本作の主人公は、14歳の少年Ellisである。彼の視点から見て、ストーリーが展開する。その意味では、本作は児童映画にでも分類できるのであるが、それにしては、両親の離婚問題、恋愛、殺人とテーマが穏やかではない。それに、Ellis自身が、18歳の女子生徒を「軟派」する「おませ」ぶりである。
そういうEllisには、Neckboneという友達がいる。そのNeckboneが、ミシシッピ川の川中にある島で、木の上に乗り上げたボートを発見した。恐らくミシシッピ川の水嵩が増した時、木の幹と枝にのかったままとなり、その後に水嵩が引いたのであろう。こうして、EllisとNeckboneは、朝早く、まだ暗い内に、しめし合わせて、モーターボートを駆って、木の上に乗り上げたボートを見に行くのである。正に冒険である。
ここまで見て、少年二人、ミシシッピ川、冒険とキーワードが出てくると、Mark Twainの冒険譚『Tom Sawyerの冒険』とその続編『Hackleberry Finnの冒険』を思い出さない者はいないであろう。
『Tom Sawyerの冒険』と『Hackleberry Finnの冒険』の舞台は、1840年代のミズーリ州にあるミシシッピ川沿いの町である。本作の舞台は、アーカンソー州で、この州は、ミズーリ州の南、ルイジアナ州の北にある州で、州の東側の境をミシシッピ川が流れているのである。
ウィキペディアによると、アーネスト・ヘミングウェイはある所で『Hackleberry Finnの冒険』を指して本書を以下のような歴史的な文脈に位置づけた:
「あらゆる現代アメリカ文学は、マーク・トウェインの『ハックルベリー・フィン』と呼ばれる一冊に由来する。……すべてのアメリカの作家が、この作品に由来する。この作品以前に、アメリカ文学とアメリカの作家は存在しなかった。この作品以降に、これに匹敵する作品は存在しない。」
という訳で、アーカンソー州生まれで、脚本も書いている監督のJeff Nicholsも、『Tom Sawyerの冒険』と『Hackleberry Finnの冒険』の両作品を念頭に置いていたことは容易に想像できるであろう。母親を失くして叔母の許に住んでいる10歳のTomと「宿なしHuck」をもちろん、EllisとNeckboneに一対一で引き写しにした訳ではないが、EllisとNeckboneも簡単ではない家庭環境に置かれている。(『Hackleberry Finnの冒険』における主要な、Huckと黒人Jimとの交流は、黒人が一人も主要人物として登場しない本作ではテーマとはなっていない。)
この基本的なストーリーの枠組みに、「脇役」のMudとMudの永遠のマドンナJuniperの腐れ縁が関わってくるのである。この腐れ縁の複雑さに、14歳にしてはませたEllisは、男女の関係の何たるものか、その不可解さを学ぶことになるのである。
最後に一言。Mudの、年齢のいった友人にTomがおり、終盤は彼が重要な役を演ずることになるのであるが、この役を体現しているのが、むしろ劇作家として有名なSam Shepardである。白髪を短く刈り上げた、いかにも元兵隊という感じで、その精悍な顔立ちと、シャキッとした身のこなしが印象的である。
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