写真の展覧会に行って、個人的によく経験するのであるが、同じ写真家が撮った写真でもカラーと白黒ではその写真家に対するこちらの評価が異なることがある。筆者の場合、全般的に言って、白黒写真の方に軍配が上がるのであるが、今までは、なぜそうなのかを自分に問いただしたことがなく、そういうものだと自分で思っていた。しかし、この間、フランス人映画キャメラマンのHenri Alekanアンリ・アルカン(1909 - 2001)についての展覧会を見たことがあり、改めてこの問題を素人なりに考えたみた。
なぜ、本作『ローマの休日』でこの問いが問われるかと言うと、Alekanが、Franz F. Planerフランツ F. プラーナーと共同で本作の撮影監督になっているからである。二人の内、どちらがどの場面の撮影に責任を負ったか確定できないので、ここでは、本作での白黒撮影について、調べ上げたこと、思ったことを述べたい。
まずは本作の監督であるWilliam Wyler(ドイツ語でWilhelm Weilerヴィルヘルム・ヴァイラー)である。フランス・エルザス地方のドイツ系ユダヤ人を母とする彼は、その、1920年代から1970年までの間の映画監督歴で、12回アカデミー賞・監督賞にノミネートされ、1943年、47年、そして、60年に三回同監督賞を獲得している。60年の受賞作品は、あの歴史モニュメンタル映画『ベン・ハー』である。
ジャンルの守備範囲が広いWylerは、1953年本作、コメディー・タッチも入れたラヴ・ロマンスを(敢えて「ラヴ・コメ」とは言わない、なぜなら、本作のストーリーは、いわば、royal one-„day”-stand であるから)ローマでの現地ロケで撮る。製作者でもあるWylerは、パラマウント映画会社に申し入れ、ハリウッドのスタジオ撮影ではなく、現地ロケで撮ることを条件にする。映画会社は、これを受け入れるが、経費削減のため、カラーではなく、白黒撮影に固執する。のちに、Wylerは本作が白黒で撮られたことを残念がっているようであるが、正にこれが本作を永遠の名画にしていると筆者は思う。なぜなら、これがカラーで撮られていたとしたら、ローマの名所巡りでもある本作を安っぽい絵葉書レベルに貶めていたことに違いなく、白黒フイルムで撮られていたことで、1950年代のローマを記録した時事性とその時代のロマンスのあり方に真実味を与えるからである。
では、まず、キャメラマンFranz F. Planerについて一言述べておく。オーストリア=ハンガリー二重帝国下の、現チェコのカールスバートで1894年に生まれた彼は、無声映画時代からベルリンで活動していたが、自身の妻がユダヤ人であることから、ナチス政権成立と共にヴィーンに戻り、それでも、30年代のキャメラマンの中で最も確実な仕事をこなすキャメラマンとしての名声を得る。ナチス・ドイツによるオーストリア併合に伴ない37年にアメリカに亡命し、キャリアに穴を空けることなく、アメリカで今度はFrankと名乗ってキャメラマンとして活動する。彼は、ロケ撮影を好み、その白黒撮影はドキュメンタリー性を持ったスタイルで名を成していた。恐らくこの点からWylerはPlanerを起用したのであろう。
Planerは、A.Hepburnとは、本作で初めて仕事をいっしょにし、59年の『尼僧物語』(カラー作品)、61年の『ティファニーで朝食を』(カラー作品)と『噂の二人』でも撮影を担当している。『噂の二人』の監督はWylerであり、8年ぶりに『ローマの休日』のトリオが再会したことになり、しかもこの作品は、白黒で撮られている。(Wylerは、Hepburnとは66年に三作目『おしゃれ泥棒』を撮っている。)
『ローマの休日』でWylerがなぜ二人の撮影監督を使ったのか、筆者は寡聞にしてその訳を知らないが、PlanerとAlekanの経歴を考えると、基本的にPlanerが野外撮影を、Alekanが室内撮影を担当したのではないかと想像する。本作の製作には、ローマ近郊にあるチネチッタ・スタジオも使ったというので、Gregory Peckのアパート内でのシーンはここで撮ったものと推察される。因みに、GregoryのアパートがあることになっているのはVia Margutta 51番地で、この職人が多く住んでいたという通りにはF.FelliniやA.Magnaniなどのイタリア映画人も住んでいたということで、「ローマン・ホリデー」の際には、テヴェレ川から東のローマ市第四地区にある、ローマの旧市街地の一部で、ポポロ広場や、GregoryとAudreyとの意図された「偶然の再会」が演じられるスペイン階段から遠くないこの通りは一見の価値があるであろう。
本作で有名な、Bocca della Veratà(真実の口)のシーンは、それがアドリブで撮った画面であるのか、粒子が粗い白黒フイルムで撮っているように見えるが、それに対して、コロッセオの、闘技場を最上階から俯瞰するシーンでは、重厚な、コールタールを流したような滑らかな画質が上手く出されている。
AudreyとGregoryとの、公けの場だが、それでも無言で密かな二人の別離が演じられる記者会見のシーンは、荘厳なColonna宮殿で撮られる。プロトコルにない、記者との個人的な挨拶を終え、記者会見場から姿を消そうとする「アン王女」ことAudreyがふいに後ろを振り向き、Gregoryの方に視線を投げながら、微笑みの中に憂愁の哀しみを滲ませる、Audreyの一世一代の名演技は、後ろをぼかして、Audreyのアップで撮ってある。このシーンを堪能するだけでも筆者は何百回でも本作が観られると思うのであるが、このシーンは、Colonna宮殿内の撮影ではなく、スタジオで別に撮ったものを編集して映画に組み込んだのでないかと筆者は想像する。
この想像の根拠は、『Des lumières et des ombres 光と影について』という、ヨーロッパの撮影技師の必読の「聖書」と言われている本を1984年にものにしたAlekanの撮影技法の一つ、照明による被写体の「モデリング」がこのシーンで使われているように思われるからである。照明によるモデリングとは、照明一本で被写体に光線を当て、撮影すると、画像が平板化する。フラッシュを焚いて撮った写真が詰まらなく見える理由である。それで、これを避けるために、照明度の異なる照明を何本も当て、それによって被写体に立体感をより強く持たせる照明効果のことを照明による「モデリング」という。ゆえに、照明器具を多数投入するには、ロケ撮影よりはスタジオ撮影の方が撮りやすいと想像し、あの名シーンはスタジオ撮影ではないかと想像する次第なのである。果たして、この推察は当たっているか。
以上、白黒映画好きの筆者の「独断と偏見」による本批評を最後まで読んで下さり、筆者の光栄と致すところである。
なぜ、本作『ローマの休日』でこの問いが問われるかと言うと、Alekanが、Franz F. Planerフランツ F. プラーナーと共同で本作の撮影監督になっているからである。二人の内、どちらがどの場面の撮影に責任を負ったか確定できないので、ここでは、本作での白黒撮影について、調べ上げたこと、思ったことを述べたい。
まずは本作の監督であるWilliam Wyler(ドイツ語でWilhelm Weilerヴィルヘルム・ヴァイラー)である。フランス・エルザス地方のドイツ系ユダヤ人を母とする彼は、その、1920年代から1970年までの間の映画監督歴で、12回アカデミー賞・監督賞にノミネートされ、1943年、47年、そして、60年に三回同監督賞を獲得している。60年の受賞作品は、あの歴史モニュメンタル映画『ベン・ハー』である。
ジャンルの守備範囲が広いWylerは、1953年本作、コメディー・タッチも入れたラヴ・ロマンスを(敢えて「ラヴ・コメ」とは言わない、なぜなら、本作のストーリーは、いわば、royal one-„day”-stand であるから)ローマでの現地ロケで撮る。製作者でもあるWylerは、パラマウント映画会社に申し入れ、ハリウッドのスタジオ撮影ではなく、現地ロケで撮ることを条件にする。映画会社は、これを受け入れるが、経費削減のため、カラーではなく、白黒撮影に固執する。のちに、Wylerは本作が白黒で撮られたことを残念がっているようであるが、正にこれが本作を永遠の名画にしていると筆者は思う。なぜなら、これがカラーで撮られていたとしたら、ローマの名所巡りでもある本作を安っぽい絵葉書レベルに貶めていたことに違いなく、白黒フイルムで撮られていたことで、1950年代のローマを記録した時事性とその時代のロマンスのあり方に真実味を与えるからである。
では、まず、キャメラマンFranz F. Planerについて一言述べておく。オーストリア=ハンガリー二重帝国下の、現チェコのカールスバートで1894年に生まれた彼は、無声映画時代からベルリンで活動していたが、自身の妻がユダヤ人であることから、ナチス政権成立と共にヴィーンに戻り、それでも、30年代のキャメラマンの中で最も確実な仕事をこなすキャメラマンとしての名声を得る。ナチス・ドイツによるオーストリア併合に伴ない37年にアメリカに亡命し、キャリアに穴を空けることなく、アメリカで今度はFrankと名乗ってキャメラマンとして活動する。彼は、ロケ撮影を好み、その白黒撮影はドキュメンタリー性を持ったスタイルで名を成していた。恐らくこの点からWylerはPlanerを起用したのであろう。
Planerは、A.Hepburnとは、本作で初めて仕事をいっしょにし、59年の『尼僧物語』(カラー作品)、61年の『ティファニーで朝食を』(カラー作品)と『噂の二人』でも撮影を担当している。『噂の二人』の監督はWylerであり、8年ぶりに『ローマの休日』のトリオが再会したことになり、しかもこの作品は、白黒で撮られている。(Wylerは、Hepburnとは66年に三作目『おしゃれ泥棒』を撮っている。)
『ローマの休日』でWylerがなぜ二人の撮影監督を使ったのか、筆者は寡聞にしてその訳を知らないが、PlanerとAlekanの経歴を考えると、基本的にPlanerが野外撮影を、Alekanが室内撮影を担当したのではないかと想像する。本作の製作には、ローマ近郊にあるチネチッタ・スタジオも使ったというので、Gregory Peckのアパート内でのシーンはここで撮ったものと推察される。因みに、GregoryのアパートがあることになっているのはVia Margutta 51番地で、この職人が多く住んでいたという通りにはF.FelliniやA.Magnaniなどのイタリア映画人も住んでいたということで、「ローマン・ホリデー」の際には、テヴェレ川から東のローマ市第四地区にある、ローマの旧市街地の一部で、ポポロ広場や、GregoryとAudreyとの意図された「偶然の再会」が演じられるスペイン階段から遠くないこの通りは一見の価値があるであろう。
本作で有名な、Bocca della Veratà(真実の口)のシーンは、それがアドリブで撮った画面であるのか、粒子が粗い白黒フイルムで撮っているように見えるが、それに対して、コロッセオの、闘技場を最上階から俯瞰するシーンでは、重厚な、コールタールを流したような滑らかな画質が上手く出されている。
AudreyとGregoryとの、公けの場だが、それでも無言で密かな二人の別離が演じられる記者会見のシーンは、荘厳なColonna宮殿で撮られる。プロトコルにない、記者との個人的な挨拶を終え、記者会見場から姿を消そうとする「アン王女」ことAudreyがふいに後ろを振り向き、Gregoryの方に視線を投げながら、微笑みの中に憂愁の哀しみを滲ませる、Audreyの一世一代の名演技は、後ろをぼかして、Audreyのアップで撮ってある。このシーンを堪能するだけでも筆者は何百回でも本作が観られると思うのであるが、このシーンは、Colonna宮殿内の撮影ではなく、スタジオで別に撮ったものを編集して映画に組み込んだのでないかと筆者は想像する。
この想像の根拠は、『Des lumières et des ombres 光と影について』という、ヨーロッパの撮影技師の必読の「聖書」と言われている本を1984年にものにしたAlekanの撮影技法の一つ、照明による被写体の「モデリング」がこのシーンで使われているように思われるからである。照明によるモデリングとは、照明一本で被写体に光線を当て、撮影すると、画像が平板化する。フラッシュを焚いて撮った写真が詰まらなく見える理由である。それで、これを避けるために、照明度の異なる照明を何本も当て、それによって被写体に立体感をより強く持たせる照明効果のことを照明による「モデリング」という。ゆえに、照明器具を多数投入するには、ロケ撮影よりはスタジオ撮影の方が撮りやすいと想像し、あの名シーンはスタジオ撮影ではないかと想像する次第なのである。果たして、この推察は当たっているか。
以上、白黒映画好きの筆者の「独断と偏見」による本批評を最後まで読んで下さり、筆者の光栄と致すところである。
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