2022年8月11日木曜日

戦艦大和(日本、1953年作)  監督:阿部 豊

「天下ニ恥ヂザル最期ナリ」

と言う文で、本作の原作となる、元帝国海軍少尉・吉田満が1946年に書いた初稿『戦艦大和ノ最期』(文語体、しかも、漢字とカタカナの文章)は終えられている。GHQの検閲により発表できなかった、吉田が一日で書き上げたというこの初稿を、その間口語体で発表した後、この秀逸な戦記文学が再び文語体で刊行されたのが、1952年8月であった。本作はこれを受けての映画化であった。

 吉田自身が、予備少尉に任官された後、戦艦大和に副電測士として乗艦を命ぜられて、大和の電探室勤務となる。運命の日の、1945年4月7日には、彼は、哨戒直士官を命ぜられ、艦橋にいたのであった。という訳で、原作は、記憶違いがあるにしても、吉田が見て、印象に残ったものを一日で書き上げた記録文学であった。(本作でも「吉村少尉」役あり。)さらに、53年の映画化に当たっては、大和副長であった能村次郎元海軍大佐が「教導」として参加しており、能村の視点からも本作は考証されている。 

 監督は、阿部豊である。ハリウッドで無声映画の俳優となって日本に「凱旋」し、1925年映画監督としてデビューした彼は、ハリウッド的「ソフィスティケート・コメディ」を日本映画に移植した後、太平洋戦争中は国策映画会社東宝で、あの円谷英二の特撮を存分に生かした国策戦争映画を撮った監督であった。

 さらに、応援監督として松林宗恵が加わっており、彼は、戦前は映画に「仏心を注入したい」と考え、東宝の撮影所の助監部に入った後、海軍第三期兵科予備学生となり、1944年には海軍少尉に任官されて、部下150名を連れて南支那廈門島の陸戦隊長なったという経歴を持つ人物である。(C.イーストウッドの『硫黄島からの手紙』に出てくる帝国海軍陸戦隊の、狂信的な士官が思い出される。)松林は、その後、『人間魚雷回天』(新東宝、1955年作)、『太平洋の翼』(東宝、1963年作)、『連合艦隊』(東宝、1981年作)などの戦争映画を撮っている。とりわけ、『連合艦隊』では、市井の目から見た連合艦隊の、先の大戦の命運が急ぎ足で語られ、当然、戦艦大和の轟沈の運命も作中で描かれた。

 ことほど左様に、本作では大日本帝国海軍に関係したスタッフが制作に関わっているので、史実に関しては、100%の信頼は置けないにしても、まずまずは「安心」して鑑賞できる作品となっている。(『男たちの大和』は、その点、「眉唾物」で、「下からの目」で見るという「ミクロ的」視点を取ることで、逆に「マクロ」が見えない、単なる「生き残った者」の「罪の意識」が強調される、心情主義的駄作となっている。ラストシーンでする敬礼が、帝国海軍式でないのが、これまた、駄作さの駄目押しである。)

 アメリカ側からの目で見て 、1941年12月8日は、7日であり、しかも日曜日であった。キリスト教社会においてこの曜日は聖なる日である。この日曜日に、大日本帝国海軍は、宣戦布告前に(!)、真珠湾攻撃を敢行した。

 42年6月のミッドウェー海戦では、連合艦隊は、正規空母4隻を失い、同時に錬成された飛行士を多数失った。ガダルカナル島(「餓島」)争奪をめぐる海戦では、辛うじて互角に戦えた海軍は、その後はジリ貧を余儀なくされ、44年6月の、サイパン島攻防をめぐるマリアナ沖海戦では、航空艦隊による戦闘能力を喪失した。アメリカ軍からは、「マリアナの七面鳥撃ち(Great Marianas Turkey Shoot)」と揶揄される壊滅的敗北であった。零戦を含む日本側の航空機は、目をつぶって撃っても当たる、「マッチ箱」だったのである。

 その4か月後の、アメリカ軍のレイテ島への進攻を受けての、いわゆる「捷一号作戦」に伴なう帝国海軍が総力を挙げての迎撃でも、それは失敗に終わるのであるが、戦艦大和及び同型艦の戦艦武蔵が参加するレイテ沖海戦では、武蔵が、栗田艦隊のための囮となって「死に花」を咲かせたものの、謎の「栗田艦隊の再反転」を以って戦術的成功なしに、連合艦隊は事実上消滅した。

 本作は、このような帝国海軍の終焉の運命を担った、45年3月末からの連合軍の沖縄侵攻に反抗する、いわゆる、陸・海軍共同の防衛作戦「天一号作戦」の文脈で起こった海戦をテーマにしている。その際、帝国海軍は、特攻航空(!)作戦「菊水一号作戦」を遂行し、その際に、連合艦隊旗艦でもあった大和を沖縄に向けて「水上特別攻撃」させたのであった。この「不沈艦大和」が轟沈した海戦を、「坊ノ岬沖海戦」と言う。

 ミッドウェー海戦以来暗号を解読していたアメリカ軍側は、自軍の潜水艦隊に「敵艦隊が被害を受けて引き返すことのないよう」魚雷発射を禁止して、哨戒配置につかせていた と言う。この海戦で、日本軍側は、大和、軽巡矢矧が撃沈され、護衛の八隻の駆逐艦中、浜風、朝霜が撃沈され、霞、磯風が処分された。涼月は佐世保のドック内部で擱座した。同年7月、連合艦隊司令長官豊田福武大将が布告した戦死者総数は4,044名であった。対して、アメリカ軍の損害は、日本側に撃墜された航空機が13機であったと言う。(なお、アメリカ機の編隊が大和の生存者に機銃掃射を浴びせるために出撃しており、この戦争犯罪を本作は描いている。)

 戦後、連合艦隊司令長官であった豊田大将は回想して言う。「大和を有効に使う方法として計画。成功率は半分もなし。うまくいったら奇跡。しかしまだ働けるものを使わず残しては、[筆者:沖縄の]現地将兵を見殺しにする。だが勝ち目のない作戦で大きな犠牲を払うのも大変苦痛。しかし多少の成功の算あれば、できることはなんでもやらねばならぬ」。(ウィキペディアより)「死に花を咲かせる」どころではない、これでは「犬死」であろう。何を以って、「一億総特攻の魁」であろうか。そして、「一億総特攻」は、周知の如く、なかったのである。

 さて、戦中の東宝は、円谷が特撮を受け持っていたので、それなりに見られる特撮を撮っているが、戦後に東宝争議の、いわば「スト破り」的に出来た映画会社「新東宝」の特撮は、質が落ちている。大和の部分的セットも大和のミニチュアも、セット作業、フィルム合成作業が粗雑である。

 しかし、キャスティングはいい。第二艦隊司令長官・伊藤整一中将を演じる高田稔、テクノクラート的聯合艦隊参謀で、水上特攻を映画冒頭の会議で主導する中村伸郎(小津映画の主人公の同級生役)、水上特攻に慎重派の聯合艦隊参謀役の宮口精二(『七人の侍』のストイックな剣士役)がいる。そして、戦中の映画『加藤隼戦闘隊』で主演を務めた藤田進が副長能村を演じる。関西弁を話し、その現実主義的な商人の「知恵」を体現する高島忠夫もいい。そして、今作中の紅二点。映画の序盤、若い少尉・中尉の中で女性の写真を持っている奴がその写真を見せるように他の士官に促される。すると、二人の少尉が写真を出し、観ている者もそれを見る。
久我美子と嵯峨美智子(のちに、三智子と名乗る)である。

 久我は、1950年の映画『また逢う日まで』で岡田英次と窓硝子ごしの接吻を演じた女優で、その白百合のような清楚さが似合う女優である。彼女を棒立ちで演技させたのは失策の演出であろう。

 対して、嵯峨は、当時17歳、その彼女がどういう訳で、ある少尉の写真で出てくるのかは、本作を観てのお楽しみの「オチ」が付いている。しかし、日本映画史上の大女優山田五十鈴の娘、嵯峨の、まるで蘭の華が匂うような艶美さは、大日本帝国海軍の「葬送式」に相応しくない、「徒花」とは言えないであろうか。「色即是空、空即是色」を悟る人間は数少ないのである。

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