2022年7月29日金曜日

マッド マックス 怒りのデス・ロード(USA、2015年作) 監督:ジョージ・ミラー

良質のアクション映画に北欧神話の次元が加味する第四弾、M.ギブソンが主演でなくてよかった

 文明社会が崩壊したデストピアでは、むき出しの暴力だけがものを言う。Immortan Joeもウォー・ボーイズという暴力装置を持った軍閥の一人に過ぎないのであるが、彼は自らを「不死身の、ジョー或いは米国兵士」と名乗り、自らの支配のシステムに教祖的権威を付与していた。その権力の物質的基盤は、砂漠化した自然界において何より大事な水源と、城塞(シタデル)に改造した岩山であるが、彼は、他の集団から略奪してきた健康な女たちを「受胎母体」として自分の「王朝」の後継者づくりに資し、他から連れてきた幼年男子たちは、将来のウォー・ボーイズとして洗脳する。彼らはJoeのために戦う戦士(真実はただの「戦争の肥し」)になるのである。彼らはJoeのためなら死をも厭わない。なぜなら、戦死したウォリアーには「Walhallaヴァルハラ」が待っているからである。

 では、「Walhallaヴァルハラ」とは何か。古北欧語の古ノルド語ではValhöllで、「戦死した者の住居」という意味である。ある戦場で最も勇敢に死した勇士は、「ヴァルキューレたちWalküre」によってヴァルハラに連れて行かれる。ヴァルキューレは、古ノルド語ではValkyrja(ヴァルキュリャ)で、彼女たちは、鎧・兜に身を固め、馬に乗って天空を駆け巡る精霊的処女たちである。ある10世紀の、北欧の叙事詩は次のように謳う:

そはいかなる夢なりしか 
余、神々の長オーディンは夜明けに起き 
倒れし勇士を迎えんがため 
ヴァルハラをととのえんとす 
エインヘリャル(einherjar:戦場で斃れた勇士の魂)を
おこし立って 長腰掛けをおおい 皿を洗うよう 
ヴァルキューレたちには王侯が来たらば 
蜂蜜酒möjdを運ぶよう 命じたり


 ヴァルハラは、投げ槍を交差させて作った天井の上に楯が屋根として乗せられて出来ている荘厳な宮殿で、540もある門から、ヴァルキューレによって選別されて連れて来られたエインヘリャルたちがホール内に入城するのである。

 さて、ヴァルキューレたちが乗っている馬をオートバイに換えると、それは「鉄馬」となり、本作中の七人のオートバイ乗りが「鉄馬の女たち」グループになる。正に、そのリーダー格の女の名前が英語読みのヴァルキューレ、「ヴァルキリー」なのである。こうして、デストピアの荒野を放浪する英雄「狂気のマックス」の流離譚には、実は北欧神話の次元が噛んでいることを観る者は頭に入れておいた方がよい。

 地球の引力を感じない希薄なCGを使わない、スタントマンの命を掛けたアクション・シーンは映画館の大画面で堪能したいところであるが、当然そこには撮影と編集の職人技がものを言う。これには、二言を待たない。

 しかし、最後に美術について一言。マックスたちの一行がインペラートア・フュリオーサの故郷「緑の地」を目指す途中、湿原地帯に彼らが入り込み、数秒であるが、濃霧が立ち込めて湿った不気味な荒涼地が映像で示される。中景から後ろの方をマックスたちの一行が右から左に抜けていく場面の前景を、竹馬に乗ったクロウズが登場するシーンである。16世紀フランドルのヒエロニムス・ボス或いはボッシュの、奇怪な、そして意味深な絵画を参考にしたのではないかと想像される卓越な美術である。美術担当のColin GibsonとLisa Thompsonは、本作で、2016年度の様々な映画賞の美術部門で、米国アカデミー賞を含む5つの権威ある映画祭で賞を取っている。敬意を表する。

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