2022年8月4日木曜日

アンダー・ザ・スキン 種の捕食(イギリス、USA、スイス、2013年作) 監督:ジョナサン・グレイザー

 こういう「芸術映画」を気取って、内容のない作品ほど嫌なものはない。第70回ヴェネツィア国際映画祭コンペティション部門に出品され、上映が終わって、賛否両論に別れたというが、ブーイングもあったということで、むべなるかなである。

 監督は、1965年にロンドンで生まれたジョナサン・グレイザーで、元々はミュージック・ヴィデオ畑から来ており(なるほど、それだからと、肯くのだが)、長編映画は、これまでに本作を入れて3本ぐらいしか撮っていない。長編映画では、2000年に犯罪映画でデビューし、2004年に『Birth記憶の棘』を発表している。その2004年の作品では、主演がN.キッドマンで、その後の9年ぶりの本作の主演がS.ジョーハンスンであるところを見ると、監督は、美人がお好みのようである。

 監督は、本作のための映画化権を既に2001年に獲得し、脚本も共同執筆しているが、同名の原作は、その前年に出版されていたものである。筆者は、原作を読んでいないので、どれだけ脚本の方で変えてあるのかは判断が付かないが、原作は、Michel Faberが作家経歴として初めてノヴェルとして書いたものである。M.Faberは、デンハーク生まれのオランダ人で、オーストラリアへ両親と移住した後、ここに馴染めずに、結局イギリス、それもスコットランドに移り住んだ人物である。ウィキペディアによると、このノヴェルの構想は、スコットランドのHighlandsから受けていると言う。なるほど、それで、本作の色々なシーンでもスコットランドの風景や印象的なTantallon Castle城跡などが見られるのである。映画の終盤で、主人公「女」が(何もエイリアンではなく、ガイノイドにした方がプロット的には面白いはずだが)彷徨する村々や原生林、そしてラストシーンもこの原作からイメージがなされているのであろう。

 撮影は、1962年にイギリスで生まれたDaniel Landinで、彼も監督同様ミュージック・ヴィデオ畑出身である。本作でもモード雑誌に出ているようなスタイリッシュな映像を撮っており、液状物中撮影を含めて、印象的場面が、映画の口数の少なさと内容の軽薄さを若干補ってくれる。

 観客を「慰撫」してくれるもう一つの要素は、音楽である。担当は、1987年に生まれたイギリス人で、自己のジェンダー・アイデンティティを「ノン・バイナリー」と規定しているMica Leviである。2000年代から音楽活動を始め、映画音楽分野では本作のためのものが手始めで、「初心者の運強さ」とも言ってよく、本作で2014年度ヨーロッパ映画賞の最優秀音楽賞を受賞している。

 さて、「お目当て」の、主人公「女」を体現しているS.ジョーハンスンである。2003年に『ロスト・イン・トランスレーション』(最初の20分が日本の奇異さを集約して表現して秀逸)でブレイク・スルーしてからの、10年後の彼女である。文字通り「体当たり」役とでも言える本作では、裸体を惜しげもなく見せてくれる。サイドから見ると、S字型の体型で、ヒップが大きく威勢よく突き出している。胸の二生りは西洋梨型をしているが、双方があっちこっちを見ている。男の「垂涎の的」として、本作では、厚い唇を真っ赤に口紅で染めて、いかにも街に立っている「あれ」のように、安物の人工の毛皮に、Gパン、ハイヒールの出で立ちである。こうして、スコットランドのグラスゴーの男たちを誘惑して歩く彼女であるが、さて、その行く末は?そして、その目的は?(因みに、本作でのS.ジョーハンスンの肉付きが意外といいのに「落胆」をしてはいけない。なぜなら、それは、彼女の身体自体が、ストーリー上の「外皮」であるからである。2017年の『ゴースト・イン・ザ・シェル』では、S.ジョーハンスンの太さに「落胆」したが、それは彼女が光学迷彩用の「外皮」を着ていていたからである。)

 『アンダー・ザ・スキン』という題名が既にネタを明かしているので、ラストシーンは最初から既に予想が付く。ゆえに、その先の、プロット的展開が求められる。この展開がないことが本作の絶対的な弱みである。日本語副題「種の捕食」が、観ている者を、更にミスリードをすれば、騙された観衆が「怒り」出すのも当然と言えば、当然である。

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