まず、F.Ozonは、こんなに音楽の趣味が悪かったのであろうか。何れにしても、本作の音楽は、キッチュである。
次に、ストーリーの背景になっている街が、登場人物はフランス語を話しているのに、何かアメリカ風と言うか、何れにしてもフランスの風景ではないのが気になる。しかも、ラストシーンの背景の、あの人工性は何なのであろうか。主人公の二人ダヴィッドとクレール、そして子供一人を入れた「家族」が、「不自然」であると言わんばかりである。
原作は、イギリスのベストセラー女性作家Ruth Rendellの短編集「The New Girlfriend」からの、同名の小品であるところから、場所のセッティングも何れにしてもフランス風には変えなかったのであろうが、本作の内容の浅薄さは、その原作となる短編小説がその責を負っているのかもしれない。脚本は監督のF.オゾン自身である。ウィキペディアによると、原作発表当時からオゾンは原作の映画化の案を温めていたと言う。(因みに、本作の日本語題名の、ネタバレの野暮さは言わずもがなであろう。)
F.Ozonと言えば、センセーショナルなストーリー展開で性や人生の問題をテーマとして映像化していた映像作家のイメージが強いのであるが、その作家活動の初期である1990年代半ばから短編・中編を撮っていた頃は、彼は、その才能が評価されて「短編王」と呼ばれていた程であったと言う。97年作の中編『海をみる Regarde la mer』はその代表例である。『ホームドラマ Sitcom』(1998)から長編映画を撮るようになり、2000年代の初めの『まぼろし Sous le sable』(2000)、『八人の女たち 8 femmes』(2002)、『スイミング・プール Swimming Pool』(2003)などの作品で、次第に商業作品性が強まっていったと言ってもよいであろう。筆者は、その後のオゾン作品は、ほとんど観ていない。『スイミング・プール』で何か見飽きた感が出たからであった。唯一の例外は、2016年作の『婚約者の友人 Frantz』で、この作品では、第一次大戦後の独仏関係を上手く白黒で撮っている。
今回偶然に『婚約者の友人』の2年前に撮られた本作を観て、やはりオゾン作品への見飽きた感が再確認されたが、ジェンダー論、性的自己同一性について改めて思われされた。
最初は、身体的性と性的志向に焦点を合わせて、LGBが措定され、それに更に性的自己同一性の問題が絡んで -TQが付き、最近では、これに-Iが付くと言う。女性・男性の間Interと言うらしい。女性、男性の二元論で語ること自体が問題であり、その規定を越えた見方こそが必要であろう。つまり、「中性」である。であれば、規定すること自体が無意味になる。ダヴィッドの場合、身体的性は、「男性」であるが、意識は、「女性」であり、その女性Virginia(「処女地」)としての意識を以って、女主人公クレールを愛するとすれば、それは、レズビアンである。
とは言え、このようなダヴィッドとクレールとの間には子供が生まれる可能性がある訳で、このようなカップルの存在には、自民党右派の「家父長」主義者たちでさえも、同性愛カップルに対する、その「生産性」がないことでの非難をすることはできないはずであろう。
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