(No.3:溝口健二編、第二章)
関東大震災が起こる直前の1923年に、日活から監督としてデビューした溝口は、トレンディーなものを追っていた。ドイツ表現主義が流行れば、試してみる。20年代後半には左翼的な「傾向映画」にも手を出してみる(『東京行進曲』)。満州事変後の1932年には、日活を辞めて新興キネマに入社し、同社第一作として溝口が撮ったのは、「入江(たか子)ぷろだくしょん」と提携した『満蒙建国の黎明』で、満州で二ヶ月間のロケーション撮影を行ったと言う。筆者未見であるが、題名からして、まさに国策映画であったことは間違いない。興行的には失敗作であったと言う。
1934年からは、のちの大女優となる山田五十鈴(1917年生まれ)といっしょに仕事をしており、36年までに彼女と六本の作品を撮っている。山田がヒロインの『浪華悲歌(なにわえれじい)』(36年作)の原案を監督の溝口自身が作り、脚本は、本作で溝口とは初顔合わせをし、その後は溝口が亡くなる前年の1955年まで寄り添うことになる、依田義賢である。キャメラマンは、1933年の『祇園祭』以来、終戦まで溝口と付き合う、宮川一夫と双璧と言われる三木稔(後年、「三木滋人」と改名)、製作はのちに日活を「潰して」大映の社長となる永田雅一が興した、トーキー映画製作会社「第一映画社」である。
永田「ラッパ」とは、既に『折鶴お千』(35年作、山田主演)から溝口の遺作となる『赤線地帯』まで、溝口は関わった。という訳で、『浪華悲歌』で以って、溝口-依田-三木(戦後は宮川)-永田の溝口組のベストメンバーが出揃ったという訳である。なお、1936年に溝口の指導の下で日本初の女性映画監督となった坂根田鶴子(1904年生まれ)が、29年以来溝口の下で監督助手として働き、『折鶴お千』等では助監督を務めた溝口組の一人であった。(田中絹代が日本映画史上二番目の女性監督となる。)
溝口には珍しく現代劇の本作『浪華悲歌』は、大阪のモダンガール、「モガ」を描く。36年の段階で、約10年前の昭和初期の「昭和モダン」を描き、そこに、洋装の、釣り鐘型帽子クローシェを被らせた山田を登場させたのは、少々「時代遅れ」の感がしないでもないのだが、本作は、映像的に1930年代半ばの大阪の風情を活写している。
映画冒頭の、夜のイルミネーション。「花王石鹸」と「キャバレー 赤玉」の広告塔が夜空に映える。モダンな高級マンションの、現代建築の「花」とでも言えそうな玄関口、そごうデパートの化粧品売り場、そして、そこのレモンスカッシュが飲める、喫茶室。はたまた、地下鉄の車内と地下道、そして、モダンな建築の警察署の建物と、そこに佇むモガの主人公の姿。これらが、浄瑠璃上演の場面では和服姿となる主人公の姿と好対照をなして、描かれて、大阪を知っている人間には1930年代半ばの大阪を知るためのドキュメンタリー映画的価値があるのが、本作である。
本作と同年に制作された『祇園の姉妹』は、スタッフ・キャストからして、本作の姉妹編と言えるものであり、伝統的で、男に尽くすタイプの姉(それは、33年作の『瀧の白糸』でも35年作の『折鶴お千』でも同様、ここでは、溝口組とも言える梅村蓉子が好演)とモダンで打算的な妹(山田が「憎らしく」好演)が分かりやすく対比されて描かれている。その戦後の、自作リメイク版が、『祇園囃子』(1953年作)で、今度は名女優小暮美千代と若尾文子が姉妹役を演じている。(この作品では、撮影を宮川一夫が担当する。)
(前段の第一章は、溝口の『西鶴一代女』で、続きの第三章は、『元禄忠臣蔵』でお読みください。)
1934年からは、のちの大女優となる山田五十鈴(1917年生まれ)といっしょに仕事をしており、36年までに彼女と六本の作品を撮っている。山田がヒロインの『浪華悲歌(なにわえれじい)』(36年作)の原案を監督の溝口自身が作り、脚本は、本作で溝口とは初顔合わせをし、その後は溝口が亡くなる前年の1955年まで寄り添うことになる、依田義賢である。キャメラマンは、1933年の『祇園祭』以来、終戦まで溝口と付き合う、宮川一夫と双璧と言われる三木稔(後年、「三木滋人」と改名)、製作はのちに日活を「潰して」大映の社長となる永田雅一が興した、トーキー映画製作会社「第一映画社」である。
永田「ラッパ」とは、既に『折鶴お千』(35年作、山田主演)から溝口の遺作となる『赤線地帯』まで、溝口は関わった。という訳で、『浪華悲歌』で以って、溝口-依田-三木(戦後は宮川)-永田の溝口組のベストメンバーが出揃ったという訳である。なお、1936年に溝口の指導の下で日本初の女性映画監督となった坂根田鶴子(1904年生まれ)が、29年以来溝口の下で監督助手として働き、『折鶴お千』等では助監督を務めた溝口組の一人であった。(田中絹代が日本映画史上二番目の女性監督となる。)
溝口には珍しく現代劇の本作『浪華悲歌』は、大阪のモダンガール、「モガ」を描く。36年の段階で、約10年前の昭和初期の「昭和モダン」を描き、そこに、洋装の、釣り鐘型帽子クローシェを被らせた山田を登場させたのは、少々「時代遅れ」の感がしないでもないのだが、本作は、映像的に1930年代半ばの大阪の風情を活写している。
映画冒頭の、夜のイルミネーション。「花王石鹸」と「キャバレー 赤玉」の広告塔が夜空に映える。モダンな高級マンションの、現代建築の「花」とでも言えそうな玄関口、そごうデパートの化粧品売り場、そして、そこのレモンスカッシュが飲める、喫茶室。はたまた、地下鉄の車内と地下道、そして、モダンな建築の警察署の建物と、そこに佇むモガの主人公の姿。これらが、浄瑠璃上演の場面では和服姿となる主人公の姿と好対照をなして、描かれて、大阪を知っている人間には1930年代半ばの大阪を知るためのドキュメンタリー映画的価値があるのが、本作である。
本作と同年に制作された『祇園の姉妹』は、スタッフ・キャストからして、本作の姉妹編と言えるものであり、伝統的で、男に尽くすタイプの姉(それは、33年作の『瀧の白糸』でも35年作の『折鶴お千』でも同様、ここでは、溝口組とも言える梅村蓉子が好演)とモダンで打算的な妹(山田が「憎らしく」好演)が分かりやすく対比されて描かれている。その戦後の、自作リメイク版が、『祇園囃子』(1953年作)で、今度は名女優小暮美千代と若尾文子が姉妹役を演じている。(この作品では、撮影を宮川一夫が担当する。)
(前段の第一章は、溝口の『西鶴一代女』で、続きの第三章は、『元禄忠臣蔵』でお読みください。)
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