ストーリー自体は想定内だが、ある時代が終焉したエレジーを謳いあげるのが本作。一度ご覧あれ!
『船を編む』と初めて題名を読んだ時、その詩情におやっと思った。そして、本作を観た。観て、観た甲斐があった。主人公には「かぐや姫」との恋が実り、12年来の努力が報われる、ハッピー・エンドで終わる本作は、しかし、それは、同時にある時代が終わったという「白鳥の歌」でもある。
本作は、1995年をストーリーの基点とする。泡沫経済が壊れて、平成不況となり、会社はリストラ、政治は、「行革」の新自由主義が蔓延る。いわゆる既得権益を潰そうという連中は、新しい権益を抱え込む。人は、「勝ち組か負け組か」に無慈悲に振り分けられる。そういう時代に、本作のストーリー上の国語辞典が編集され、その現代語に重点を置きたいという新辞典は、「ロスト・ジェネレーション」の10年がなんとか終わって、リーマン・ショックが起こる直前に発売される。
映画の中で最初に「だいとかい」と聞いて、すぐには「と」が漢字でどう書くかを思い浮かべられなかった。説明されて、「大渡海」と分ったが、それでも、どうしても「大都会」と連想してしまい、何かしっくりしない。しかし、言の葉の世界を海に、それも大海原にイメージするのは、個人的に納得がいく。
言葉を鳥獣や草木に喩えて、それらが多く集まった所と考えれば、「広辞苑」となる。言葉を一本一本の本木と喩え、それらが多く集まった所と考えれば、「大辞林」となろう。万の葉が泉から湧き出るように一枚一枚出てくるとすれば、それは、「大辞泉」である。しかし、言語の世界を大海原と捉えるならば、それは、「大言海」である。そして、この「大言海」は、実際に1930年代に編纂者の衣鉢を接いで出版され、その前身に当たる「言海」は、国語学者大槻文彦によって、1891年に完成自費出版が達成されていた。「言海」は、近代国語辞典の祖であると言われ、本映画の原作者三浦しをんもこの「大言海」に敬意を表して、作中の架空の中型辞典を「大渡海」と名付けたのであろう。しかし、辞典が仮に渡り舟として機能するとして、現代において、果たして、渡り着く岸辺は見えるのであろうか。
作中、印象的な場面が二つある。一つは、主人公が、国語学者松本と一緒に「ナウい」「ギャル語」を用例採集しに、あるファースト・フードに実地で足を運ぶ場面である。デジタル化が進んだ現代ではまず考えられないことではないか。そして、もう一つ、ゲラ刷りの校正に学生が何人も駆り出された場面である。今では、テレワークで、何人もの人がひとところに集まって一つの作業を協同で遂行し、完遂の暁にはその喜びを分かち合うということが今ではあるのであろうか。その意味で、今ではこういう「アナログ」の、国語学者の「職人技」で出来上がった、編纂者の語釈の個性が出る国語辞典はもはや望めないのではないだろうか。
新語は現在ではいくらでもデジタル化によって膨大なコーパスに自動的に採集されてしまう。しかし、国語辞典に採録される「新語」はいくつあるであろうか。流行に流されずに生き続けた生命力のある言の葉こそ国語辞典には仲間入りが許される。
ウミガメはその卵をある砂浜に産みつける。仮に百個の卵が孵ったとしよう。孵ってすぐにウミガメの子供たちは、まっすぐに海を目指す。その途中で既に海鳥についばまれる危険がある。もしや、無事に海辺に到達し、海中を泳ぎだしても、彼らには、より大きな魚に食べられてしまう危険が常に付きまとう。百個中本当に立派なウミガメに成長する確立は、恐らく2%にも満たないであろう。こうやって、いくつも産み出される新語は、時間に淘汰されて辞典に生き残るのである。だから、言葉は大事にしよう。分からない言葉は、辞書を引こう。面倒でも、少々時間が掛かっても、その間に何度もその分からない言葉を繰り返すことによって、その言葉は、辞書を引いている人間の「身」になるのである。
古武士が背筋を凛として伸ばしたような国語学者松本を演じた加藤剛と、その「古木」にそっと寄り添うように未だに清楚に咲く白百合のような八千草薫に、筆者は万来の拍手を送るものである。
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