であり、日本で「ルガー拳銃」と呼ばれている、DWM社製拳銃が、「パラベラム拳銃」と呼ばれている。また、同社が開発した拳銃用弾薬も「パラベラム弾」と言われている。

 参考:DWMデー・ヴェー・エム社とは、Deutsche Waffen- Munitionsfabrik AGの略で、ドイツ武器・弾薬製造工場・株式会社の略である。1871年にドイツ第二帝国が成立し、ドイツの産業革命が第二段階を迎えて本格化するのが、1870年代で、この時期に多くの企業が起業された。その中には、もちろん、武器産業、火薬製造企業、金属薬莢製造企業も存在し、1880年代末までに幾つかの企業の合併・併合が繰り返され、この過程を通じて、1896年にDWM株式会社がベルリンを本社として設立された。

 実は、DWM社の設立に際しては、ドイツ西南部、ネッカー川沿いにあるMauser社(本来「マウザー」と発音するが、日本では「モーゼル銃」の名で知られている会社)も参画しており、1898年にドイツ帝国陸軍に正式採用された小銃Gew98は、基本設計はMauser社による。Gewehrゲヴェアは、小銃の意味で、「98」は正式採用された1898年から来ている。五発を一度に装填できる装填クリップが使われたのが、この小銃の特徴の一つで、第一次世界大戦中は、ドイツ歩兵は、この小銃を使って戦った。

 一方、拳銃では、このDWM社の武器開発技師Georg Lugerゲオルク・ルーガーが改良を重ねて製作した自動装填式拳銃P08が有名である。日本では「ルガー拳銃」として知られているこのPistole(ピストーレ:拳銃)は、1908年にドイツ帝国軍に正式採用され、手作りで製造されたこの拳銃が野戦では故障しやすいことから、将校用の拳銃として使われた。この拳銃は、第二次世界大戦が始まる直前の1938年まで使用され、この年にP.38が新式の拳銃として、ナチス国防軍に正式採用される。故に、この拳銃が「P.38」と呼ばれる訳であるが、この拳銃の開発は、Walther有限会社によるものであった。尚、Waltherは、ドイツ語では、「ヴァルター」というので、この拳銃は、正しくは、「ヴァルター・ペー・38」と発音したいところである。この拳銃の銃弾も、「9㎜パラベラム弾」であった。

ジョン・ウィック:チャプター2(USA、2016年作)監督:チャド・スタエルスキー

 第二作目が、例外的に、第一作目より上手くでき上っているケースがある。例えば、『ターミネーター』シリーズであろう。この幸福なケースは、本シリーズにも当てはまる。何故か?


 第一作目が単なる「殺戮の乱舞」であったのに較べると、第二作目では、「ジョン・ウィック・ワールド」と言える世界の重層的な構造がはっきりしてくるからである。これは、前作同様の脚本家Derek Kolstadの功績である。

 D. コルスタッドは、1974年生まれのアメリカ人で、大学では経営学を勉学したが、卒業後、思うところがあり、映画脚本家になろうとして、彼が24歳の時、カルフォルニア州に移住する。それ以来約15年ほど努力を続けて、2012年に初めてアクション映画の脚本を採用してもらう。その二年後、K.リーヴスの提案により、自分が持ち込んだ、ある脚本の名称を「John Wick」と変えることになるが、この名前は、K.コルスタッドの母方の祖父の名前であると言う。こうして、前作と本作の脚本も担当することになったという経緯がある。因みに、2021年制作の映画で、意外にヒットした作品『Mr.ノーバディ』の脚本を書いているのも、このD.コルスタッドである。

 それでは、「ジョン・ウィック・ワールド」とはどんな世界であろうか。まず、第一作目から分かっていたことは、裏社会では、殺し屋達が多数存在し、犯罪組織に雇われて殺しを執行するのであるが、その殺し屋達の稼業をサポートする「コンティネンタル・ホテル」という組織があることである。

 この「コンティネンタル・ホテル」は、裏世界ではそれなりの権力を持っており、ホテル内では殺しは行なってはならないとする「掟」を殺し屋達に課すことが出来るのである。そして、本作により、「コンティネンタル・ホテル」には、ニューヨーク店だけではなく、ローマ本店も存在し、恐らく、世界的なチェーンを組んでいる組織であることが分かる。

 一方、「ジョン・ウィック・ワールド」には、ニューヨーク市マンハッタン区南部にあるBowery(バウワリー)地区のホームレス達を組織する犯罪・情報地下組織が存在し、そのKingの地位に収まっているのが、バウワリ―・キングである。(Bowery King;『マトリックス』で顔が売れた役者ローレンス・フッシュバーンが演ずる。)18世紀前半にイギリスで上演された『乞食のオペラ』のストーリーを思い出させるセッティングである。あそこでも、ロンドンの乞食達が「乞食王」ピーチャム氏に統率されている。

 これに対し、以上の勢力に隠然たる力を振るっているのが、12の席あるというHigh Tableハイ・テーブルと呼ばれる存在で、これは、犯罪組織の中でもより強力な上部組織で、言わばCrime Lordクライム・ロードとでも言えるボス中のボス達が構成する「上級役員会」のようなものである。カモラ、ラシアン・マフィア、チャイニーズ・マフィアなどのボスがこの会長会に入っていると言う。High Tableの名称は、恐らく、アーサー王伝説に登場する「円卓の騎士」にあやかってのものであろうが、「円卓」とは、13の席(13席目はいつも空席)がある「Round Table」のことである。本作の日本語版のHigh Tableの訳が「首長連合」となっているのは、筆者としては不満がある。内容的には関係がないのではあるが、仏教用語に「上座部:じょうざぶ」というのがあり、この「上座」が「High Table」に字義的に上手く適合するので、これを「上座会」としては、如何であろうか。

 主人公John Wickはユーモアがない人間であるが、本作では気の利いた場面がある。Johnは、宿泊先であるコンティネンタル・ホテル・ローマ本店で、「仕事」をするために、武装用の銃器を取り揃えることにする。このホテル内の部署の専門員は。「ソムリエ」と呼ばれており、「オードブル」から「メイン」を経て、「デザート」に至るまで、それぞれの「料理」に合う「ワイン」、即ち、銃器をこの「ソムリエ」がサジェスチョンする場面は、中々「薬味」が効いていて、「美味しい」のである。因みに、このローマ本店のオーナー兼支配人役を演じているのが、Franco Neroで、往年の「マカロニ・ウエスタン」(蓋し、日本の映画興行師達が考え出した傑作の映画用語)のスターの一人であり、筆者は、この配役の妙に敬意を表するものである。

 カモラの女ボス殺害の場面、カモラがイタリアの犯罪組織であることから、そのイタリアらしい、絵画が掛けられた室内空間での銃撃・乱闘戦、そして、鏡張りの部屋での決闘と、本作では、その美的センスが至るところに表象されており、観る者の目を楽しませてくれる。

2025年2月27日木曜日

月下の若武者(日本、1957年作)監督:冬島 泰三

 原作が『平凡』という青少年向けの雑誌の連載小説であるところからも推察できる通り、その内容が当時の日活の若者路線に上手く、はまったのであろう。本作は、日活の若手俳優、長門裕之と津川雅彦の、現実にも兄弟である二人を主人公にして、平安時代中・後期の若侍の仇討ちの物語りにストーリーは出来上がっている。当然ながら、浅丘ルリ子(長門の許婚役)、香月美奈子(猟師の娘あけみ役)、稲垣美穂子(藤原一族の息女役)などの若手女優陣との色恋沙汰も入るのであるが、とは言え、本作が取り扱う時代背景が面白い。つまり、平清盛が平氏政権を樹立する1160年以前では、地方の武士階層が、映画にも登場する藤原頼通(平安期摂関政治の代表的人物たる藤原道長の息子の一人で、没年:1074年)の時代に京都で任官するとすれば、精々、検非違使として牢獄の番人にしかなれない時代のことである。その後ほぼ百年でその状況が変貌する訳であるが、この意味でも、「侍」の元々の語源である「さぶらう」が、「貴族たる主人に仕える」意味であったことがよく思い出されるべき歴史的背景が本作、そしてその原作にあったのである。

 映画の冒頭には、ストーリーの場所として、「若狭の國、小浜の庄」と出てくる。即ち、現在の福井県の一部で、若狭湾に面した地域であり、その国府は小浜付近にあったと言う。この小浜の、ある「庄」の管理者が長門・津川兄弟の一族であった。更に付け加えて言えば、武士階層の成立の一つの経路が、土地所有農民の一部が次第に武力行使に専業化していった経過であったのであり、蓋し、長門・津川兄弟の一族はこのような武士階層の身分形成の途中経過を表しているように思われる。

 さて、本作は、「日活初の総天然色大型映画」であると言われ、「日活スコープ」というワイドスクリーンで初めて撮られており、「総天然色」作品としては、日活イーストマンカラーによって日活第二作目である。日活スコープ第一作目と言うことで、日活がこの作品に掛ける意気込みをこれでよく知られよう。タイトルロールでも、「ワイド技術」、「色彩計測」の担当者名が挙げられている。また、ワイドスクリーンのための撮影に、しっかりと京の街などのセット作りがなされていることも本作を目で楽しむ一つのファクターであろう。(美術:西亥一郎)

 映画冒頭の長門、浅丘、津川の登場する、物語り上、若狭湾の海岸沿いであるはずの場面で、津川が長門と許嫁の浅丘を冷やかそうとして、突然、岩陰の後ろか岩に駆け上がり、二人に摘んだ花を投げつける。その時に津川が来ていた着物の色が薄い黄色で実に風景の中に映えている。

 また、浅丘は、人買いにさらわれて、結局は、白拍子となり、権力者藤原頼通の前で舞いを舞うことになるが、その時に浅丘が来ていた桃色の着物と彼女が手に持つ扇の、鮮やかな赤色は、さすがは、イーストマンカラーの彩色である。

日本侠客伝-花と龍(日本、1969年作)監督:マキノ雅弘

 1960年代初めまでは、東映と言えば、「時代劇の東映」であったが、映画産業がピークを迎えた1950年代半ば以降60年代初めになると、東映の時代劇は興行成績が余り上がらなくなっていた。1963年に偶然にヒットした『人生劇場 飛車角』に目を付けた東映首脳陣は、その翌年から、時代劇映画のストーリーのテーストを残しながら、時代だけは明治・大正期に動かし、主人公を侍ではなく、任侠・やくざとする路線を取る。これが、東映やくざ映画路線の始まりであり、石油ショックの年1973年以降の、やくざ映画の実録もの路線と区別するために、1963年から1973年までの東映ヤクザ映画は、「任侠路線映画」と呼ばれる。その任侠映画スターの一角が鶴田浩二であるとすれば、そのもう一角が高倉健であり、高倉を主演とした任侠映画シリーズの一つが、本作の『日本侠客伝シリーズ』である。高倉を主演とする任侠映画シリーズには、他に『網走番外地シリーズ』と『昭和残侠伝シリーズ』の二つがあるが、両シリーズは、共に1965年より開始されている。この『昭和残侠伝シリーズ』こそは、義侠がその最後を飾って「残侠」として残っており、ヤクザの争いが「仁義なき抗争」へと堕していく時代への過渡期の「白鳥の歌」であった。このシリーズは、蓋し、高倉と池辺良との間の「男気」の美を描き切った傑作シリーズである。

 監獄ものと言える『網走番外地シリーズ』を抜いて話しを進めると、『昭和残侠伝シリーズ』は1972年までに九作が制作され、その内、三本が、本作の監督ともなったマキノ雅弘監督作品である。それは、第四作(1966年)、第六作(1969年)、第七作(1970年)であるが、その何れにも、本作にも登場する藤純子が絡んでいるのも興味深い。

  一方、『日本侠客伝シリーズ』は、1971年までに11本撮られているが、その内、第一作から第九作までがマキノ雅弘監督作品である。シリーズと言っても、話しが時系列でつながっている訳ではなく、各作が、『昭和残侠伝シリーズ』もそうであるが、独立しており、例えば、「浪花編」とか「関東編」とかがあって、場所が異なっても構わないのである。こうしたことから、本作の第九作には、火野葦平の原作を持ってきて、場所を北九州、時を日露戦争の終わった直後、即ち明治時代が終わる数年前としたのである。

  原作の『花と龍』は、1952年から53年まで『読売新聞』に連載された新聞連載小説であり、火野葦平は、自分の父親玉井金五郎と母マンが如何に苦労して「玉井組」を切り盛りしたかを描く大河小説を書き上げた。この原作を基に、東映は既に1954年に二部作でこれを映画化しており、62年には今度は日活が石原裕次郎を主演にして再映画化している。その二年後、東映はこの小説を再度二部作で映画化しており、主演は中村錦之助であった。本作によるこの原作の映画化は、これにより、合計で四度目となる。こうして、『花と龍』の映画化の筋と、『日本侠客伝シリーズ』の1964年以来のシリーズ化の筋が1969年の本作で上手く交錯したと言える訳である。

 原作者火野は、ウィキペディアによると、その自伝的小説『青春の岐路』で、昭和初期、つまり1926年頃の港湾荷役労務者(「沖仲仕」、本作中では「ごんぞ」)の姿を次のように描いている:「請負師も、小頭も、仲仕も、ほとんどが、酒とバクチと女と喧嘩とによって、仁義や任侠を売りものにする一種のヤクザだ。大部分が無知で、低劣で、その日暮らしといってよかった。普通に考えられる工場などの労働者とはまるでちがっている」。請負師には、元請けもあれば、下請けもあり、下請けには更に下請けの下請けがある状況は、入る労務役が急であれば、日雇いの労務者をかき集める「手配師」が介入する可能性がある。ここに、強力な手配師が港湾労務を取り仕切るヤクザ組織となるケースがあった訳で、1915年頃に神戸港では労務者供給事業から山口組を生まれ出たと言う。ここら辺の事情は、本作でも、請負師とヤクザ組織との勢力争いとして描かれている。

 さて、本作の題名の一部ともなっている原作名『花と龍』では、「龍」が意味するところは容易に想像が出来るのであるが、「花」は、独特の意味合いを与えられていると言われ、それは、玉井金五郎の理想、下衆なこの世にあっても人としての品格を持って生きることを象徴的に現していると言う。

 一方、映画である本作では、この「花」は、正に現実の花であり、それは、黄色い菊の花である。そして、この花は、同時に、後に妻になる前のマンの金五郎に対する愛の象徴でもある。映画の序盤、金五郎がヤクザと喧嘩をして頭を殴られ、それが原因で寝込むことになる。マンが金五郎を見舞おうとするのであるが、その際に、マンは、自宅の傍に咲いている黄色い菊の花を一本手折って金五郎が寝ている部屋に持って行く。マンは、金五郎の寝ている部屋で、早速一輪挿しにして、縁側の手前の小さな台の上に置く。画面は、金五郎が寝ているアングルから取られており、画面手前は畳、中景に台の上に置かれた一輪挿しの黄色い菊の花、後景が縁側の向こうにある庭のようであり、自然の緑色をしている。ここで、緑色に強い富士カラーが活きている。本作のラストシーンも、俯瞰アングルからズームアップして、門の前に咲いている菊の花のアップで終わっている。(撮影監督:飯村雅彦)


 そして、この花と龍のモチーフは、刺青のモチーフともなる。金五郎が駆け出しの頃、賭博をやって運が付いて勝った時、その賭場で壺振りをしていたのが、女壺振り師・お京(藤純子)であった。お京は、この時、金五郎にとっては、「幸運の女神」であった訳であるが、それ以来、二人は会わないままであった。しかし、金五郎がマン(星由里子)と所帯を持ち、玉井組を起ち上げた後のある時、金五郎はお京と偶然に会う。金五郎を心憎いとは思っていなかったお京は、再会を喜び、この機会に二人の仲が発展するのではないかと淡い期待も心に秘めて金五郎の家庭の事情を聞いたのであるが、金五郎にもう誰かいると言われて、僅かに見せた苦渋の顔を金五郎に隠す。それでも、金五郎との関わりを永遠に刻もうとして、刺青彫師でもあるお京は、自分の左肩に彫られた牡丹に蝶の刺青を見せながら、自分に刺青を是非彫らして欲しいと金五郎に懇願する。その心根にほだされた金五郎は、それを承知するが、龍に黄色い菊の花を彫ってくれるようにとお京に頼むのであった。

2025年2月26日水曜日

昭和残侠伝--吼えろ唐獅子(日本、1971年)監督:佐伯 清

シリーズ第八作

時:関東大震災の年1923年から8年後というから、1931年
場所:最初は前橋で、小諸経由で、金沢
対立抗争:東京のやくざ組織と関わって、金沢の伝統的組とそれに対抗する悪徳組織の対立
高倉は渡世人であるが、金沢の悪徳組織の客人である。池辺は、金沢の伝統的組の元組員で、今は堅気の男である。
ヒロイン:高倉と相思相愛の仲の女で、今は金沢の伝統的組の組長の妻:松原智恵子

 ある寺の墓地で、既に土葬にされた弟文三とその恋人おつたの墓の前に立つ重吉であった。画面右後ろから秀次郎が画面内に入ってくる。それに気付いた重吉が、秀次郎の顔を見ないまま、「秀次郎さん、二度と持たねえと誓ったドスですが、所詮は染み付いた垢。笑ってやっておくんなさい。」と語りながら、重吉は左回りに身体を回し、若干軸が外れる位置ではあるが、秀次郎と背中合わせになるような形になる。言い終えたところで、重吉は振り返る。すると、秀次郎も振り返って、二人は目と目を合わせる。秀次郎が言う:
「重吉さん、お互い馬鹿が承知の渡世だ。ご一緒さしてもらいますよ。」
顔だけではなく、身体も秀次郎に向けて、重吉は言う:
「あたしたちには、赤い着物か...」

「白(しれ)い着物だ。」と、秀次郎は、重吉の言葉を受けて、言い切る。

 アップにされたままの重吉が、左の口角を若干上げて、苦笑いするようにして、肯く。カメラは逆方向で秀次郎の顔をアップで撮る。無言のままの秀次郎のアップから、カメラが返しでまた重吉の胸までの大きさで重吉を捉える。重吉の顔は右を向いて画面の左方向に歩き出す。二・三歩歩いたところで、BGMで、高倉健が歌う『唐獅子牡丹』の主題歌が流れ出す。朝霧が立ち込めた中である。秀次郎も数歩遅れた形で重吉の後ろに付く。重吉は、黒の着物に白の帯、秀次郎は、灰色の着物に紺か黒の帯である。

 カメラは、一時、正面から二人を写すが、また、後ろに回り、二人が今度は薄野の中を歩いているのが分かる。この道が、仁義の花道である。カメラは、立ち止まって、二人が画面の奥に続けて歩いて行くのを見送る。

 すると、撮影方向が替わり、重吉を画面の左に、秀次郎を画面の右に置いて、二人を横から捉える。歌の一番が終わったところで、アングルは斜め上からのものとなる。画面の手前にはガス燈の灯りがほんのりと見える。再び、横からのアングルに戻り、静かな何か木管楽器のような音のBGMが低く聞こえる。

 カメラは、今度は枯れ木を手前に置いて、正面から奥で二人を捉える。歌の二番が始まる直前、二人は、手に持っている長ドスを包んでいる布をほどき、ほどいた布を道端に放り投げる。二人は、木の前で固定されていたカメラの、観ている方から見て左の方に通り過ぎたところで、画面が替わり、稲葉組の家がある通りとなる。通りの奥から歩いてくる二人は、稲葉組の玄関の少し前で、今までの左右の位置を変えて、今度は重吉が画面の右に、秀次郎が左に立つ。歌が終わるのと共に二人は長ドスを抜く。BGMも消えたところで、秀次郎と重吉は、稲葉組の家の中に斬り込んでいくのである。

 ところで、本作の約16分台から次のような旅人の食事の作法が描かれる:

 まず、「御厚情に預かります。」と挨拶する。座席に着くと、懐から懐紙を取り出し、左側の畳の上にそれを置く。膳の手前・左に山盛りにした茶碗、その右側に味噌汁、膳の左上に沢庵二切れ、膳の右上に焼き魚が置いてある。まずは、飯を一口、そうして、味噌汁をすすると、焼き魚に箸を持って行くが、魚の尻尾は、さっきの懐紙の上に置く。飯一膳だけでは縁起が悪いので、お替りをするが、もう一杯飯が食べきれないと分かっている時には一膳目の茶碗の飯の中央に穴を作り、それにお替り分を盛り足してもらうのが作法に叶った飯のお替りの仕方である。米一粒も残さずに食べるのが作法であり、焼き魚の骨と頭も先程の懐紙に置き、その懐紙を二つ折りにしてそのまま懐に入れる。後で、外に出た時に、その懐紙は目立たないようにして捨てる。「手厚き、御もてなし、ありがとうございました。」と言って、座席を立つ。

 現代と言えども、見習いたい作法である。

昭和残侠伝--死んで貰います(日本、1970年作)監督:マキノ雅弘

シリーズ第七作
時:関東大震災の年1923年前後
場所:東京下町
対立抗争:伝統的組と新興ヤクザ組織
高倉は渡世人であるが、元々は料亭の主人の息子で、池辺は、この料亭の板前である。
ヒロイン:高倉と相思相愛の仲の芸者:藤純子

 「任侠」とは、自分の命も顧みずに、暴力を以ってしても他者を助けることである。その失われていこうとする「義侠心」への「白鳥の歌」が、東映やくざ映画の金字塔を飾る「昭和残侠伝シリーズ」である。「残侠」という、ノスタルギーのこもった言葉を味わいたい。その様式化された美は、時にうぶな男気の羞じらいを見せる高倉健と、苦みの効いた、男立ちの高貴を匂わせる池辺良の間の、殆どホモ・エローティッシュな感情の絡み合いによって伴奏される。任侠道が失われれば、そこには露骨な、仁義なき闘いしか残らないであろう。昭和残侠伝から実録やくざものへの転換もまた、時代の変化に対応したものであったのであり、それは、一つの必然であったとも言えるのである。

 「ご一緒、願います。」と、風間は秀次郎に謂った。ちょうど小橋を渡りきったところで脇から風間に「重さん!」と声を掛けた秀次郎は、風間に近づいてさらに続けて言う:
「重さん、このケリは俺に付けさせておくんなせえ。堅気のおめえさんに行かせる訳に行かねえ。」これまでの撮影方向を逆にして、秀次郎の後姿が画面右、風間の斜め正面が画面左となり、風間は口を開ける:「秀次郎さん、あれから十五年...」
懐から短刀を取り出して、それを見つめながら、風間は続ける:
「見ておくんなせえ! 恩返しの花道なんですよ。」すると、封印をされた短刀のアップ。風間はその短刀の、握った右手の親指で、封を切る。その短刀と秀次郎の顔のアップ。短刀を見つめていた秀次郎、目だけを上に上げて無言で風間の方を見つめる。逆方向で風間の顔がアップになると、風間、固い意志を秀次郎に告げるように:
「ご一緒、願います。」ここで、テーマソングが再び鳴り出し、風間から目をそらした秀次郎、まずは無言で一人で歩き出す。画面の奥の方に数歩歩いた秀次郎、振り返って風間の方を見やると、風間の方もまた歩き出し、秀次郎に追いつき、追い越そうとする刹那、秀次郎が左手で風間の右肩に手を掛ける。こうして、風間は、秀次郎と並んで「恩返しの花道」を歩んで行くのであった。

昭和残侠伝--人斬り唐獅子(日本、1969年作)監督:山下 耕作

シリーズ第六作

時:不明、何れにしても戦前
場所:浅草
対立抗争:浅草のヤクザ組織同士の縄張り争い(玉の井の私娼窟)
高倉は悪玉組織の客人で、池辺は、悪玉組織の代貸で、二人は義兄弟である。池辺は後に破門される。
ヒロイン:高倉と相思相愛の仲の女で、事情があって善玉組織の姐さんとなる:小山明子

 日本人慰安婦がどうやって中国大陸に送り出されていったか、その経緯が推察される、ストーリー

 悪玉親分から破門された風間、秀次郎に向かって言う:
「後生大事に守ってきた渡世の仁義も、もう縁はねえ!今の俺にゃ、生まれた時には別々だが、死ぬ時はいっしょの、おめえだけだ!」
 秀次郎は、叩き割ろうとしていた義兄弟の盃を既に懐に入れていたが、雪の中、風間に近づいていき一声掛ける:「兄弟(きょうでえ)!」
 風間は、苦笑いをして、左の口角をやや引き上げる。と、テーマソングはまた鳴り出し、そのBGMをバックに、風間と秀次郎は長ドスを左手に下げながら、並んで死地に歩き出すのであった。

 本作、日本人慰安婦がどうやって中国大陸に送り出されていったか、その経緯が推察される、ストーリーでもある。現墨田区にあった玉の井は、戦前からの私娼窟で、映画の中で爆殺される売春婦も、少なくとも約千人はここにいたと言われる私娼たちの一人だったのである。



昭和残侠伝-唐獅子仁義(日本、1969年作)監督:マキノ雅弘

シリーズ第五作

時:昭和初期
場所:東京から移動して名古屋経由で信濃の小諸
対立抗争:国有林の入札を巡る伝統的組と、これと対抗する悪徳ヤクザ組織
高倉は伝統的組の客人で、池辺は、対抗するヤクザ組織の客人である。お互いがお互いの組の親分を刺殺した因縁がある。
ヒロイン:高倉に好意を持つ女で、池辺の妻:藤純子


おるいのためにも、どうかこのあっしに死に花を咲かせてやっていただきます

 いつものテーマソングをBGMに森の中を行く秀次郎を左側からお供をするカメラは(1時間20分代)、秀次郎に近づいたり、離れたりする(二回)。それから、カットが少々早くなり、ショットがバストと、頭から膝までのアメリカン・ショットとを交互に繰り返す(四回)。すると、そこから更にカットのテンポを速めて、秀次郎の肩までのプロフィールが九回連続の「激写」となる。十回目からまたバストのショットに戻ると、秀次郎は森の小道を抜け出る。そこから、道を右に曲がる秀次郎の後ろ姿のショットになり、テーマソングの一番が終わる直前、秀次郎の後ろから、オフの「秀次郎さん!」と呼ぶ風間の声が聞こえる。ここまでで、1時間21分代ちょっとである。第五作の本作以降の、本シリーズの最後の九作目までの編集を担当したのは、田中修で、彼の、キャメラマンの坪井誠とのこの仕事は、蓋し、日本アカデミー・編集賞ものであろう。

 さて、本作のストーリーの目玉は、何と言っても、藤純子の役回りである。風間は、藤が演ずる、元柳橋芸者おるいの旦那で、ストーリーの始めに、風間は因縁あって秀次郎と対決し、左腕を切られてその腕が使えなくなってしまっていたという曰く付きである。それにまた、おるいは、やくざとのいざこざで左手に怪我をした秀次郎を偶然に手当てをして、それが縁で、秀次郎のことも悪くは思っていない。そのおるいと秀次郎の気持ちの関わり合いがなんとも色っぽい。とりわけ、おるいを演じる藤が、成熟した女の香を濃厚に匂わせ、しかもそれに不倫の感覚が混ぜ込む演技には、観ている40代以降の男性の誰もが「悩殺」されたと思われる。それでも、操を通して、愛する夫、風間の腕の中で死んだおるいの薄幸は、本作の男と男の世界に、男と女の色恋沙汰の、言わば、「白薔薇」の絵を添えるものである。

昭和残侠伝-血染の唐獅子(日本、1967年作)監督:マキノ雅弘

シリーズ第四作
時:昭和初期
場所:浅草、上野
対立抗争:鳶職人をまとめる伝統的組と、工事利権を得ようとするヤクザ組織
高倉は伝統的組の者で、池辺は、対抗するヤクザ組織の代貸しである。映画後半、池辺は破門される。
ヒロイン:高倉に惚れる女で、池辺の妹:藤純子


男同士と 誓ったからは
死んでくれよと 二つの笑顔

 本作、ストーリーが少々変則で、善玉・悪玉の割り振りがはっきりし過ぎており、とりわけ、秀次郎の内面の葛藤が、秀次郎が完全に善玉側に立ってしまっていることで、薄い。風間は悪玉側だが、秀次郎とは元々幼馴染とあっては、男二人の義理の立場の対立の局面がこれまた薄くなっている。さらに、二人の女(芸者染次と、風間の妹文代)に慕われる秀次郎は、殆ど押しかけ女房的な文代(藤純子)とは、所帯持ちになる直前である。となれば、「さすらい」の秀次郎のイメージもこれまた薄い。そして、どもりの竹(津川雅彦)に伴われて、秀次郎と風間が殴り込みを掛けるとなると、秀次郎と風間の男同士の関係の緊密感がやはり薄らいでしまう。となると、復讐を終えた秀次郎と後を追ってきた文代の、「濡れ場」のラストに、何か物足りなさの感じを受けるのは筆者だけであろうか。

 とは言え、本テーマソングの二番は、『昭和残侠伝』の本質を突いてあまりあるものがある:

男同士と 誓ったからは
死んでくれよと 二つの笑顔
喧嘩馴染みの お前(風間)と俺(秀次郎)さ
何も言うまい その先は
背中(せな)で吠えてる唐獅子牡丹

昭和残侠伝(日本、1965年作)監督:佐伯 清

 1965年から始まった本シリーズ『昭和残侠伝』が、高倉健主演の何本かのシリーズものの中で、最も魅力を感じさせる、その理由は俳優・池辺良の存在であろう。伝統的に仁義を守る善玉一家と、仁義を守らない新興悪玉一家の対立をストーリーの背景にして、これに高倉を慕う紅一点(第一、第二作の三田佳子、第三、第四、第五、第七作の藤純子、第六作の小山明子、第八作の松原智恵子、第九作の星由里子)を絡ませ、恋には晩熟の、さすらいの渡世人・高倉が、堪えに堪えて、最後に悪玉親分を切り倒す、これが『昭和残侠伝』のストーリーの基本構造である。しかし、この最後の、懲悪の「道行き」には渋い相方が付くことが、このシリーズの「味噌」であり、斬り合いの中で死んでいく悲劇の相方を体現したのが、俳優・池辺なのである。

 1918年生まれの池辺は、このシリーズ制作当時は、40歳代後半で、嘗ての二枚目青春スターの過去を背負って、どこか翳りのある、知的で苦み走った男性像を表象している。しかも、側頭と後頭部を刈り上げ、頭の上部だけ長めにするという、当時としては印象的な髪形で、それに、とりわけ黒の着物を、(本当は「いなせに」と言いたいところだが、これは気の早い若い人に言う言葉であると言うから)「粋に」着こなす池辺は、正に和製のダンディズムの権化と言えるであろう。こんな池辺に死地への道行きの相方を務めてもらっては、さすがの健さんも男冥利に尽きたことは想像に余りある。

2025年2月15日土曜日

三文オペラ(西ドイツ/フランス、1963年作)監督:ヴォルフガング・シュタウテ

 クルト・ウルリヒ映画制作会社は、『三文オペラ』の映画化を1950年代後半には発表しており、その上映を58年・59年のシーズンに行ないたいとしていた。最初は、当時の西ドイツで最良の映画人の一人であったHelmut Käutnerヘルムート・コイトナーに監督を依頼し、この時から既にC.ユルゲンスの主役は決まったいた。しかし、H.コイトナーは監督職から降板し、様々な経緯を経て、結局、東ドイツから西ドイツに活動の中心拠点を移してから数年しか経っていなかったW.シュタウテが、本作の監督を引き受けることとなる。

 彼は、本作の撮影が開始される60年10月の約二年前から、脚本の共同執筆に骨を折っていた。結局、取得した映画化権の期限が切れるところから、本作の撮影に踏切り、撮り終えた訳であるが、USAへ上映権が販売されると、買い取ったUSAの映画会社が、監督のW.シュタウテの許可を得ることなく、サミー・デイヴィスJr.の場面を付け足したのである。故に、映画冒頭の、サミー・デイヴィスJr.が「メッキー・メッサ―のモリタート」を歌う部分は、英語となっており、ドイツ語版でもその吹き替えは行なわれていない。

 脚本の共同執筆をしていたW.シュタウテは、B.ブレヒトが1920年代後半に書いた『三文オペラ』のストーリーを、より映画撮影当時の1960年代の状況にマッチしたものにしようとしていた。その素案では、ロンドンのSohoソーホー地区に住む下層住民が、ブルジョワ階級が自分達の生活を脅かすのに対抗して、その抗議運動の一環として、『三文オペラ』を上演したという風にストーリーの枠組みを読み替えたのであった。

 しかし、この案は、1956年に死んだB.ブレヒトの遺志執行人たるHelene Weigelヘレーネ・ヴァイゲルによって拒否され、W.シュタウテは仕方がなくほぼ原作通りに映画化せざるを得なかったのである。

 とは言え、W.シュタウテは、可能な範囲で自らの可能性を模索している。確かに、映画は、正に、演劇舞台の真ん前にカメラを据えて、劇場での演技をそのままに撮影したようにされてはいるが、本作では、わざと金を掛けた舞台背景にし、わざと人工的に汚くした服装にエキストラの乞食達を装わせ、わざと高額な出演料を払わせる国際的俳優陣に演技をさせたのであった。また、原作中に出てくる歌の順序を変えて本作では歌が登場する。それぐらいの芸術上の「自由」は、W.シュタウテは得たようである。また、ストーリーの展開は、登場人物が歌を歌っている最中に場面が展開するようにしてあり、あたかもミュージカル的な手法である。これは、映画人たるW.シュタウテが、「叙事詩的流れ」を提唱する演劇人たるB.ブレヒトの舞台劇とは異なるものとして本作を制作しようとして苦心した点であろう。

2025年2月12日水曜日

三文オペラ - マック・ザ・ナイフ(USA/オランダ/ハンガリ―、1989年作)監督:メナヘム・ゴーラン

 本作は、原作演劇『三文オペラ』の、B.ブレヒトの風刺性とK.ヴァイルの音楽的アヴァンギャルド性を削ぎ取った単純なミュージカル作品である。しかも、主題のテーマは、プエルトリコ人ラウル・ジュリアが演じるMac the Knifeと、同じくラテン系アメリカ人の血が入ったジュリア・ミゲネス演じる娼婦Jennyとの間の「腐れ縁」の愛である。このサイトの映画ポスターでは分からないが、ウィキペディアに出ているポスターでは、二人が熱烈にキスする直前のシーンが採用されており、的を射えている。

 尚、本作の終盤フィナーレでの展開は、『三文オペラ』もその通りであり、何も本作の脚本の独創ではない。そもそも、悲劇のバロック・オペラが終章にデウス・エクス・マキナが出て、一挙に問題が解決するというハッピーエンドは、伝統的なオペラの悲劇のエンディングである。

 原作演劇『三文オペラ』の初上演は、1928年のことであるが、この演劇の原作は、ジョン・ゲイの『乞食のオペラ』であり、こちらは、1728年が初上演である。つまり、『三文オペラ』と『乞食のオペラ』の間には丁度200年の差がある訳であるが、『三文オペラ』では、ある女王の戴冠式が、本作の映画と同様に一つのプロットとなっており、それが、ヴィクトリア女王の戴冠式であるとすると、1837年のことになる。となると、正に、『乞食のオペラ』と『三文オペラ』のほぼ中間地点となる。こう考えると、ブレヒトは、実に上手い、作品の時間的設定を行なったと言えるであろう。

 原作演劇『三文オペラ』では、メッキ―・メッサ―、即ち匕首のメッキ―と、「乞食王」ピーチャムの箱娘ポリーの関係が中心であるのであるが、本作では、マックとジェニーの関係に焦点が置かれており、また、本作では、ジェニーとはJenny Diverと、『三文オペラ』とは異なり、しっかり述べられているので、このJenny Diverとは誰のことかを少々説明しておこうと思う。

 Jenny Diverは、本名をMary Youngといい、1700年頃にアイルランドで生まれた。両親に捨てられた後、施設で育ち、裁縫師の技術を身に付けるものの、ロンドンに移り住み、そこで、女スリの窃盗団に仲間入りすることになる。結局、そのリーダー格になり、綽名でJenny Diverと呼ばれる。彼女は18世紀前半で最も悪名高い存在となるが、彼女は中・上流の市民と交わり、教養もあり、身なりもよく、魅力的な存在であったと言う。

 1733年と38年に二度、司法に捕まるものの素性が同定出来なかったことから、一時アメリカ大陸にあるヴァージニアに送られたりもしたが、イギリスに戻ってきて、再び自由の身となる。1741年1月に三度目に捕まり、この時には、素性が分かったことから、結局、アメリカへの強制送還を逃れた重罪の故に死刑の処罰を受ける。同年3月18日、他の死刑判決を受けた人間と共に、死刑に処される。その際、彼女は黒いドレスを纏っていたと言う。

2025年1月20日月曜日

大空に乾杯(日本、1966年作)監督:斎藤 武市

 本作の制作年1966年とは、第一回東京オリンピックが開催された1964年の二年後のことであり、第一回東京オリンピックとは、産業国家としての日本が国際的に認められた「報償」とでも言えるものである。1966年とは、つまり、敗戦、闇市、朝鮮戦争特需、「奇蹟の復興」、そして、「所得倍増計画」を謳えた高度経済成長政策が一定の成果を上げた戦後約20年の期間が経過して、一段落した時期と言える。そして、社会運動としての世界的な学生運動が起こる68年まであと二年、73年の「石油ショック」まで、あと七年の時間的立ち位置である。

 このような時間的立ち位置を鑑みるに、昭和三十年代(1955年から64年まで)の経済発展の「バラ色の夢」は、昭和四十年代に入ってもこのまま夢想し続けることが出来ると、制作年の66年段階では大方の日本人は信じていたのではないか。

 映画の冒頭のプロットの、「スポ根」ものを思わせる「ステュワーデス物語り」は、国内航空線の羽田・大阪間が、プロペラ機ではなく、ジェット旅客機が使われている話しである。しかし、大病院の内科の部長(下元勉が好演)と言えば、中産階層上位に位置するであったろうが、その父親の娘(吉永小百合)が希望して就職しているところを見ると、国際線「ステュワーデス」への憧れはこの時点でも未だに強かったのであろう。現在では、考えられないことではないか。

 一方、浜田光夫が演じている「ゲルピン」の貧乏学生である。浜田の社会階層的背景は、下層階層のものであり、北九州の炭鉱地帯・筑豊で育っている。正に、高度経済成長に伴なう石炭から石油への「エネルギー革命」の下、経済発展の途上で切り捨てられていった炭鉱夫の生活を知っている人間である。このような社会的背景を持って育った浜田が、大学の偏差値が低い「園芸大学」で自ら望んで勉学しようとしていることは興味深い。1960年代は、水俣病、四日市ぜんそくなどの環境汚染、公害問題が、人々の意識にのぼってきた時期である。とすれば、園芸に興味を抱く浜田は、日本におけるエコロジー運動を担う存在になるかもしれない可能性を持った人間であったとも言える。

 更に、吉永の母親(佐々木すみ江が熱演)は、病院長の娘だった女性であるが、ストーリー上の現代たる60年代半ばに、新興宗教に凝っている人間である。消費文明の浅薄さに何か心の「空洞」を感じて、その「穴」を埋めるために日本では60年代から新興宗教が流行り出していたと言われる。脚本家二氏は、しっかりと当時の日本社会の傾向を捉えていたとも言え、その30年後の「オウム真理教」のテロ行為が、このような社会的傾向の悪しき帰結の一つであったと考えると、本作を単純な日活青春映画として片付けてしまのは残念にも思える。

 ウィキペディアで調べてみると、本作には同名の原作小説があると言う。著者は、1931年に新潟県で生まれた若山三郎という人間で、作家になる前は、在日米軍のための特殊通訳を務めていた人物である。即ち、英語が出来たということで、本作のストーリーの下地はこの通訳時代に培ったものであろう。吉永の年上の同僚十朱幸代が体現する「合理的な近代女性」像は、なるほど、若山の作家になる前の前身から来ているのであろうか。彼女は、自分が仕事中に乗らない自家用車をレンタカーとして貸し出し、自分のマンションのアパートには若い家政夫(!)を住まわせて家事をさせ、自分がいない時には、この家政夫にマネージさせて、居間をパーティー会場としてレンタルするという「合理主義者」である。作家若山は、1960年代に通訳業を辞めて本業の作家となるが、彼こそが、昭和30年代に一大ブームとなったという「貸本小説」の売れっ子小説家の一人であったと言われ、『お嬢さんの...』とか、『青春の...』とかという題名の作品を多作している。若山は、現代日本で言えば、高校生当たりをターゲットとするジュヴナイル小説の小説家の先駆けの一人であったと思われる。

 さて、それでは、本作もその一本である「日活青春映画」とは何であったか。筆者の、すぐに思い出せる、戦後の日本映画史的な規定としては、特撮・怪獣映画の東宝、現代家庭劇の松竹、ヤクザ映画の東映で、日活と言えば、「ロマンポルノ」である。但し、この「ロマンポルノ」は、日活の1970年代以降の製作路線であり、それ以前は、日活の路線の一つは、「青春映画」路線なのであった。

 という訳で、ここで少し、日活に焦点を当てて、日本映画史を綴ってみたい。「日活」とは、「日本活動写真株式会社」の略称であり、「活動写真」という語感からして古い。この古い名称に劣ることなく、1912年創立の日活は、映画製作会社としては一時期中断するのではあるが、日本で現存する最古の映画製作会社である。

 日活は、最初は剣戟映画の製作会社として「名門」となるが、その一方では、早くから映画女優を適用したりする前衛性を見せるものの、会社経営の失敗が祟って、1930年代末には、会社株を松竹と東宝に保有される状況となり、42年の「戦時統合」では、更に、製作部門を新進の「大映」に移譲して、自らは、映画配給・上映の専業会社に「堕して」いた。

 敗戦後も日活は、大映の映画作品や洋画の上映で経営を続けていたが、大手の東宝・松竹にこの部門でも経営的に圧迫され、1950年代の前半に始まる日本映画界の第二の絶頂期を横目で見ながら、日活の映画製作部の再興を準備していた。こうして、1954年に製作再開第一作『国定忠治』を公開する。その翌年の55年が日本映画界の絶頂期のピークであったことを鑑みると、日活の製作再開は、少々遅きに過ぎた感がある。

 更に、製作再開第一作が『国定忠治』であることからも推測できる通り、制作スタッフでは日活が嘗て使っていた人間を引き戻せたとしても、俳優の引き抜きには難航し、新派・新国劇の俳優を使わざるを得なかったことを物語っている。そんな中で、石原慎太郎の小説『太陽の季節』を原作とした56年の同名作品は、無軌道な青年男女の生態を描いた作品として反社会的な「太陽族」を生み出す社会現象となる程であった。これを受けて、日活は、低予算で、若者向けの「無国籍アクション映画」製作路線を採ることにし、そのために、他社の二番手俳優の引き抜きや新人俳優の発掘・養成に乗り出し、「和製ジェームズ・ディーン」こと赤木圭一郎などのスターを生み出す。

 このようにして生み出された「看板スター」の男性陣は、赤木などが「日活ダイヤモンドライン」と、また、女性陣は、浅丘ルリ子などが「日活パールライン」と呼ばれた。吉永もこの「パールライン」を形成する一員として60年に日活に入社している。

 その二年後、吉永は、映画『キューポラのある街』で、埼玉県川口市の鋳物工場で働く熟練労働者の娘役で主役を演じて、ブルーリボン賞主演賞を17歳の若さで授賞して、一躍スターとなる。更に、この映画でも既に、「日活グリーンライン」の一員を構成する浜田が脇役を演じており、この二人が、50年代後半の「アクション映画」路線に取って代わって、60年代の日活の「青春映画路線」の立役者となるのである。こうして、二人を主役として、本作も「日活青春映画路線」に乗っかった一作品になる訳であるが、本作で二人の脇役を演じる、どういう訳かセーラー服が余り似合わない和泉雅子は、吉永ともう一人の松原智恵子と「日活三人娘」と呼ばれた存在であった。

 1971年から始まる「ロマンポルノ」路線は、経営に喘ぐ日活の苦肉の策であったが、この路線では、宮下順子などの新しいスターは生み出せても、従来の吉永などの「清純派スター」は日活から離れていくことを意味した。しかし、正にこの路線こそが、低予算で制作することを義務付けられた「監督の卵」達のために、実践的訓練の場を提供することにもなり、ここで育った監督達がその後の日本映画界を担う存在となっていくのである。

青い山脈(日本、1963年作)監督:西河 克己

 冒頭から立派な天守閣が大きく映し出され、早速、この城にまつわる話しが講談調で語られる:  「慶長五年八月一八日の朝まだき、雲霞の如く寄せる敵の大軍三万八千に攻め立てられ、城を守る二千五百の家臣悉く斬り死に、城主は悲痛な割腹を遂げ、残る婦女子もまた共に相抱いて刺し合い、一族すべて...