2022年8月18日木曜日

元禄忠臣蔵 前編・後編(日本、1941/42年作) 監督:溝口 健二

日本映画史における三大巨匠が織りなす、国策映画を巡る人生模様とは

(No.3:溝口健二編、第三章)



 1937年に日中戦争が勃発するが、この年に溝口は、前年設立された協同組合日本映画監督協会の二代目の理事長を、協会が解散させられる43年まで、引き受ける。39年には映画法が制定され、映画産業に対する管理・統制が進み、42年に戦時統合が映画制作部門でも実施されて、映画界には、伝統ある松竹、1937年設立の新参者の東宝、そして、永田の大映の、三社体制が敷かれる。

 このような世相の下、溝口は39年から松竹系で、『残菊物語』に代表される、いわゆる、「芸道もの」を三本撮る。明治中期から、近代化のために強引に推し進めらた官製の欧化主義に対して、いわゆる国粋主義的、国家主義的、「日本主義」が台頭してくる。そこでは、欧米文化を物質「文明」と蔑視し、日本文化を日本精神「文化」の顕現したものとして称揚される。この日本精神主義を芸道の探求と重ね合わせれば、なぜこの時期に、つまり、日中戦争が開始された1937年以降に、溝口がこの路線と取ったかは明らかであろう。

 この立場をさらに推し進めてゆけば、日本人の精神性の根源、主君に対する忠義心に行き当たるのであり、それは、「忠臣蔵」において祝祭的に表象されるのである。ゆえに、41年/42年に、『元禄忠臣蔵』(前編、後編)を撮ることは、今更現代劇や東宝的戦争プロパガンダ映画を撮れない熟練した溝口監督の、彼なりの、誠に時宜に適った「国策」映画だったのである。

 しかも、ここで、溝口は、時代劇であれば、剣戟映画の通俗性を乗り越えた、つまり、情緒性を抑えた禁欲的で、精神性のある時代劇、否、前編、後編を合わせて合計223分の、しかも時代考証の各方面の専門家を九人も並べた歴史劇を撮ろうとした。その帰結は、浅野内匠頭の切腹の場面、吉良邸の赤穂浪士の討ち入りの場面がただ暗示としてだけ示される非大衆的「忠臣蔵」となる。

 浅野内匠頭の切腹の場面では、クレーンに乗せられたカメラが上方から状況全体を見下ろし、画面前景では閉ざされた門前で泣き崩れる家臣の場面を、画面後方では内匠頭が静々と切腹の場に赴く場面が、同一画面でカットなしで示され、カメラは、内匠頭の切腹する場面をアップで撮るというような「野暮」なことはしない。

 また、吉良邸の赤穂浪士の討ち入りの場面では、本来ストーリーのクライマックスを形作るであろう討ち入りが、内蔵助が別れを告げた、今は亡き内匠頭の正室瑤泉院の傍で、そのお付きの戸田局(梅村蓉子)が、本懐を遂げた四十七士の一人から届いた書状を読み上げることで、映像なしで、しかし、梅村の名演によりドラマチックに語られる。これほどのアンティ・剣戟映画があるであろうか。

 その逆に、討ち入りが終わった後の、ご公儀のご沙汰を受けて切腹するまでの内蔵助たちの姿に、カメラは、長回しの位置は保たれるが、あの冷たい距離感をなくして、「義士」たちに寄り添う。まるで、死に花を咲かせるために待機する特攻隊員の運命を予感でもするかのように。

 ここに、大衆から隔絶した、孤高の、ほとんど芸道の極を窮める、士道の自己陶冶の精神が示されたのであった。映画の冒頭に示される「護れ、興亜の兵の家」は、その精神において、その祈りは叶えられたのであった。(後編の後半、重要なプロットとなる、お小姓姿に身をやつした、高峰三枝子が扮する「おみの」の愛と死は、そうは言っても、恐らく隠された本音の、本作の浪漫のクライマックスであろう。)

 この精神の孤高を謳う、溝口の、ぶれない態度は、戦後、52年作の『西鶴一代女』、53年作の『雨月物語』、54年作の『近松物語』と結実する。これらの作品は、ヴェネツィア国際映画祭で受賞するが、『七人の侍』を含めて、何れも歴史映画である点に気を付けたい。ありていに言えば、それは、ヨーロッパ文化のデカダンス、「西洋の没落」を語るヨーロッパ人の、極東の、しかも異時代の文化現象を包摂しうる「したたかさ」を表していたのであった。

 一方、この徹底的に日本的であることが、逆に世界映画史における「国際性」を可能にさせ、ヨーロッパにおける長回しの巨匠アンゲロプロスこそが、溝口からその長回し手法を学び、それを吸収したと言う。さらに、ヌヴェル・ヴァーグの旗手J.ゴダールが、「好きな監督を三人挙げると?」との問いに対して、「Mizoguchi、Mizoguchi、Mizoguchi!」と口ばしる時、フランスのヌヴェル・ヴァーグは、実は、隠れた、第二次ジャポニスムであったと言えるのである。


(前段の第一章は、溝口の『西鶴一代女』で、第二章は、『浪華悲歌』で、お読みください。)

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