本作のストーリーにおいて、源氏系統の遠藤盛遠が、平治の乱後、どうして平清盛から褒賞を得ることを許されたか、まずは、この疑問を解くことにしよう。
白河天皇が、摂関家藤原氏の専横を嫌って、1086年に自らの天皇の位を譲って、上皇(出家すると「法皇」)となり、この地位から更に政(まつりごと)を行なおうとした体制を「院政」という。要するに、ワンマン社長が、常務会の役員に何だかんだと言われるのが嫌で、自分の息子に社長の地位を与え、自分は「会長」になるが、その社長の息子を差し置いて、やはり自分が会社経営に指図を与えるような、いわば、「年長者」が支配体制を維持する方式を「院政」と言う。そして、上皇は、自己の暴力装置として、「北面の武士」を設置する。遠藤盛遠は、この北面の武士の一人であった。
こうして、摂関家藤原氏自体の朝廷内の権力は、これ以降、衰えを見せてくるが、院政時代も50年以上過ぎるとマンネリ化を見せ、1156年、院政から天皇親政への揺り戻しが起こる。これが、保元の乱で、皇位継承問題に摂関家の内紛が絡み、更に、藤原氏出身の有能なテクノクラート信西(しんぜい)の立ち回りのよさも加わって、後白河天皇親政体制が成立した。それは、また、私有地である荘園を記録・再管理して、嘗ての奈良時代の天皇中央集権体制、即ち公地公民制に基く律令制を蘇らせようとした、平安時代の最後の試みでもあった。
しかし、こうした武士(もののふ)が実力を発揮し、その武力を背景として、政治的反対派を「処分」(数百年ぶりに死刑を執行)する動きに、歴史の「転換点」を見た者がいた。天台宗僧侶・慈円である。彼は、その鎌倉時代の史書『愚管抄』において、この乱を以って、「武者の世」が始まったと書いている。(歴史の転換点という意味では、21世紀の「保元の乱」が、プーチンによるウクライナ侵攻であろう。)
その『愚管抄』は、盛遠に触れて次のように書いていると言う。乱暴で、行動力はあるが学識はなく、人の悪口を言い、天狗を祭ると。そういう彼が、ある時(それが本作のテーマである)、発心(ほっしん)し、真言宗僧侶文覚(もんがく)となり、京都高雄山神護寺の再興を後白河天皇に強訴する。そのため、彼は伊豆国に配流され、それが契機で、保元の乱後に同じく伊豆国蛭ヶ島に配流の身だった源頼朝と知遇を得る。そうして、この文覚こそが、アジテーターとなって、頼朝に反平家の反旗を翻らせたことは、歴史の一つの皮肉とも言えよう。
保元の乱から4年後の1160年、平治の乱が起こった。再び皇位継承問題が起こり、後白河天皇は、今度は自分がその地位を譲って上皇に「させられ」、新たに二条天皇が天皇となる。こうして、保元の乱と同様に、院政派と天皇親政派の対立が成立し、それに、信西一門の専横に対する、貴族・武士の反感が強まっていたことも加わり、信西派と反信西派の対立もこれに加わることになる。平治の乱は、信西に見限られた後白河上皇が、政治的に孤立化することを恐れて起こしたクーデターであったとも言えるのである。
本作のストーリーでは、その後白河上皇が院御所・三条殿で「襲われて」、その時に、上皇の姉・上西門院が追手に拉致されようとするところ(史実では彼女も捕縛されて、後白河上皇共々連行される)、この上西門院の身代わりとなって、上西門院の女房であった袈裟御前(その生い立ちは不明)が三条殿から逃げることとなり、その護衛として遠藤盛遠がそれに付き添い、彼が、静御前などと並ぶ日本史上の絶世の美女・袈裟御前の美しさを知るに付けて、その美貌に「血迷って」、「狼藉」を働くというのが、ストーリーの起承転結の内の「起と承」である。盛遠、この時18・19歳であったと言えば、若気の至りと、さもありなんではあるが、本作での盛遠役の長谷川一夫では、若干歳が行き過ぎるのが難点である。
この盛遠、実は、『袈裟の良人』(菊池寛の書いた、本作の原作名)である渡辺渡(わたる)の従兄弟なのであった。しかも、遠藤氏は、渡辺氏の下位に位置する家柄であるとすれば、盛遠の、袈裟御前への狂恋は、人妻へのそれであり、しかも家柄の下位の者から上位の者へのものだったという、二重の「タブー」であったと言える。その意味でも、盛遠の、その狂恋ぶりが窺えよう。
さて、その『袈裟の良人』渡辺渡であるが、彼は、いわゆる渡辺党の一人であり、渡辺党とは、摂津国西成郡渡辺津(現在の大阪市中央区)という、旧淀川河口辺の港湾地域を本拠地として一族が集住して形成した武士団を言う。故に、瀬戸内海の水運に関わって瀬戸内海の水軍の棟梁的存在になっていた。
この渡辺党の先祖を辿っていくと、源氏にある二十一流中の嵯峨源氏の系統に行き当たる。嵯峨源氏の初代・源融(とおる;この好字を用いない一字名は、嵯峨源氏の特徴)は、『源氏物語』の光源氏のモデルになった人物と言われるが、この源融を遠祖として、子孫の源綱(つな)が、母方の縁故で、関東から渡辺津に移り住んで、渡辺氏の祖となったと言う。改名した渡辺綱は、摂津源氏の源頼光の郎党となり、「頼光四天王」の筆頭と呼ばれて、『御伽草子』などに載る、大江山の酒呑童子退治の話しに登場するなどして、その剛勇が喧伝される。渡辺綱の子孫は、こうして、京都へも進出し、内裏で天皇の警護を担当する滝口武者(いわば「近衛部隊」)を世襲することになる。
そして、平治の乱当時は、摂津源氏の当主は、源頼政であり、彼は、二条天皇の母親の家人であったことから、源頼政共々渡辺党もまた二条天皇派に付くことになる。故に、渡辺渡もまた、二条天皇派として、平治の乱を生き残る訳である。
一方、平氏は、既に保元の乱で勢力を伸長させていたが、清盛の政治的・軍事的「嗅覚」の敏感さから状況を上手く読んで立ち回り、信西派と反信西派の対立、二条天皇派と後白河上皇派の対立から漁夫の利を得て、平氏政権樹立へと確実な一歩を飾ったのであった。彼こそが、公卿たちから蔑まれていた「もののふ」の低い身分から、初めて、朝廷の最高位「太政大臣」になった人物であった。こうして、平治の乱後に「第一人者」となった清盛が、二条天皇派に立った源頼政と渡辺党に関係のある遠藤盛遠に、上皇の姉の身を護った手柄として、褒賞を取らせようとした訳である。
本作のストーリーは、はっきり言って、三流とまでは言わないが、二流である。その意味では、本作の音楽を担当している芥川也寸志の父親、龍之介が1918年に書いた短編『袈裟と盛遠』の方が、心理主義的解釈で余程面白い。(青空文庫のサイトで手軽に読める。)
それに対して本作のスタッフがすごい。監督が、『狂った一頁』(1926年作)で日本の無声映画を世界のアヴァンギャルドのレベルに引き上げた衣笠貞之助、その衣笠と終生のコンビを組んだキャメラマン杉山公平(吉村監督作『源氏物語』で1951年にカンヌ国際映画祭撮影賞受賞)、助監督があの三隈研次、色彩指導・衣裳デザインが、戦前から色彩の標準化を提唱していた洋画家の和田三造、技術監督が、キャメラマンとしてカラー撮影の草分け存在となり、1952年には渡米して色彩技術を研究してきていた碧川道夫という錚々たるメンバーであったのである。
こうしたメンバーを揃えたのも、本作が日本初のイーストマン・カラー作品として、策士の大映社長永田雅一の、「鶴の一声」の下、製作されたからである。それは、イーストマン・カラーの濃厚な色彩だけではなく、平安朝の王朝絵巻を活動写真化したような、伝統的な和色や中間色がきめ細かに映像化される必要があったからである。
そして、その「挑戦」は見事に当たり、本作は、カンヌ国際映画祭では、パルム・ドール賞の前身にあたるグランプリ賞が、アカデミー賞では、外国語作品のための名誉賞と衣裳デザイン賞とが、ロカルノ国際映画祭では、金豹賞が授与された。色彩技術監督の碧川は、1954年度文部省芸術祭文部大臣賞を、現像を担当した東洋現像所は、日本映画技術賞を獲得したという具合であった。
本作はデジタルリマスター化もされており、しかも、それは、白黒フィルムに赤・緑・青の三色分解したマスターポジを基にしてなされたと言う。カラー映画の長期保存方法において現時点でベストであると言われている方法である。この意味でも、技術の粋を集めた復元作業の妙を本作を以って堪能したいものである。
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