2022年7月26日火曜日

カツベン!(日本、2019年作) 監督:周防正行

  映画の出だしで、白黒で「東映」と出てくる。もちろん、本作の配給が東映なので、そうなのであるが、しかし、『カツベン!』という題名から言えば、「日活」が出てほしいところである。「日活」とは、1912年に成立した、伝統ある映画会社であり、その正式名称が、日本活動冩眞株式會社 であるからである。

 写真技術は、既に19世紀半ばにはあり、そのカメラという箱が、「真実を写しとる」というところから、その名が来ているのは、若干自信過剰な呼び方ではあるが、その「写真」を「アニメート」すると、「活動写真」となる訳である。一方、「映画」という呼び名は、「画を映写する」という意味であり、よりニュートラルな言い方であることには間違いない。

 続けて出てくるクレジットも中々凝っている。無声映画時代の、ヨーロッパの装飾文字、とりわけ、アール・デコに影響されたレタリング、いわゆる、日本で言う「キネマ文字」で書かれてある。それを受けて、最初のシーンは、無声映画によくある真四角なフォーマットでの白黒映画で、二人の男児が竹林の中を駆けている。背景音は、あの、フィルム映写機がまわっている時の金属音である。

 間幕字で「種取り」という聞き慣れない言葉が出てくるが、それは、カメラをまわして撮った映像素材のことを言い、それを「種」にして、あとで「編集」するという訳である。主人公を含めた男児三人と犬一匹の「ちびっ子ギャングたち」が、竹林の中を駆けながら、そんな会話しており、彼らは、その「種取り」の場所に急いでいるのである。

 彼らが竹林を出た所で、松の木の前に立って、女装をした役者が、ちょうど「立ちしょん」をしている。この時期は、「女優」という存在が稀であることを、また、劇映画が、歌舞伎やその改革運動である「新派」に支えられて発展したことが、このわずかなエピソードで十全に提示される。こうして、『カツベン!』というタイトルがクレジットとして現れる。ここまでの、無声映画の歴史を、手際よく、かいつまんだ出だしは、流石は、周防監督である。

 このタイトルが出終わると、場面が変わって、ここからはカラーである。ちょうど、「映画の父」たる牧野省三が、恐らく京都に近い奈良県にある村で、見物する村人に囲まれて、「種取り」をしているシーンである。彼は、もちろん、時代劇、つまり剣戟映画、より大衆文化に寄り添って言うならば、「チャンバラ映画」を撮っているのである。説明のテロップが入って、物語り上の現在は、大正四年、一九一五年のことである。さっきの「立ちしょん」をしていた女形も登場し、演じている役者たちは、「いろはにほへとちりぬるを...」と発声する。無声映画であるから、きちんとした台詞を言う必要はなく、ただ口を動かしていればいいからである。こうして、本作の主人公たち男女の、未だ幼少の頃の、「活動写真」、略して、「写真」を巡っての出逢いが始まる。それには、映画鑑賞時になくてはならない嗜好品、あの黄色の図案の紙容器に入った「大正キャラメル」を頬張りながら。(実際、現実にある会社の「森---ミルク・キャラメル」が、携帯用にして売られるようになったのは、大正四年からであると言う。)

 さて、場面は一挙に十年跳んで、1925年となる。翌年には年号が昭和となる年である。職業としての「活動写真弁士」、それを略すると、「活弁」となるが、この呼び名を「弁士」自体は好まなかったようで、彼らは、自称「映画解説者」(関西圏で)と名乗っていたと言う。

 元々、日本では落語や講談と言うように一人話芸が発展しており、また、人形浄瑠璃や歌舞伎では、脇から語りや囃子が添えられて、舞台上での演技を総合的に楽しんできた伝統があった。故に、日本の大衆は、西洋からの文明の利器によって写しだされる見慣れない情景にはこれを解説してくれる人が舞台の脇に立っていても何ら違和感は感じられなかったのである。

 この「弁士」の存在こそが、日本無声映画史の特徴なのであり、それ故に、他の諸外国が、トーキー映画が出て、これにすぐに30年代の初めに乗り移ったのに対して、1938年までも無声映画が日本では撮られた、重大な理由であった。フランス人のリュミエール兄弟が開発した、現在と同様の投射方式のシネマトグラフが日本に入ったのは、1897年、早くもその翌年には、短編ではあるが、日本人自身が撮った映像が上映された。こうして、弁士の活躍の場が始まる訳であるが、それは、基本的には、溝口健二の無声映画『折鶴お千』(名女優山田五十鈴主演)が撮られた1935年までのことであり、弁士の凋落の運命は、1931年には既に決まっていた。この年、日本でトーキーによる最初の本格的中・長編劇映画『マダムと女房』が撮られ、また、同年、外国映画『モロッコ』には字幕スーパーが付けられるようになっていたのである。

 この弁士の消えゆく運命を考える時、フランスの新聞連載小説から採った怪盗「Zigomar(ズィゴマール)」の映画『探偵奇譚ジゴマ』のための「カツベン」で終わる、本作のラストシーンは、正鵠を射ていると言えるであろう。フランスで1910/11年に制作された『探偵奇譚ジゴマ』は、早くも同年に浅草でも上映され、大ヒットした洋画作品第一号であった。

以上、「ご高覧頂き、誠にありがとうございました。」

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