2022年7月28日木曜日

ラスト・キャッスル(USA、2001年作) 監督:ロッド・ルーリー

 「監獄もの」映画というジャンルがある。刑務所という特殊な空間で展開するストーリーである。そのタイプには、大まかに分類して、二つある。一つは、囚人たちの間に生まれる集団同士の抗争を描くものである。この場合、刑務所の所長や看守は、脇役的存在となる。もう一つのタイプは、囚人たち対刑務所所長ないし看守の対立を描くものである。(例えば、B.ランカスター主演の『終身犯;原題:アルカトラズのバードマン』や、C.イーストウッド主演の『アルカトラズからの脱出』)この場合、所長或いは看守が非人間的な「モンスター」としてあり、囚人たちがこれに抵抗するというケースが多い、この意味で、本作は、この後者のタイプの「監獄もの」の定番に属する。(例外は、もちろん、存在し、例えば、T.ハンクス主演の『グリーン・マイル』では、看守と囚人は協調的である。)

 しかし、アメリカという国は軍人が特別のシステムを構築している社会である。軍事裁判所もあれば、当然それに伴なって軍刑務所も存在する。そして、日本ではこれはない。故に、軍刑務所という、本作のストーリー設定自体が、日本の観る者にとっては、珍しい。という訳ではないが、筆者は、本作をもう何回観たことであろうか。一度見始めると、結局、結末が分かっているのにも関わらず、最後まで観てしまう。この間も偶然に観てしまった。

 さて、本作の主演は、R.Redfordである。彼が映画に出れば、彼が「正義」を体現するであろうことは、ほぼ決まっている。故に、「善玉」に対抗する「悪玉」が、やはり、本作では、定番に従って、軍刑務所所長(J.Gandolfiniが好演)となる。しかも、R.Redfordは、元陸軍中将で、大統領命令に従わずに、戦争犯罪人を捕らえる作戦を命令し、それ故に、8人の部下を死なせてしまった罪により刑務所に収監されている「囚人」である。対するJ.Gandolfiniは、階級が大佐である。R.Redfordがいくら階級が剥奪されていようとも、階級が下であるJ.Gandolfiniには、やりにくいことは、明白であり、しかも、Redfordが「正義」をかざして、元軍人の囚人たちを組織し、反抗するとなると、逆に、Gandolfini所長に、同情の念さえ湧き上がってくるのは、筆者だけであろうか。(少々穿って見れば、これは、民主主義の旗をかざし、他国に侵攻しても国際的制裁を受けないアメリカ合衆国の「正義」を体現しているようにも見える。)

 とは言え、権力的抑圧に対する抵抗は、「正義」であることには間違いがないのであり、ラストシーンが、結局は、アメリカ的軍人賛歌で終わるとしても、この「正義」は、旗高く揚げられるべきである。

 そして、この「正義」の側に、観る者を立たせることになる決定的エピソードが、吃音症持ちのAguilar元伍長の、刑務所内での射殺事件である。この元伍長を体現した俳優Clifton Collins Jr.には注目しておきたい。メキシコ系アメリカ人の彼の、少々不釣り合いな顔の作りと、身体全体から醸しだされるシャイな雰囲気が印象的である。

 最後に、音楽はおやと思うほど、印象的ではないが、クレジットには、映画音楽の「大御所」J.Goldsmithと、Tom Waitsの名前が見える。T.Waitsが好きな方には、音楽にも気を付けたいところである。

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