チンパンジーとボノボの社会行動の違いが本作となぜ関係があるのか。
ヒト科は、まず、アジア類人猿たるオランウータン亜科とアフリカ類人猿たるヒト亜科に別れる。さらに、ヒト亜科はゴリラ族とヒト族に、ヒト族はチンパンジー亜族とヒト亜族に分類されるという。(分類学上、「目」、「科」、「族」、「属」の順に小さくなり、原人なども入れた部分がヒト属となる)こうして、同じ「大型類人猿」といっても、ヒト(現生人類Homo sapiens sapiens)との近さは異なり、マレー語で「orang(人) hutan(森) = 森の人」といわれるオラウータンは、ヒトから最も遠く、同じ族に属するチンパンジー亜族が最もヒトに近くなる。ギリシャ語で「毛深い部族」という意味の「gorillai」が由来とされているゴリラは、今ではチンパンジー亜族には含められていない。故に、『猿の惑星』における類人猿の社会階層化で、ゴリラが下位に置かれたのも専らただの空想だけではないのである。
さて、チンパンジーと同じ属に属するボノボ種である。この種は、1929年に初めてドイツ人の動物学者エルンスト・シュヴァルツ(Ernst Schwarz)が、ブリュッセル近郊にあるベルギー領コンゴ博物館のチンパンジー種であると見られていた標本を比較していた際に発見された。それ以来、観察と研究が続けれているが、チンパンジー社会とボノボ社会とでは、とりわけ、その社会行動において違いがあると言う。
まず、他グループに対する敵対・闘争関係がチンパンジー社会ではより大きい。また、本体グループより一時的に分かれて形成されるサブグループ内では、メスがそこで生まれたグループを去るという「父系社会」であるという点では両者に違いはないが、サブグループを構成する成獣のオス対メスの比率が、チンパンジーでは、1:2であるのに対して、ボノボでは、1:1である。グループ内での個体の順位差はどちらもあるが、ボノボ社会ではメスに主導権があり、メス同士が緊密な関係を結んでいる。オス同士は、チンパンジーと違って、自分のグループ内での順位を上げるために「共闘」するということはなく、むしろ自分の母親との関係が密で、母親のグループ内での順位がそのオスのグループ内での順位を決める。というように、ボノボ社会は「母権社会」である。
さらに、興味深いのは、道具をボノボよりより多く使う知能があるチンパンジーの社会では、「子殺し」があり、さらには、カニバリズムがあるのに対し、ボノボ社会では、個体間の緊張を和らげる行動形態がある。つまり、性的行動で、これは個体の年齢、性別、グループ内の上下順位に関係なく行われて、これで以って個体同士の和解、緊張緩和が図られると言う。
以上長々とチンパンジーとボノボの違いを書いてきたが、これが本作と何の関係があるかというと、本作の終盤、主人公の男二人が交わす会話が、このチンパンジーとボノボの社会行動の相違、俺たちはどっちのタイプかの話しになるからである。蓋し、脚本も共作している監督Julius Averyはこのセリフを役者に言わせたくてこの映画を撮ったのではないかと、勘ぐられるぐらいであり、本作を観終わって、それぞれの役のキャラクター付けを思い出してみると、正にこの類型付けに当てはまると思われる。
こんな「味付け」の付いた本作のストーリーは、最初に、監獄に入った人間がそれをどう生きのびるかの「監獄もの」から始まり、親分が子分を庇護し、育てる「教育もの」(ここに原題:Son of a gunの意味あり!)、さらには、犯罪スリラー、ハイストもの、そして、「狐と狸」の騙し合いと、よく言えば、盛りだくさんであり、最後の「どんでん返し」も含めて、本作は観て損はない。
主演の一人スコットランド人ユーアン・マッグレガーは、やっている役に適役かどうか、イメージがいまいち合わないような気もする。なぜなら、俳優には演技をしていなくとも、そこに漂う独特の「体臭」というものがあるからである。
サッチャリズムの新自由主義政策がイギリス社会にどんな影響を1990年半ばまでに与えたかが(極東のある国では今でもこの新自由主義政策が行われている)、ノスタルギーを持って描かれた『ブラス!』(1996年作;原題Brassed off は正反対の意味を持ち、さらに、ジャルゴンとしては、「意気消沈した」の意)で、マッグレガーは好演し、『ブラック・ホーク・ダウン』(2001年作)では、戦闘中コーヒーを入れる特技士官役でそのコミカルさを出していた。或いは、この、「体臭」と役のミスマッチが、逆に監督の狙ったところであったのか、諸君の判断を仰ぎたいものである。
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