(No.3:溝口健二編、第一章)
[No.1:小津安二郎編『父ありき』、No.2:黒澤明編『一番美しい』]
黒澤は、ダイナミズムな画面構成で勝負する。小津は、その逆で、「定点」撮影とぶつ切り編集で自らの映画的話法を作り上げた。他方、溝口健二は所謂「長回し」の監督として有名である。では、この長回しの映像構成の特長は何であろうか。
言うまでもなく「長回し」とは、ワン・シークエンス = ワン・ショットのことである。このことにより、そこに大河が流れるが如く、時の流れが感じ取られることとなり、ここにある「時間性」が生まれる。この時間性は、場合によっては「歴史性」にも繋がるのであり、この「歴史性」を持った「長回し」の名匠がギリシャ人監督テオ・アンゲロプロスである。
その代表作『旅芸人の記録』(1975年作)は、ある旅芸人一座が、十八番の牧歌劇を上演しながら、1939年から1952年までの、ファシズムと軍事独裁に翻弄されるギリシャの現代史を自らも生きるという歴史映画であり、ここにおいて「長回し」の美学が240分に亘って殆ど叙事詩的に展開される。
「長回し」を技術的に捉えると、一つには、カメラをスタンスを置いてある地点に設定し、このカメラの前で、プロットを時間的に上手く構成しながら、俳優に演技をさせる方法と、もう一つは、カメラにレールを敷くか、或いは、カメラをクレーンに乗せて、カメラに俳優の後を追わせて撮る方法とがある。アンゲロプロスは、第一の方法に更に360度パンを組み合わせた撮り方が好みのようであるが、溝口はむしろ第二の方法を多用しているようである。田中絹江主演で、まさにこの長回しの手法が完成したものとして提示される、『西鶴一代女』(1952年制作)からその一例を出してみよう。
お春(田中)は、映画の中盤、雄藩松平家の側室として取り立てられる。そこで、お春は、正室(山根寿子、1940年、衣笠貞之助監督『蛇姫様』で長谷川一夫の相手役となって人気スタアとなる)に挨拶を入れなければならない。カメラはまず、庭から香を嗅ぐ正室を「観察」している。こうして、カメラはゆっくりと正室のいる部屋の中に入っていく。すると、右から奥女中が来て、お春が正室に挨拶に来たことを告げる。正室が立ち上がるのと機を一にしてカメラも高く位置を取り、正室の右後ろから正室に付き添うようにして、画面の右に移動していく。その行く先の廊下にはお春が既に平伏しており、正室がお春の挨拶を受けようとすると、カメラは正室の頭の右に位置し、お春を見下ろす形となる。ここに、正室と側室の権力関係がカメラの位置関係で明確に表現される。と、カメラは開いた障子の隙間から、更に去っていくお春を後ろから観察するが、それが終わると、カメラは、急に正室との距離をとり、今度はカメラに振り返った正室を被写体として、その嫉妬に満ちた顔をアップで撮るという次第で、時間を掛けながら、ストーリーが展開される。
という訳で、長回しの特長の一つは、そこに時間性が生まれることである。故に、歴史映画を、或いは、大河ドラマを撮影するのに適している手法である。そして、もう一つ、被写体をスタンスを置いて観察しているカメラの在り様という点から、ある種の冷めたリアリズム的要素がそこに生まれる点である。こうして、溝口は男の視点でスタンスを取り、被写体である「女」を冷めたく観察して、それを映像的に「記録」するという、彼一生のテーマ「女性」を既に1920年代に見つけ出したのであった。溝口が「女性映画の巨匠」と言われる所以であるが、「女」を見つめる、溝口の視点には、被写体に対する「温かみ」が感じられない。
こうして、名脚本家依田義賢(よだよしたか)によって、西鶴の『好色一代女』は、フランスの現実主義作家モーパッサンの作品『女の一生』ばりに塗り替えられて、語られる。映画の出だしでは、まずは、京都島原の遊郭の太夫身分から「夜鷹」にまで娼妓の階梯を滑り落ちたお春を追うキャメラの長回しを堪能してほしい。
(続きの第二章は、溝口の『浪華悲歌』で、第三章は、『元禄忠臣蔵』で、お読みください。)
[No.1:小津安二郎編『父ありき』、No.2:黒澤明編『一番美しい』]
黒澤は、ダイナミズムな画面構成で勝負する。小津は、その逆で、「定点」撮影とぶつ切り編集で自らの映画的話法を作り上げた。他方、溝口健二は所謂「長回し」の監督として有名である。では、この長回しの映像構成の特長は何であろうか。
言うまでもなく「長回し」とは、ワン・シークエンス = ワン・ショットのことである。このことにより、そこに大河が流れるが如く、時の流れが感じ取られることとなり、ここにある「時間性」が生まれる。この時間性は、場合によっては「歴史性」にも繋がるのであり、この「歴史性」を持った「長回し」の名匠がギリシャ人監督テオ・アンゲロプロスである。
その代表作『旅芸人の記録』(1975年作)は、ある旅芸人一座が、十八番の牧歌劇を上演しながら、1939年から1952年までの、ファシズムと軍事独裁に翻弄されるギリシャの現代史を自らも生きるという歴史映画であり、ここにおいて「長回し」の美学が240分に亘って殆ど叙事詩的に展開される。
「長回し」を技術的に捉えると、一つには、カメラをスタンスを置いてある地点に設定し、このカメラの前で、プロットを時間的に上手く構成しながら、俳優に演技をさせる方法と、もう一つは、カメラにレールを敷くか、或いは、カメラをクレーンに乗せて、カメラに俳優の後を追わせて撮る方法とがある。アンゲロプロスは、第一の方法に更に360度パンを組み合わせた撮り方が好みのようであるが、溝口はむしろ第二の方法を多用しているようである。田中絹江主演で、まさにこの長回しの手法が完成したものとして提示される、『西鶴一代女』(1952年制作)からその一例を出してみよう。
お春(田中)は、映画の中盤、雄藩松平家の側室として取り立てられる。そこで、お春は、正室(山根寿子、1940年、衣笠貞之助監督『蛇姫様』で長谷川一夫の相手役となって人気スタアとなる)に挨拶を入れなければならない。カメラはまず、庭から香を嗅ぐ正室を「観察」している。こうして、カメラはゆっくりと正室のいる部屋の中に入っていく。すると、右から奥女中が来て、お春が正室に挨拶に来たことを告げる。正室が立ち上がるのと機を一にしてカメラも高く位置を取り、正室の右後ろから正室に付き添うようにして、画面の右に移動していく。その行く先の廊下にはお春が既に平伏しており、正室がお春の挨拶を受けようとすると、カメラは正室の頭の右に位置し、お春を見下ろす形となる。ここに、正室と側室の権力関係がカメラの位置関係で明確に表現される。と、カメラは開いた障子の隙間から、更に去っていくお春を後ろから観察するが、それが終わると、カメラは、急に正室との距離をとり、今度はカメラに振り返った正室を被写体として、その嫉妬に満ちた顔をアップで撮るという次第で、時間を掛けながら、ストーリーが展開される。
という訳で、長回しの特長の一つは、そこに時間性が生まれることである。故に、歴史映画を、或いは、大河ドラマを撮影するのに適している手法である。そして、もう一つ、被写体をスタンスを置いて観察しているカメラの在り様という点から、ある種の冷めたリアリズム的要素がそこに生まれる点である。こうして、溝口は男の視点でスタンスを取り、被写体である「女」を冷めたく観察して、それを映像的に「記録」するという、彼一生のテーマ「女性」を既に1920年代に見つけ出したのであった。溝口が「女性映画の巨匠」と言われる所以であるが、「女」を見つめる、溝口の視点には、被写体に対する「温かみ」が感じられない。
こうして、名脚本家依田義賢(よだよしたか)によって、西鶴の『好色一代女』は、フランスの現実主義作家モーパッサンの作品『女の一生』ばりに塗り替えられて、語られる。映画の出だしでは、まずは、京都島原の遊郭の太夫身分から「夜鷹」にまで娼妓の階梯を滑り落ちたお春を追うキャメラの長回しを堪能してほしい。
(続きの第二章は、溝口の『浪華悲歌』で、第三章は、『元禄忠臣蔵』で、お読みください。)
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