2022年7月5日火曜日

戦艦ポチョムキン(ソ連、1925年作) 監督:S.エイゼンシュテーイン

 シネアストには必見の一作 

本作を観なくて世界映画史は語れない


 ここは黒海である。この黒海沿岸にある、ある防波堤には波が打ち寄せている。荒波と言うほどではないが、それでも、防波堤に打ち寄せる波は、しぶきを上げる。映画の冒頭、このシーンが三回繰り返される。この三回繰り返されることで、そこに、リズム感が生まれる。こうして、観る者は、編集も担当してエイゼンシュテイン監督が実践した映画モンタージュの方法が何であるかをすぐさま理解できる。彼は、モンタージュによって、ストーリー展開にダイナミズムを与えようとしているのであると。

 そして、本作を観る場合に観る者が頭に入れておくべきことは、イデオロギーを越えて映画史を飾る本作が、サイレント映画であるということである。無声映画では、たとえ中間字幕があったとしても、登場人物の複雑な心理的機微には、いくら有能な俳優の演技力を以ってしても限界がある。そこで、エイゼンシュテインは、本作の制作上、恐らく、ある決断を行なった。登場人物の心理の動きは描かず、むしろ登場人物を類型化し、記号化して、観る者を出来事の展開に集中させる。そして、モンタージュによって、その展開のリズムに緩急を与えて、ストーリーの展開を叙事詩的に語っていく。

 こうして、本作では、演劇の用語を使って、「装甲艦ポチョムキン伯爵号」上での水兵叛乱の顛末の一部が、五場に亘って語られる。(「戦艦」とは、軍艦の類型の一つであり、ゆえに「戦艦大和」とは言えるが、1905年に就航した新設艦「Potemkinポチョムキン」は、この類型には入れられない。)

第一場:人間と蛆虫

第二場:テーンドラ(Tendra)島泊地でのドラマ

第三場:死者は呼ぶ

第四場:オデッサの階段

第五場:艦隊との遭遇

 第一場では、叛乱に至る経緯が語られる。艦上では蛆虫が湧いて腐った肉を食べさせられることに抗議をした水兵たちは、ボールシュチュという酸味のあるスープを食べることを拒否する。叛乱が起こった19056月と言えば、日露戦争が終結する3ヶ月前、5月には有名な「日本海海戦」があり、この海戦により、ロシア軍側は、バルチック艦隊と太平洋艦隊とを日本海軍に撃滅され、ロシア海軍には、黒海艦隊しか残されていなかった。実際、映画中、ある水兵は、こんな待遇では、日本軍に捕虜になっているロシア兵の方がまだましな扱いを受けていると言ってのける。

 第二場では、このような反抗的な水兵の態度に怒った艦長Golikow海軍大佐は、総員約730名を艦上に集めさせ、水兵の一部を銃殺にかけようとする。この騒動の中、下士官のマチュシェーンコMatjuschenkoが中心となって叛乱を起こしたのであった。日露戦争で帝政の矛盾が露わになっていたロシアでは、あちこちで反抗の機運が盛り上がっており、黒海艦隊の中にもこれに同調する動きが既にでき上っていたところであった。水兵が士官、下士官を制圧するさなか、叛乱のもう一人の中心人物ヴァクレンチュークWakulintschukは射殺される。

 ヴァクレンチュークの遺体を乗せた小型ボートが、画面の右下から舳先を見せて、画面中央に滑り込んで行く。カメラもいっしょに移動するのであるが、その移動のスピードは小型ボートより遅く、小型ボートは、次第に画面左上に抜けていく。秀逸な画面構成とカメラワークである。(キャメラマンは、エイゼンシュテインと同郷のEduard Kasimirowitsch Tisseで、1921年にモスクワ映画大学の撮影部門の教授になっていた彼は、1923年以来エイゼンシュテインの撮影担当のキャメラマンとして、40年代までエイゼンシュタインと道を供にする。)

 第三場冒頭でも、キャメラマンTisseの腕は冴える。オデッサ港の霧に包まれた風景が詩情豊かに記録されている。夜が明け、日が昇ってくると、港湾地区の一画に安置されているヴァクレンチュークの遺体に弔意を表そうとオデッサの町の人々が、長い防波堤の道程を列をなして歩いてくる。画面をおおう海の中を、画面中央、防波堤が細い線のように上から下へ僅かな弧を描いて降りてくる。その防波堤の上を人々が延々と歩いてくる。これまた、画面構成の点において秀逸である。こうして、ポチョムキンの水兵たちとオデッサの町の人々との間に連帯ができ上っていく。遂に、ポチョムキンの艦橋には叛乱旗が掲揚される。それに呼応する町の人々(撮影の際には実際にオデッサ市民がエキストラとして参加)。(ここのシークエンスでは、ある一つの「シュルプリーズSurprise」が用意されているが、それが何かは観てのお楽しみ!)

 第四場に有名な「オデッサの階段」のシーンがある。が、その前に、ポチョムキンの水兵と町の住民の連帯の行動として、町の方から何十もの帆船が軍艦の許に届け物を運んで行く場面がある。これまた印象的な場面なのであるが、その連帯の交歓の最中に、ツァールの軍隊がオデッサの階段の上の方に登場する。オデッサの階段は、町が高台にあり、この町と下にある港とつなげるために27メートルを落差が付けられて構築された階段である。ここで、映画史上有名な、しかし史実にはない、約7分間に亘るコザック兵によるオデッサ市民鎮圧の場面が展開される。

 これを見かねたPotemkin側の水兵は、ツァール軍の司令部が置かれているという、オデッサの劇場を艦砲射撃する。爆砕される建造物、そして、その際に挿入される三枚の獅子の写真、一枚は、眠れる獅子、二枚目は、目覚めた獅子、そして三枚目が前足で立つ獅子。さて、諸君はこれを如何に解釈するか。

 こうして、第五場につながるが、これがクライマックスを構成する場である。黒海艦隊の残りの艦船(装甲艦5隻と水雷艇6隻)が船隊を組んでオデッサに向かってくると言う。叛乱鎮圧のためだが、この報を受けて、ポチョムキン号は、叛乱に同調する水雷艇第267号を引き連れて、艦隊に向けて出港する。さて、ロシア人同士の砲撃戦になるのか。エイゼンシュテインのモンタージュによって、その緊張度は強められ、高められていく...

 本作の初上映が1925年のクリスマス・イブである。レーニンはその前年に死んでおり、27年にスターリンが主導権を握るまで、一国社会主義を唱えるスターリンと世界革命論を唱えるトロツキーとは権力闘争を戦っていた。奇しくも、本作の冒頭を飾る言葉はトロツキーの『革命期におけるロシア』からの一節である。という訳で、本作は製作本国のソ連でさえ検閲の憂き目を見る。1925年のオリジナル版に加えて、ソ連国内では、49年の音声付きヴァージョン、さらに76年にはショスタコーヴィチの音楽付きのヴァージョンが出されている。

 これらとは別に、1926年にドイツで上映された、オリジナルからのコピー版がある。これにもヴァイマール共和国時代ドイツの検閲が入っているが、この時、ドイツでは本作にオリジナルの音楽が付けられた。この当時一級の映画音楽の権威の一人と言われたEdmund Meisel (エードムント・マイゼル)のそれであり、彼の音楽を以って、本作の世界的名声も保証されたかの感がある。少なくとも、本作のドイツでの成功は、マイゼルの貢献があって初めて可能であったと言えるのである。

 この関連から、ドイツで2005年に(本作制作80周年)、マイゼルの音楽を付け、周到な研究が加えられて、出来るだけ1925年のオリジナル版に近づけて修復されたヴァージョンが出されている。故に、筆者もこの「ベルリン版」をご覧になることを強くお勧めする次第である。

追記:2022年2月下旬以降、黒海を巡る地政学上の意味を考えるに、本作はさらにその時事性を高めていると言える。

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