ロケーション場所は、主に、阿賀野川水系の溪谷であると言う。栃木県との県境に近い、奥羽山脈寄りの福島県南部を源流として北上する「阿賀」川は、会津若松市の近くへと北上し、その北側で大きく西に曲がって、新潟県との県境へ向かう。この阿賀川が新潟県に入ると、峡谷部分で「阿賀野」川と名を変える。阿賀野川は、国から阿賀川と共に阿賀野川水系の本流として指定を受けおり、新潟市付近で一部が「小阿賀野」川に分流し、信濃川へ繋がる。阿賀野川自体は、別に新潟市北部付近で日本海に注ぐ。こうして、阿賀野川は信濃川と共に、広大で、豊潤な米どころたる新潟平野を作った河川であると言える。
本作のストーリーは、この山深い溪谷で、対岸にある町と此岸にある村々とを結ぶ舟渡しをしながら、細々と生計を立てている船頭の物語りである。映画の冒頭約25分で、自然の中に生き、自然と共に生きる船頭(柄本 明)の、ある日の一日が丁寧に描かれる。人々が川の両岸を行き来し、川を渡っている間は、人と人との「交歓」、「交流」が可能な「場」が、川渡りの船上であった。
そんな中、時は明治・大正の頃、文明の足音が音高く、この自然の最奥端の峡谷にもやって来る。川に掛ける橋の工事が、舟渡し場の上流で行なわれており、橋が完成すれば、村人たちにとっては、「便利」になるであろうが、船頭には、廃業の運命が待っている。橋の建設に関係している、おおへいな男の存在が、「文明」一般の性格をも体現している。俳優伊原剛志演ずるところの、この男は、映画の中盤で言う:「役に立たないものは、みんななくなっていくんだ。」それも、「廃れゆく」ものである、船頭に対して、無慈悲にも面と向かって言うのである。確かに、「便利」を求める文明開化の「風=トレンド」で失われていったものは多い。しかし、「文明」は悪で、「自然」は善であるという、本作の紋切り型のストーリー設定は、単純過ぎる。元々俳優であるオダギリジョーが、彼にとって長編劇映画の二作目である本作を監督し、しかも、その脚本も書いている点で、そのストーリー設定に「独りよがり」は、ないか。
上流から「流れてくる」娘の存在や「川の精」の登場も、何か奇を衒った「添え物」的存在に思え、また、黒澤の『乱』で世界的に有名になったという衣裳ディザイナーの衣装、とりわけ、登場する娘の赤色の衣装は、あんな衣裳、明治末、大正時代にはなかったのではないか思われ、「奇異感」を筆者に与える。音楽も、制作場面における国際性を強調して、アルメニア人のジャズピアニストを付けたという割には、音楽的に平凡すぎて、がっかりさせられたのは、筆者だけではないように感じられた。
ただ、撮影だけは、流石、Chr. Doyleである。遠くの自然をパンで写しだすシーン;被写体をじっくり、川の流れと共に観察するシーン;自然が見せる姿を、一日の日照に併せて、また、季節感に併せて、繊細に捉えるシーン;川面が緑色に揺れるシーン;夜明けの、朝霧に「押さえつけられた」川の風景のシーン、どれを取っても、また、映画の終盤の約20分間の雪景色で展開する「赤色」のドラマと伴に、それは、正に映像詩集と表せるものである。映像的には、更に、ドローンで上空から撮った俯瞰撮影、水中撮影、蛍を飛ばせたシーンとレンガ造りの橋を自然の中に引き入れた合成撮影など観るべきものが随所にあり、やはり、その意味では、本作は、映画館で観るべき作品であろう。
最後に一言:飄々として、人生の知恵を授ける、年老いた町医者の存在は、一重に、名優橋爪功がその存在に真実感を与えていて、一言言及すべき「銘」演技である。
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