2022年7月18日月曜日

イヴの時間 劇場版(日本、2009年作) 監督:吉浦 康裕

  2012年にスェーデンのテレビで第一シーズン、20話で放映されたSFものシリーズがある。『Real Humans』という題名で、ロボットの使用が当たり前になっていた近未来社会がここでは描かれている。工業用ロボットは、もちろん、介護ロボット、更には、各家庭で家事を行なわせるロボットも存在している。ヒトは、自動車販売店に行くように、各種ロボットが見学できる展示場に行き、使用目的に応じて、好みのロボットが買えるようになっている。搭載させるAIによっては、ロボットをパーソナライズすることも可能である。こうしたロボットを、Human RobotsHu--botsを組み合わせて、Hubotsと呼んでいたが、学習機能を有したAIを持つHubotsの一部は、自我意識を持つようになり、自らをfree Hubotsとし、自立した存在として「生きよう」としていた。「彼ら」は、自己生存のためにはヒトを殺すことも厭わないが、機能するためには一定時間毎に充電しなければならず、これが彼らの「生きる」ためのネックとなっている。

 
 反Hubots団体は、Hubots狩りに躍起になっており、Hubotsが自立することは、ロボット法に違反することでもあるので、警察がフリーHubotsを追いかけ回すという状況であったが、一方、ヒトの一部にはHubotsを「人並に」扱おうとする人間も出てきて、そういう人間は、transhumanであると呼ばれる。こうしたセッティングでこのTVシリーズは、20話を重ね、恐らく反響がよかったからであろう、更に、第二シーズン分の20話が制作された。

 本作『イヴの時間』を、上述のスェーデンのTVシリーズと較べると、I.アシモフの言う「ロボット工学三原則」が『イヴの時間』で重要な役割を演じる以外は、ほぼ似たような構成である。『イヴの時間』では、反ロボット団体である「倫理委員会」が存在しているが、それは、ロボットが社会に蔓延っていることへの「警鐘」である。ここでは、ヒト型ロボットは、「アンドロイド」と呼ばれているが、とりわけ、家事に特化したアンドロイドを「ハウスロイド」という。

 ハウスロイドには、AICodeLife」が搭載されているが、AI技術はより進んでおり、アンドロイドは、認知面だけではなく、情緒面でもよりヒトに近づいている。というのは、AICodeLife」は、より進化したAICodeEVE」を、「情緒抑制回路」でグレード・ダウン化したものである。故に、自我意識に到達したアンドロイド達は、仕えるべきご主人様、つまり「マスター」が自分達に「ロボットらしい」反応を求めていると、ヒトに「気遣って」、わざと無機質に振舞うという、高等な反応をしているのである。そして、transhumanな本作の主人公は、アンドロイドの「人間性」に目覚めていく。

 さて、両性具有という言葉は、ラテン語でandrogynusと書く。andro-が「男性」、gynusが「女性」で、これが結びついて複合語を形成しているので、男性・女性の両性性を兼ね備えた「もの」ということになる。ここまで読んですぐ気づかれた方がいるかもしれないが、Androidとは、Andro-と接尾語-idとの複合語なのである。そして、接尾語-idとは「~のようなもの」という意味なので、Androidとは、「男もどき」という意味になる。

 という訳で、38日の「国際女性デー」もある昨今、gynusならぬGynoidガイノイドという言葉も当然のように使うべきかもしれないが、ジェンダー論、GLBTQ論が「やかましい」最近の状況を鑑みると、Humanoidフマノイードが時代により適合した表現かもしれない。

 と思い、色々調べると、Humanoidとは、頭と四肢を持ち、二足歩行をするロボットを指すと言う。Androidは、ヒト型ロボットの内、より発展したロボットを言うとすれば、GynoidだけではなくNeutroid「中性もどき」も含めた名称が必要であろう。この意味で、やはり、スェーデンのTV映画で出た造語Hubotが現代の要求に合った名称かもしれない。が、よりそれ以上な問題な点を提起しよう。ウクライナ侵攻を目の当たりにして、「情緒抑制機能」が欠如したヒトは、果たして、人間であろうかという、「哲学的」問題を諸君に投げかけたい。如何であろうか。

 最後に、本作『イヴの時間』に一言苦言を言うとすると、主人公リクオのハウスロイド「サミィ」と喫茶店「イヴの時間」のウェートレス・ナギ、そして喫茶店の常連客であるグラマラスなアントゥラージュ・リナが、筆者には作画的によく区別できなかったことである。よくある安易に登場人物の髪の色だけ変えてキャラの人物設定をするのだけは止めてほしいが、もう少し工夫があればと思う。注文に過ぎるかもしれないが。

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