(No.2:黒澤明編)
[No.1:小津安二郎編『父ありき』、No.3:溝口健二編『西鶴一代女』]
1943年、準備期間を終え、黒澤(1910年生まれ)は、12月中旬、横浜市戸塚区にある、日本光学工業(のちのニコン)の戸塚製作所第一工場に、配役された女優群23名を実際の「女子挺身隊」として入所させ、撮影を開始した(カメラマン:小原譲治)。 日本光学工業は、1930年代以降は、日本軍の光学兵器を開発・製造する点において、陸軍系の企業である東京光学機械(現・トプコン)と比較されて、軍需光学機器製造の双璧として「陸のトーコー・海のニッコー」と当時呼ばれていた。
翌1944年1月末に工場での退所式が行われ、その後は、東宝撮影所でセット撮影を開始、作品は3月中旬に完成した。その三ヶ月後米軍がサイパン島に上陸する。
さて、プロパガンダ映画のいやらしさは、それが右からであれ、左からであれ、見ている者にその論理を強要するところにある。そのプロパガンダの目的がさらに戦争遂行ということであれば、その映画の監督としての倫理的責任はより大きくなる。その意味で黒澤のこの責任は問われなければならない。
同様に、一見恋愛映画に見えるM.カーティスの『カサブランカ』も反ファシズムの政治宣伝と戦意高揚という点では、同様の責任の地平にあると言える。さらに非政治的であるということ自体が、既に政治的態度の一つであるということからすれば、芸術と政治性とは、かくして、切っても切れない問題であるが、この問題は、全体主義の時代にはその問題性が頂点に登りつめると言っていいであろう。
全体主義体制の中に身を置いたものは、このような時代では、自分の芸術家としての潔癖性を守るためには,少なくともプロパガンに関わるような活動は控えるべきであったのである。「内的亡命」という言葉が思い出される。
では、話をこんなに割り切れるであろうか。心情的には、国が危機にあり、その国を「守る」ために(もはや、「攻める」ためではなく)兵隊達が戦っている。その兵隊達のために銃後で女子として何が出来るか。そのような意識で、皆が自己を捨てて全体のために献身する、「挺身」の自己犠牲の「美しさ」、英雄死の、ある種の美学を銃後の日常性の中に描いてみること、これが、黒澤が脚本も書いている、監督二作目の本作のテーマではないか。題名の『一番美しく』とは、何が「美しい」なのかを考えると、筆者にはこう考えざるを得ない。
とすると、現代の、自分の小さい世界の中で自分のことだけしか考えない人間が多いなかで、あの頃の高揚した自己犠牲の「純粋性」を今見てみると、それに憧れさえ生まれてくるのは筆者だけであろうか。
本作の映画美学的点について、二、三述べると、ドキュメンタリー性ということであれば、この映画は、戦中・戦後のイタリアのネオ・レアリズモの美学に通じてはいないかということ、編集を良く使って流れに緊張感がうまく出されていること(女工員の工場内での作業の場面、映画中盤の主人公渡邉ツルを等間隔から色々な視点でショットしたものを立て続けに見せる点)、そして、人間集団を動かしてそれを画面として構成する集団運動の、殆ど「ファシズム的」美意識(映画の最初の方で、女工達が寮に帰ってきた時、玄関で寮母先生を狭い空間でありながら、ぐるぐる巻きにしてしまう女工たちの集団としての動き)、これらの点を鑑みると、さすがは、将来の日本の、否、世界の巨匠監督、黒澤の力量がプロパガンダ国策映画の限界の中にも出ているのではないか。
日本映画史の三大巨匠の一人、溝口健二(1898年生まれ、ということは黒澤とは干支で一回り違う)は、戦中は、『元禄忠臣蔵』(前・後編、1941,42年作)など、松竹で時代劇を撮っていた。もう一人の巨匠小津安二郎(1903年生まれ、故に溝口と黒澤の間の年代)は、1937年から二年間中国戦線を転戦した後、招集解除で帰国し、溝口同様松竹で、のちの『東京物語』の戦前版とも言える『戸田家の兄弟』を41年に撮る。翌年には笠智衆主演で『父ありき』を撮り終えているが、こちらも戦意高揚の内容ではない。43年から終戦までは、軍報道部映画班員として南方へ派遣された小津は、主にシンガポールに滞在した。彼は、国策映画を撮らされそうなったにも関わらず、結局は一本も撮らずに戦後を迎える。
かくして、世代の違い、個人の運命、そして倫理観の違いによって、国策映画を巡る人生模様が描かれるのである。
[No.1:小津安二郎編『父ありき』、No.3:溝口健二編『西鶴一代女』]
1943年、準備期間を終え、黒澤(1910年生まれ)は、12月中旬、横浜市戸塚区にある、日本光学工業(のちのニコン)の戸塚製作所第一工場に、配役された女優群23名を実際の「女子挺身隊」として入所させ、撮影を開始した(カメラマン:小原譲治)。 日本光学工業は、1930年代以降は、日本軍の光学兵器を開発・製造する点において、陸軍系の企業である東京光学機械(現・トプコン)と比較されて、軍需光学機器製造の双璧として「陸のトーコー・海のニッコー」と当時呼ばれていた。
翌1944年1月末に工場での退所式が行われ、その後は、東宝撮影所でセット撮影を開始、作品は3月中旬に完成した。その三ヶ月後米軍がサイパン島に上陸する。
さて、プロパガンダ映画のいやらしさは、それが右からであれ、左からであれ、見ている者にその論理を強要するところにある。そのプロパガンダの目的がさらに戦争遂行ということであれば、その映画の監督としての倫理的責任はより大きくなる。その意味で黒澤のこの責任は問われなければならない。
同様に、一見恋愛映画に見えるM.カーティスの『カサブランカ』も反ファシズムの政治宣伝と戦意高揚という点では、同様の責任の地平にあると言える。さらに非政治的であるということ自体が、既に政治的態度の一つであるということからすれば、芸術と政治性とは、かくして、切っても切れない問題であるが、この問題は、全体主義の時代にはその問題性が頂点に登りつめると言っていいであろう。
全体主義体制の中に身を置いたものは、このような時代では、自分の芸術家としての潔癖性を守るためには,少なくともプロパガンに関わるような活動は控えるべきであったのである。「内的亡命」という言葉が思い出される。
では、話をこんなに割り切れるであろうか。心情的には、国が危機にあり、その国を「守る」ために(もはや、「攻める」ためではなく)兵隊達が戦っている。その兵隊達のために銃後で女子として何が出来るか。そのような意識で、皆が自己を捨てて全体のために献身する、「挺身」の自己犠牲の「美しさ」、英雄死の、ある種の美学を銃後の日常性の中に描いてみること、これが、黒澤が脚本も書いている、監督二作目の本作のテーマではないか。題名の『一番美しく』とは、何が「美しい」なのかを考えると、筆者にはこう考えざるを得ない。
とすると、現代の、自分の小さい世界の中で自分のことだけしか考えない人間が多いなかで、あの頃の高揚した自己犠牲の「純粋性」を今見てみると、それに憧れさえ生まれてくるのは筆者だけであろうか。
本作の映画美学的点について、二、三述べると、ドキュメンタリー性ということであれば、この映画は、戦中・戦後のイタリアのネオ・レアリズモの美学に通じてはいないかということ、編集を良く使って流れに緊張感がうまく出されていること(女工員の工場内での作業の場面、映画中盤の主人公渡邉ツルを等間隔から色々な視点でショットしたものを立て続けに見せる点)、そして、人間集団を動かしてそれを画面として構成する集団運動の、殆ど「ファシズム的」美意識(映画の最初の方で、女工達が寮に帰ってきた時、玄関で寮母先生を狭い空間でありながら、ぐるぐる巻きにしてしまう女工たちの集団としての動き)、これらの点を鑑みると、さすがは、将来の日本の、否、世界の巨匠監督、黒澤の力量がプロパガンダ国策映画の限界の中にも出ているのではないか。
日本映画史の三大巨匠の一人、溝口健二(1898年生まれ、ということは黒澤とは干支で一回り違う)は、戦中は、『元禄忠臣蔵』(前・後編、1941,42年作)など、松竹で時代劇を撮っていた。もう一人の巨匠小津安二郎(1903年生まれ、故に溝口と黒澤の間の年代)は、1937年から二年間中国戦線を転戦した後、招集解除で帰国し、溝口同様松竹で、のちの『東京物語』の戦前版とも言える『戸田家の兄弟』を41年に撮る。翌年には笠智衆主演で『父ありき』を撮り終えているが、こちらも戦意高揚の内容ではない。43年から終戦までは、軍報道部映画班員として南方へ派遣された小津は、主にシンガポールに滞在した。彼は、国策映画を撮らされそうなったにも関わらず、結局は一本も撮らずに戦後を迎える。
かくして、世代の違い、個人の運命、そして倫理観の違いによって、国策映画を巡る人生模様が描かれるのである。
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