2025年12月31日水曜日

素肌の涙(英国、1999年作)監督:ティム・ロス

 本作の原題は、『The War Zone』であり、これをそのままカタカナ書きにしても日本人にも分かりそうな題名である。「ザ・ウォー・ゾーン」、つまり、「戦争ゾーン」、「交戦地域」とでもなろうか。これをそのまま邦題にしては、戦争映画好きの観客を映画館に呼び込むことになり、観始めたら、戦闘場面は一度も登場せず、映画館側に「入場料返せ!」の抗議が殺到すること間違いなしと、恐らく踏んだ配給側は、苦肉の策を思い付く。上半身裸の女主人公をポスターの右下に配置し、邦題は、『素肌の涙』とする。えげつないポルノ映画の題名よりは、センスはいい。邦題のすぐ下には良心的に原題名が書かれてある。しかし、これでも感の悪い人のためにポスターの最も左下に一行、小さく次のように書かれてある:「わたしはパパのお人形」と。こうなると、これはもう「近親相姦」ものか、「家庭内性的加害」関連ものではないかと想像せぜるを得ない。本作は、実際、そうなのである。

 本作の原作も同名の英語題名で、1989年にロンドンで発刊されたものである。原作者は、Alexander Stuartで、本人が本作の脚本も書いているので、原作の内容が著者の意図に反して映画化されたという懸念は持たなくてよいであろう。それでは、戦闘場面が一度も描かれないのに、何故にこの題名なのか。

 ポスターに登場している女主人公は、Jessieジェシーという。彼女は、女子学生程の年齢であり、Nickというボーイフレンド(若いColin Farrellがちょい役で登場)もいる。その彼女が「父さん」と未だに関係があるのである。そのことに同意しているのか、或いは、少女の時から父親にそのように「飼育」されたのか。しかし、事態はそのままでは収まらず、別の重大な「家庭内性的加害」にストーリーは発展する。こうして、本来平和であるべき「家庭」が、敵味方の敵対関係に突入する。この、言わば「戦争」状態の家庭を指して、原作者は、「The War Zone」という題名を付けたと思われる。正に、このことを象徴するかのように、海岸沿いに作られたトーチカが舞台に登場し、ここで父娘が行為に及び、それを、ジェシーの弟Tomが、でばかめPeeping Tomよろしく、ヴィデオ撮影するという、観衆の道徳観念を逆なでするようなシーンが繰り広げられるのである。本作は、故に、覚悟してご覧あられたい。

 この陰鬱なストーリーに呼応するように、戸外の場面は、灰色の空に覆われ、雨が降り、道は泥のぬかるみである。場所は、イギリスのDevonデヴン州の北海岸にある村である。デヴン州とは、ロンドンとほぼ同緯度で、グレート・ブリテン島の三角形の左下の角(かど)にある州である。ロンドンからこの方向への最西端がCornwall州でその手前の右隣の州がデヴン州である。州の南側がドーヴァー海峡に面しているとすると、北側がブリストル湾に面しており、その湾を沿うように西に向かうとHartland岬に辿り着く。我々は、このハートランド岬沖の荒波を画面で見るのである。そして、海岸沿いのトーチカは、大西洋の海からイギリスを目指すかもしれないドイツ海軍を監視するための、第二次世界大戦中の監視所であったのであろう。ストーリーに合ったロケーションの選択に納得する。そして、冬の英国を思わせる映像造形を北アイルランド出身の撮影監督のSeamus McGarveyシーマス・マクガーヴェイが担当している。

 監督は、ロンドン生まれの俳優Tim Rothティム・ロスで、本人の最初で、2025年時点で最後の監督作品である。映画の最後に「父に捧ぐ」と出てくる。誰の父なのであろうか。監督のRothか、脚本も書いている原作者のStuartなのか?映画に登場する「父さん」に捧げる訳はないから、原作者の父とすると、本作に登場するTomこそがその父に当たる人物とも考えられる。そして、現実の「Tom」が性加害を受けていない保証はない。或いは、それが監督自身の父親であるとすれば、監督Rothがこのような内容の映画を撮ることへの執着が余程強かったことが窺え、映画内のTomに自分の父親の運命を重ね合わせたのかもしれない。映画の最後に登場する献辞でこれ程、人の運命を思い巡らせたことはない。

 この監督の思い入れがあったのか、Tom役を演じているFreddie Cunliffeフレディー・カンリフへの配役は実に的確さを得ており、随分長いことTom役を演じるべき人間を探したのではないかと想像する。ウィキペディアによると、彼は、当時、素人俳優であったと言う。Jessie役を演じたLara Belmontララ・ベルモントも同様に、当時、素人俳優であったとウィキペディアに書かれてあり、監督Rothの慧眼に感心せざるを得ない。彼はしっかりと俳優達から演技を引き出している。

 本作での「母ちゃん」役は、最初は目を疑ったのであるが、調べると、やはり、Tilda Swintonである。T.スウィントンの女優としてのイメージは、瘦せ型で、両性具有的な存在である。本作では、何か丸顔で、身体も太り気味であり、子供達にもオープンに「父ちゃん」と添い寝されている場面で見える腹部は、本当にぶよぶよである。ここまで、体格まで変えて、役作りをするものであろうかと、彼女の経歴を調べると、私生活では、本作が発表される二年前に男女の双子を儲けていると言う。丁度産後で、しかも乳児に授乳させていた時期と撮影が重なったのかもしれない。彼女は、1992年作の『オルランド』(Sally Potter監督)で、オルランド役を演じて、国際的に有名になっていた女優である。その彼女が、Roth監督の初監督作品に出演を承諾したことには、本作のテーマ性に対する彼女の思い入れが十分にあったのであろう。

2025年12月27日土曜日

潮騒(日本、1964年作)監督:森永 健次郎

 本作の原作者・三島由紀夫は、1951年12月25日に、アジア諸国を除いた「世界」一周旅行のために、まずは、ハワイに向けて船出した。丁度クリスマスであり、彼は初めてタキシードを着て、船上のクリスマス・ディナーに参加する。1951年と言えば、西側の連合国諸国とのみサンフランシスコ講和条約が結ばれ(故に、ソ連と中国などを除く)、同時にまた、第一次日米軍事同盟も署名された年である。未だに日本人の海外渡航は制限されており、三島は、朝日新聞の特別通信員として出航の許可を得る。こうして、52年の元旦をハワイのホノルルで祝い、更に船で、その数ヶ月前に平和条約が結ばれたサンフランシスコ港に入る。そこからは、飛行機も入れた移動となり、三島はニューヨーク、ブラジルのリオ・デ・ジャネイロなど見て、52年三月にヨーロッパ入りする。パリで偶然に木下恵介や、『潮騒』の初めての映画化の時に音楽を担当することになる黛敏郎とも知り合う。ロンドン滞在後、四月下旬に三島の「眷恋(けんれん:恋焦がれること)の地」たるギリシャに到着する。とは言え、ギリシャ滞在は四日間のみで、4月30日にローマに到着し、ここに5月7日まで滞在した後、帰途につき、5月10日に羽田空港に戻ってくる。通算四ヶ月半に及ぶ三島の初めての、言葉の本当の意味での外遊であった。

 三島は、既に旅行中の52年二月から「見聞録」・紀行文を新聞や雑誌に発表していた。四月には『あめりか日記』を、五月に『リオ・デ・ジャネイロ』などを、七月には、パリの滞在が不本意にも一番長かった『憂鬱なヨーロッパ』、そして『希臘・羅馬紀行』などを発表する。同年十月には、これらの紀行文をまとめた単行本『アポロの杯』が朝日新聞社より刊行されている。題名にギリシャ神話の太陽神アポローンが織り込まれていることにここでは注意したい。

 この旅行は三島にとって、これまでの自己の作家活動の転機となり、「自己改造」の一つの契機を見つけることになるのであるが、それが、「憂鬱な」西欧の灰色の空に対する、希臘の「青空」であった。つまり、希臘では、真と善は美であり得るのであり、言わば、美しき肉体には善き知性が宿るのである。三島は、「今日も絶妙の青空、絶妙の風、夥しい光。……さうだ、希臘の日光は温和の度をこえて、あまりに露はで、あまりに夥しい。私はかういふ光りと風を心から愛する」と朗唱するが、このギリシャ熱が彼にとって何を意味するかを、本作が撮影された1964年に以下のように記している:

 「それはいはば、美しい作品を作ることと、自分が美しいものになることとの、同一の倫理基準の発見であり、古代ギリシア人はその鍵を握つてゐたやうに思はれるのだつた。近代ロマンチック以後の芸術と芸術家との乖離の姿や芸術家の孤独の様態は、これから見れば、はるか末流の出来事であつた。(中略)ギリシアは、私の自己嫌悪と孤独を癒やし、ニイチェ流の「健康への意志」を呼びさました。私はもう、ちよつとやそつとのことでは傷つかない人間になつたと思つた。晴れ晴れとした心で日本に帰つた。」— 三島由紀夫「私の遍歴時代」よりの引用をウィキペディアのサイトより更に引用

 この三島のギリシャ熱が昇華し、ギリシャ的に「美しい作品」が、ギリシャのレスボス島で繰り広げられた「山羊に育てられた少年ダフニス」と「羊に育てられた少女クロエ」と間の「健康な」恋物語りに似せて、1954年に書き上げられる。それが、本作の原作となる『潮騒』であり、これがベストセラーになったことから映画化の話しが直下に進行し、同じ年にこの原作の一回目の映画化がなされて上映される。という訳で、本作は原作の二回目の映画化に当たり、一回目の十年後のものとなる。その後は、1971年、75年、85年と映画化されており、この五本の映画化作品の中で、吉永小百合が女主人公・初江を演じた本作と山口百恵が同じ役を演じた75年作品が比較的有名なものであろう。

 筆者も原作を読んではいるが、ストーリーはもう思い出せず、ウィキペディアで概略を読むと、本作のストーリー展開とはほぼ一致しているようである。故に、ウィキペディアに出ている、原作上の女主人公・初江をここに引用する:

 「海女。健康な肌いろで、目もとが涼しく眉は静か。鄙びた顔立ちで睫の長い美しい少女。無口で愛嬌がないかと思うと急に娘らしく笑い出し、ぼうっとしているようでいて、よく気がつく娘。宮田照吉の末娘で、志摩に養女に出されていたが、兄が死んだために実家に呼び戻された。」

 「田舎っぽい顔立ち」とはどんな顔立ちか、筆者にも想像できないが、吉永の顔がそうであるようには見えない一方、その他の描写は、吉永の外見に一応は合っていそうではある。

 それでは、原作ではむしろこちらに重点が置かれているように思われる男主人公・新治はどうであろうか。ウィキペディアの同様の箇所から引用する:

 「18歳の漁師。背丈が高く、体つきも立派だが、顔立ちはその年齢の稚なさがある。よく日焼けし、形のよい鼻と黒目がちな目。笑うと白い鮮やかな歯列が見える。一昨年に新制中学校を卒業したばかり。学校の成績は悪かったが、歌島を5周できるほど泳ぎが得意。無口な青年で青年会ではいつも子供っぽい笑顔で人の意見を傾聴している。母と弟の三人暮し。」

 蓋し、「背丈が高い」以外は、本作でこの役を演じている、日活青春映画での吉永の相方・浜田光夫にぴったり合っているように思われる。

 撮影(松橋梅夫)は、基本的に、原作の舞台である三重県神島でなされているが、一部は撮影所撮影でもある。

 「鄙ぶる」に対する言葉は、「みやぶる」であり、これを漢字を混ぜて書くと、「宮ぶる」となるが、これが更に「宮び」、「都び」、「雅び」となり、現在の「雅(みやび)」となる。つまり、「鄙」(田舎)に対する「雅」とは、「宮廷風」乃至は「都会風」を意味し、ギリシャ的多神教と同様に、神道の神々が住む神島に、都会からの邪悪を持ち込む男女が、万葉集にも歌われている神島(古名を「歌島」)にやって来る。千代子(松尾嘉代)と安夫(平田大三郎)である。東京の女子大学に行く千代子は、新治に横恋慕をする。一方、標準語を話す安夫は、その内結婚するであろうと思われていた初江を強引に自分のものにしようと夜に井戸の水汲み当番に当たっていた初江を襲う。しかし、自慢の蛍光針付き腕時計に引き寄せられたハチに襲われて、自分の「意図」を達成できずに安夫は退散せざるを得なくなる。この神話的エピソードは、スタジオ撮影である。この安夫が、「ダフニスとクロエ」に登場するダフニスの恋敵ドルコンに当たる。ここで面白いのは、三島が、都会と田舎の対立の構図を価値転倒させて、都会を悪に、田舎の村落共同体を善として描いていることであろう。

 その三島が言う:
 「辺鄙な漁村などにゆくと、たしかにそこには、古代ギリシアに似た生活感情が流れてゐる。そして、顔も都会人より立派で美しい。私はどうも日本人の美しい顔は、農漁村にしかないのではないかといふ気がしてゐる」。

 三島がこう述べているのは、本作が上映された1964年の六月号に出た雑誌『若い女性』の記事「美しい女性はどこにゐる―吉永小百合と『潮騒』」でである。昭和文学史における最も派手な行動派作家三島は、初江を体現する吉永の配役をまんざら悪いとは思ってはいなかったということになろうか。

 万葉集歌人・柿本人麻呂は、神島の回りを舟で遊ぶ恋人のことを想って次のように詠んでいる。和歌中の「伊良虞」とは、愛知県渥美半島の先端にある岬の地名である:

  「潮騒(しほさゐ)に 伊良虞(いらご)の島辺(しまへ) 漕ぐ舟に 妹(いも)乗るらむか 荒き島廻(しまみ)を」

2025年12月21日日曜日

スリー・ビルボード(USA、英国、2017年作)監督:マーティン・マクドナー

 まずは、本作の監督Martin Macdonaghマーティン・マクドナーについて述べなければならない。彼は、1970年にロンドンで生まれ、そこで育った劇作家である。しかし、両親はアイルランド人であることから、彼は、英国とアイルランド国の二つの国籍を所持している。つまり、彼は、アイルランド人の血を引きながらも、アイルランドの土地では育たなかった人間であるということで、このことは、アイルランドを題材とした彼の演劇作品を理解する上で重要な鍵であるように思われる。劇作家になるための教育を受けることなく、ものにした作品が1995年にある舞台演出家の目に止まり、それ以来、1990年代の後半に合計四本の、アイルランドを舞台とした作品を発表し、USAの演劇界でも成功する。四本の作品ではそれぞれ、威圧的な母親に支配されている未婚の中年女性、墓地で遺骨を掘り出す仕事を引き受けた男、父親を射殺した兄弟、身体障害者の青年などをそれぞれ主人公の一人とする。これらの作品では、主人公を巡る状況が少々規範から外れているところから生じる滑稽味が生かされており、M.マクドナーは、そのような状況下での人間劇を描くことに定評があると言われている作家である。本作でも、娘を殺された母親(フランシス・マクドーマンド)、威圧的な母親に支配されている人種差別主義者のオフィサー警官(サム・ロックウェル)、そして、癌末期症状の警察署チーフ(ウディー・ハレルソン)と、ドラマティックな人間劇が演じられる状況はしっかりと整っていると言えるであろう。

 M.マクドナーは、2004年に自身の脚本で撮った短編劇映画『Six Shooter』(2005年発表作)でデビューを飾り、早速、USAアカデミー賞でオスカーを獲得する。その三年後の2008年には自身の脚本を監督した『In Brugesブリュージュにて』(邦題は『ヒットマンズ・レクイエム』) で以って長編劇映画作品を世に問い、USAアカデミー賞の脚本賞にノミネートされ、英国アカデミー賞では、脚本賞を受賞するという成功を収める。

 そして、2012年作の『セブン・サイコパス』を経て、本作は、M.マクドナーの劇映画三作目となるものである。脚本はもちろん本人であり、正に、M.マクドナーは映画作家である。音楽は、M.マクドナー組とも言えるUSA出身の音楽家Carter Burwell、撮影は、同じくM.マクドナー組の一人と言えるイギリス人キャメラマンBen Davisである。

 USAと英国の合作映画である本作は、数多くの映画賞を獲得しているが、ヴェネツィア国際映画祭では、脚本賞を、英国アカデミー賞では八部門でノミネートされ、作品賞、最優秀英国映画賞、オリジナル脚本賞、主演女優賞(F.マクドーマンド)、助演男優賞(S.ロックウェル)を受賞している。一方、USAアカデミー賞では、六部門でノミネートされ、主演女優賞と助演男優賞を獲得している。助演男優賞には、W.ハレルソンもノミネートされていたが、こちらは獲得とまでには至らなかった。F.マクドーマンドについては、これが、ジョエル・コーエン監督作品『ファーゴ』(1996年作)に続く二度目のUSAアカデミー賞・主演女優賞の受賞であり、2021年には『ノマドランド』(クロエ・ジャオ監督)で同賞を三度目に獲得することになる。

 F.マクドーマンドは、実は、ジョエル・コーヘン監督の劇映画『ブラッド・シンプル』(1984年作)で映画界に主役でデビューしており、同年にJ.コーエンと結婚しているが、ウィキペディアによると、この『ブラッド・シンプル』にも、道路脇にある広告版が登場していると言う。であれば、脚本も書いた監督のM.マクドナーは、コーエン兄弟に本作でオマージュしているのではないかと思える。実際、コーエン兄弟映画のグロテスクから生まれる「可笑しみ」は、M.マクドナーの作品構成上の美意識に繋がるものである。しかし、この推理はどうも正しくないようで、M.マクドナーは、ある時USA国内を車で移動中、テキサス州を通るInterstate 10の道路脇に三枚の広告版を偶然に見たと言う。しかも、それは、本作同様に、ある町の警察を非難するものであった。道路脇の側溝に車ごと落ちて亡くなった娘の死を疑問視したある父親がこの広告を出したのであったが、実は、娘の元夫が妻の頸を絞めて殺し、殺害後に、事故を装ったものであったのであった。成程、「現実は小説より奇なり」と言うが、本作も、この三枚の広告版の広告から人間劇が展開する。ストーリーは実に上手く構成されており、本作が多くの脚本賞を獲得したのも頷けるものである。

 尚、邦題は原題の一部をそのままにしたものであるが、とは言え、『スリー・ビルボード』はないであろう。「スリー」であるから、「ビルボード」は複数形でなければいけないはずである。原題も『Three Billboards Outside Ebbing, Missouri』と複数形である。であれば、やはり、邦題も『スリー・ビルボーズ』としてもらいたかったところである。

2025年12月10日水曜日

MEMORIES(日本、1995年作)総監督:大友 克洋

 本作は、筆者がこのコメントを書いている2025年から振り返ると、丁度30年前の1995年に発表されたオムニバス・アニメ劇場作品である。題名『MEMORIES』に相応しく、日本の「失われた」30年で日本の何が失われたのかを考えるのに最適な作品かもしれない。

 原作コミックを提供し、製作総指揮、企画、総監督、そして、第三話「大砲の街」の監督を務めたのが、アニメ・漫画界の巨匠・鬼才たる大友克洋である。幻惑的なSFサスペンスたる第一話「彼女の想いで」の監督は、森本浩司で、ギャグ漫画的なドタバタ・パニックストーリーたる第二話「最臭兵器」の監督は岡村天斎である。

 音楽には疎い筆者ではあるが、作品を観ていながら、それぞれのオニムバスのストーリーに合わせて、独自のコンセプトで音楽制作がなされたのであろうと想像して、ウィキペディアで調べてみると、以下のような箇所が出てきた:

 ・・・・・・ 音楽は、「彼女の想いで」をクラシカルであると同時に先鋭的な菅野よう子、「最臭兵器」をジャズからポップス現代音楽民族音楽など、ジャンルを横断して活動する三宅純、「大砲の街」を寺井昌輝との電子音楽ユニット・Dowserとしても活動する長嶌寛幸が担当し、3本それぞれに異なるコンセプトの音楽がつけられている。そして、全体のオープニングとエンディングの音楽には、「『MEMORIES』というタイトルが懐古的な印象を与えるので、オープニングとエンディングには『今の音楽』を持ってきたかった」(大友克洋)という理由で、テクノバンド・電気グルーヴ石野卓球が起用された ……

 という訳で、本作は、画面もさりながら、音楽も十分に楽しみたい作品であり、一度目はストーリーを追うだけで余り音楽のことを考える余裕がないはずであるので、是非、二度、三度と鑑賞して、映像、ストーリーに対する音楽の関りを感じ直したいものである。

 さて、第一作目の「彼女の想いで」の映像を見て、アニメのことを少しでも知っている人であれば、誰でもそうであろうと思うが、「あっ、これは今敏のタッチ!」と気付くであろう。それは、実際そうで、アニメ界の逸物であった今敏が第一作目の脚本と設定を担当している。ここでは、大友の関りが一番少ないと言える。一方、第二作目では、大友が脚本とキャラクター原案も担当している。

 大友監督作品たる第三作目は当然大友が大きく関わっているが、それは、原案、監督のみならず、脚本、キャラクター原案、美術も担当しているという、相変わらずの完璧主義者ぶりである。子供が主人公なので、何か童話的なキャラクター創造なのであるが、ストーリーはデストピア的で、どこかの軍事独裁国家での話しを思わせ、色彩も粗く暗い感じである。

 とりわけ、二十分弱のこの第三作目に関して特筆すべきは、これがワンカット作品であることである。最初の第一場面から画像は切れることなく、流れるようにして、最終場面まで進行する。一部はCGが使用されていると言うが、基本的には、アナログ作業によるもので、作画監督の小原秀一、撮影監督の枝光弘明の職人技的な技量をここでは十二分に堪能したものである。

2025年12月9日火曜日

駅馬車(USA、1986年作)監督:テッド・ポスト

 『Stagecoach』というのが、本作の原題である。西部劇で『駅馬車』と言えば、西部劇映画史上の、あの傑作『駅馬車』(制作年:1939年)がある。第二次世界大戦の勃発年に撮られたこの作品の監督は、あのジョン・フォードで、主演は、その前年まで大根役者と言われていたジョン・ウェインである。そして、J.ウェインの本作での当たり役が、リンゴ・キッドである。実は、この映画の原題も『Stagecoach』なのである。両作品を混同しないのかと、訝るかもしれないが、元々のオリジナル作品は、劇場上映作品で、本作は、1986年制作のテレビ映画としてリメイクされたものである。という訳で、本作を観ていて、そのカメラワークが少々小ぶりなことに満足できなかった筆者も、この事実がウィキペディアを調べて分かって、成程と頷いた訳である。

 リメイク版のストーリーは、その登場人物を含めて、ほぼオリジナル作品に沿うものであるが、もちろん、異なる部分もある。その代表的例が、本作に登場する獣医のドク・ホリデイであろう。オリジナル作品では単なる飲んだくれの医者であったものが、本作では拳銃も使えて、北米インディアンの「襲撃」も、インディアン達が自分達の土地を守るための正当防衛であると言うほどの皮肉屋でもあり、この役作りは、本作で最も見どころのあるところであろう。このドク・ホリデイ役を演じているのが、Willie Nelsonで、彼は元々はアメリカ・カントリーのシンガーソングライターであり、そのオープンな音楽性とヒッピー的なスタイルからカントリー界の異端児と言われたと言う。そうであれば、映画内でのインディアンについての上述の発言も、むべなるかなである。

 このW.ネルソンと1970年代半ばからパートナーを組んでいたのが、Waylon Jenningsウェイロン・ジェニングスで、本作では、少々気障な賭博師Hatfieldを演じている。W.ジェニングスは、W.ネルソン同様にカントリー・ミュージシャンで、ウィキペディアによると、「彼の独特なイメージは、長い髪と顎髭、そして彼の登場時に身に着けていた黒い帽子と黒革のベストによって特徴付けられ」ていたと言う。本作でも同様な出で立ちで登場するが、オリジナル作品では、このハットフィールドがアメリカ南部の上層階級出身であることにストーリー展開上重要な意味を与えているのであるが、本作ではその点は明らかになっておらず、また、彼は、オリジナル作品ではインディアンに討たれて死ぬことになるところが、本作ではインディアンの襲撃を無事に生き延びることになる。

 W.ジェニングスは、1970年代にヒット曲を連発しており、この時期に、音楽的に、所謂「アウトロー・カントリー」という方向性を打ち出していったと言う。それが、W.ネルソンの音楽の趣向と合ったことから、彼等は、パートナー関係を結んだ訳であろうが、このW.ジェニングスは、既に、1960年代からJohnny Cashと既知の関係にあった。

 J.キャッシュは、USAのポップ音楽界の、プレスリーに並ぶ、「巨星」であったが、彼もまたW.ジェニングス同様に黒ずくめの服装が好みであり、その愛称は、「Man in Black」であったし、1971年に同名の音楽作品を発表している。本作では、マーシャルであるCurty Wilcoxを演じている。という訳で、ウェスタン映画にはカントリー・ミュージシャンが向いているのは当然であり、それでは、本作のリンゴ・キッド役を演じるKris Kristoffersonはどうであろう?

 果たしてK.クリストファーソンもカントリー音楽のシンガーソングライターであった。このことは、寡聞にして、筆者の知るところではなかった。そして、ウィキペディアによると、1985年にK.クリストファーソンは、上述の三人のカントリー・ミュージシャンと共に、「The Highwaymen」なるスーパー・バンドを組み、同年に『Highwayman』なるアルバムを出しており、しかも、このアルバムはヒットしたのであった。

 つまり、本作は、この四人のカントリー音楽界のスター達をヒーローにして映画化したフューチャーものと言え、映画の終盤にこの四人が隊列を組んでリンゴの仇がいるサルーンに向かう場面は、歌舞伎の花道上でのシーンであったのである。となれば、ラストシーンの、リンゴと娼婦Dallas(本来は舞台女優たるEliszabeth Ashleyが好演)の「道行き」も納得できる訳である。目出度し、愛でたし。

2025年10月29日水曜日

アイ・イン・ザ・スカイ 世界一安全な戦場(イギリス、2015年)監督:ギャヴィン・フッド

 本作の制作は2015年であるが、その前年の14年には、『ドローン・オブ・ウォー』という訳の分からない邦題のUSA作品が既に発表されていた。この映画の監督は、その脚本も書いたAndrew Niccolで、主役は、US空軍少佐を演じるEthan Hawkeである。原題が『Good Kill』と、その主題を的確に突いていて、自らはその場にはいないのであるが、それでも、攻撃型ドローン「Reaperリーパー」(「草刈り鎌」の意)を使って、敵のアフガン人テロリストを爆殺していくUS空軍少佐の内面の空虚と葛藤を描いたものであった。本作も同型のドローンMQ-9 Reaperが登場し、そのストーリーは、ケニアのナイロビに潜伏する英国人テロリストを如何に「中立化」するかを巡るものではあるが、その立て付けは、個人の内面の問題ではなく、軍事・政治・倫理の枠組みでテロリストを間接的にKillすることの意味を政治スリラー映画として制作したものである。本作のラストシーンの情緒性はいただけないが、そのテーマの政治性は大きく取り上げられるべき問題であり、評価したい。脚本は、Guy Hibbertガイ・ヒパートで、本作により、2016年度英国映画賞で脚本賞を獲得している。監督は、Gavin Hoodギャヴィン・フッドという白人系の南アフリカ人で、本作では、US空軍中佐Ed Walshとしても台詞付きで登場している。主演の一人は、鉄血の英国軍人キャサリーン・パウエル大佐を演じるHelen Mirrenヘレン・ミレンである。

 第二次世界大戦において、制空権を持たない者は戦争に負けることがはっきりした。そして、戦略的空爆は、第一次世界大戦で明確になった総力戦において、敵方の戦争遂行能力に打撃を与えるために肝要・不可欠のものとなる。さて、1960年代から70年代に掛けてヴェトナム戦争で米兵を現地投入して、「痛い目」にあったUSAは、軍事的対立には、出来るだけアメリカ兵の海外派兵をせずに、これを解決しようとする。となると、戦略的空爆により大きな意味が置かれるようになる。その典型が、1990年代のユーゴスラヴィア内戦におけるNATO軍の行動の在り方で、NATO軍は、現地には歩兵を派兵せずに、空爆により内戦とジェノサイドを終わらせようとしたのであった。こうした戦争の在り方の変化に対応して、攻撃型ドローンの開発も急速に行なわれるようになったのであろうし、しかも、ジェット戦闘機であれば、有人でもあり、経費も嵩むところが、UCAV(unmanned combat air vehicle無人戦闘航空機)であれば、パイロットを失う危険もなく、軍事衛星の整備のためのコストを除けば、兵器自体の経費もより安く済む。こうして、USA軍のUCAVたるMQシリーズが開発され、現在では改良型のMQ-9まで来ている。MQ-9 Reaperは、既に2007年より運用されているが、2001年の同時多発テロ事件以来、国際テロリスト集団との「War」が国際政治上の焦眉の的となっており、この関りでも、上述の『Good Kill』のようなテーマが映画でも取り上げられることとなる。因みに、本来的に言って、国家対テロリスト集団という構図を「戦争」と呼ぶことに疑問があるのではあるが。

 MQ-9 Reaperの仕様は、以下の通りである:
長さ:11 m、翼幅:20 m、最高高度:15.200m、運用高度:7.600m、滞空時間:14〜28時間、航続距離:5.926km、最高速度:482 km/h、巡航速度:276-313km/h、ハードポイント(ミサイル固定装置):6である。

 遠隔操作員は二名で、パイロットが一名、センサー員が一名となる。本作では、この要員がUSAネヴァダ州にある地上誘導ステーションでドローンを操作している。作戦本部はイギリスであり、作戦地は、ケニアのナイロビという「国際性」である。しかも、ナイロビ現地のケニア情報部の要員は、鳥型ドローン(Ornithopterオーニソプター)や昆虫型ドローン(Insectothopterインセクトソプター)を使用するという手の入れようである。(-pterとは、ギリシャ語で「~の翼」を意味し、Helicopterヘリコプターとは、「回転翼」を意味する。)

 イギリスの作戦本部は、二箇所に別れており、パウエル大佐が勤務しているイギリス軍常設統合指令部は、大ロンドンの北部に接してある地域に存在しているノースウッド・ヘッドクォーター内にあって、実働部隊である。常設統合指令部は、もちろん、文民統制下にあることから、イギリス政府が構成する「緊急事態対策会議」の下に置かれている。この「緊急事態対策会議」は、イギリス政府・内閣府内に置かれている。その正式名称は、Cabinet Office Briefing Rooms(内閣府ブリーフィング・ルーム)で、その頭文字を採って「COBR」と略するが、これでは、発音するのに座りが悪いので、このルームの内、A会議室を多く使うことから、略称として「COBRAコブラ」と言いやすい方を取っているようである。

 COBRAは、議長となる内閣総理大臣乃至は担当大臣が、更に、関連の諸大臣、閣外大臣、関連の警察上級職員などが入って構成される。本作では、実働部隊への指揮命令系統の上位の者として、イギリス海軍中将Bensonが海軍国防副長官として会議体に入って、会議体の決定事項をパウエル大佐に指揮する。更に、パウエル大佐が、アメリカ軍のReaperパイロットやケニア情報部に指示するという具合である。(尚、ある場面では、Reaper操縦者であるUS空軍中尉が、Collateral damageを巡って、パウエル大佐に抗して、ロケット発射を逡巡する箇所がある。軍事行動もまた規則に則ってなされなければならない。その「ブレーキ装置」が如何に軍隊内で機能しているかが、その国の軍隊の民主主義度の計測機となることを本作は見せてくれる。)

 COBRAには、Benson中将以外に、法務長官(Attorney General:検事総長のような地位で、法務大臣と同格かそれ以上の地位にある、歴史ある役職)、外務省副大臣、外務省アフリカ担当の政務次官(女性)など四人が参加しているが、必要があれば、通信連絡で、外務大臣などもその決定を促されることになる。邦題として追加されている「世界一安全な戦場」は、この女性政務次官の言葉をその趣旨に則って言い換えたもので、蓋し、本作の核心を突いた「銘題」である。

 こうして、本作では、イギリス国籍の二人とUSA国籍の一人のテロリストをナイロビで 逮捕するつもりであったものが、事態の展開により、彼等をドローンからのロケット攻撃で殺傷することに替わり、その際に、どれだけのCollateral damageが赦されるのかという政治上、倫理上の問題がCOBRAで議論されることになる。これが、映画中盤のクライマックスとなるが、さて、その議論の結果は如何なるものになるか?

 さて、筆者はこの文章を2025年10月下旬に書いているが、この数週前から、アメリカ海軍がコロンビア乃至ヴェネズエラの海岸から出航した小型船を空爆によって乗組員もろともに爆砕するという軍事行動に出ている。それは、それらの小型船がUSAに麻薬を持ち込もうとする犯罪行為であるからであると唱えている。テロ行為を戦争行為であると見做すことには意見が別れるところであろうが、麻薬持ち込みは、明らかな犯罪行為であり、これに対抗するのは、本来は警察組織の役割である。しかも、ある軍隊が犯罪者を裁判なしで「処刑」するのは、 国際法に違反する明確な違反行為であろう。このように、いわゆる、「Targeted Killing」には、法律上、政治上、倫理上の問題がある。

 そして、空爆には、誤爆やCollateral damage(巻き添え損害)もあり得るのであり、本作は、Collateral damageが60%の可能性であるかを結局45%までに、殆んど故意に下げるという問題も浮き彫りにされている。

2025年10月4日土曜日

ヴェルミリオ(伊、仏、ベルギー、2024年作)監督:マウラ・デルペーロ

 第二次世界大戦末期の北東イタリアの山村に住んでいた、ある一家のこの話しは、まるでドキュメンタリー映画ように、イタリア・アルプスの美しい風景と静謐なピアノ音楽を背景にして淡々と描かれる。このドキュメンタリー性は、実は、本作の女性監督であるMaura Delperoマウラ・デルペーロが、自分の祖父と父親の生活を描こうとしたその個人的な動機によるところもあるが、監督自身がまずはドキュメンタリー畑で映画を撮ってきた経歴にもよるのである。実際に、デルペーロの祖父は教員であり、2019年に彼女の父親が亡くなった時に、家族の話しを聞いていた彼女は、自分の父と祖父の物語りが失われることを恐れて、本作を撮りたいと思ったということである。故に、共同プロデューサーも兼ねている彼女は、もちろん、本作の脚本を書いている。

 本作の監督・Maura Delperoは、1975年にBolzano市に生まれた。ボルツァーノ市にあるカトリック系の高校を卒業した後、1994年からボローニャ大学でイタリア語を勉学し、パリのソルボンヌ大学での留学経験もある。ボローニャ大学卒業後は、この地の高校でイタリア語を教えていた。しかし、2000年代に入って、バングラデシュでドキュメンタリー映画の制作に関係していた友人をバングラデシュに同行することになり、その際、ドキュメンタリー映画制作にも関わることになる。これが彼女が映画界に関わる切っ掛けとなり、2004年にあるドキュメンタリー映画の助監督となる。自学でドキュメンタリー映画制作を学び、2005年にある中編のドキュメンタリー映画でデビューを飾る。2008年には長編ドキュメンタリー映画『Signori professoriシニョーリ・プロフェッソーリ』で第26回トリノ映画祭で初めての受賞をする。2010年から二年間、本格的に、ブエノス・アイレスのCentro de formación profesional SICA で演出と脚本制作の勉学をする。初めての長編劇映画制作のために書き上げたプロジェクト脚本は、ベルリン国際映画祭でも注目され、これが、2019年に『Maternal』という題名で制作され、70以上の映画祭で上映されるという反響を得る。本作は、この『Maternal』を受けての五年振りの発表作品となった。

2025年10月3日金曜日

Mr.ノーバディ(USA、2021年作)監督:イリヤ・ナイシュラー

 監督のIlya Naishullerイリヤ・ナイシュラーは、父親がユダヤ系ロシア人で、金持ちの家に育ったところから、子供の頃はロンドンの豪邸に住んでいたと言う。モスクワ生まれの彼は、その後、ロシアに戻り、希望であるロシア映画大学を受験するが、これには受からず、それで、モスクワの映画関連の専門学校に入ったと言う。在学中、モスクワのモスフィルムで撮影助手などをやったりして、映画制作に熱中すると、この専門学校は中退してしまった。(一時は、ニューヨーク市にある著名な芸術関連の私立大学Tisch School of the Artsに入学していたとも言われている。)

 2008年には、自分も参加するバンドBiting Elbowsを結成するが、あるプロデューサーに支援を受けて、2010年から自分たちが制作したアルバムに合わせたミュージックヴィデオ(MV)を監督として制作するようにもなる。これらのMVに対する反響が大きかったことから、 本格的に劇映画を制作する話しが彼に回ってくる。こうして、2015年にSF映画『ハードコア』を発表する。全編が一人称視点で語られるこの作品は、トロント国際映画祭で観客賞を獲得する。この後も、MV制作に関わるが、2018年に本作制作の話しが舞い込む。製作会社の変更などもあって、話しが中々進行しなかったが、結局、彼を監督として本作の制作が始まり、21年に本作を発表することとなった。

 ストーリーにロシアン・マフィアが絡むことから、監督がロシア人であることは、ストーリー・テリング上の強みであるし、安心感がある。また、この映画の全編に漂うユーモア感は、「人種主義者」と呼ばれることを敢えて甘んじて言わせてもらえれば、監督の血のなかに流れているユダヤ的ユーモアの表徴ではないかと筆者には思われる。暴力自体には滑稽味はないのであるが、暴力が誇張されることにより生まれてくるその滑稽感は何とも言えない。更に、暴力の語り口も、それを若干ずらすことによって生じる、スマートさよりもズッコケ感を醸し出すタイミングの絶妙さも、シーンに合わせて聞こえてくる音楽の選曲のよさと共に、この監督のコメディー作家としての力量を思わせるものである。大体、凶悪なロシアン・マフィアとの激烈な闘争の発端は、実は、ダメ親父でも愛してくれる愛娘のものである、ネコちゃんの印が付いたブレスレットが無くなったことにあったという、その非日常性と日常性の段差の大きさに、観ている者はただ苦笑いをするのみである。

 ところで、このネコちゃんをワンちゃんにすり替えて、このワンちゃんがまた、とてつもない殺戮のコレオグラフィーに発展する切っ掛けとなる映画がある。自分の愛妻が自分の死ぬ前に、言わば、形見としてプレゼントしてくれた子犬を元殺し屋は大事にしていたのであるが、その子犬をあるロシアン・マフィアの極道息子が殺してしまう。そこから、大殺戮が始まるのである。この語り口が、『ジョン・ウィック』シリーズの第一作目であるが、この些細な出来事から大闘争が発展するという語り口は本作と同様である。そこで、調べると、本作の脚本家は、『ジョン・ウィック』第一作目と同じ脚本家・Derek Kolstadデレク・コルスタッドであった。成程と思う。

 ジョン・ウィックは、凄腕の殺し屋であったが、本作のMr.ノーバディは、どうもUSAの連邦政府機関で働いていたようである。USAには何故か18もの情報機関があるが、それは、軍関係ものから、非軍事関連のもの、例えば、対外情報機関CIAや国内捜査機関FBIなども存在する。これ程数が多くなると当然機関相互の調整が必要となってくる。そのための、大統領直轄の諸情報機関統括機関として、ロナルド・レーガン大統領は、1981年に大統領令を以って、United States Intelligence Communityが設置された。Mr.ノーバディ、つまり、日本で言えば、「名無しの権兵衛さん」は、どうも、この機関で働いていた名うての監査官であったようなのである。情報機関の活動費は公表されずに闇から闇へと活動費が流れる。この流れをコントールする必要はそれでもある訳なので、闇の中で、その会計検査をする(英語で「auditオーディット」)監査官Auditorオーディトアと呼ばれる存在の一人だったのが、今は風采が上がらず、妻や息子からは尊敬されていない、決まって火曜日にはゴミ出しに遅れるHutchハッチなのである。このハッチが、蚊も殺せない、大人しそうな一般市民の姿から、ロシアン・マフィアのMobster達を殺しまくる戦闘魔への変身するメタモルフォーゼは、痛快であり、ここにまた、本作のユーモア性もあると言える。

 エンディング・ロールが出ても、すぐに席を立たずに本作は最後まで観てほしいのであるが、エンディング・ロールの途中で、余り効いているとは思えないが、それでも「オチ」がある。故に、このオチもお見逃しなく。

2025年10月2日木曜日

女の闘ひ(日本、1949年作)監督:千葉 泰樹

白樺派 ミーツ ハリウッド映画


 白樺派は、明治末から大正期に掛けて日本の文壇の一主流となった傾向であり、その文学創作の思想的背景には、理想主義、人道主義、個人主義があったと言われている。その代表的文学者は、武者小路実篤、志賀直哉、有島武郎などである。

 何故ここで白樺派のことを持ってくるかと言うと、高峰三枝子の兄役で、大学の東洋哲学の助教授をやっている山村聰が、小暮実千代のことについて、自分は彼女と結婚するつもりであることを妹・高峰に告白した時に、次のような言説を以ってその理由付けをしているからである:(映画の40分台以降)

 まず、山村が高峰に小暮の名前を言わずに、小暮のことを説明する。小暮は、「世間が何か意味ありげに見たがるグループに属している人」であり、「世間的な垢にまみれて、もみくちゃにされ通してきたというような人」である。だからと言って、「その人に憐れみを掛けている訳ではない」のであるが、自分は、「どんなに汚されてもまだ残っている、その人の美しさを愛している。」そして、山村は言う:「僕は、本当に幸福な結婚は、必ずしも世間的な常識の上に立たなくても出来るということを証明してやるつもりだよ。」

 この人間の心根の美しさ、そして善意を信ずる態度は、正に、白樺派がその創作の土台とした、理想主義と人道主義であると言える。故に、こうは言えなくないか。この白樺派の精神が、未だ進駐軍に占領されている戦後日本であっても、戦後の民主主義精神と結び付いて、本作を以って復活したと。しかも、その復活は、民主主義を唱導する進駐軍の本国、USAのハリウッド映画の映像美を借りる形で、示されたことから、筆者としては、表題の如く、「白樺派 ミーツ ハリウッド映画」と本作を特徴づけたのである。本作の最初の15分を、背景はそのままにして、俳優だけ、アメリカ人俳優にすげ替えたら、それはそのままアメリカ映画と通せそうなくらいである。最初の教会の場面、新婚旅行で泊るホテル、正に、外国映画を思わせる。という訳で、本作の最初のストーリー展開を、ここでなぞってみよう。

 タイトル・ロールの背景に朧気ながら教会の輪郭が見えており、本作のファースト・シーンは、キリスト教会の外観である。車が数台乗り付けるが、カメラは教会の中は写さずに、すぐにフォト・スタジオでの結婚の記念撮影となる。恥ずかし気にカメラを覗き込めない、ウエディングドレス姿の高峰に、写真屋が顔を少し上げて欲しいと頼んで、写真が撮られると、すぐに場面は移って、電車が走っている場面がワンショット入る。語りのテンポがいい。すると、恐らく合成写真なのであろう(合成技術:天羽四郎)。画面の右下から左に向かう坂道があり、その画面の右は崖、左は大きな針葉樹で、画面の奥には海が見える。入り江なのであろう、村の灯りも見える。その坂道を上ってくる車がある。新婚旅行に、東京から伊豆の海岸沿いのある場所に電車と車で来たのであろう。「Hotel Minami」というネオンサインが映し出され、カメラは、思わせぶりに「Hotel」を大写しにする。すると、回転ドアがホテルの中から写し出され、ホテルの従業員が客が入ってくるのを待ち受けている。画面の右奥から、ホテルのボーイを先頭に高峰達一行が回転ドアを左(!)から入ってくる。すると、カメラは左に首を振って、ホテルの奥にある階段を写す。その階段を降りて来る、黒のアフターヌーンのドレスを着た女がいる。ハリウッド映画を思わせる、意外とさまになる画面構成である(撮影:小原譲治;美術:河野鷹思)。降りて来る女は小暮で、彼女は左手に白い薔薇を持っている。階段に向けてやってくる新婚カップルを待ち受けているようであるが、どうも新郎(役:細川俊夫)とは因縁があるようであり、新郎が、小暮をわざと無視しながら階段を上って小暮の側を通り過ぎようとすると、小暮は新郎に向けて、白い薔薇を投げつける。もちろん、新郎の後ろを若干遅れて階段を上がっていた新婦・高峰も小暮の不可思議な挙動に気付く。新郎新婦がホテルの部屋に入ると、当然、高峰は細川に階段の女が誰であるのかを問い質すが、細川は女は自分が知っている女であるが、銀座のカフヱーUna Copa(スペイン語で「グラス一杯」の意)の女給で、自分にしつこく付きまとって、困っていると言うのである。色々と説明する細川に、信じてはいるが、潔癖過ぎる自分にはどうしても納得が行かないと言って、同じホテル内に別の部屋を取る高峰であった。結局、彼女は結婚の初夜を拒否し、翌朝早く、一人でホテルを発つ。彼女は小暮が勤めているという銀座のカフヱーに向かった。カフヱーの入口で高峰が待っていると、小暮が朋輩と三人でやってくる。女給達の着替え室で、高峰が小暮の朋輩からどんなに小暮が細川に入れ込んでいたか聞かされると、煙草を吸い終えた小暮が高峰に場所を変えて直接話しをする。小暮に、「わたくしを憎いと思っているでしょ?」と聞かれた高峰は、「あたくし、自分が哀しいんです。」と答える。その答えに胸を打たれたように、小暮は、「お可哀そうな方」と言う。嫌味で言っているのではないと補足する小暮に、「今日のこと、お気を悪くなさらないでね。」と少々顔を和ませて言う高峰。二人の間には、心無い男に痛めつけらた心の痛手を舐め合うような、同性同士の共感が生まれていた。ここに「女の戦ひ」は、「女同士が共闘する、心無い男に対する戦い」となる。小暮と別れて、高峰がカフヱーから出てきたところで、後を追いかけてきた細川は、車を降りて、道の反対側に渡ろうとした。しかし、丁度通り過ぎようとしたトラックに轢かれて細川は呆気なく死んでしまう。細川の葬式を終えた高峰は、たとえ初夜はなくとも結婚をしていたことから、細川の実家に、心優しく上品な義理の母(役:瀧花久子)と二人で、未亡人として住むことになる。こうして、ストーリーは新たな展開を迎える(脚本:八住利雄)。

 亡き夫の実家に義理の母と一緒に住む高峰は、無為に時を過ごしていたが、元々好きであった絵画を描くために、義理の母の許しを得て、パリー帰りの気障な画家小谷(役:河津清三郎)の自宅兼アトリエに通うことにする。この悪役小谷・河津が、実は、映画の終盤になって、高峰と小暮の運命にも大きく関わって来ることになるのであるが、山村聰が高峰の兄であること、小谷・河津と小暮が実は因縁深い関係にあったことなどが、可成りストーリーが展開した後に観ている者に明かされる。故に、ストーリー展開が強引であるかのようにも思われ、脚本がよくこなれていない感じがあるのは否めない。

 脚本家・八住(やすみ)は、東宝の前身の一つとなるP.C.L.映画製作会社に1936年に、つまり日中戦争が始まる前年に入社して、本格的に映画脚本家としての道を歩む。戦時中は、東宝の国策映画(例えば、43年作の、帝国海軍予科練の生活を描く『決戦の大空へ』など)の脚本を書いたりする。そのこともあってか、八住は、戦後も『戦艦大和』(本作同様の新東宝製作の1953年作品)などの戦争映画の脚本も書くが、娯楽映画から文芸映画(例えば、新東宝製作の1950年作品『細雪』など)までの脚本を扱う日本映画界の重鎮・脚本家として、とりわけ、1950・60年代を通じてその健筆を振るうことになる。本作は、その八住が戦時国策映画から民主主義キャンペーン映画制作への路線転換を自ら以って遂げる過程の一本であったとも言えるが、本作のストーリー展開のぎこちなさは、民主主義プロパガンダが八住には未だ慣れていなかったところから来ているのかもしれない。

 とは言え、小暮が勤める「カフヱー」に絡む描写は、戦前との連続性があり、1940年代末の日本における風俗営業がどんなものであったかが分かって、興味深い。戦前の「カフヱーの女給」と言えば、「それなりの」社会的評価を受ける存在であった。つまり、「エロ・グロ・ナンセンス」が横行する1930年代に入って、彼女達は、当世風「娼妓」として扱われていたのである。

 永井荷風が1931年(昭和六年)に「女給・君江」ついて描いた作品『つゆのあとさき』にはここらの辺の事情が明確に言語化されている:

 「西洋文明を模倣した都市の光景もここに至れば驚異の極、何となく一種の悲哀を催さしめる。この悲哀は街衢(がいく)のさまよりもむしろここに生活する女給の境遇について、更に一層痛切に感じられる。君江のような、生れながらにして女子の羞耻と貞操の観念とを欠いている女は、女給の中には彼一人のみでなく、まだ沢山あるにちがいない。君江は同じ売笑婦でも従来の芸娼妓とは全く性質を異にしたもので、西洋の都会に蔓延している私娼と同型のものである。ああいう女が東京の市街に現れて来たのも、これを要するに時代の空気からだと思えば時勢の変遷ほど驚くべきものはない。」(『つゆのあとさき』第七章から)

 女給は、元々は「カフヱー」なるものの給仕、ウェートレスであった。カフヱーとは、もちろん、西洋文明、とりわけフランス文化から導入されたもので、1910年代以降、文化人が集まる、言わば、「サロン」としての趣きを備えたものであった。映画でも、山村が小暮と知り合う切っ掛けとなるのは、ある「肉体派文学」の文筆家が、「ウナ・コーパUna Copa」(スペイン語で「グラス一杯」の意)というカフヱーに連れてきたことによる。つまり、このカフヱーは、「カフヱー」文化の草創期の趣きも引きずっていたことになる。

 当初の「カフヱー」には、フランス系で、酒も飲ませるものもあったが、同様に、西洋料理を提供する「カフヱー」もあった。その料理を運ぶ「女ボーイ」ということで、1915年以降から、着物に白いエプロンを掛けた女給がテーブルの近くに立って、お客にサービスをしたのである。更に、「カフヱー」と言っても、純粋にコーヒーのみを提供するものもあり、これが、「純喫茶」という名称として今日も残ることになる。

 これらの系統に加えて、大阪の業者が考え出した「カフヱー」では、「接待要員」を置いた、今で言う風俗営業がなされるようになる。1929年にあるジャーナリストがこの大阪から広まった現象を以下のように説明している:

 「東京の女給が、未だ上品に白のエプロン姿凛々しく、客席を離れてつつましやかに、客の指図を待って佇んでいる時、大阪では、女給が早くもエプロンを外し、惜しげもなく愛嬌を振りまきながら、客の傍に寄り添う如く腰を下ろす」

 つまりは、エプロンを外した女給こそは、ホステスである。彼女等が、永井荷風が描く女給「君江」であり、彼女達は、「カフヱー」の経営者から固定給で雇われている被雇用者ではなく、言わば、「自営業者」として、客からのチップと、客が飲み食いしたものからの「報奨金」で稼いでいたのである。このようにして、彼女等の境遇は、永井が描いたような、私娼の生活と紙一重のものとなった訳である。

 太平洋戦争の戦況が逼迫すると、カフヱーも含む「高級享楽」は1944年三月に一斉に禁止され、カフヱーは街角から一時的に姿を消すことになるが、敗戦と共に、早速復活したようであり、映画内で、小暮が、山村がけち臭いチップしか寄こさないことに不平を言うように、戦前の「女給システム」も戦後もそのまま復活したようであった。

 以上、本作の内容を若干補足しながら述べてきたのであるが、最後に、証明の仕様がないのではあるが、本作の24分台以降数分のシーンを観て思ったことを記しておきたい。それは、高峰が絵画を習い始めた後、そして、小暮が、山村が高峰の兄であることを知らないまま、彼をカフヱー「ウナ・コーパ」で知り合う前のプロットとして挿入されてる場面である。

 まず、並木道を画面の奥に向かって歩く女性の、小さな後ろ姿が見える。画面が変わって、カメラは女を正面から写す。小暮である。彼女は、黒色のストールのような物で頭を覆い、それを首の前で結んでストールの両端を胸の前で下に垂らしている。着ているコートは長めで、右肩にショルダー・バッグを掛けている。アングルが変わると、この小暮を今度は斜め前から写す映像となる。すると、高峰が、並木道の脇道の一本から、つまり画面右から前面に向かって小走りに走ってきて、「映子さん!」と呼ぶ。こうして二人の会話が始まるのであるが、実は、この場所は墓地であり、二人は、亡くなった細川の墓を詣でていたのである。寡婦たる高峰は、ここで会ったことを以って、亡夫の愛人・小暮が真面目に細川との関係を考えていた明かしを見たと感じたのであろう。二人は、それぞれの思いを抱きながら、それぞれが別の方向へと更に歩いて行く。カメラは、今度は、高峰の後ろ姿を写しつづける。

 筆者は、上述のシーンを観ながら、キャルロ・リード監督作のイギリス映画『第三の男』の有名な映画の冒頭とラストシーンの、墓地の中の並木道を歩く、オーソン・ウェルズの愛人役を務めたAlida Valliアリダ・ヴァリの姿を思い出していた。『第三の男』の制作が、本作制作と同年の1949年であるが、『第三の男』の日本上映は、1952年のことである。最初は、本作が『第三の男』の場面を真似たのではないかと勘ぐったのであるが、制作年、日本上映年から言っても、それはあり得ないことであり、それぞれが独自に同じような場面を撮影していたことについて、本作の監督・千葉泰樹にここで敬意を表したい。

2025年9月12日金曜日

エクスペンダブルズ2(USA、2012年)監督:サイモン・ウエスト

 シリーズ2がシリーズ1よりいい場合が偶にある。『ターミネーター2』がそうであったように、本作も同様である。何故か?

 『エクスペンダブルズ1』は、主役を演じたスタローンが、脚本も書き、監督も兼ねた、言わば、自己顕示欲作品であった。本作でも、スタローンが共同脚本家とはなっているが、監督は別人のSimon Westになっており、前作では自嘲の自の字もなかった、真面目過ぎるアクション映画であったものが、今回では、ウィンクをしながら、ちょっと皮肉ってみる遊び心がちらちら見えて、単純な殺戮のアクション映画に終わらない、作品に面白味が持たせられている点を筆者は評価したい。

 前回の悪役は元CIA局員で比較的印象が薄い感じであったが、今回は、ベルギー人で空手家のJean-Claude van Dammeが敵役でもあり、また、悪役である。彼の、本作での役名が、「Jean Vilain」であり、Jeanは本人の芸名から、苗字のVilainは、l字が一つ多い、アメコミのスーパーヴィランのVillainから採っているのであろう。この遊び心もニクイ。

 そして、本作にはヴァン・ダムだけではなく、チャック・ノリスも登場している。ヴァン・ダムの経歴をウィキペディアで読むと、USAに映画俳優になるべくして渡ったヴァン・ダムが下積み生活をしていた時代に世話になっていたのは、ノリスであったと言う。その意味でも、ヴァン・ダムとノリスの共演は、言わば、因縁のあるものである。

 役として一匹狼たるノリスはどこからか現れては、どこかへと去っていく。こうして、映画中盤でのノリスの登場は印象的である。アルバニアにある、USAの1950年代かを模した廃墟の町で、ヴァン・ダムの手下共に囲まれ、戦車で追いつめられたExpendables一行は、突然に登場したノリスに助けられる。あっという間に敵をなぎ倒し、戦車を一発で仕留めたのである。何が起こったか、スタローン達が呆気にとられていると、『続・夕陽のガンマン』のテーマ曲がBGMで流れ、颯爽とノリスが登場する。

 ここの場面を監督ウェストが説明している箇所がウィキペディアにあるので、それを引用しよう:

 「エクスペンタブルズに対抗するなら戦車しかないと思った。シーンの終わらせ方にも悩んだ。まもなく、あの大物も登場する。彼をどう登場させるかが課題だった、そこで思いついたのが、これだ」「なぜか悪党どもが全滅。彼らは、機動部隊か殺人集団が関与したのだと考える。そこに姿を現すのがチャック・ノリスさ、伝説の男らしい登場シーンにした」「ただバーに現れるぐらいじゃダメだ、堂々たる大げさなシーンでないとね。これなら彼に、ふさわしい。一人で集団を葬った男が硝煙の中から姿を現す、チャック・ノリスなら可能だ」

 そして、ノリスが登場するということであれば、当然、「チャック・ノリス・ファクト」がなければならない。そこで監督は、ノリスに頼んだ。頼まれたノリスは有名な「ファクト」を一つ挙げる。それが、スタローンとのやり取りで映画上に実際に登場する:(以下、ウィキペディアからの引用)

 Stallone: "I heard another rumor that you were bitten by a King Cobra?"  (スタローン:「キングコブラに噛まれたと噂で聞いたが?」

 Norris: "yeah I was, but after 5 days of agonizing pain...the cobra died"  (ノリス:「ああ、その通りだ、5日間もがき苦しんだ後に...コブラは死んだ」)

 この場に居合わせたExpendables達は、一様に微笑み、笑いあったスタローンとノリスはハグしたのであった。(映画の55分台から56分に掛けてのシーン)

 このように、本作ではハードなアクションの合間に遊び心が垣間見られて、中々よろしい。この点、シュワちゃんとウィリスとの間の、若干自嘲がこもったやり取りも筆者が本作を好ましく思う理由の一つである。

2025年9月10日水曜日

西住戦車長傳(日本、1940年作)監督:吉村 公三郎

 本作の題名が『西住戦車長傳』となっているところから、映画は、第一場面を白煙を舞い上げる阿蘇山の近景から始め、カメラを展望させて、熊本城を写して、西住の生まれと、育った環境を手短かに語る。オフからの声は即物的であり、原作の評伝の写実性を保つかのようである。このオフからの同じ声は、映画が終わるまで聞こえ、本作はまるで映画館で観る時事ニュースのような体裁で終わる。正に、陸軍省推薦の国策プロパガンダ映画に相応しいセティングであろう。

 西住の生立ちが語られると、映画はすぐに上海戦の話しに展開し、戦車部隊の恐らくは久留米からの出動が描かれるが、現地の上海戦ではまず実写場面が映し出される。海軍陸戦隊が上海での市街戦を戦う場面が見られる。第二次上海事変には、陸軍のみならず海軍も関わる陸・海共同の作戦であったが、戦闘が内陸に進行するに従い、より多くの陸軍部隊の投入が必要になる。更に、国民党軍は、ドイツ国防軍の装備を中国からの軍需物資と交換で受け取っており、また、ドイツ軍の軍事顧問団を入れて自軍を訓練していたことから、国民党軍は、揚子江沿いにトーチカ壕を作って、頑強に日本軍に抵抗した。故に、日本軍は予想外に中国軍に苦戦していた。そう言う歴史的背景を頭に置きながら、本作の前半は観るべきであろう。つまり、苦戦している日本軍歩兵部隊は、西部劇で言えば、「開拓民」であり、その窮地を救うべく騎兵隊が登場する如く、「鉄牛部隊」たる戦車隊が戦場に「駆け付け」、歩兵部隊を救うことになる。出動を要請された戦車部隊に絡んで、吾等が主人公西住中尉自身は、本作の17分台になってようやく登場する。部下と共に、自分の「愛車」の整備を行なう、人徳のある将校という描き方である。

 今は上海市の北部に位置する宝山城地区にある、戦術上重要な場所・大場鎮(だいじょうちん)の占領(37年10月26日のことで、「日軍占領大場鎮」というアドバルーンが上がる)により上海戦はほぼ決着が付き、当初の作戦予定を覆して、戦線が内陸へと更に拡大すると、日本軍は国民党軍の周到に用意された第二、第三戦線に遭遇する(本作50分前後台から57分台まで、セット撮影による、戦車・歩兵の共同による戦闘場面)。ナチス・ドイツにより軍事物資供与を受けている蒋介石軍は、ドイツ軍風の鉄兜(シュタール・ヘルム)、ドイツ軍に特徴的な柄の長い手榴弾を使用し、機関銃隊も二四式重機関銃(1935年の民国暦24年に制式採用されたことにより「二四式」と命名されたが、元々はドイツのMG08重機関銃をライセンス生産したもので、「カタカタ」という機銃音が特徴)を構えて、日本軍を待ち構えていた。

 ウィキペディアによると、プロイセン・ドイツは、既に18世紀半ばより、中国との交易に興味を示して、商船を中国に送っており、1870年・80年代のビスマルク時代に、後の「中独合作」となる礎は築かれた言える。1890年代以降のヴィルヘルム二世時代の帝国主義的政策は、一時、中独関係を冷却させることになり、19世紀末には、日清戦争に敗北した清の弱みにつけ込んで、ドイツは山東省青島などに租借地を得る。それを第一次世界大戦中に日本に取られると、植民地を持たない工業国ドイツは、帝国主義・植民地主義に悩まされていた中国にとっては格好の取引相手となる。こうして、1920年代の後半以降、ドイツに中国統一の見本を見る蒋介石の思惑もあり、中国にドイツの軍事顧問団が来る程の、中独の「蜜月関係」が始まる。33年にナチス政権が誕生すると、軍需資源の確保を求めるドイツ側の利害が更に大きくなり、ドイツ側の対中国の軍事物資の供与がより促進され、これが国民党軍の近代化に大きく貢献することになった訳である。しかし、ナチス・ドイツが反共政策の旗印の下、日本と同盟を結ぶ政策に舵を切ったことにより、40年の日独伊三国軍事同盟の締結を以って、「中独合作」は、その終焉を告げる。以上の中独合作の歴史を見ると、第二次上海事変での日中の対立は、中国国民党軍の姿を借りた「ドイツ国防軍」と日本軍が戦った戦いであったとも言えなくもないものであった。

 映画は続けて、戦死した戦車銃手の兵隊の弟からの手紙のエピソードがお涙頂戴調で語られた後、次の重要なプロットへと展開する。

 初冬の雪が降る宿営の場面からそれは始まる(本作70分台から)。赤ん坊を生んでいる「土民の女」がいることを兵が西住に報告しに来ると、西住はどれ赤ん坊を見ようと言う。場面が変わると、画面中央に一兵士が赤ん坊をにこやかに抱えている。そのすぐ左隣に、点した蠟燭を持っている兵隊が立っており、赤ん坊を抱えた兵士を真ん中に、蝋燭を持った兵士も含めて、七人の兵士達が画面前面から赤ん坊が見えるように、つまり、太い竹を刀で斜めに切ったような陣形でぐるりを巻いている。そのぐるりからちょっと離れるようにして、九人目の兵士が画面右側に立っている。「日本人の赤ん坊と変わらんのう。」と兵士達が話しているところに西住が入ってくる。すぐ隣の部屋にいる土民の女(役:桑野通子)は、左の上腕に銃創があるようである。西住は、中国語で女に話しかけると、それには答えずに女は泣き伏す。すると、西住は女に流暢な中国語で次のように話しかける。(ここで、日本語の字幕が入る。)

 「心配するな。日本兵は何も害を加へやせん。」

しかし、女は泣きじゃくるだけで、西住もどうしようもなく、赤ん坊を女に返してやるように指示する。少し間が経ってから、部隊に同行している軍医が小屋にやってくる。貫通銃創を手当してくれる日本人軍医に少し心が和んだのか、女は、「おまえはここの村の者か。」という西住の質問に、「支那兵の略奪があって逃げおくれました。」と答える。西住の「亭主はどうした。」という重ねての質問に、女は、「はぐれてしまひました。」と返す。西住は、「不人情な亭主だな。おまへをすてて逃げるとは。」とコメントすると、それに対して、女は、「捨てたのではありません。はぐれたのであります。」と言い返すと、西住は、「これは俺の云ひ方が悪かった。」と素直に謝ったのであった。

 傷の手当をしながら、このやりとりを聞いていた軍医にその言葉の達者さを褒められると、西住は、それは自分が一年程満州にいたせいであると謙遜する。手当も済み、部下が毛布と貴重なミルクを持ってきたので、西住は、女に、「心配しないでゆっくり休め。赤ん坊にミルクを呑ませてやれよ。」と言う。その西住の言葉に女は心から感動したようであった。そうして、西住は小屋を去って、自分の部屋に戻るが、そこでは、彼の陸士時代の同期で、北支より南下してきた大隅大尉(笠智衆;後に松竹・小津映画で有名になる笠智衆の名前は、本作のオープニング・ロールでは可成り後になってから出てくる)が待っていた。陸士時代を懐かしみ、陸士卒業直前に亡くなった同期生の写真を二人は持っており、三人でいっしょに南京入城を果たそうと二人は誓い合う。そうして、夜は過ぎ、翌朝を迎える。

 朝を迎えた村の路地を走る兵隊達がいる。何かあったのであろうと不安に思いながら見ていると、兵隊達が一つの家に入っていく。すると、部下の一人がちょうど朝食を摂っている西住のところに駆け込んでくる。女がいなくなっており、凍え死んだ赤ん坊は置き去りにされたままで、部下は、夜中に亭主が戻ってきて、女を連れて行ったものと推測する。西住の好意を無駄にした女に怒る部下に対して、西住は、事態を不思議に思いつつ、情けは情けであり、何れにしても死んだ赤ん坊が可哀そうであるから、赤ん坊のために墓を作ってやろうと言いだす。周りに雪が積もり、恐らくは凍って固くなった土をつるはしで掘り起こし、木箱に入れた赤ん坊を埋めてやると、墓標に何と書こうかと兵隊達が迷っているところに、西住は、早速、筆で、「無名子之墓」と達筆に書く。兵隊の一人が、それを「むめいし...」と読むと、西住は、これは、「ムナコ」と読むと言い添える。この光景の後ろには、左から右に向かう兵隊達の列があった。南京に向かっているのである。(ここまでで、74分台となり、土民の女を巡るプロットには、大隅大尉との再会なども挟まれるが、約4分が掛けられている。)

 こうして、南京入城のプロットが比較的簡単に過ぎた後は、その後の叙州会戦のプロットに進み、上述したような西住戦死の出来事を描き、ラストシーンは、西住の遺志を汲むかのように、戦車部隊が列を成して、次の戦線へと向かう場面で本作は終わる。

 さて、本作には菊池寛が書いた原作『昭和の軍神西住戦車長伝』がある。これは、西住が戦死してから約十ヶ月経った39年三月から八月に掛けて新聞連載されたものである。この連載に当たっては、菊池自身が中国に渡って取材しており、それを基に書いた「評伝」である。流石に当時既に名声があった菊池は、単なる御用作家の「伝記」ではなく、あくまでも「評伝」という形式で、一定の客観性を担保しつつ原作を書いているようである。同じ時期には、西住顕彰出版物が児童図書も含めて続々と刊行されており、西條八十、北原白秋、サトウハチローらなどが作詞した戦意高揚歌謡が発売されていた。一例に西條八十が作詞した歌詞の一つをここに挙げると、次のような「凱歌」となる:

  「鉄牛ひとたび血に吼えて/『西住』の名を呼ばふとき/
  浙江・江蘇の敵勢は/旌旗を忘れ武具を棄て/
  色蒼白(あをざ)めて潰走す」

 このような、言わば「西住ブーム」は、実は、38年12月に、映画では「細木部隊長(役:佐分利信)」として登場していた細見大佐が陸軍省記者倶楽部詰めの記者を陸軍戦車学校に呼び、「故西住大尉に就て」と題した講演を行ない、記者にその軍人精神を全国民に知らしめて欲しいと要請したことによる。こうして、まず、東京朝日新聞が「偉勲鉄牛部隊の若武者」と西住のことを報ずると、年末には、西住が座乗した、敵弾を千発以上も受けたという戦車が公開されて、細見は西住についてのラジオ講演まで行なう。これを受けて新聞各社もこれを一斉に書き立てると、西住は、一挙に「軍神」第一号に祀り上げられることになる。こうして、西住顕彰出版物が続々と出版される中、菊池寛もその「評伝」を書くことになる訳である。

 菊池寛は、更に、1940年三月開演の「東西合同大歌舞伎」公演の演目の一つに『西住戦車長』という作品の脚本も書いている。こちらは、評伝という客観的な立場を取ることが出来ないことから、そのストーリー展開の内容がどうなるかという点が注目点になる。興味深いのは、この三場で構成される演目は、あの「土民の女」が生んだ赤ん坊についてのプロットで二場が、そして、当然と言えば当然なのであるが、第三場目が西住が戦死する場一つが採られていることである。他の演目との内容的な釣り合いもあったのであろうが、この「英雄譚」は、土民の女とその女が生んだ赤子の運命という人情噺しに重点が置かれている。

 この歌舞伎の演目が上演された後の、40年11月末に本作は初上映されているが、撮影は、既に40年の二月に始まっている。つまり、脚本化はそれより前に終わっているはずで、それは菊池の演目が上演される前であり、原作の連載が終わった39年八月以降、映画化の企画がまもなく始まっていたことを考えると、映画の脚本化と演目の脚本化は時期的にほぼ並行していたと言える。そして、この映画版の脚本家は、野田佳悟であった。野田と言えば、松竹の小津安二郎組の脚本家とでも言える、あの野田である。

 その野田に、菊池寛が野田のシナリオを読んで、ある手紙の中で、次のように依頼したと言う:

 「無名子のところで、西住大尉の言葉『昨夜は、たしかに感謝してゐたんだ云々』は、ぜひ入れて下さい。いゝ言葉だとおもいますから。」

 菊池は、自分の原作では、該当の部分では、西住の部下の兵隊で、同じ戦車に操縦手として搭乗していた井手上伍長の文章を引用していた:

 「戦闘の合間、西住の部下たちが付近の民家で地元住民の女性が赤ん坊を産もうとしている所に直面した。西住はすぐさま軍医を呼び、出産に立ち会った。産まれた女児に対し、西住は自分が負傷した際に衛生兵からもらった牛乳を与えた。翌朝、見ると赤ん坊は夫に連れられた母親から捨てられ、既に凍え死んでいた。恩知らずだと怒る部下をなだめると、西住は赤ん坊の墓を作った。」(ウィキペディアからの引用)

 これに対する菊池のコメントは、中国人とは自分が生き延びるためには、自分が生んだ乳飲み子までも見捨てる民族であるというような民族蔑視的なものであったのであるが、野田への手紙の中では、そこまでは断定的な言いようを西住にさせようとは菊池は思わなかったのであろう。映画の中での西住も、正に菊池が野田に依頼した如く発言している。更に言えば、敵対する国の言葉を話し、敵対する国民である土民の女でも民間人であれば、これを庇護するという西住の行為は、この同じ時期の同じ場所で「皇軍」による「南京事件」が起こっている事態を考えると、単なるプロパガンダ映画の役割を越えて、それ以上の戦場における人道主義への賛歌であるとさえ言えなくはないか。

 確かに、映画は冒頭で右書きで次のような説明がなされる:  

 日本文化中央聯盟主催 
 皇紀二千六百年奉祝
 藝能祭作品 

続けて、監督の吉村公三郎の言葉が引用されるが、要点を述べると、自分はこの作品を以って、「戦車戦闘の実相」を示し、「軍機械化の重要性」を強調したいのであると、如何にも国策プロパガンダ映画に相応しい言を並び立て、ラストシーンは、戦車戦闘の歌をBGMにしながら(土橋式松竹フォーン・システム)、戦車部隊が列をなして行進していく場面で終わるのである。

 実際、40年二月に現地撮影班が上海でカメラを回し始め、南京・漢口での現地撮影(撮影:生方敏夫、他数名)を終えて、同年四月に帰国すると、今度は、下志津練兵場に大掛かりなオープンセットを作り(美術:脇田世根一、浜田辰雄)、戦車学校の全面的な協力の下、戦車六台、兵150名の応援を受けて本作は完成された(助監督の一人は、後に有名になる木下恵介)。 

 しかし、戦後の吉村監督の言によると、自身は、「いわゆる戦意高揚の宣伝映画にしたくなかった。大船調のホーム・ドラマ風にしたかった」、「戦場での〝仲良しクラブ〟を描こうと思っていた」と言う。実際、本作の中盤には、雨の中を野営する場面があり、部下を思って野営地内を歩き、傷病兵を見舞い、既に木箱に入った戦死した兵隊に黙礼をする、若き将校は、「大船調のホーム・ドラマ風」の父親のようである。この吉村の言を、戦時中に軍国主義に加担したことへの釈明として理解するかは、本人の他の作品と見比べないと分からないが、同じ松竹の小津が戦時中にほぼ映画制作に関わらずに戦後を迎えた、その「禁欲さ」に比べると、全体主義的体制の中で、体制に同調しないで生きることの難しさを痛感する。

2025年9月2日火曜日

あゝひめゆりの塔(日本、1968年作)監督:舛田 利雄

 日活青春映画、タイムスリップして、「先の大戦」の沖縄戦に着地する

 このタイム・ギャップを繋げようとしたのか、監督舛田利雄は一計を案じる。舛田は、石原裕次郎主演で計25本も作品を撮っているという、日活アクション映画全盛期(つまり、日活青春映画路線と同時期)に数々の作品を撮り、「日活の舛田天皇」と言われた程にこの時期に「権勢」のあった監督であった。その彼が、同じ時期に「裕次郎二世」と名付けられて、日活アクション・ニュースターとして売り出されていた渡哲也に映画の冒頭で特別出演させ、制作時点の1968年と、沖縄戦当時の1945年とを結び付けることを考える。ほぼ四半世紀の時間的距離を繋ぐ役である。

 ディスコで踊り狂う若者達は、18歳前後で、正に戦後に生まれた、戦争を知らない子供達である。彼等は、嘗ての「鬼畜」であった欧米のロック音楽を真似たグループサウンズ(GS)の音楽に合わせて踊る。それをクールに見つめている青年(渡哲也)は、場違いな歌『相思樹の歌』をリクエストして、担当者にインタヴューされる。何故にこの曲をリクエストしたのかと。実は、この歌はひめゆり学徒隊と深く関係のある歌で、こうして、映画は、1944年の沖縄に着地する。

 ところで、この映画の冒頭の、戦後の平和な日本と戦中の日本を比べるシークエンスは何を意味するのであろうか。戦後復興、奇蹟の経済発展、高度経済成長政策、1964年の東京オリンピック開催と、戦後日本はその経済的豊かさを順調に作り上げたが、舛田監督は、その土台は大戦末期の若人の犠牲の上にあるとでも言いたいのであろうか。渡が演じる若者は『相思樹の歌』をリクエストした理由をはっきりとは語らないが、それでは、こう言おう:なぜ負けると分っていた対米戦を日本は始めたのかと。始めなければ、これらの若人の犠牲もなかったはずである、と。

 何れにしても、ストーリーは戦中の、しかし未だ和やかな運動会の場面に移る。ガダルカナル島攻防戦が日本軍の敗退に終わる1943年二月以降、日本は守勢に回っており、次第に米軍に追いつめられていく日本軍ではあったが、1944年半ばの沖縄は、戦争の成り行きに不穏な気持ちを持ちながらも、未だ、安穏だったのである。

 運動会は、戦後の本土の女子高の運動会を思わせるが、ここは、沖縄県立師範学校女子部の運動会である。師範学校とは、教員養成のための学校で、沖縄全県から優秀な少女たちが将来の教員を目指して、ここで寄宿生活を送りながら、学業に励んでいたのである。女子部があれば、男子部もある訳で、その男子部の生徒の一人西里順一郎(浜田光夫)は、招待状がなければ入り込めない女子部運動会に学友数名と共に潜り込む。その不正入場を咎めたのが、女子部最高学年生で、「南国のシャン(ドイツ語から来た、男子学生の隠語で美人の意味)」与那嶺和子(吉永小百合)であった。こうして、二人は知り合い、日活青春映画よろしく、二人の間には淡い恋心が芽生えることになるが、それを踏みにじるのは戦争であった。

 サイパン島守備隊が「玉砕」した44年七月以降、日本は米軍の空襲の脅威に曝されることは明白となり、それを受けて、沖縄からも学童疎開が組織されて、対馬丸他二隻が児童や一般疎開者を乗せて那覇から長崎に出発する。しかし、8月22日に対馬丸は米潜水艦に撃沈され、約千五百名が亡くなる。その中には、疎開児童に付き添った和子の母で、国民学校教員・与那嶺ハツ(乙羽信子)もいたのであり、国民学校校長仲地(東野英治郎)は、いわゆる「対馬丸事件」の責任を取って、自死する。そして、母を失った和子は、弟と二人だけの家族となる。

 予想された通り、沖縄は空爆や艦載機(双発で異常に胴が太い航空自衛隊機か?)の機銃掃射を受ける事態となり、師範学校校舎も焼失し、戦時色は一気に濃くなる。44年十月十日は、米側は、南西諸島一帯に大規模な空爆を仕掛けており、那覇市も大きな被害を出していた。米側は、この空襲で対日戦で初めて焼夷弾を使用し、民間施設も含めた、戦争犯罪である無差別攻撃を実行した。

 こうして、沖縄は、45年三月下旬から6月23日(現在、この日が沖縄慰霊の日になっているが、別に9月7日説もある)まで行なわれた、当時の沖縄県民の四分の一が戦没することになる凄惨な沖縄戦に引きずり込まれる。既に三月中旬の九州沖航空戦が沖縄戦の事実上の前哨戦であったが、3月24日には沖縄本島に艦砲射撃が開始され、4月1日に米軍は沖縄本島に対する上陸を開始する。

 一方、既に勤労奉仕活動でろくに勉学も出来ないでいた沖縄県立師範学校女子部の女子生徒(「師範生」と呼ばれた)と、同じ場所に校舎が並立していた沖縄県立第一高等女学校の女子生徒達の222人と引率教員18名で、看護要員部隊が3月23日に編成され、第32軍直轄の沖縄陸軍病院に動員される。(「ひめゆり学徒隊」という名称は、戦後の通称であり、「姫百合」の冠称がどこから来ているかも色々と説があるが、一高女の学校広報誌が『乙姫』と、師範学校女子部の学校広報誌が『白百合』と名付けてあったことから、両誌の名称を合わせて『姫百合』としたという説もある。『ひめゆり』と平仮名書きにするのも、戦後のことであると言う。)

 陸軍病院と言ってもそれは壕であり、壕の中で、看護要員は、従軍看護婦の指導の下、包帯替えなどの患者の世話をしたり、外科壕の外に出て、危険な水汲みや飯上げ(炊飯部から炊けた飯を運んでくる作業)、そして、遺体の処理に携わり、5月25日以降、「陸軍病院」の移動と行動を共にして彼女達は沖縄本島を南下していった。南部では、学徒隊は、各外科壕六カ所(15m程の深さのある壕で、現地では「ガマ」と呼ばれていた)に分散していた。こうして、6月18日に学徒隊の解散命令が出ると、自己責任で安全な場所に逃げて、生き延びよということになるが、戦場を右往左往する中、この日から23日までに、学徒隊の百余名が亡くなったと言う。生徒・教員240名の学徒隊の内、陸軍病院関連で亡くなったのは、136名であった。大変な死亡率である。また、動員されなった女子生徒でもこの沖縄戦の最中に命を落とした女子生徒が91名いたと、戦後の調査で明らかにされている。

 和子の同窓生・比嘉トミ(和泉雅子)は、危険な飯上げ当番の際に、機銃掃射を受けて負傷し、歩けない傷を負う。そのため、彼女自身も「病棟」に横たわることになるが、病院移動で壕の中に取り残されたままにされる。そして、軍が配る、青酸カリの入った牛乳を飲まされて、彼女は苦しみながら非業の最期を遂げることになる。

 和子の淡い恋の相手たる西里は、現地戦時招集の鉄血勤皇隊の一員として、和子の目の前で戦死していったが、和子自身も、彼女のことを「お姉さま」と呼ぶ後輩と伴に抱き合って、崖の上で口で手榴弾のピンを抜いて、自爆する。何故か?米軍に投降する選択肢は彼女にはなかったのである。彼女が竹槍訓練をしている時に、ある陸軍軍曹は女子生徒の前で言う:

「この沖縄にアメリカが上陸するようなことがあれば、鬼のような奴らは、まず、君らのような若い娘を捕まえるぞ。そして、奴らは君らを素っ裸にする。そうやって、戦車の前面に縛りつけるんだぞ!」

戦時における性暴力の問題が、和子の自決の背景にあったこと、そして、この問題は、21世紀になっても、未だに起こっていることを我々は心に刻む必要があろう。

 映画は、女性が書いたような平仮名書道体で読める次の文章で終わる:

沖縄戦で散った
殉国学徒の数は
師範 中学 女学校
あわせて 一五〇三名(「ひめゆり学徒隊」の他にも幾つかの学徒隊があった。)
教え子を引率して
仆れた教師 九二名
このように若い学徒の
犠牲者を出した戦争は
世界史上どこにも
その例を見ないという

 この文章が一行ずつ映し出される間、ある曲のメロディーが辛うじて聞き取れる位の音量で流れる。吉永が歌っている主題歌でもあるが、これは作中、女子生徒達が陣地構築の勤労奉仕をさせられていた時に、彼女達が「やさしい少尉さん」と呼んでいた太田少尉(和田浩治)が海岸の作業現場にやって来て、それを見た引率の音楽教員・東風平恵位(こちんだ・けいい)が音頭を取って、生徒達が輪になって歌う場面でも聴かれる曲である。タイトルは『相思樹(そうしじゅ)の歌』といい、太田少尉が作詞したもので、それに東風平が作曲して、『別れの曲(うた)』として、彼女達の卒業式で歌うつもりでいたものであった。しかし、彼女達は卒業前に学徒隊に動員され、この歌は、女子生徒達の間で時々歌われて、戦争を生き延びたのであった。戦後は、軍隊行進調ではない、揺れるような八分の六拍子のこの曲は、戦時中に自らの青春の夢を叶えられずに戦禍に斃れていった同窓生のための、鎮魂の歌となって、今に歌い継がれている。

 まずは、この曲の歌詞を挙げておこう:

第一連(卒業生が在校生に向けて):
目に親(ちか)し 相思樹(そうしじゅ)並木
往きかえり 去り難(がた)けれど
夢の如(ごと) 疾(と)き年月(としつき)の
往きにけむ 後(あと)ぞくやしき

第二連(在校生が卒業生に向けて):
学舎(まなびや)の 赤きいらかも
別れなば なつかしからむ
吾が寮に 睦(むつ)みし友よ
忘るるな 離(さか)り住むとも

第三連(卒業生が在校生に向けて):
業(わざ)なりて 巣立つよろこび
いや深き 嘆きぞこもる
いざさらば いとしの友よ
何時(いつ)の日か 再び逢わん

第四連(在校生が卒業生に向けて):
微笑みて 吾等おくらむ
過ぎし日の 思い出秘めし
澄みまさる 明るき まみ(「眼差し」のこと)よ
健やかに 幸多かれと 幸多かれと

 作詞者の太田博少尉は、44年八月に沖縄に送られてきた野戦高射砲第79大隊第二中隊に所属する部隊の将校であった。その彼が、高射砲陣地構築の作業にやって来ていた師範学校女子部の生徒の健気な働きぶりに感動し、一部の女子生徒の卒業の時期も近くなっていたことから、『卒業生に贈る詩』と題する一篇を書き上げたのである。それを知った同校の音楽教員・東風平がこれに曲を付けることとなり、『別れの曲(うた)』となる。

 東風平恵位は、1922年に宮古島に生まれ、41年に沖縄師範学校に入学した。努力して難関であった東京音楽学校(現、東京藝術大学)に入学するも、学徒動員で繰り上げ卒業となり、43年十月に母校の女子部の音楽教員として赴任していた。こうして、彼が『別れの曲(うた)』を作曲することになる。女子生徒達は、何かの機会にはよくこの曲を口ずさんでいたと言うが、ある時、以下のような印象的な事柄が起こったと言う。それを、ウィキペディアから直接に引用する:

 「東風平が、学園を訪れる機会もないままに作詩した太田の心情を思いやり、昭和20年(1945年)1月のある日曜日の夜、太田を学園の寄宿舎に招いた。東風平は見学の最後に、とある一室の前で立止まり、みんなで「別れの曲」を歌ってみなさいと話しかけた。歌声を耳にして寮内にいた乙女たちが一室に群れ集い、時ならぬ大合唱が夜の静寂の学園に響き渡った。心を通わせた太田が学徒たちの合唱を聞くことができるように、東風平の深い思いやりが実った瞬間だった。歌いなれた讃美歌のメロディにも似たコーラスを聞いた太田少尉にとって、推敲を重ねた自分の詩作が歌となって人に感動を与えた初めての経験であり、直立不動の姿勢で自らも深い感動とともに詩人としての喜びの中にあった。」

 1921年に東京で生まれた作詞者の太田は、30年に福島県郡山市の伯父の養子となり、そこの郡山商業学校を卒業して、郡山商業銀行に務めていたが、学校時代から詩作に励んだクリスチャンの文学青年でもあった。徴兵された42年以降も、詩作ノートを離さずに詩作をし続け、ひめゆり学徒隊の最後の地・糸満市にほど近い所で、45年6月20日に意味のない突撃攻撃で戦死した。作曲者の東風平も、太田少尉と前後する日時に、教え子達と共に避難していたガマの中に米軍のガス弾が投げ込まれ、教え子達と共に戦没している。

  『別れの曲』は、いつしか、この五七調の作詞の第一連の一行目に出てくる「相思樹」という聞き慣れない言葉で呼ばれようになり、学徒隊の生き残りの生徒の間で戦後歌い継がれる。ひめゆりの塔も戦後まもなくの46年に建立されるが、1972年の沖縄返還までは、沖縄は米軍の占領下にあり、本土との行き来はままならなった。返還後の1975年に、東風平の嘗ての同窓生で、東風平の生死を別れて以来ずっと慮っていた、高知大学教授・橋本憲佳がある琉球大学講師を通じて、東風平の運命と『別れの曲』の存在を知ることとなる。返還により沖縄を訪れるために、もはやヴィザが必要ではなくなっていたこともあり、橋本は早速沖縄に渡り、戦地を訪れ、『別れの曲』を探し求めたが、戦禍で楽譜は逸失しており、橋本は何人ものひめゆり学徒隊の生存者を訪れて、歌い継がれていたメロディーを採譜したと言う。そして、76年五月、橋本によって合唱曲に編曲された『相思樹の歌』は、本土で初めて演奏され、今日に至っていると言う。

 恐らくは、師範学校の前にあった並木道の両側の木々を、在校生と卒業生に見立て、お互いがお互いを相思いあう場として、詩人太田はイメージしたのであり、それを受けて、音楽家・東風平も八分の六拍子の揺れるようなメロディーを構想したのであったろう。二人の戦火を越えての希望の祈りを、ひめゆり学徒隊の女子生徒も戦後へと歌い継いだのである。

 追記:このブログ記事の投稿日は、2025年9月2日であり、奇しくも、日本が東京湾上の戦艦の上で連合国との無条件降伏書に調印した日から80年経った日である。

2025年8月27日水曜日

潜水艦ろ号未だ浮上せず(日本、1954年作)監督:野村 浩将

 朝焼けか夕焼けか、雲が多い空の下に太陽の光を反射して大海原が写されている。この場面を背景として、次のような言葉が読める:

省みれば幾星霜
波静かなる大海原に
平和の鐘鳴響くとき
今も尚海底深く眠る
幾多潜水艦乗員の霊に
此の一篇を捧ぐ

 その空を覗くように、今度は潜望鏡からの視点が一度取られると、すぐさま、実写撮影に繋がる。浮上する潜水艦の場面で、画面のすぐ左に潜水艦に取り付けれている砲が見える。浮上したところで画面が変わり、三人の乗組員が双眼鏡や中型・大型望遠鏡を使って、見張りをしている。本作に協賛している日本光学工業株式会社が提供している物であろう。(他には、沖電気、東京計器製造所が本作に協賛しており、潜水艦内の計器盤などは、これらの会社の物であろうと思われる。)

 すると、見張員が左前方30度に敵小型機二機を発見し、潜水艦は「急速潜行」する。一度深く潜行するが、通信・聴音長永田大尉(小笠原弘)が何も異常がないことを申告すると、艦長佐々木中佐(藤田進;呂号潜水艦であれば、普通は少佐)は潜望鏡深度18を指示し、潜望鏡で海上を探る。敵艦艇がいないことを確認して、再び浮上する。そこに、第六艦隊司令長官から、横須賀にある潜水艦基地に二ヶ月振りに帰投すべく指令が入る。ここまでのシークエンスでは、潜水艦模型の特殊撮影を一部入れながら、実写とセット撮影部分とを交互に繋げてストーリーが展開する。移動カメラで艦内を見せる部分では、本作の主役である呂号潜水艦の内部が中型潜水艦の割に随分余裕のある設計で、筆者には違和感を覚えさせる。

 水兵には入湯上陸をさせ、士官は、料亭で、長官主催の慰労会が開催され、ここで、各将校の人柄が描かれる。副長の堀田先任士官(丹波哲郎)は、きびきびした、如何にも有能そうな海軍大尉であり、同じく大尉の永田聴音長は、水中測的担当で、電波探知儀(電探)の技術改良に没頭していて余り面白味のないやもめの士官である。一方、軍医長の立花中尉(中山昭二)は、料亭「松政」に出ている芸者と既にいい仲になっており、宴会は早々に切り上げて芸者と別の小部屋に「急速潜行」する。掌水雷長の小島特務少尉(岬洋二;故に、肩章は、黒地に細い黄色い線が一本入って、桜の一つ星)は、上陸してすぐに横須賀の町にある小鳥屋に出掛け、飼っているインコに上手い餌を与えようという、いかめしい面相にしては好人物である。佐々木艦長自身、宴会は早々にして去り、自宅に幼い息子に会いに行く。妻も可成りの年齢がいっている女性のように見え、佐々木は随分と遅くなってから、目に入れても痛くない子供が出来たのであろう。このようにして、各登場人物の性格描写が比較的丁寧になされており、本作に好感が持てる。こうして、潜水艦ろ号は出航命令を再度受ける。

 サンパンが陥落した後であるから、時は、1944年七月以降である。目的地は、東京とニューギニアを結ぶ東経線上、緯度は約フィリッピンのセレベス島南端に位置にするメレヨン島である。(現ミクロネシア連邦内にあり、別名は、ウォレアイ環礁である。戦争中は日本軍守備隊約七千名中、約五千名がここで戦病死して、「戦わずして玉砕した悲劇の島」と言われるが、戦後、ここから約千六百名が復員した。)任務は、この前線基地を守備する日本軍に食糧を輸送することで、本来の潜水艦活動から離れたものであった。ガダルカナル島がいわゆる「餓島」となった「ガダルカナル島の戦い」(43年二月に日本軍撤退)と同様の運命であるが、この時期には、日本側に制空権、制海権がなくなっている状況での窮余の策であった。(駆逐艦による輸送を「ネズミ輸送」と言ったのに対して、潜水艦によるものを「モグラ輸送」と呼んだ。)

 次のろ号潜水艦の任務は、沖縄戦に伴ない「水上特攻」を敢行した不沈艦大和が沈没した45年四月以降の同年七月の、「残存四十数隻を投入する潜水艦特攻作戦」である。ここら辺のストーリー展開は、無声映画よろしく間字幕を使ってのものであるが、何れにしても、ろ号潜水艦もまたこの潜水艦特攻作戦を担う一艦として、勇壮な軍艦マーチと帝国海軍の「帽振れ」に伴なわれて、横須賀港を中部太平洋方面に出航する。

 佐々木艦長が機嫌よく艦橋で、西郷隆盛の西南戦争を題材とした熊本民謡の『田原坂(たばるざか)』を唸っているところに、丁度通信が入る。それによると、原子爆弾を積んだ重巡洋艦イアンディアナポリスがテニアン方面に航行中であると言う。

 こうして索敵中の潜水艦ろ号は、まず、空母一隻を撃沈する。当然、これに対して、潜水艦ろ号は、米駆逐艦に爆雷攻撃を仕掛けられ、これを十数時間、海中で耐える。次第に酸素ボンベが空になって、艦内の乗組員が呼吸困難に陥っているところ、ろ号潜水艦は電探でインディアナポリスを感知、これに魚雷戦を仕掛ける。さて、潜水艦ろ号の運命や如何?


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 まず、題名の「潜水艦ろ号」について述べようと思う。これは、正式には、「呂号」と記すべきものであり、ある一つの潜水艦に付けられ得る名称ではなく、潜水艦の大きさからこれを分類するための冠称である。つまり、水上基準排水量による違いにより、大日本帝国海軍では、1923年以降(つまり、ワシントン海軍条約以降)、1000トン以上の潜水艦を伊号、1000トン以下、500トン以上のものを呂号、500トン以下のものを波号と呼んだ。

 そして、この水上基準排水量の違いは、潜水艦の用途の違いをも意味する。波号潜水艦は、基本的には日本近海を守備範囲とし、特定の用途のために使用された初期・旧型潜水艦であったと言ってよく、呂号潜水艦は、基地から洋上に出て、哨戒活動を主に行なった二等潜水艦であった。

 一方、伊号潜水艦の中では、とりわけ、艦隊行動に適した、つまり、艦隊に同行できる速度を満たす艦級があって、この型式を「海軍大型潜水艦」(略して、「海大型」)といい、これに対して、伊号潜水艦の中で、「巡洋潜水艦」(略して、「巡潜」)とも言われて、長距離の外洋航行能力を保持し、敵方の通商を破壊する目的で建造された潜水艦型式もあった。

 故に、呂号潜水艦は、「海大型」に対して、「海中型」と別称してもよいのであるが、太平洋戦争中に投入された呂号潜水艦には、艦級により、海中型の呂六型二隻、海中型の呂35型18隻、更に、他の呂型をより小型にして量産しやすくした呂百型18隻があったのである。これらの呂号潜水艦38隻は、一隻を除いて、戦闘海域で戦没しており、呂号潜水艦全体で見ると、撃沈した艦艇は、駆逐艦一隻と輸送艦数隻のみに留まるのである。故に、本作のラストシーンが描く「潜水艦
ろ号」の「大活躍」(空母一、重巡洋艦一、駆逐艦一を轟沈)は、誠に「大本営発表」の偽の「戦果」である。この偽りの「戦果」では、流石に、呂号潜水艦元乗組員で、今は水底にいるはずの英霊もゆっくり眠ってはいられないのでないか。

 更に、原子爆弾を載せた重巡洋艦インディアナポリスの轟沈である。確かに、インディアナポリスは日本の潜水艦に沈められたが、それは、呂号ではなく、伊号潜水艦によってであり、しかも、かの重巡洋艦が「新型爆弾」を運び終えて、帰投する途中であったのである。「新型爆弾」が日本に投下されたのは、日本人であれば、誰でも知っているはずであり、このように誰でも分かる嘘を何故に本作は吐かなければならないのか。これでは、希望的観測を現実と取り違えて戦争遂行を誤った戦時中の誤りをここでもう一度犯したいとでも言うかのようである。

 そして、本作で描かれる潜水艦
ろ号の外部並びに内部の問題である(美術:新藤誠吾)。本作は実写性を高めるために白黒で撮っているが(撮影:山中晋)、それは、また、実写フィルムを所々挿入するところから、それとの整合性をとるために、白黒にしなければならなかった理由もあった訳である。ウィキペディアによると、挿入されている実写部分は、1944年に撮られた戦争記録映画『轟沈』からのものであり、別のインターネットの記事によると、この記録映画で登場する潜水艦は、伊型潜水艦の幾つかの艦級であると言う。であるから、国策ドキュメンタリー映画に登場する伊型潜水艦に合わせるために、セット作成した「潜水艦ろ号」も伊型潜水艦のサイズを採らざる得なかったのである。故に、見た感じが本作の潜水艦の内部がゆったりしたものであると見えたのも当然である。同様に、「潜水艦ろ号」に取り付けてある単装砲は、恐らくは伊型のものであるようであり、砲戦をやろうとすれば、呂型の高角砲や連装機銃では対駆逐艦では歯が立たないはずである。

 事程左様に、本作の脚本は出鱈目が多く(脚本担当:新井一及び監督の野村浩将;原案:髙橋一郎)、本作の最初に謳ってある高尚な英霊に敬仰する気持ちとは裏腹に、本作には、戦争娯楽映画の負の側面が露わに出ているとしか言いようがない。

 最後に、本作でも言及される第六艦隊について述べておこう。この艦隊は、潜水艦艦隊とでも言えるもので、それまで戦艦を中心とする各艦隊に配属されていた潜水戦隊を統合して運用しようと言うことで1940年11月に編成されたものである。これは真珠湾攻撃の約一年前のことである。41年12月の艦隊編成では、三つの潜水戦隊があり、一つの潜水戦隊は、二つから四つの潜水隊から構成されている。そして、一潜水隊は、基本、潜水艦三隻から成っている。ウィキペディアによると、全ての潜水艦は、伊号潜水艦であった。

 これが、44年四月になると、潜水戦隊がろくに編成できなくなり、編成できても、複数の潜水隊で成り立っているのではなく、伊号艦に加えて呂号艦も入れて、十隻前後で一潜水隊にしている。この時の「第七潜水戦隊」では、第51潜水隊のみから出来ており、しかも、この潜水隊は、全艦呂号百型艦(「呂号小型」)であり、11隻で構成されていた。(因みに、ガダルカナル島攻防戦後の1943年春以降は、米海軍側の対潜能力は、日本側が逆探しかなかったのに対して、聴音機、電波探信儀共に性能が向上しており、更には、濃密な対潜哨戒機の投入により、潜水艦に必要な海上航行さえも難しくなっていた。そして、米駆逐艦は、英国海軍が対Uボート戦で開発したヘッジホッグ、つまり、多数の小型弾24個を楕円状に一度に発射し、その内の一発が爆発すれば、全部が誘爆する新兵器を導入して、マリアナ沖海戦では目に見える「戦果」を挙げている。これに対して、日本側は、太平洋戦争開戦時からの、潜水戦隊を艦隊の前面に押し出し、哨戒任務とともに、敵艦隊を邀撃・漸減する散開線戦術に終戦まで拘り、本来、潜水艦戦が意味を持っていた後方遮断戦、インド洋で一定の成果を挙げていた通商破壊戦に踏み切れなかったのである。)

 45年六月の最終の艦隊編成では、一潜水戦隊と五潜水隊のみとなっており、この時期には大体の呂号潜水艦が戦没していたので、伊号潜水艦と、更には、波号潜水艦も駆り出されて、艦隊を形成したというさんざんたる状況であった。それでも未だ呂号潜水艦で戦闘艦として残っていたのは、呂号46、50、109の三艦のみであり、この内、終戦前に戦没したのが、呂号46と109であるので、本作の「潜水艦ろ号」に該当するのは、時期的に言うと、この内のどちらかということになるが、ウィキペディアによると、両艦とも、既に45年五月に沖縄方面で亡失していた。呂号50は、中国・大連の港で終戦を迎え、46年四月、米軍により、五島列島沖で爆破、海没処分を受けて、今も海底に眠っている。

2025年8月21日木曜日

オブリヴィオン(USA、2013年作)監督:ジョセフ・コスィンスキー

  本作のストーリー上の現在は、西暦2077年である。今年は2025年であるから、約50年後の近未来の話しである。しかし、本作の制作年は、2013年であったから、この時点から見ると、64年後のストーリーで、しかも、「異星人」Scavengersスカヴェンジャーズ(「街路清掃人」、「ハゲタカなどの屍体を漁る動物」を意味する差別的表現)が地球を侵略し出したのが、2017年のことであるから、制作年の四年後には、エイリアン侵攻が始まって、その侵攻から60年が経った時期のことを描くのが、このディストピア作品である。(因みに、現実の世界で2017年に何が起こったか。第一次トランプ政権が誕生している。)


 Unit49(ユニット・フォー・ナイン)は、男女のチームから成っている。JackとVikaである。ジャック(コードネーム:Tech 49)は、トンボを巨大化したような飛行物体で一帯を見張り、武装したドローンが故障すれば、それを見つけ出して修理する修理屋でもある。一方、ヴィカは、コントロール・タワーから、ジャックにナヴィゲーションを与え、例えば、墜落したドローンの場所を知らせたりするインフォメーション・オフィサーである。


 彼等は、地表から千メートルもあろう高度の高さにあるコントロール・タワーで勤務しており、このタワーは同時に二人のスタイリッシュな住居でもあり、プール付きでもある。ガラス張りの部屋からは、夜には、その一部が破壊された月が見え、月の破壊された部分は、月の周りを回っている。

 月の一部が破壊されたのは、スカヴェンジャー(以下、映画内でも使われている「スカヴ」と略す)が地球に侵攻した時のことで、それにより、地球は、大規模な地殻変動が起こり、大陸は大津波に襲われた。こうして、スカヴは地球上に侵攻してきた訳であるが、この侵攻を食い止めるために、人類側は最後の手段として、核兵器を使用せざるを得ず、地球は放射能汚染で人類が住めない区域が出来たため、生き残った少数の人類は、土星の惑星タイタンに移住した。しかし、この核兵器使用により地球はスカヴの侵攻を食い止めることが出来、それでも生き残っている一部のスカヴがゲリラ戦を続けている。彼等は、ドローンを撃ち落し、それに使われている核燃料を、文字通り、「掠め取り」、それを今度は、タイタンに住んでいる人類のためのエネルギー供給に設置されているhydro rigハイドロ・リグ(海水から重水素を生成し、それを貯蔵する巨大プラント)を破壊したりするのに使うのである。

 Unit49は、Sallyという司令官から指示を受けて、活動しているが、Sallyは、地球の軌道を回っている「Tet」という黒い物体の中にいるらしい。「Tet」とは、tetrahedronというギリシャ語から来ており、tetra-が「四」を、hedronが「座、面」を意味して、「四面体」を指す。この言葉の最初の三文字を採って、「Tet」と名付けられた物体である。「四面体」は、別名、「三角錐」ともいい、円錐の底面が円であるのに対して、角錐の底面が三角形で、角錐として、最も面数が少ない四面で、三角形が四枚合わさって四面体を形成するので、tetrahedronという言い方も可能なのである。この三角錐の底辺の三角形を上部にし、尖った錐の部分を下にして、Tetは地球の軌道を回っている。そして、重水素採取用プラントからエネルギーの供給を受けているのである。

 このTetにいると思われるSallyから、Unit49は司令を受け、任務を遂行しているのであるが、外で働くTech 49に特に当てはまることがある。それは、スカヴに囚われて、情報がUnit49からスカヴ側に流れないように、ジャックもヴィカも過去の記憶は消されていることである。そこから、本作の題名『Oblivion』が採られており、この言葉は、英語で、「忘却」を意味する。さて、Unit49は、何を忘却しているのであろうか。そして、対スカヴ闘争はTet側の勝利に終わるのであろか。

 本作の撮影監督は、Claudio Mirandaで、チリ出身でUSAで活躍している人物である。デイヴィット・フィンチャーの『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』(2008年作)で、デジタル式映画撮影作品としては、初めてアカデミー賞と全米撮影監督協会賞にノミネートされた実績を持つ。故に、本作での、モード・グラビア雑誌の写真のようにスタイリッシュな映像に本作は冴えている。

 一方、ストーリーはどうであろうか。原作は本作の監督でもあるJoseph Kosinskiが共同制作した、ある未公開のグラフィック・ノヴェルであるそうであり、確かに、SF娯楽作品としては十分に観るに堪える作品である。しかし、ストーリーとしては、これまでのSF作品のいいところを取ってきて、継ぎはぎしたような感じである。まずは、題名『忘却』から、1990年作の『トータル・ルコール』が思い出される。核戦争による地球の荒廃と人類の存在位置という点では、1968年作の『猿の惑星』のストーリー展開に何か似ている。黒い壁面のTetの存在とその役割という点では、『2001年宇宙の旅』に本作がオマージュしているのではないかとも思われるが、実際、『2001年宇宙の旅』の英語原題は、『A Space Odyssey』で、本作のJackが元々船長であった宇宙船は、Odyssey号というのである。更に、クローン人間の問題は、SF作品としては、山ほどあるであろう。

 とは言え、次の点を、ストーリーの展開上、本作の序盤で上手く組み入れている。つまり、イギリス人Thomas Macaulayトーマス・マコーリー男爵が19世紀前半に書き上げた詩編『Lays of ancient Rome古代ローマの歌物語』の第XXVII章が引用される部分である:

Then out spake brave Horatius,
The Captain of the Gate:
"To every man upon this earth
Death cometh soon or late.
And how can man die better
Than facing fearful odds,
For the ashes of his fathers,
And the temples of his Gods.“

 この歌物語は、古代ローマにいた独眼の勇敢なホラティウスが、エトルリア人の大軍が攻めてきた時に、テヴェレ川に掛かっている橋を戦友二人と三人で守りきった英雄譚で、自分たちの後ろにある橋の土台を壊させながら、この間にエトルリア兵と戦い、頃を見計らって、戦友二人を退却させ、自分は鎧を身に付けたままテヴェレ川に飛び込んで、一説には神々のご加護により助かった、一説にはそのまま溺れ死んだという内容のものである。

 この一節が、本作最後のクライマックスに効いてくるのは、流石にニクイ演出と言える。


2025年8月12日火曜日

泣け!日本国民 最後の戦斗機(日本、1956年作)監督:野口 博志

 まず画像に、「この一篇を雲の彼方に散った若人のために捧ぐ」と流れる。

 すると、早速、当時の実写の場面が写し出され、恐らくマリアナ沖海戦か、沖縄戦における神風特攻作戦の場面が一部特撮を混ぜて見せられる。(特撮:日活特殊技術部;やはり、戦前からの東宝・特撮部、円谷英二班のものには見劣りする。)

 続けて、次の挿入文が流れる:
「沖縄敗れ 日本の空と海は 米機動部隊に征圧された」
「終戦近く」
(つまり、沖縄戦が終わった45年6月下旬以降のことになる。)

 こうして、タイトルロールは、『最後の戦斗機』という題名から始まる。背景は、雲の上の風景で、最初の「雲の彼方に散った若人」に合わせたようであり、BGMは、ハミングによる、まるで鎮魂歌を聞いているかのようである(音楽:牧野由多可)。(作中では多くの軍歌、例えば、「定番」である『同期の桜』や、学徒動員による飛行予備学生が多い訳であるから、当然に学生歌『デカンショ節』などが作中歌われ、聞こえる。)

 本作の原作は、谷本敏雄作の『黒い河』により、脚本は三人掛かりである。タイトルロールは、監督名「野口博志」で締めくくられるが、背景は、雲上を飛ぶ五機編隊(先頭を一機が要となり、後方に扇状に開く形)の戦闘機になっている。(BGMは、『海行かば』である。)

 太い機体からそれは、零戦ではないことはすぐに分かったが、シーンが変わって、それは二人乗りの日本の飛行機(二人乗りであるところから、戦時中の艦上爆撃機「彗星」たり得るが、戦後は破壊されているであろうから、これは、米軍のお払い箱のプロペラ機であろう)であることが分かる。一機は、機体が故障したのであろう、次第に戦列から離れて、高度を低めていく。他の四機は、更に、前進して、雲間から米機動部隊を発見すると、右に旋回して、突っ込んでいく。実写場面となり、日本機が米空母などに体当たりする場面が映し出されたり、稚拙な特撮場面が見られたりする。

 故障機からは故障の連絡が本部の航空基地に入るが、司令官・関根少佐(西村晃:自身に特攻隊員であった実体験あり)は、「特攻は、必死必殺であり、帰還はあり得ない」と言って、故障機の帰還を拒んだところから、故障機は自爆せざるを得ないことになり、犬死は無駄であると考える分隊士・白井中尉(葉山良二演じる、本作の主人公)は、少佐に抗議していたのである。武士道の古典『葉隠』にも、犬死はするなと書いてある。

 「国民精神総動員」と書かれた全体主義国家のスローガンが街中に見られる中、恐らく南九州(鹿児島か?)にある海軍航空基地がある町には、海軍士官倶楽部「ちよもと」があり、この日は、新司令官関根少佐の着任を祝しての宴会が催される。関根は、フィリッピン戦線から「転戦」してきた佐官級将校で、断末魔に喘ぐ帝国海軍の最後のあがきである「特別攻撃」で、「必死必殺」の標語を以って「海軍飛行予備学生」を特攻隊員として死地に送り出す軍人である。彼の配下に、第二〇三海軍航空隊があった。

 この頃には不沈艦大和も撃沈されており、連合艦隊なるものは帝国海軍には最早存在しておらなかった。故に、母艦海軍航空隊なるものも存在しておらず、陸上基地航空隊のみしかあり得なかったのである。第二〇三海軍航空隊は、元々は、戦闘機乗りを養成する「厚木航空隊」が44年二月に改編されて出来た航空隊で、それ以降、戦闘航空部隊として各地を転戦していた。翌年の二月に編成された宇垣纒中将率いる第五航空艦隊に、第二〇三海軍航空隊も編入されるが、それまで黙認という形で行なわれていた「特攻」が、艦隊編成の基本方針としてここにはっきり謳われることとなった訳で、宇垣は長官訓示で全員に特攻の決意を全艦隊に徹底させていた。

 海軍航空隊は、航空「艦隊」を構成する航空「戦隊」を形作る一つの単位である。そして、一海軍航空隊は、幾つかの航空「分隊」で編成されており、一航空分隊は、普通は、九機で成り立っている。更に、一航空分隊は、三つの班に分かれ、それぞれを中尉または少尉、更には、他国の航空部隊では余り見られないのではあるが、兵曹長が指揮するのである。映画によると、鹿児島の鹿屋にある航空基地には五航艦の司令部があるようであり、そこから、補充の戦闘機が五機、送られてくる。こうして、五航艦の参謀も特攻作戦の督励に移動してくる中、敵艦載機の基地攻撃で、「同期の桜」たる戦友が機銃で撃たれて戦死すると、負傷により特攻隊員から一時外されて情報係りとなっていた白井中尉は志願して、特攻出撃隊員となる。

 しかし、搭乗していた戦闘機が故障して戦列を離脱した白井(頭に締めた鉢巻きには「八紘一宇」の文字が見える)は、海上に不時着して、同乗していた二兵曹は溺死したのにも関わらず、白井は救助されて出撃後の一週間後に、基地に帰還する。白井は、特攻の理由を以って、二階級特進の「軍神」となっていたのである。「必死必殺」を豪語する関根少佐は、元々「犬死はしない」と誓っている白井中尉を謹慎処分にする。早速、次の出撃命令を受けるものの、今回も搭乗機の故障で帰還した白井には、航艦司令部も知るところとなり、銃殺の刑が科せられるのではないかというところまで、事態はエスカレートする。

 このように錯綜する中、結局、白井は、自分の大学の先輩で航空隊の副官をやっている戦友・遠藤中尉(大坂志郎が、後輩と上官の間に立つ者の苦悩を好演)の「介添え」を受けて、二人で最後に残っていた戦斗機に乗って、笑顔で(!)雲の彼方に飛んでいったのである。

 さて、このように「男の戦時世界」が描かれる一方で、それに関わる「女の戦時世界」も描かれる。海軍士官倶楽部「ちよもと」は、その名の通り、海軍士官が訪れる、商売上手な女将(北林谷栄)が営む料亭であるが、ここには住み込みの芸者が五人ほどおり、その中の一人にあき子(渡辺美佐子が好演)がいた。彼女は、気が強くて粋のある芸者で、「ちよもと」に来る特攻隊員とは枕を一緒にして、出撃前の特攻隊員に「筋金」を入れてあげる、言わば、内地の「慰安婦」であった。ふとしたことで白井中尉と知り合った彼女は、誘惑しても乗ってこない白井の潔癖さに、普通の男にはない魅力を感じ、白井を好きになってしまう。そして、最後には、銃殺になるかもしれない白井を思い、彼のために命を落としてしまう哀しい存在である。

 他方には、「身体は汚れているが、心は清い」あき子に対して、「身体は病気で冒されているが、心は愛に貫かれた」女性、則子(芦川いづみ)がいる。彼女は、白井が学生時代に知り合った高等女学校の生徒で、二人は愛を誓い合い、白井が軍隊に招集された後も、お互いがそれぞれ記念の対の鈴を持っていることで、遠く離れていても、思っている心ではお互いがすぐ側にいる存在として、愛によって結ばれていたのである。結核で弱っている身体であったが、則子は、虫が知らせたのか、東京から鹿児島まで白井に会いにくる。実は、二人が再会したのは、白井が最初に特攻に出撃する前日で、白井は、そのことを則子に告げることを躊躇したのである。翌日、白井が出撃したことを回りから聞いて知った則子は、そのまま海岸に向かう。そして、あるそりたった岩の上にきりっと立ったままの則子は、じっと海を見つめたままで、シーンはカットされる。(58分台)その後、帰還した白井が、遠藤副官の好意で、則子が書き上げた、以下のような遺書を読む機会がある:

 「静かな海原です。則子は、この海のどこかで死んでいった白井さんと同じように海に身を沈めます。もう別れなくてもいい。そして、永遠に別れることのない平和な国で、白井さんと誓った通り、二人で一つの美しい命を生きるのです。ただ、心残りは、貴方のお母様を一人ぼっちにしたことです。お可哀そうなお母様。則子は、遠い海の向こうから白井さんとご一緒にお護り致します。白井さんにお会いしてから、短いけれど、楽しかった数々の思い出、これが則子の美しい人生の花でした。則子は、この美しい花を咲かせるために生まれてきました。そして、その花が散った時、則子の命は燃え尽きてしまうのです。今は何も思い残すことなく、則子は海に入っていきます。海の向こうにいる貴方の所へ。」(78分台から約二分間)

 この美しい純愛を引き裂いたのは、戦争である。民族共同体の仮想の中、国家のために死ねと言われ、死ぬには拘泥しないが、犬死はしないという、最後の線での抵抗を示した白井中尉と、彼が自分を思いながら死地に向かい、死んでいったと思い込んだ則子は、白井へのこの世での愛を貫くために、彼が英霊として生きているはずの海の世界へと投身自殺したのであった。

 先の「環」太平洋戦争では、この白黒の反戦映画が描いたような悲劇がいくらあったことであろうか。それは、日本人だけではない。アメリカ人、イギリス人、オランダ人、そして、中国人、東南アジア人にも、戦争による多くの悲劇が起こったのである。そして、この「環」太平洋戦争を引き起こしたのが日本であったことも我々日本人は忘れてはならない。(八十周年目の八月十五日を迎えるに当たって筆者は強く思う。)

2025年8月7日木曜日

空爆特攻隊(USA、1969年作)監督:ボリス・セイガル

 大英帝国の空軍RAF(Royal Air Force)が対ナチス・ドイツ帝国に空からの反攻を本格的に始めるのは、ようやく、1941年になってからである。何故なら、大英帝国は、1940年夏以降、「イングランド航空戦」を戦わなくてはならず、それが、長くて41年春まで掛かる。そして、北アフリカ戦線で英米連合軍が北アフリカ上陸後にロンメル軍団に優位を築くのは、42年夏であるから、この北アフリカ戦線へも爆撃機が割かれてもいたのである。

 このRAFに加わることになるのが、USA「陸軍」航空部隊United States Army Air Forces(USAAF)であり、対独戦略爆撃を担当することになるのは、USA陸軍第八Air Forceであった。因みに、対イタリア戦略爆撃を担当したのは、第九Air Forceであった。

 1941年12月7日(USA側の時間)の真珠湾攻撃により、USAは対日交戦状態となるが、日独伊三国同盟により、ナチス・ドイツもまた対USAへの宣戦布告を行なう。USA陸軍第八Air Forceがイギリス本土に移駐するのは、42年7月であるから、既に約半年でイギリスに移駐していたことになり、その翌月から対独戦略爆撃が始まる。このことは、USA軍の兵站力の強さを思わせる。

 この1942年段階での対独戦略爆撃について、あるUSA爆撃部隊・准将(グレゴリー・ペック)の作戦遂行上の苦悩を描いた作品が名作『頭上の敵機Twelve O'Clock High』(1949年作、ヘンリー・キング監督)である。「Twelve O'Clock High」とは、ドイツ空軍戦闘機がUSA爆撃機B-17を攻撃する際、防備の比較的薄い爆撃機の「船首」を目がけて、爆撃機から見て、12時方向真上から攻撃を仕掛けてくることを言う。

 「Flying Fortress(空飛ぶ要塞)」とは、USA製四発重爆撃機B-17に付けられた別称で、B-24 Liberator(「解放者」)と並んで、第二次世界大戦中のUSAを代表する重爆撃機である。B-17よりも後に開発されたB-24は、当然、より性能が高く、汎用性も高かったが、B-17は、堅牢性が高く、破損を受けてもドイツからイギリスに生還できる可能性が高かったところから、クルーには、「空の女王」と呼ばれ、B-24よりも好まれていたと言う。その点を描いたのが、『Memphis Belleメンフィス・ベル(「メンフィスのカワイ子ちゃん」)』(1990年作、M.・ケイトン=ジョーンズ監督)で、ストーリーの時点は『頭上の敵機』より後で、本作と同じ1943年のことである。

 時は、1943年ともなると、RAFのランカスター四発爆撃機が行なう夜間絨毯爆撃に対して(ドイツ空軍のイギリス空襲への報復措置)、USA第八Air Force軍が担当する昼間「精密」爆撃も軌道に乗りつつあり、本作がストーリーを盛り上げるために述べ立てる「危険性」は、確かに、P-51マスタングの護衛戦闘機がドイツ上空まで付き添って来られる44年以降よりは高いはずであるが、42年の状況よりは低かったはずである。故に、本作冒頭の爆撃機18機を駆ったフランス東部のMetzメッツ市に対する空爆作戦は何も「秘密」にする程のものではなかったのである。(故に、本作の邦題『空爆特攻隊』は、可成りの誇大表示である。)

 しかも、本作の原作となるRalph Barkerが書いた『The Thousand Plane Raid』(本作の原題でもあり、Raidとは「急襲」の意味)は、実は、RAFが1942年五月に敢行したケルン爆撃の史実に基づくものであって、千機以上の爆撃機を投入しての爆撃作戦は、何もUSA陸軍航空部隊の独創的な作戦ではないのである。更に言えば、本作でクライマックスとされる、ベルリンより南にあるMerseburgメルゼブルクへの空爆も、実は、対象とされる、Bf109 メッサーシュミット機と並ぶドイツ名戦闘機Focke-Wulf 190フォッケ・ヴルフ190の製作工場(本社はブレーメン)は、筆者が調べたところでは、この地Merseburgにはなかったと思われるのである。Merseburgの近郊には、Leunaロイナという場所にドイツの軍需産業にとって重要な化学工場、とりわけ、石炭から燃料を製造する工場があり、この地に対する大規模空襲が行なわれるようになるのは、1944年五月からである。何れにしても、以上のように、本作のストーリーは可成りいい加減なものであることが想像できる。

 さて、「爆撃機千機投入作戦」は、RAFのBomber Commandを指揮することになったArthur Harrisアーサー・ハリス空軍元帥が、対独戦略爆撃の効用を大々的に宣伝するために考えついた作戦であった。こうして、未だ十分に爆撃機が足りていない状況であったにもかかわらず、北ドイツのハンブルクを攻撃地と定めて、英軍の各所に当たって、爆撃機を探し求め、1.047機をかき集めることが出来たのである。天候に大きく左右される夜間攻撃は、結局、1942年五月30日の夜に、二次目標であった、西部ドイツにあるケルン市に向けられた。

 このような「爆撃機千機投入作戦」は、その後、エッセン、ブレーメン、ベルリン、ミュンヘンに対して敢行されたが、これ程の大量投入とまでは行かなくとも、ドイツでの空襲でドイツ国民を大きく動揺させたものとしては、1943年夏のハンブルク空襲と1945年二月のドレースデン空襲である。

 エルベ川沿いの「ヴェネツィア」と呼ばれた文化都市ドレースデンに、休戦条約締結の五月八日まであと三ヶ月もない時期に大空襲を掛ける戦略的意味は殆んどなかったのであるが、それは、日本で言えば、東京大空襲の後の45年五月か六月に京都に空襲することと同様な意味合いを持ったのがこのドレースデン空襲であった。(この記事を書いている2025年八月六日、広島への原爆投下80周年の日に、ドイツの地のドレースデンでは、第二次世界大戦中に投下された不発爆弾が三個が発見され、無事に処理されたと言う。先日にはケルンでも同じ不発弾処理が同じ年の25年にニュースになっている。処理されたのは、あの最初の「爆撃機千機投入作戦」で投下された爆弾であったのであろうか。ドイツでは、「あの先の大戦」が終わって80年経っても未だに戦時中に投下された連合国軍の投下爆弾が発見されるのである。)

 一方、43年七月下旬からのハンブルク空襲はその死者が約三万四千人にも上った大惨事であった。ナチス・ドイツがソヴィエト連邦への侵攻を始めたのが、42年六月であったが、これを受けた、スターリン側の連合国へのヨーロッパ第二次戦線の構築の要求を宥めようとして、イギリス側は、戦略爆撃の方法を変えることにする。即ち、それまで、軍需施設や鉄道網の破壊に集中した爆撃攻撃を、無差別絨毯爆撃攻撃に転換し、とりわけ、工場労働者が住む住宅地域に焼夷弾を集中的に落とし、以って、住居を焼き払い、ドイツ産業の生産力を低下させるのみならず、ドイツ国民の士気を挫くことを目指すことにしたのである。このような文脈で、上述の42年五月の最初の「千機爆撃機投入作戦」が続行され、翌年七月下旬に、ユダヤ教の神が道徳的に堕落したGomorrahゴモラの市民の上に「硫黄と火の雨」を降らせて罰を与えた如く、ハンブルクに対して、「ゴモラ作戦」が決行される。

2025年8月4日月曜日

フライング・フォートレス(USA、2012年作)監督:マイク・フィリップス

 1939年九月にナチス・ドイツがポーランド西部を侵攻したことで、第二次世界大戦は勃発した。ファシズム・イタリアは、同じ全体主義のナチスの動向を注視していたが、ドイツが40年の対仏戦で圧勝すると、この年の六月十日に対英・仏に宣戦を布告する。

 これを受けて、翌日の六月11日、早速イギリスを飛び立ったRAFの爆撃隊は、途中で燃料を補給しつつ、イタリアのトリノにあったフィアット工場を爆撃し、また、未だ南仏に駐留していたイギリスの航空派遣部隊が、六月中旬に北イタリアの工業地帯、即ち、ジェノヴァ、トリノ、ミラノなどを戦略的に爆撃した。フランスのヴィシー政権が誕生すると、もちろん、この動きは止まり、イギリスは、対ナチス・ドイツとの「イングランド航空戦」に引き込まれる。

 大英帝国のRAFの対枢軸国への反攻が始まるのは、ようやく、1941年になってからであり、対イタリアへの本格的反攻も翌年の10月下旬になってからであった。北アフリカのロンメル軍団を北アフリカから追い出す見通しが付いたからである。こうして、北アフリカに駐留していたRAFの爆撃部隊は、1940年と同様に、北イタリアの工業地帯への戦略爆撃を開始する。42年12月に、北アフリカのチュニジアやアルジェリアなどに本拠を置くUSA陸軍第九Air Forceが戦略爆撃に参加し(対独戦略爆撃を担当したのは、第八Air Force)、南イタリアのナポリを攻撃する。このナポリ及びシチリア島にある町々への攻撃は1943年半ばまで続く。43年七月に連合軍のシチリア島侵攻が行なわれると、これ以降、連合国による、人口の多いイタリア諸都市に対する絨毯爆撃が連続して行われ、戦略爆撃の本来的目的である、インフラの破壊と住民の反ファシズム政権への動員が本格化する。同年七月12日には、イタリアで行なわれた空爆でそれまで最も大きな被害が出たトリノ空襲が遂行され、この空襲により、約800名の一般市民が死亡した。そして、この作戦に連動したものとして、本作でそのクライマックスとされる、最初のローマ大空襲は、米英爆撃隊の共同作戦「クロスポイント」として七月19日に実行される。これには約500機の爆撃機が参加することになる。この中の一機が、本作の主役たるB-17爆撃機Lucky Lass(「幸せを呼ぶ娘っ子」)号となる。

 約500機の米英連合爆撃隊は昼頃を中心にして約三時間、三波に分かれて爆撃を敢行し、とりわけ、ローマ市の東部にあるSan Lorenzo地区(貨物駅と製鉄所)を爆撃した。爆弾量は、合計一千トンに及ぶ。この攻撃により、約1.500人が死亡し、約1.600人が負傷した。多数の建物も破壊され、その内の一つが教皇バジリカ教会であるSan Lorenzo教会であった。

 時の教皇ピウスXII世はSan Lorenzo地区に早速赴き、住民に慰めの言葉を掛けたが、教皇庁は、連合国側に抗議の声明を出し、USA大統領F.ルーズヴェルトに対し、ローマのキリスト教世界の「首都」としての性格を尊重し、今後このような爆撃が聖都に行なわれないように要請し、また、イタリアの政権に対しては、軍事司令部をローマから移動させて、連合国側にローマ空襲の口実を与えないように呼び掛け、ローマを「開城都市」として宣言した。(映画では、連合国側がヴァティカンに連絡を取り、また、事前に爆撃地域を告知してあり、ビラで地域住民が爆撃地域から避難するように呼び掛けてあるという設定である。本当であろうか?)

 この作戦の六日後、ムッソリーニ政権は倒れ(つまり、今日でいう「レジーム・チェインジ」)、戦略爆撃の本来の目的が達成された、歴史上最初の事例となる。九月八日、イタリアと連合国との休戦協定が成立する。

 しかし、43年九月以降、イタリアを占領しているドイツ軍に対する地上攻撃支援の意味を持つ、今度は戦術爆撃を米英連合爆撃隊は、とりわけ、中部イタリアに対して敢行する。その空爆が持つ戦争犯罪に繋がる側面が最悪に出たケースが、ローマから南にあるモンテカシーノ修道院に対する爆撃で、ここにドイツ軍の監視所が置かれると誤認した連合軍は、約400機の爆撃機を動員して、この修道院を建物の土台が分からなくなるまで爆撃したと言う。こうして続けられた、イタリアにおける対独戦の結果、連合軍は、聖都ローマを占領することとなるが、それは、1944年六月四日、対ローマの最初の大空襲から約11ヶ月が経ってからのことであった。(ウィキペディアによると、この期間のローマ爆撃「キャンペーン」で約600機の連合国爆撃機が失われ、約3.600人の連合国航空兵が戦死したと言われている。)

 本作の題名『Flying Fortress』(「空飛ぶ要塞」)は、USA製四発重爆撃機B-17に付けられた別称で、B-24 Liberator(「解放者」)と並んで、第二次世界大戦中のUSAを代表する重爆撃機である。B-17よりも後に開発されたB-24は、当然、より性能が高く、汎用性も高かったところから、偵察機や対潜哨戒機にも使われた機種であるが、B-17は、堅牢性が高く、破損を受けてもドイツからイギリスに生還できる可能性が高かったところから、乗組員には、「空の女王」と呼ばれ、B-24よりも好まれたと言う。その点を描いたのが、『Memphis Belleメンフィス・ベル(「メンフィスのカワイ子ちゃん」)』(1990年作、M.・ケイトン=ジョーンズ監督)で、ストーリーは本作と同じ1943年のことで、ある対独戦略爆撃飛行を描く。一方、本作は、同じ1943年でありながら、対イタリア戦略爆撃飛行を描き、Lucky Lass号の渾名が称する如く、損傷を受けながらも、自陣の航空基地近くまで到達し、砂漠上に乗組員がパラシュートで降下し、機体は失われるものの、乗組員の一部が無事に基地に帰還するストーリーである。『Memphis Belleメンフィス・ベル』での護衛戦闘機がP-51マスタングであったのに対し、本作では、戦闘機としてCurtiss P-40トマホーク/キティ―ホークが護衛して、ドイツ軍戦闘機メッサーシュミット機とドッグファイトを展開するのも、興味深い点であろう。(P-40は、大戦初期においては、Bf109 メッサーシュミット機には対抗できる戦闘機ではなかったと言われており、本作に登場するP-40は改良型のキティホークIV型であるらしい。)

 同じく地中海乃至イタリアでの航空戦を描いた『キャッチ22』(1970年作、M.ニコルズ監督)では、登場する爆撃機は、双発中型爆撃機B-25ミッチェルであり、この作品では、戦略爆撃の問題性が風刺的に描かれている点、本作の無批判なストーリー展開に一つの視点を示すものとして、併せてご覧になることをお勧めする。

2025年7月30日水曜日

パピヨン(USA、1973年作)監督:フランクリン・J.・シャフナー

  撮影機材は、世界一流の機材を貸し出すPanavisionのものである。色彩は、世界一流の「総天然色」のTechnicolorで、画面比は、衰退する映画産業がその衰退傾向に歯止めを掛けようとした、2.35:1のワイドスクリーンである。これはもう、是非、劇場公開で楽しみたい作品である。とりわけ、映画の終盤での、島の絶壁から見下ろした時の怒涛のように押し寄せる波の白と、波が引いていって、それが沖に繋がる海(実際は、マウイ島から見える太平洋の海)の青の鮮やかさは、流石はTechnicolorであると言いたい。撮影監督は、本作の監督であるF.J.Schaffnerシャフナーの、シャフナー組の一員であるとも言っていい、ドイツ系アメリカ人であるFred J. Koenekampコーネカンプである。パピヨンが初めて独房に入ったところでの、一人称の視点を採るカメラ・アングルや、パピヨンが夢想する場面での逆立ちのカメラ・アングルなど、本作での撮影上の意匠は各所にある。キャメラマンKoenekampは、本作の三年前の作品『パットン大戦車軍団』(監督:F.J.シャフナー)で、アカデミー賞撮影賞にノミネートされ、本作の翌年の作品『タワーリング・インフェルノ』(監督:ジョン・ギラーミン;主演の一人:St.マックィーン)で、アカデミー賞撮影賞を共同で受賞している。

  原作は、フランス人Henri Charrièreアンリ・シャリエールが書いた、自称「自伝的」と銘打った同名の小説である。この小説は、1969年に発表され、ヒットした作品であるが、当初は、その内容は実話であると信じられていた。筆者には、本作のストーリーを観ただけで、随分と多彩過ぎて「眉唾物」と思われたストーリーではあるが、ウィキペディアで調べると、やはりそうであり、本人がのちに認めているように、少なくとも内容の四分一はフィクションであると言う。

 ウィキペディアによると、H.シャリエールの原作には元本があるのではないかと言われており、その元本の作者が、同じくフランス人のRené Belbenoit ルネ・ベルブノワである。H.シャリエールが1906年生まれであるのに対して、R.ベルブノワは1899年の生まれである。その経歴を読むと、生まれながらの犯罪者と言いたい程の犯罪の経歴があり、『乾いたギロティン』という本を書いて、H.シャリエールと同じような「自伝」を1938年に 出しているのである。つまり、H.シャリエールよりも約30年前のことである。

 R.ベルブノワは、フランス本国で数々の犯罪事件を起こし、1923年にフランス領ギアナ(フランス語で「Guyane:グュイヤンヌ」)への流刑に処せられる。フランス領ギアナとは、南アメリカ大陸のブラジルに、ブラジルの北側で隣接する、フランスの植民地である。元々この地は、いわゆる「ギアナ地域」と呼ばれる地域の一部で、ギアナ高地を南側にし、大西洋を北東側にして囲まれている地域である。現在のヴェネズエラの東部地域がギアナ地域の西部であり、現在のブラジルの最北端の州アンパー州がギアナ地域の南東部を形成する。ブラジルがポルトガルの植民地であったように、このアンパー州の土地もポルトガルが領有するものであった。一方、ヴェネズエラにはスペイン人が入ったことから、ギアナ地域の西部は、スペイン領であった。そこに今度は、ギアナ地域の中央部に、オランダ人、フランス人、イギリス人が割り込んできて、そこが、アンパー州の北西側に隣接するフランス領ギアナとなり、その更に西側にオランダ領ギアナ(現:先住民スリネン人の名称から、「スリナム」共和国)、更にその西側がイギリス領ギアナ(現:ガイアナ協同共和国)となって、ヴェネズエラの東に隣接する形になる。この歴史的背景から、「ギアナ」は、ポルトガル語で「Guiana」と、オランダ語では「Guyana」と、スペイン語では「Guayana」と、そして、フランス語では、「Guyane」と表記する訳である。

 という訳で、R.ベルブノワが全部で五回図った脱走の内、二回目と三回目はオランダ官憲に捕まって収容地に戻されるということになったのである。五回目にはコロンビアにまで辿り着くことが出来、コロンビアから徒歩とカヌーでパナマ・シティーに到着する。時すでに1937年のことであったが、このパナマでR.ベルブノワは、映画でも見られるようなインディオのある部族の許で暮らすことになる。以下、ウィキペディアからその相当部分を引用する:

 「ある人がダリエンで経営していたバナナ農園に滞在することになった。周りのジャングルで蝶を探していたときにクナ族のインディオたちと出会い、カヌーに乗って彼らの首長が住む村を訪れた。その村で若いインディオの女性と結婚し、藁ぶき屋根の家で原始的な生活を始めた。インディオたちと同じように体に模様を描き、森で狩りをし、部族の会議や儀式に参加した。そのまま死ぬまでインディオたちと残りの人生を送ることも考えたが(最終的にその村で七カ月間暮らした)、再びアメリカへ向かうことを決心し、パナマシティに戻った。」

 映画で描かれるようなドラマティックな経緯からインディオの部族と生活することになった訳ではないが、映画のプロットがこのR.ベルブノワの話しと似ていることは興味深い。何れにしても、R.ベルブノワは、船でUSAに辿り着き、この地で『乾いたギロチン』と題する本を1938年、つまり、第二次世界大戦が勃発する前年に出版する。

 さて、背景となる情報を知らずに何年か振りで本作を再び観た筆者は、主演俳優陣がUSアメリカ人であることに違和感を抱きながら観ていたのであるが、ストーリーは19世紀末、遅くとも1900年代初頭と考えていた。が、それは、1930年代のことであると言う。胸に蝶々Papillonの刺青があることからそう呼ばれたH.シャリエールは、1933年に仏領ギアナに流刑される。仏領ギアナの本土にある流刑所から、脱獄常習者のJ.クルジオ、A.マチュレットとの三人組で脱獄したH.シャリエールは、コロンビアまで到達し、そこで官憲に逮捕される。コロンビアの監獄を更に脱獄した彼は、インディオの真珠取りの村に滞在したりしながらも、ある修道女に密告されて再度逮捕され、 コロンビアのあちこちの監獄に収監された後、何度も脱獄を試みるH.シャリエールに手を焼いたコロンビア官憲は彼を仏領ギアナに送還する。クルジオとマチュレットも同じ運命を辿る。送還された彼等は、三人とも仏領ギアナの沖合にある島サン・ジョゼフ島に収監される。ここでは、沈黙Silenceスィラーンスを課される独房生活が強制される。この科刑に耐えられずに自殺者が多数出たと言われているが、H.シャリエールと若いマチュレットはこれを生き延びたものの、クルジオは獄死する。

 サン・ジョゼフ島は、この地域の中心地である都市Cayenneカイエンヌから見て真北の沖合にある島の一つで、サン・ジョセフ島から北西にあるロワヤール島、そして、サン・ジョセフ島から更に真北にあるDiableディアーブル島の三島でSalutサリュー諸島を形成する。Île du Diableイール・デュ・ディアーブルとは、訳して、「悪魔の島」で、ここには、あのドレフュス事件で有名な、ユダヤ人フランス陸軍将校Alfred Dreyfusアルフレド・ドレフュスが無実の罪を科せられて収監されたことで有名になった流刑の島である。

 サン・ジョセフ島の「死の独房」を生き延びたH.シャリエールは、ロワヤール島に送られ、ここで囚人生活を過ごすが、1940年にナチス・ドイツの傀儡政権ヴィシー政府が仏領ギアナの囚人の処刑を決めたことから、H.シャリエールは狂人を装い、精神病棟に収監される。ここから脱獄を試みた彼は、ある囚人と伴に小舟で本土に逃げようとするが、小舟は波で岩に激突し、その囚人は溺死したものの、H.シャリエール自身は助かって、映画にある通り、「悪魔の島」に送られる。この脱獄不可能と言われた島から、H.シャリエールは、映画で描かれる通り、脱獄に成功するのであるが、映画とは異なり、ある囚人と二人で本土に向かう。現ガイアナ協同共和国に辿りつき、そこから舟で更にヴェネズエラに向かったH.シャリエールは、そこで再度逮捕されるものの、1945年に刑期をヴェネズエラで終えて、釈放される。この地で市民権を取得して、現地の女性とも結婚するが、69年にフランスに「凱旋」して、本作の原作を出版するという経緯となるのである。

 以上、H.シャリエールの原作を若干詳しく説明したのは、原作と脚本の違いを明らかにするためで、映画脚本においては、St.マックィーンが俳優として培った自己のキャラクター、自由に憧れ、自由の獲得のためにはあくまでも戦い抜くスピリットを持った一匹狼が、本作でも描かれる。この点では、戦争アクション映画たる『大脱走』(1963年作、J.スタージェス監督)でSt.マックィーンが演じた、通称「独房王」と呼ばれるUSA空軍大尉ヒルツ像に通じるものがある。

 しかし、本作のもう一つのテーマは、男同士の友情であり、これはフランス映画が好むテーマでもある。D.ホフマンが演じるところのLouis Degaルイ・デゥガは、実在の人物であり、H.シャリエールとも実際に既にフランスの監獄で顔見知りの仲となった人物である。映画同様に偽造罪に問われ、流刑地に流され、仏領ギアナに送還された。ウィキペディアによると、彼はH.シャリエールと「親友」になったと書かれてあるが、映画とは異なり、彼は、脱獄しておらず、実際に「悪魔の島」に島流しになったのかも分かっていない。H.シャリエールにしてさえ、彼が本当に「悪魔の島」に移送させられたという公式な記録は残っていないのであるが、この二人を「悪魔の島」で再会させることで、島に残るDegaと、島から脱獄するパピヨンとの性格の違いが上手く対照化されている。

 このように上手く出来ている脚本をそれでは誰が書いたか。それは、娯楽映画の脚本をよく手掛けたLorenzo Semple Jr.ロレンツォ・センプル・ジュニアと共に、あのDulton Trumboダルトン・トランボであった。D.トランボは、既に1930年代から映画脚本家として活動を始めていたが、第二次世界大戦の終了と共にUSAで強まったマッカーシズムと言われる反共運動により反アメリカ主義者として烙印を押されたことで、脚本家としては表立って活動することが出来なくなった。一時はUSA議会での思想検閲に対してこれへの証言を「内心の自由」を理由にして拒んだため、1950年に連邦刑務所入りとなり、その翌年から三年間メキシコに亡命移住していた人物である。

 このような経緯から、今ではUSAにおいてクリスマスに上映される定番映画となっている『素晴らしき哉、人生!』(1946年作、F.キャプラ監督)で既に、初稿脚本の作成に参画しているのにも関わらず、クレジットなしとなっている。この時点から1960年制作の『スパルタカス』(St.キューブリック監督)で彼の実名がクレジットに出るまで、十年以上も、ノンクレジットか他人の名義か架空の名義でD.トランボは「隠密」で活動しなければならなかったのである。他人名義という点では『ローマの休日』(1953年作)が、架空名義という点では『黒い牡牛』(1956年作)があり、この『黒い牡牛』の原案にはこの年度のアカデミー賞が送られた程であった。

 このように国家に迫害されながらも内心の自由を堅持したD.トランボにして本作の自由のためのメッセージも真実性があり得ると筆者は思う。St.マックィーンが体現する、自由の獲得のためにへし折れることもなく戦い抜くPapillonの姿には、D.トランボ自身の自由獲得のための体験と思いが重ねられていたことであろう。

 そのようなD.トランボの個人的な思い入れもあったのであろうか、彼は本作に俳優としても関わっている。映画の序盤である。まるで19世紀のことでもあるかのように、マルセイユの路地(実際は、スペイン・バスク地方のある漁港町)が描かれる。銃を持ったフランス軍兵士に囲まれ、H.シャリエールを含む流刑囚達がこのマルセイユの港から仏領ギアナに送り出される場面である。そこで、言わば「送辞」として、この地の警察所長が流刑囚に次のように訓示するのである:

 「諸君は、もはやフランスにとって存在しない者であり、諸君は、フランスから何一つ期待できないのである。」

 流刑者は、流刑の四年以上の刑期が終わっても、少なくともその刑期分は、仏領ギアナに居残ることを課せられていた。即ち、合計八年以上は流刑者は本国フランスに帰ることを許されなったのである。犯罪を犯していなければ、そうならなかった訳であり、そのような流刑の処罰を受けることは「自業自得」と言えなくもないのであるが、果たして国家がこのような酷い処罰を下せ得るのかは、刑事罰と社会的更生の関係を考える上で問題にされるべき点である。ましてやドレフュス事件の冤罪で「悪魔の島」に流されたA.ドレフュスのケースは言わずもがなであり、更には、「内心の自由」、「思想の自由」を固持してUSA国家から迫害され、国外亡命を余儀なくされたD.トランボにとって、自己の生存権を国家によって否定されたも同然だった訳である。このような文脈でD.トランボの本作での役回りを考えれば、その関係性を逆転させて、D.トランボを今度は国家権力の手先として上述の言を言わせている皮肉に人々は気付くべきであろう。この点でも、映画のラストで、オフの声で、非人道的制裁の場としての「悪魔の島」の流刑場が閉鎖されたことを語らせる意味は大きいのである。

2025年7月27日日曜日

亡国のイージス(日本、2005年作)監督:阪本 順治

「亡國神盾艦」

 苦しかった。この「傑作」を最後(或いは「最期」)まで観るのが。筆者は、駄作映画でも、何かそこに駄作なりの面白さを見つけて、その作品を最後まで観ることをモットーとしているが、本作は、ただただ詰まらなく、当時の防衛庁(!)海上自衛隊の最新鋭兵器のデモンストレーションが入る、二時間以上の長丁場は、マラソン並みの苦しさであった。

 とは言え、筆者は本作の監督阪本順治を「かっている」者である。と言うのは、2022年作の『弟とアンドロイドと僕』やその翌年の作品『せかいのおきく』で見せる、彼独特の知的滑稽さが好きであるからである。この最近作と比べると、本作におけるド真面目さは自分には意外であった。本作が2005年作で、阪本のフィルモグラフィーを見てみると、その三年前に『KT』を彼はものにしている。この金大中事件を扱った作品で、阪本は本作を撮るべき監督として製作者側の選考に入ったのかもしれない。何故なら、本作では、どう言う訳か、「某国工作員」ということで、「朝鮮民主主義人民共和国」と名付けられている「北朝鮮金王朝」の工作員が「我が美しき委奴国」の最新鋭イージス艦を自称「愛国自衛官」の先導によって乗っ取るからである。これは、つまり、日朝合作工作なである。(艦上での「紅一点」で、「浸透員」たる崔静姫チェ・ジョンヒの「活躍」は、「櫻花」の見ものであろうか?)

 阪本は元々自分で脚本を書く監督であるが、本作では彼は脚本を書いてはいない。監督なりに脚本作成にはタッチしたのではあろうが、長編小説の原作を二時間の尺にまとめ上げるには脚本家諸氏には荷が重かったようである。映画の「神様」と言われるヒッチコックが言っている:一に脚本、二に脚本、三・四がなくて、五に脚本、と。「愛国自衛官」が大和国に対する叛乱に至る動機の「真実性」が本作のストーリー展開にとって最も大きな要であるはずであるが、仮にフィクションであれ、これに真実性を付与する「物語りの手続き」が本作には、残念ながら、欠けている。そして、そもそも隠密行動をとる「某国工作員」が、公然と表に出て、東京にUSAアメリカ製毒ガスで攻撃をし掛けようとする客観的必然性はどこにあるのか。ここら辺も上手く説明されているとは言えない。

 さて、Aigisアイギスとは、ギリシャ神話に登場するもので、ウィキペディアによると、それは「猛烈な暴風」を意味し、主神ゼウスのものとも、ゼウスが娘の女神アテーナーに貸し与えたものともされる防具である。ありとあらゆる邪悪・災厄を払う魔除けの能力を持つとされ、その起源についても諸説があるが、鍛冶神へーパイストスによって作られたとされるものが多く、形状は盾形であるとも、胸当てであるとも伝えられいる。このAigisが英語読みにされると、ラテン語の「Aegis」を経て、Aegisイージスと呼ばれる。更に、これが、現代戦闘艦に艦載された対空防護システム(AWS)の呼称となり、このAWSを持った戦闘艦を「イージス艦」と呼ぶ訳である。後のAWSの開発により、それは、対空のみならず対潜、対艦、対地戦闘能力を含むものとなり、「ACS:イージス・コンバット・システム」となって今日に至っている。

 そこで、イージス=盾=楯であるとすると、筆者には「楯の会」という言葉が思い出される。これは、1970年に陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地に乱入し、自衛隊によるクーデターを扇動しようするも果たせず割腹自殺を遂げた反米民族主義者の作家・三島由紀夫が創立した民兵組織である。三島は、左翼学生運動の渦の中、これに対抗する右翼学生運動として、学生民兵組織を創立し、これを以って、左翼革命から日本国を防御しようとする「楯」を立てようとした訳である。護るべきは、日本の「国体」たるべき日本文化、つまり、日本人の同一性を確保するとする、幻想の共同体文化なのであった。

 つまり、「日本」という民族共同体とは幻想でしか過ぎないのであって、日本に対する所謂「愛国心」なるものもまた、日本国を支配する者達の支配構造を隠蔽するための「まやかし」にしか過ぎないのである。故に、イージス艦「いそかぜ」の副長・宮津の息子が定立した疑問:国民がそれに対する愛国心を失っている国、つまり「亡国」となっている国を護る意味があるのかという疑義もまた仮想の疑問なのである。日本の国土は、その存在自体として護るべきものなのであり、この国土に住む人間がどうであろうとこれとは関係なく護られるべきものなのである。そして、「自衛官」とは、自らの国土の防衛のための軍事的・技術的専門官であって、そこには、政治的意思が入り込む余地があってはならないのである。

 最後に、一言:叛乱の首謀者・宮津海軍中佐を演じた寺尾聡には、部下たる幹部将校を導き、彼等を叛乱に至らしめるためのカリスマ性がなければならないはずであるが、残念ながら、その「カ」の字もなく、ストーリーのまずさに、キャスティングのまずさが加わって、本作は、その息子を思う父親が情に竿さして、益々もって筋が情に流されたのである。このことが、本作のストーリーの弱さをより顕著にさせている。

2025年6月29日日曜日

若草物語(日本、1964年作)監督:森永 健次郎

 映画の序盤、大阪の家を飛行機(これがコメディタッチ)で家出してきた、四人姉妹の内の、下の三人が、東京の一番上の姉が住んでいる晴海団地(中層の五階建て)に押しかけて来る。こうして、「団地妻」の姉が住む「文化住宅」の茶の間で四人姉妹が揃い踏みするのであるが、長女(芦川いづみ)は、何故か灰色のスカートに黒色の上着を着ている。彼女は、二十歳代末の年齢であり、恐らくは大きな恋愛体験もなく、何か十歳も年上でありそうな、しかも、うだつが上がらなそうな旦那(内藤武敏)と三年の結婚生活を過ごしていた。既婚女性である長女が黒地の服を着ることには、未婚女性が羽織る派手な振袖に対して、既婚女性が身に付けた地味な留袖は黒地が基本という着物着用のマナーがここで働いていたのであろうか。

 という訳で、映画の冒頭で羽田「国際」空港(成田空港は未だ存在していない)で四発プロペラ機から降りてくる三人の妹たちは、それぞれ、次女(浅丘ルリ子)が赤い色の服を、三女(吉永小百合)が水色の服を、そして四女(和泉雅子)が黄色の服を着ており、このカラー・コーディネーションに何か「思惑」があるのではないかと筆者は勘ぐりを効かせた。

 性格が異常に明るく、本作でのコメディアン役を演じ、所謂「新人類」の先走りとも言える「現金な」四女は、その明るさの故に、黄色なのであろうか。黄色は、黒に対して最も明度の差がある色である。一方、結婚適齢期のど真ん中の次女は、羽田空港で知り合った年下の学生に言い寄られる。この外国車を乗り回す「坊ちゃん」は、にわか成金で下劣な成金趣味のブルジョワ家庭の息子である。その「対抗馬」が、次女の年下の幼馴染で、東京ではTVニュース会社のキャメラマンとして働いている次郎(浜田光夫)である。ブルジョワ対プロレタリアートの二項対立の中で、愛を求める次女は、故に、愛の色・赤を纏う訳であろう。そして、この時未だ19歳の吉永が演じる三女は何故に水色か、この色のシンボライズするものは何か。(映画の終盤の雨の日のシーンでは、次女が赤い傘を、三女が青い傘をさす。)

 まず、この映画での吉永のヘアスタイルが、他の三人とも比べて、個性的である。髪の長さは本来は長いのであろうが、こめかみ辺りはそのまま後ろでまとめてあるらしい。とは言え、その髪の一部をカールさせて耳の周りをぐるりと囲むようにもさせてある。一方、額の部分の髪は、額を丸出しにするようにして、ここの部分だけオールバックにし、髪を後ろに束ねている。しかも、その上には黒のリボンを併用して付け髪を載せて、後頭部をより高く見せている。19歳の女性の髪型にしては、古風と言えば、古風と言えるが、何れにしても、本人の複雑な感情を反映したようなヘア・スタイルである。

 父親っ子である彼女は、大阪で模型店を営む父(伊藤雄之助:圧倒的存在感あり)を、二年前に母親が亡くなった後は母親代わりに世話してきた。彼女は、このようにして家事を切り回し、店番もし、父親を助けてきた存在であった。その父親に、京都生まれの美人の後妻が来たことから、自らの役割にライバルが登場し、自己の存在意義に疑問を感じたのであろう。これが、彼女が家出をする動機であった。

 ここら辺の三女の気持ちの錯綜は、映画の中盤で、今度は父親自身が大阪の家を家出して、東京にやってくるくだりで明確になる。父親は、単なる夫婦喧嘩なのであるが、後妻から「精神的迫害」を受けたと誇大に言って、家出してきたのである。それをただただ喜んで自分を頼りにして父親が東京に出て来たと決め付けた三女しずか(この名前も「静御前」を思わせて古風である)は、東京で父親の面倒を自分が見ると言い張る。「だらしのうたって、我儘かて、女癖がわるかったて、出世せいかって、酒飲み屋かて」、亡くなった妻の枕元で一晩中泣いていたそんな父親をしずかは好きなのである。姉妹と口喧嘩をした後、シーンが変わって、しずかは父親とある埠頭を歩きながら話しを続ける。しずか以外の娘達から諭されて、しずかの説得にも関わらず、自分が好きで一緒になった後妻の元に戻ると言い出す父親に、がっくりするしずか。その二人を捉えながら、カメラは俯瞰位置に駆け上る。これは、しずかの精神的な「親離れ」が決定的になった瞬間であり、それを視覚化したカメラワークである。(撮影監督:板橋梅夫)

 結局、大阪にその日の夜行で帰っていった父親を恐らくは見送ったしずかは、自分のアパートには帰るに帰られず、次女の恋人であるが、前から心に留めていた次郎の下宿を訪ねていく。前に志賀高原でスキーをした時に、雪に嵌まって抜け出せなくなっていたしずかを次郎が助けてくれた。その時から、しずかにとって、そういう庇護をしてくれる父親的存在に次郎はなっていたのであり、この感情は、自分が父親を世話したいという気持ちと表裏一体のものであったのであろう。こうして、次女を巡る、学生とニュース・キャメラマンの三角関係から、今度は、ニュース・キャメラマンを巡る次女としずかとの秘められた、しずかから見れば「忍ぶ恋」の三角関係にフォーカスが予想通りに移っていく。なにせ、日活青春映画のゴールデン・コンビと言えば、吉永・浜田である。愛される代償を求める次女に対して、三女しずかは、愛される代償を求めず、ただひたすら自らが愛する「純愛」を体現する存在なのである。どこまでも透明で純情な愛、これを象徴する色は、水色しかないのではなかろうか。彼女は、東京14:00に急行「よど号」で出発した次郎を追いかけて、飛行機で大阪に飛んだ。列車よど号は、大阪に21:30に到着するからである...

 このように、本作は1960年代半ばの日活青春映画で、内容もつまらなそうな正月上映用のサービス満点の恋愛映画である。しかし、所々に隠された、当時の日本社会への皮肉を見逃してはならないであろう。脚本は、東宝の専属脚本家である井出俊郎が、日活のためのオリジナル脚本ということで、「三木克巳」と偽名で書いた作物である。

 長女の夫の平凡さは、当時のサラリーマン稼業に対する皮肉であろう。次女に言い寄る「ぼんぼん」たる学生の家庭の、誇張された成金趣味は、高度経済成長期ににわか成金になった連中への警鐘であろう。更に、次女の家出の動機は、空気の汚い大阪で鼻の穴をま黒にしてあくせく働いていてもしょうがない、そんな生活に飽き飽きしたからであった。そして、東京に出てからは、窓の外を見て、四女も、東京の空気も汚いわねえと呟く。「四日市ぜんそく」の問題や環境汚染が野放しになっていることの環境問題が未だ一般民衆にははっきりと意識されていなかった時期である。制作年の1964年と言えば、第一回東京オリンピック大会の年でもある。撮影自体は、前年の歳末から翌年の初春頃であろうか。オリンピック大会の開催が同年10月10日からであったから、上映は、これを受けてのものとなり、作中に出てくる、開通したばかりの東京モノレール、出来たばかりの国立代々木競技場、首都高速などのシーンを観衆も「ああ、そうだった。」と改めて見直したことであろう。2025年の現代から見れば、1960年代半ばの、市電が走っている銀座通りや有名デパート・松屋店内の吹き抜けの建物の構造などは、歴史的価値のある映像風俗資料となっている。

 また、映像ということであれば、浜田がTVニュース・キャメラマンという役回りでもあり、映像制作の点でも本作は凝っている。回想部分をまず画面の左か右の四分の一位を切り取って出し、それを拡大して回想部分の画面全体に持っていく技術(その他にも画面を半分や四分の一に区切り、その部分に別の画像を入れる技術、次郎が撮影したことになっている場面を映画の画面中央に入れる技術など)、ヘリコプターによる空撮(東京タワーなど)、車上にカメラを載せての移動撮影から始めて、次女がデパートで販売担当しているKodak社の「インスタマチック」の存在(映画内コマーシャル)、更には、次郎が下宿しているのも、D.P.E店であり、カメラ文化がこれ程までに普及していることなどが本作では何気なく語られている。

 最後に、映画の序盤、姉達に内緒で四女が勤めているという「アルサロ」という言葉が気になったので、調べてみたことを記して、筆を置こうと思う。「アルサロ」とは、「アルバイト・サロン」の略語であるそうで、「アルバイト」はドイツ語から、「サロン」はフランス語から持ってきた合成語である。「サロン」は、風俗店にも使われる言葉で、「アルバイト」は、「学生アルバイト」などでお馴染みの言葉であろう。つまり、「キャバレー」や「クラブ」にいるプロの接待嬢ではなく、アルバイトで雇われた素人の接待係りをお店に出す、そういう風俗店のことを言うのである。しかも、この言葉は、主に関西で使われたということで、大阪で育ったという四人姉妹には、それが何であるか、すぐに理解できたのである。今でもこの「アルサロ」が存在するのか、筆者には定かではないところである。

2025年6月18日水曜日

青い山脈(日本、1963年作)監督:西河 克己

 冒頭から立派な天守閣が大きく映し出され、早速、この城にまつわる話しが講談調で語られる:

 「慶長五年八月一八日の朝まだき、雲霞の如く寄せる敵の大軍三万八千に攻め立てられ、城を守る二千五百の家臣悉く斬り死に、城主は悲痛な割腹を遂げ、残る婦女子もまた共に相抱いて刺し合い、一族すべて運命を城と共にしたのである。(ここでカメラは城を完全に斜め下から見上げるような視角を取り、同時に城は陽が射さして急に明るくなる。)爾来、この城はこの町のシンボルとして三百六十年の歳月を市民と共に生きてきた。」

 この口上が終わるや否や、画面は音楽と共に動転して、「青い山脈」の赤い題字が登場する。併せて、背景は後方に山々を見渡す場面となる。そして、あの有名な、敗戦直後のヒット歌謡曲の一曲『青い山脈』が流れ始めるのである。

 四番ある歌詞の内、三番は敗戦直後を思い出させるので本作ではカットされてあるが、最初は男女によって交互に歌われるこの主題歌(作詞:西條八十、作曲:服部良一)は、希望や夢を謳い上げる。その中でも二番が本作との関連で内容的に見て面白い。

(二)
 古い上着よ さようなら
 さみしい夢よ さようなら
 青い山脈 バラ色雲へ
 憧れの 旅の乙女に
 鳥も啼く  

四行目の「憧れ」が「旅」に掛かるか「乙女」に掛かるかは、はっきりしないのではあるが、ここは、旧習を捨てて、バラ色の未来に向けて旅立っているのは、憧れの若き乙女であると理解できなくもない。であれば、この乙女像は、映画の冒頭で語られた「封建的」女性像とは異なるものであり、このようなコントラストに照らし出されて、ストーリーは展開する。

 この伝統的城下町には、ある私立の女子高等学校がある。この女子校は、約80年の伝統を誇る女学校であり、その名も「貞淑女子高等学校」という。「貞淑」とは、「貞操が固く、心が清く、しとやかである」という意味であり、まさしく、この伝統に則った女子教育が行なわれている女子校なのである。この学校には、東京の女子大を出たインテリの若い女教師・島崎先生(芦川いづみ)が教職に就いており、三年生のAクラスを担任している。このクラスには高校二年の時に男女共学校から転向してきた寺沢新子(吉永小百合)がいる。男女交際にもオープンで積極的な寺沢は、同じクラスで茶髪の眼鏡っ子・松山浅子(進千賀子)が書いた偽のラブレターをもらい、それを担任の島崎先生に見せて相談する。母校を愛すると言いながらの、人を嬲りものにしようとするこの卑劣な行為を学級ホームルームで問題化した島崎先生に対して、松山を中心とするグループはクラス内で相談し、次のような要求を黒板に書き付けたのであった:

一.私達の愛校の精心を悔辱したことを取り消して下さい。

二.生徒の風記問題は生徒の自治に任せて下さい。

三.母校の伝統を尊長して下さい。

それでは、この三つの要求を読んで、四つの間違いを見つけて下さい。

 遅くとも既に1960年代の前半から始まっている生徒の国語能力のレベル低下はさて置き、愛校心と母校の伝統を強調する一方で、生徒の自治が主張されているという点で、これは面白い対照であり、戦後の民主的教育が、敗戦後18年も経つと、ここまで浸透しているのかと、筆者には一つの驚きを禁じ得ない。

 本作の同名原作は、通俗大衆作家・石坂洋次郎が『朝日新聞』に連載小説として1947年に発表したものである。同年には、教育基本法と学校教育法が施行されたばかりであり、新制中学一年を除いては、旧制の高等女学校(五年制;原作の寺沢新子は高等女学校五年生で、年齢17歳)と旧制の高等学校(三年制であれば、修了時で二十歳の男子生徒)が未だに存在していた時期である。このような過渡期における高等女学校生徒と旧制高等学校男子生徒との間の男女交際を「新しい民主主義の息吹き」の下、これにフモールを込めて描いた作品がこの原作であった。

 日本の「ヌヴェル・ヴァーグ」の旗手の一人大島渚は、ウィキペディアによると、その「通俗的良識の甘さ」を批判しながらも、以下のように、自分が15歳の時にこの作品を読んだ時のことを回想している:

 「この戦後最初の新聞連載小説が、私たちに与えた新鮮な感動については、それを実際にあじわった人間以外には、いくら説明しても、それを実感として伝えることはできないだろう。(中略)私は今もなお『青い山脈』の文章のひとつ、ひとつ、ことに登場人物の会話のひとつ、ひとつを昨日の記憶のようになまなましく、生理的に思い出すことができる」

 更にウィキペディアによると、文芸評論家の高橋源一郎は、主人公六助の友人で、庭球部のマネージャーであり、しかも、兵役経験者で高等学校一の読書家である「ガンちゃん」こと富永安吉の存在に注目している。この役を本作では、若い高橋英樹が演じている。この「ガンちゃん」は、大学の文学部二年生で、ラグビー部に所属しており、彼は、本作のクライマックスに当たるPTA役員会の席上で、様々な賢人の箴言を引用して、会議の進行に影響を与えようとする、少々ユーモラスな役回りである。後年の高橋には余り予想できない役柄である。

 さて、この原作は、既に1949年に一度映画化されており、フォーカスは、島崎先生を演じた原節子に当てられている。1957年版では、島崎先生役を司葉子が、寺沢新子役を雪村いづみが演じている。この版でも、脚本は、49年版同様に、東宝の代表的脚本家であった井出俊郎が書いており、このことは、三度目の劇映画化である本作(但し、製作は日活)においても同様であった。もちろん、井出も時代に合わせて、「吉永小百合と言えば西河監督」と言われるくらい「吉永小百合もの」を1960年代に撮った西河克己監督と共に、ストーリーを「現代化」しなければならない部分(例えば、アマチュア無線によるPTA役員会の実況中継など)があったり、更には、ストーリー自体のフォーカスを、島崎先生ではなく、吉永・浜田の日活青春映画「ゴールデン・コンビ」に当てる必要があったりする違いがあるのではあるが。そして、もちろん、明朗快活な青春映画として、本作も「健康な」ハッピーエンドで終わる。

 このように、本作が観てすぐ忘れてもいいような日活青春映画の一本であるように思われるのではあるが、筆者は、上述の、高橋英樹演じる「ガンちゃん」が繰り出す、時には場違いな、時には、当を得た箴言の数々と、彼が学生服を着てわざと真面目くさって行なう、必ずしも理路整然としたものではない演説を聞いていて、これを2025年の現代日本の現状と突き合わせてみなざるを得なくなり、若干暗い気持ちになったのも正直なところである。

 既に別の場面でソクラテスや孔子を引用していた「ガンちゃん」は、PTA役員会の席上で、指名もされないのに、すーと立って、次のような箴言をぼっそりと言う:
ゲーテ曰く、新しき真理に最も有害なるものは古き誤りである。
セネカ曰く、思慮深き者はたやすく怒らず。
ピタゴラス曰く、怒りは無謀に始まり、後悔に終わる。

 そして、島崎先生が偽のラブレターを学級ホールルームで問題化したことにより生徒達の反発を招いた点で、この彼女の行動が正当であったかをPTA役員会が議論をしている最中、文学部二年生の「ガンちゃん」は次のような演説をぶつ:

 「そもそも現代社会における性道徳の混乱と頽廃とは、我々日本人に課せられた必然的、歴史的宿命でありますが、近頃、その一面のみを誇大視して歴史を逆行させようとする動向が見え始めております。世に復古調とか、リバイバル・ムードなどと言って、教育勅語を復活させようとする傾向などは甚だ遺憾であります。かのキンゼイ博士やバン=デ=ベルデ教授の研究を待つまでもなく、アダムとイブの昔より我々男性と女性の健康なる結合こそ、より健全なる社会の発展を齎すものでありまして、感情も意思も生理的欲求も率直に表現できなかった過去の生活に逆行させようとする時代錯誤的思想は絶対に遺憾であります。終わり!」(映画の1:14分代から約70秒間)

 原作では旧制高等学校一の読書家と言われた「ガンちゃん」に劣らない読書家ぶりを本作の「ガンちゃん」も発揮している訳であるが、「キンゼイ博士」とは、1940年代末から50年代に掛けてUSAの白人男女を対面調査して「キンゼイ報告」という形でその性生活の在り様を書き上げた、元々は昆虫学者で、この報告を以って、性科学の分野の地平を開拓した人物である。

 また、「バン=デ=ベルデ教授」とは、テオドール・ヘンドリック・ファン・デ・フェルデ(Theodor Hendrik van de Velde)のことで、彼はオランダ人産婦人科医として1926年に『完全なる結婚』なる本を発表した人物である。オランダ語で書かれたこの本は、世界中で翻訳され、結婚生活と性生活のマニュアル本となったが、日本においては、ウィキペディアによると、既に1930年に抄訳本が出されたものの発禁となり、戦後すぐの1946年に完訳本が、同年にはまた抄訳廉価版が出版されたことから、この抄訳本が二年連続のベストセラーとなっていた。この本は、更に本作と同年の63年には再刊されている具合で、本作の脚本家井出俊郎も、つとに少なくともこの本の題名は知っていたはずであろう。

 何れにしても、教育勅語の復活などという「時代錯誤的思想」復活の問題は現代政治的には2010年代にも政界に上がってきたことであり、教育基本法の「改定」も含めた教育現場での現状を鑑みるに、本作に描かれた女性の自立への賛歌を、憧憬と哀惜の念を以って今更ながらに観たのは筆者のみであろうか。

 最後に、映画の冒頭にあった落城の逸話について、調べたことをここに書いて、筆を置こうと思う。本作のロケ地が滋賀県彦根であると知って、彦根市について調べてみると、映画に出てくる海沿いの場面だと思われた箇所は、琵琶湖であることに気付いた。映画に登場する木造の校舎は未だにあるのか定かではないが、彦根市には、城下町としての面影が残っており、木造り平屋の町家が「城町」という地域に今でも保存されているようである。左の口角の下にホクロを付けて南田洋子が演じる気っ風のいい芸者・梅太郎の置き屋があるのもこの「城町」の一角であろう。

 映画の冒頭に登場するお城が、彦根城で、ここからは琵琶湖や鈴鹿山脈が見える。「青い山脈」とは本作では鈴鹿山脈のことかもしれないが(或いは伊吹山脈か)、同じく井伊家彦根城から見えるのが、佐和山で、ここには佐和山城があった。映画の冒頭で語られる戦国時代の落城の逸話は、実は、この佐和山城での出来事であった。そこで、手っ取り早いので、佐和山城の戦いをウィキペディアから引用する:

 「慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の戦いで三成を破った徳川家康は、小早川秀秋軍を先鋒として佐和山城を攻撃した。城の兵力の大半は関ヶ原の戦いに出陣しており、守備兵力は2800人であった。城主不在にもかかわらず城兵は健闘したが、やがて城内で長谷川守知など一部の兵が裏切り、敵を手引きしたため、同月18日、奮戦空しく落城し、父・正継や正澄、皎月院(三成の妻)など一族は皆、戦死あるいは自害して果てた。江戸時代の『石田軍記』では佐和山城は炎上したとされてきたが、本丸や西の丸に散乱する瓦には焼失した痕跡が認められず、また落城の翌年には井伊直政がすぐに入城しているので、これらのことから落城というよりは開城に近いのではないかとする指摘もある。」

 これを映画冒頭の口上と比較すると、口上は次の通りである:

 「慶長五年八月十八日の朝まだき、雲霞の如く寄せる敵の大軍三万八千に攻め立てられ、城を守る二千五百の家臣悉く斬り死に、城主は悲痛な割腹を遂げ、残る婦女子もまた共に相抱いて刺し合い、一族すべて運命を城と共にしたのである。爾来、この城はこの町のシンボルとして三百六十年の歳月を市民と共に生きてきた。」

 つまり、まず、日付が異なる。「八月十八日」とは、九月十七から十八に掛けてのこと、「敵の数三万八千」は、実は、一万五千、味方の数は、ほぼ同数、しかし、城主、つまり石田三成は、関ヶ原の戦場に出ていて、留守であった。この戦いで石田家は滅亡したと言ってよいであろうが、落城したのは、映画に映っている彦根城ではなく、関ヶ原の戦いの「裏切者」小早川秀秋を先鋒とする徳川勢に攻め立てられた佐和山城であったのである。

 と、まあ、我々が本作冒頭で聴いたのは、芸術の自由を謳歌した「創作」講談(或いは、「歴史改竄」)であった訳であるが、筆者にはこの講談、むしろ会津城陥落を思い起こさせていた。

2025年6月10日火曜日

幻の光(日本、1995年作)監督:是枝 裕和

 本作、画面の構図と色彩感覚がいい。画面の構図は、監督・是枝裕和の才能であろう。色彩感覚は、むしろ撮影監督・中堀正夫の持ち味であろうか。

 原作は、神戸出身の作家・宮本輝の1978年発表の同名小説である。筆者は原作を読んでいないので、本作のストーリー(脚本:荻田芳久)が原作のそれとどれほど異なるのか分からないが、関西出身の筆者の友人の言によると、本作の前半のストーリー展開の地は、兵庫県の尼崎ではないかということで、何れにしても、どうも社会の底辺で生きている人間達が住んでいる地区のようである。ウィキペディアによると、実際、原作者・宮本は1957年から小学校時代を尼崎で過ごしており、土地柄は肌身で感じていたはずである。

 そして、本作では、まず、主人公・ゆみ子の少女時代が描かれ、小学生と思しき彼女の体験が語られる。それもあるのか、カメラの視点の高さが、子供の背の高さに近いように思われる。しかも、ここでは、その子供の視点が路地の一方から他方へ抜けるように見ているような画面構成が多用される。この点、筆者には名匠小津の特徴的画面構成を思い出されたが、面白いのは、その路地の出口が、暗い画面の手前に比べて異常に明るのである。正に、トンネルを抜ける所が明るいという、あの「眩しい」感覚である。

 このトンネルの構図は、再婚してゆみ子が能登に住むようになり、ゆみ子の息子が相手方の夫の連れ子の娘と一緒に遊んでいる時にも出てくる。カメラはトンネルの手前に据え置かれたまま、血の繋がらない姉弟は、暗いトンネルの中に入っていく。トンネルの奥は明るく、能登の山野の緑色や黄緑色がこちら側からも見え、その色彩の景色は、トンネルの中にある水溜まりにも反射している。ゆみ子の子供時代の構図とは異なり、ここでは色彩に溢れ、しかも、トンネルの奥の自然の景色の一箇所が光っており、そこからトンネルの中を通って、それがカメラまで届き、更に画面を見る者にもまた射通すようである。これもまた、タイトルの通りの「幻の光」であろうか。

 もう一つ、構図的に印象的な場面は、同じく姉弟が自然の中で遊んでいる場面である。カメラが山地に段々畑状に整地された田圃を撮っている。田圃には既に水が溜められてあり、その水は鏡のように空を静謐に反射している。その田圃の向こう側は、日本海である。この構図の中に、画面の中央を左から右に抜けるように通っているあぜ道があり、ゆみ子の息子がたどたどしくもスキップするようにあぜ道を通って画面の左から入ってくる。その男の子を追いかけるようにして女の子も付いていく。あぜ道の反対側に男の子が転げ落ちるのではないかとハラハラしながら観衆は見守っているのであるが、二人の姉弟は無事に画面の右に抜けていく。是枝監督は、長編劇映画第一作目から、子役を使うのが上手いのである。

 筆者が本作の構図と色彩に圧倒されたのは、本作の終盤の、ある一シーンである。傷心に駆られたゆみ子が外に佇んでいると、ゆみ子が住む村で死者が出たのであろう。その死者を弔う葬列の一行が、小雪が降る中、彼女の近くを通り過ぎてゆく。すると、ゆみ子もその葬列に釣られて、間隔を置いてその後を付いてゆく。時は、既に夕暮れ時であり、空は夕暮れの群青色である。日本海の暗い青色が水平線の所で空の群青色と邂逅する。この大自然の中を葬列の闇が画面の中央の右から左へと水平線に沿うように抜けていくのである。そのうしろを一つの黒い人影が追いながら。壮大な自然の中で人の生の「終着点」を見ながら、ゆみ子は、自らの意識の中で極大化されていた心の傷を相対化できたのであろうか。

 是枝監督は、何故、自分の劇場映画デビュー作に、中堀正夫撮影監督を起用したのであろうか。両者の映画人としての経歴を見ても、その接点が見当たらないのではあるが、ここで中堀撮影監督の経歴を簡単に述べておく。

 中堀撮影監督は、1943年に東京で生まれたキャメラマンである。父の影響を受けて、写真家になるつもりで日本大学藝術学部に入学するが、その在学中に大学の先輩の誘いを受けて、特撮を手掛ける円谷特技プロダクションの現場に参加することになる。大学卒業後は、就職難であったこともあり、『ウルトラマン』の制作準備に関わることとなり、ちょうど人手を求めていた円谷プロダクションへ撮影助手として入社する。こうして、同じく『ウルトラマン』の制作に関わっていた、「奇才」実相寺昭雄と知り合うこととなり、中堀は、実相寺組撮影監督となるのである。テレビ番組演出、テレビ映画監督畑出身の実相寺監督が、長編劇映画第一作目として1970年に世に問うた作品『無常』は、ロカルノ国際映画祭でグランプリを受賞したが、この作品の撮影を共同担当したのは中堀であった。こうして、中堀は、1970年代、80年代のアヴァンギャルド映画作家の一人たる実相寺監督の奇抜な画面構成に耐え得る撮影技術を磨き、実相寺が亡くなるまで、十数本の作品を撮ることになる。本作が制作された1995年の三年前の1992年に、中堀は、江戸川乱歩原作の『屋根裏の散歩者』を
実相寺監督と撮っているが、ウィキペディアの経歴には、彼と是枝の「交差点」は見え出せず、中堀が本作の撮影に関わることになる。そして、本作により、中堀は、ヴェネツィア国際映画祭における特別賞に当たるオゼッラ金賞(Osella d'oro:現在は存在しない賞)の撮影賞を受賞する。

 それでは、是枝裕和監督の映画人としての経歴を見てみよう。1962年に東京で生まれた是枝は、物書きになろうと、早稲田大学第一文学部文芸学科に入学し、ここを卒業する。母親譲りの映画好きから在学中から映画館に足繁く通い、卒論は創作脚本であった。大学卒業後の1987年に番組制作会社テレビマンユニオンに入社し、ここでテレビ番組制作の下積み生活を過ごす。こうして、是枝は、フジテレビのドキュメンタリー番組『NONFIX』(命名は、「ノンフィクション」からではなく、「固定されていない」という意味)で番組を担当するようになり、1991年に『しかし…福祉切り捨ての時代に』を制作する。生活保護を打ち切られた女性と、水俣病和解訴訟で患者と国の板挟みとなったある厚生官僚の、二つの自死をテーマとしたこの番組は早くもギャラクシー賞優秀作品賞を受賞し、是枝は、同じ番組の枠組みで、『もう一つの教育〜伊那小学校春組の記録〜』(1991年)、『公害はどこへ行った…』(1991年)、『日本人になりたかった…』(1992年)、『映画が時代を写す時 侯孝賢とエドワード・ヤン』(1993年)、『彼のいない八月が』(1994年)と立て続けに発表する。

 是枝は、これ以外にも別の放送局の別の番組の枠組みでドキュメンタリー映画を制作するのであるが、テレビマンユニオンに在籍のまま、映画監督してデビューすることを決め、本作を制作することになる。ここで、とりわけ注目したいのは、恐らく是枝がデビュー作品を何にするかを思案していたであろう時期の、本作発表の二年前に出された『映画が時代を写す時 侯孝賢とエドワード・ヤン』である。

 侯孝賢(ホウ・シャオシェン)と楊德昌(エドワード・ヤン)は、台湾ニューシネマの代表的監督の二人である。本作の音楽を担当しているのが、 陳明章と同じく台湾人音楽家であり、是枝自身、家族の縁で台湾とは関係があるのである。是枝の祖父は、奄美生まれで、そこから台湾に渡り、是枝の父はその関係で台湾で生まれている。そう言う背景を是枝が持っている訳で、その彼が、1980年代、90年代の台湾ニューシネマの動向に映画人として興味を持たない方が可笑しい程である。そして、ウィキペディアの日本語版での「台湾ニューシネマ」の特徴を読んでみると、正に、本作を含む是枝監督の映画作りの方針がここにまとめられているように筆者には思われる。それ故、少々長いのであるが、それをここに引用しようと思う:

 「台湾ニューシネマに属する作品群とそれまでの台湾映画とで最も異なる点は、その写実性にある。従来の台湾映画が政治宣伝的色彩国策映画や、現実社会とは遊離したいわゆるヒーローもの中心だったのに比べ、台湾ニューシネマの作品には、台湾人の日常生活や台湾社会が抱える問題などに直接向き合い、それを丹念に追うことを通じて、ときには台湾社会の暗部にまで光をあてるといったような内容の作品が多い。

また、黄春明など、いわゆる郷土作家の文芸作品を積極的に題材に取り上げていること、それまで公共の場での使用が禁じられてきた台湾語などの方言を台詞に使用するなど、画期的な手法を取り入れていることなども大きな特徴である。

その他、ストーリー展開がはっきりしないこと、スローテンポで、抑揚を抑えた展開のものが多いことなども特徴として挙げることができる。」

 という訳で、台湾ニューシネマの特徴を箇条書きにすると、①写実性、②日常性、③社会問題との関り、④郷土性、⑤方言の使用、⑥ストーリー展開の曖昧性、⑦スローテンポの語り の七つの特徴をここで拾い上げることが出来る。そして、面白いことにこのすべての特徴が、少なくとも本作における作品の特質と合致するのではないか。

 写実性は、是枝がドキュメンタリー映画畑出身である点で、その制作態度の前提中の前提と言っていい点であろう。幼馴染同士が結婚して子供をもうけるという日常性は、夫の理由が分からない自殺で以って一挙にドラマ化する。こうして、自殺という社会問題がストーリー展開に関わってくる。しかも、関西弁を話す主人公が後妻に入って、日本海側の能登に行くことで、別の風土の中で、自殺された妻が自分の心の傷を見直すことになる。自然の中で遊ぶ子供達の姿を入れたり、能登の風物詩を描いたりしながら、ゆっくりとストーリーは展開する。しかし、物語りは、主人公ゆみ子が自殺された者の心の痛みにどのような決着を付けたかは観ている者にははっきりと分からないままで、彼女の、義理の父親との何気ない会話で終わる。

 是枝は、本作以降、自作の劇映画には自ら脚本を書く姿勢を貫く。編集も2023年制作の最近作『怪物』以外は、自分で担当している。そして、彼は、長編劇映画第二作目『ワンダフルライフ』(1999年作)で自分の組の撮影監督を見つけたようであった。山崎裕(ゆたか)である。しかし、作品賞、監督賞を数々受賞している是枝作品で、撮影賞(日本アカデミー賞)を獲得することになるのは、本作以来、『万引き家族』(2018年作)と『怪物』(2023年作)の二作を待たなければならない。この二作の撮影監督は、近藤龍人(りゅうと)である。故に、劇場映画デビュー作に、中堀正人を人選したことは、誠にラッキーであったとも言えるのである。

 映像素材は、Fujiフィルムで、自然の風景の撮影に適した素材であり、撮影機材は、Arriflex 535, Zeiss Super Speed Lensesである。さすがは、Zeissレンズで、本作の映像は、誠に鮮やかに撮られている。

2025年5月15日木曜日

あにいもうと(日本、1953年作)監督:成瀬 巳喜男

 DVDのカバーのスチール写真の構図に何故か惹かれて本作を見てしまった。普段着の和服の京マチ子が、身体の左側を下にし、両足を揃えてちょっと折った姿勢で直に畳の上に寝ている。左肘を立て、左手に頭を載せて、京マチ子は横になっているのであるが、その顔はふくれっ面であるようである。そのすぐ後ろには、森雅之が見える。彼は、何か大工職人のような服装で、頭には、よく労働者が被るキャスケット帽(レーニンが好んで被っていたので「レーニン帽」とも、乃至は、中国人民解放軍兵士が被っていたので、「人民帽」とも呼ばれる帽子)を被って、大股を開いてちゃぶ台に腰掛けている。

 この二人が兄・妹なのであるが、実は、このスチール写真のシーンは本作には出てこないので、本作を観おわって、若干、裏切られたような気もしないのではないが、この二人の京・森が、筆者にはミスマッチのキャスティングであったので、余計に残念な感じが強くなったのである。

 まず、本人二人が与える年齢と演技上の年齢が合わないように見える。室生犀星の同名原作によると、兄・伊之助は、28歳で、妹・もんは、23歳であると言う。演じている森は40歳代に、京は、少なくとも30歳代初めに見える。更に、演じている職業柄からして、京はまあまあ納得できても、森に関しては、墓石を彫る石工職人という感じではない。どっかのホワイトカラーの人間が、無理やりブルーカラーの人間をわざと「べらんめえ調」に演じている感じが滲み出てくるからである。

 そして、何よりも、室生犀星の同名原作を読んでいないので、何とも判断が付きかねるのであるが、本作の脚本を書いている女性脚本家水木洋子の手になる脚本における「あにいもうと」の「確執」の度合いに何かすっきりと来ないのである。

 川(ロケ地は多摩川)を越えて東京に働きに出たもんが、いいところの家のある坊ちゃん・大学生(堀越英二)に孕まされて里に戻ってくる。それに対して、父親でもない兄の伊之助が過剰反応する。兄自体、どこかの女給と関係があるようであり、仕事をやらせれば、いい仕事をするタイプの職人であるが、普段からまともに仕事をしているようには見えないタイプなのである。そんな彼が、妊娠して戻ってきた妹に「ふしだら」であるとは言える立場ではない。

 「いもうと」が「女」として戻ってきたことへの心理的屈折が「あに」の方にあるとすれば、親がいない家庭環境とか、親がいても兄・妹を強く結び付ける出来事とかがあったなどの、とりわけ、兄側の心理的な前提条件が本作で描かれていないと説得力がない。それ故、この兄の妹に対する過剰反応が不可解過ぎるのである。

 とは言え、他の配役はよい。伊之助ともんの父親たる赤座(山本礼三郎)は、嘗ては川仕事の人夫頭で鳴らした男ではあったが、今は、コンクリートを使って護岸工事をやる会社に仕事を取られて、近くの飲み屋で嘗てを懐かしんでくだを巻くだけである。であるから、妊娠して戻ってきた娘に説教する意気もなくなっている。ここは、この現代を描いて、それが家族に与える影響を描いて秀逸である成瀬監督の得意技であろう。

 この夫にかしずく妻・りき(浦辺粂子がいつものように好演)は、川沿いの茶店を切り回し、冬はおでんを、夏はかき氷を川沿いを歩く人々に提供し、物の仕入れには、嘗て自分の子供を育てた時に使った乳母車を使用するといった具合である。その、人生の荒波にも何か飄々とそれを受け流す、雑草のような生命力を秘めた、りきの生活力に、尊敬の念さえ起きる存在である。   

 もんとは対照的な、もんの妹のさん(久我美子)は、東京で看護学校に通っており、着実に生活設計を立てて、自分の目的に邁進するタイプの「やり手」である。このもんとさんの二人の姉妹の性格の対照も本作の面白いところである。

 さて、本作の同名原作小説であるが、こちらの方は、室生犀星が1934年に書いて『文芸春秋』に発表したものである。ウィキペディアによると、主人公の赤座もんは、室生犀星の養母・赤井ハツをモデルにしていると言う。筆者には、養母ハツの姿が伊之助の妹もんに投影されていることに、意外感を持つ。投影の対象が、伊之助の母りきではないのである。

 そこで、室生犀星の複雑な父母関係をここで照らし出してみようと思う。

 室生は、1889年に金沢市で生まれた。金沢市内には犀川が流れており、その西側に住んでいたところから、また、国府犀東という漢詩人がおり、それへの対抗心もあってか、「犀西」に、これを更に書き換えて、「犀星」とメルヘンチックにしたと言う。犀星の生まれと生立ちは、ウィキペディアに上手くまとめられているので、それを以下に引用する:

 「加賀藩の足軽頭だった小畠家の小畠弥左衛門吉種と、その女中であるハルの間に私生児として生まれた。生後まもなく、生家近くの雨宝院(真言宗)住職だった室生真乗の内縁の妻、赤井ハツに引き取られ、ハツの私生児として照道の名で戸籍に登録された。住職の室生家に養子として入ったのは7歳のときであり、この時から室生照道を名乗ることになった。」

 つまり、犀星は、女中の私生児として生まれ、すぐに里子に出され、養母・赤井ハツの私生児として育ち、更には七歳の時に、ハツの内縁の夫である寺の住職の養子に入ったという生立ちである。インターネットの「青空文庫」で適切な作品を見つけたので、その一部を更に引用する:

 ...母は小柄なきりっとした、色白なというより幾分蒼白い顔をしていた。私は貰われて行った家の母より、実の母がやはり厳しかったけれど、楽な気がして話されるのであった。
 「お前おとなしくしておいでかね。そんな一日に二度も来ちゃいけませんよ。」
 「だって来たけりゃ仕様がないじゃないの。」
 「二日に一ぺん位におしよ。そうしないとあたしがお前を可愛がりすぎるように思われるし、お前のうちのお母さんにすまないじゃないかね。え。判って――。」
 「そりゃ判っている。じゃ、一日に一ぺんずつ来ちゃ悪いの。」
 「二日に一ぺんよ。」
 私は母とあうごとに、こんな話をしていたが、実家と一町と離れていなかったせいもあるが、約束はいつも破られるのであった...


 生母ハルは、相方が亡くなると、結局、小畠家から追い出され、その行方が分からなくなってしまう。故に、犀星は、母ハルには永遠の憧憬を持ち続けたようである。これに対して、養母の赤井ハツについては、同じ作品『幼年時代』(大正八年:1919年発表)で以下のように犀星は記している:

  ...私は養家へかえると、母がいつも、
「またおっかさんところへ行ったのか。」とたずねるごとに、私はそしらぬ振りをして、
「いえ。表で遊んでいました。」
 母は、私の顔を見詰めていて、私の言ったことが嘘だと言うことを読み分けると、きびしい顔をした。私は私で、知れたということが直覚されると非常な反感的なむらむらした気が起った。そして「どこまでも行かなかったと言わなければならない。」という決心に、しらずしらず体躯が震うのであった。
「だってお前が実家(さと)へ行っていたって、お友達がみなそう言っていましたよ。それにお前は行かないなんて、うそを吐つくもんじゃありませんよ。」
「でも僕は裏町で遊んでいたんです。みんなと遊んでいたんです。」
 私は強情を張った。「誰が言い附けたんだろう。」「もし言い附けたやつが分ったらひどい目に遭わしてやらなければならない。」と思って、あれかこれかと友達を心で物色していた。
「お前が行かないって言うならいいとしてね。お前もすこし考えてごらん。此家(ここんち)へ来たら此処(ここ)の家のものですよ。そんなにしげしげ実家へゆくと世間の人が変に思いますからね。」
 こんどは優しく言った。優しく言われると、あんなに強情を言うんじゃなかったと、すまない気がした。
「え。もう行きません。」
「時時行くならいいけれどね。なるべくは、ちゃんとお家(うち)においでよ。」
「え。」
「これを持っておへやへいらっしゃい。」
 母は私に一と包みの菓子をくれた。私はそれを持って自分と姉との室へ行った。  

 母は叱るときは非常にやかましい人であったが、可愛がるときも可愛がってくれていた。しかし私はなぜだか親しみにくいものが、母と私との言葉と言葉との間に、平常の行為の隅隅に挟まれているような気がするのであった...


 つまり、犀星は、ここで、養母ハツに対して「しっくりこない」心のしこりがあったことを告白している。このことを本作に当てはめると、もんがこの心のしこりを起こさせる存在として、もんに養母ハツを投影したのではないか。そこには、あくまでも憧憬の対象としての生母ハルをもんの母りつに重ねていた心理的機微もあったのではないか。そうして、犀星自身はもんの兄の視点を取って、その自らの心のしこりを、もんの妊娠を契機として、もんの兄・伊之助の心のしこりとして発現させたのではないか。このように、伊之助のもんに対する「過剰反応」が解釈できるかもしれない。何れにしても、犀星の原作『あにいもうと』を筆者は一度読んでみたいと思う。

 原作の雑誌上での発表は1934年で、単行本に所収されたのはその翌年である。36年には、木村荘十二監督下、『兄いもうと』という題名で原作の最初の映画化がなされる。故に、本作は、劇映画化の二回目(53年作)に当たり、監督は、溝口健二とは別の意味での「女性映画」監督である成瀬巳喜男である。尚、二回目の映画化の前年の52年には水谷八重子らが大阪歌舞伎で原作を上演している。

 成瀬は、私見、1951年作の『めし』で、自らの監督としての特長の「方程式」、すなわち、女性を主人公にした現代劇を、原作は女性作家のものとし、その脚本を女性脚本家に書かせて撮るというやり方を確立している。本作では、この「方程式」からは若干外れて、男性の犀星が書いた原作を、女性脚本家水木洋子に脚本化させ、兄と妹とを主人公にしている。但し、もんとさんとの絡み、さんが体現する現代女性としての、より自立的な生活設計への志向を描いているところは、本作がさすがは「女性映画監督」成瀬の手によるものであることを肯けさせてくれる。

2025年5月13日火曜日

めぐりあう時間たち(USA、2002年作)監督:スティーヴン・ダルドリー

 自分の誕生日にあんなバースデー・ケーキを作ってもらってうれしいと思うであろうか:恐らくはチョコレートがたっぷり入った黒に近い焦げ茶色のケーキ、それに、飾りとして円形のケーキの縁取りにホイップ・クリームが載せられてあるのであるが、その色が濃い青色なのである。筆者には合わない色彩感覚である。


 このケーキを幼い息子のリッチーと一緒に作ったのは、1951年のロスアンジェルスに住んでいる中流家庭の主婦Mrs. Brownであった。蜂蜜色のフィルターを掛けて撮られているこの1950年代初頭のUSA社会は、第二次世界大戦が終わって六年が経ち、物質的には恵まれているはずである。第二次世界大戦から復員して再び職に就いたMr. Brownは、恐らく高校時代に知り合ったMrs. Brownに、他の女の子とは異なった雰囲気の彼女に惹かれていて、復員してすぐに求婚したのであろう。息子のリッチーは五歳位の年齢である。そして、Mrs. Brownは、二人目の子供を妊娠中である。つわりが強いのか、やさしい夫Danが仕事で出掛けようとしている時も寝室にいる。どういう訳か手にしている本は、イギリスの女流作家Verginia Woolfの作品『Mrs. Dalloway』で、Mrs. Brownは、この小説の一行目を読み始めた: "Mrs. Dalloway said she would buy the flowers herself."


 こうして、1951年のロスアンジェルスと、1923年の、ロンドン市街から南東に15km程離れた嘗ての宮殿都市リッチモンドとに時間的架け橋が掛けられたのである。1923年のある朝、Verginia Woolfは、目が覚めて思い付いた上述の第一文をペンで書き留めた。こうして書き始められたV. Woolfの新作は1925年に、彼女自身とユダヤ人の夫Leonardが1917年以来経営している出版社「Hogarth Press」から出されることになる。装丁の表紙絵(装画)は、V. Woolfより三歳年上の姉Vanessaが描いており、VerginiaとVanessaが如何に緊密な関係にあったかが想像される。作家Clive Bell(クライヴ・ベル)と結婚したところからBellと名乗るVanessaは、Cliveとの間に、本作にも登場する長男と次男を儲けるが、本作にも登場する娘Angelicaは、Cliveが同性愛関係にあった画家Duncan Grantとの間の子供である。(この点、興味のある方は、「Bloomsberries」と呼ばれた知識人グループのことを調べてみるとよいであろう。)

 小説『Mrs. Dalloway』は、James Joyceジェームズ・ジョイスが『ユリシーズ』(1922年発表)で使った手法、即ち、「意識の流れ」を基底においた叙述法を早速用いた実験小説であり、主人公の51歳のMrs. Dalloway夫人がその日の晩に催す社交会を準備するためにウエストミンスター界隈の花屋に出掛ける、1923年6月のある水曜日の朝からの一日を描くものである。ウエストミンスターにはBig Benがあり、ここから定刻に鐘の音が刻まれていく。(このBig Benが刻む時の鐘の音から、本作の題名「The Hours」が出てくるのであり、V. Woolfも自分の作品をそのように名付けようと思っていた。)

 こうして、Mrs. Dallowayが外界から受ける印象が更に彼女の連想や思い出を呼び起こす。それがまた他の登場人物の意識の流れとも混ざりあっていく。こうして、Mrs. Dallowayの一日が描かれるのである。彼女は、信頼がおけ、社会的にも成功はしているが、知的にはつまらない夫Richardと結婚しており、この日の夜会には、自分に嘗てプロポーズしたことのある、そして、今インドから一時帰国しているPeterも来ることになっていた。(Peterは、映画中のLouisのように、予定の時間より早く夜会に現れる。)そして、嘗て一度熱い接吻を交わしたことがある女友達のSally(映画中に同名の役あり)も今晩来る予定である。

 このMrs. Dallowayの日常の生活に対して、ほぼ並行して別のストーリーの筋が描かれる。第一次世界大戦からの復員兵Smithが、戦争で受けたトラウマを解消できずに、神経症を患っている筋である。1923年6月のある水曜日、とうとうこの神経症に耐えられなくなったSmithは、ある精神病院を訪れるのであるが、即同日、入院しなければならないとされ、それに絶望した彼は病院の窓から身を投げて自殺をする。

 このSmithの運命をMrs. Dallowayの夜会に招かれた精神科医が夜会で話題にすることで、Mrs. Dallowayも知ることになり、こうして、それまで、並行して流れていた二本のストーリーの筋が繋がるという展開で、『Mrs. Dalloway』の物語りは終わるのである。

 さて、Mrs. Dallowayの名前は、Clarissaというが、1951年から半世紀経った2001年のニュー・ヨークで出版社に勤めるClarissa Vaughan(クラリッサ・ヴォーン)は、Sallyという恋人と同棲をしている。テレビ局の仕事か何かで朝帰りしてきたSallyに起こされたClarissaは、自分で花屋に花を買いに行くと言う。と言うのは、この日、自分の嘗ての恋人で詩人のRichard(小説『Mrs. Dalloway』ではMrs. Dallowayの夫の名前)が名のある文学賞を取ったので、自分のアパートで授賞パーティーを催そうというのである。花を買ったついでにエイズにかかっているRichardのロフトに行く。この日の晩にパーティーがあることをRichardに告げて、彼に心の準備をさせるためである。文学者であるRichardには、Clarissaの名前と、夜会ということで、『Mrs. Dalloway』が思い出されたのであろう。早速、Richardは、Clarissaのことを「Mrs. Dalloway」と呼ぶのである。

 こうして、1923年にV. Woolfが描くMrs. Dalloway、1951年のMrs. Brown、そして、2001年のClarissaが、時代と空間を越えて重層的に繋がり、本作のストーリーは展開していく。

 この三層の時代を技巧豊かに組み合わせた、流れるように澱みもなく構築されたストーリー展開の妙は、アカデミー賞ものである。脚本は、イングランド出身の劇作家David Hare(ヘアー)による。彼は、映画『Wetherby(ウェザビ―)』(1985年作)という作品で監督も務め、この作品でベルリン国際映画祭銀熊賞を授賞している。本作では、米・英アカデミー脚本賞でノミネートはされたが、授賞しなかったものの、全米脚本家組合賞を授賞しており、このことは、如何にこの脚本がよいものであるかの証左であろう。

 本作には原作があり、原作がV. Woolfの『Mrs. Dalloway』をどのように使って、ストーリーを構築しているのか、更に、脚本家のHareがその原作を映画にアダプトするためにどのように改変したのかは誠に興味あるところである。原作者Michael Cunningham マイケル・カニングムは、自作の題名を『The Hours』として、V. Woolfが『Mrs. Dalloway』に元々付けようとした題名を採る。そして、その時間層を1923年、1949年、1999年とする。原作の発表が、1998年であるから、ニュー・ヨークでの時間層を一年だけ先送りし、その半世紀前ということで、ロスアンジェルスの時間層が1949年となった訳である。1923年の時間層は移動のさせようがないのは当然である。映画脚本では、今度は本作の上映が2002年であるので、一年だけ早めて2001年とする。何れにしても、そうすることによりニュー・ヨークの時間層は、21世紀のものとなる。その50年前は1951年であり、21世紀において、それを20世紀の半ばの世相と較べてみると、如何に性的志向の問題で21世紀初頭のUSA社会が解放されているかが分かるであろう。(その約四半世紀後の2025年のUSAの状況を鑑みると、USAの現況が政治も含めて如何に後退したものであるかが肯ける。)

 1923年のMrs. Dallowayは、上層階層の婦人であり、少なくとも家事からは自由な存在である。これは、Mrs. Dallowayを描く作者V. Woolfの存在形態とも同様のものである。彼女達は、一般庶民と比較すれば、「恵まれた」存在である。それに対して、1949年乃至は1951年のMrs. Brownは、中流家庭の存在で、主婦として完全に夫に経済的に依存している。とすれば、主婦としてだけの存在に空虚感を感ずる女性にとっての「閉塞感」は、如何ばかりであったか。筆者としては、V. Woolfを演じたニコール・キッドマンよりも、Mrs. Brownを演じたジュリアン・ムーアにアカデミー賞主演女優賞を授与したいところである。そして、Mrs. Brownの隣人として急に彼女を訪れ、自分の子宮腫瘍の悩みを打ち明けるKittyの存在も興味深い。子供を産めなくなることで、自己の妻たる存在意義を否定されるかもしれないと慄くKittyに感情を動かされたMrs. Brownは、自然の成り行きで思わずKittyの唇に自分の唇をやさしく重ねたのであった。しかし、Kittyは、自分の問題にのみ関心が振り向けられているから、Mrs. Brownの口付けが何の意味を持つのか理解できずに、その場を去ってしまう。この何気ない役であるKittyを演じたToni Colletteには注目すべきであろう。尚、「Mrs. Brown」という名前は、V. Woolfが1924年にある文学評論で使った名前であり、彼女によれば、「Mrs. Brown」とは、普通の庶民の女性一般を代表させた名前であると言う。

 最後に、本作の音楽を担当したPhilip Glassである。ユダヤ系アメリカ人の作曲家である彼は、クラシック音楽のみならず映画音楽にも関わっており、本作における、ある程度水量の嵩んだ渓流の流れのような、連続的に動的な背景音楽を作曲している。彼の音楽が、特徴的で印象的であるところから調べてみると、Paul Schraderが監督した『ミシマ:4章からなる伝記』(1984年作)の音楽を担当していた人物である。同じ日本人として興味ある情報であると思う。

星(ドイツ民主共和国、1959年作)監督:コンラート・ヴォルフ

 ブルガリア人脚本家のA.ワーゲンシュテーンは、自らのパルチザン活動の体験をストーリーに盛り込みながら、本作の脚本を書き上げて、当時のDDR映画界の重鎮Kurt Maetzigクルト・メッツィヒに監督を頼もうと考えて彼に打診する。すると、その内容がまた「ユダヤもの」で、これまでも...