(No.1:小津安二郎編)
[No.2:黒澤明編『一番美しい』、No.3:溝口健二編『西鶴一代女』]
金沢中学の数学の教員堀川周平(小津組の常連俳優、笠智衆の小津映画での初主演)は、どういう訳か渾名を「むじな」と生徒から付けられている。ある日、その金沢中学の鎌倉・箱根方面への修学旅行の際、箱根の近くの湖で事故が起こり、ある生徒が亡くなる。笠は事故の責任を取って教員の職を辞し、田舎の長野県上田に息子の良平(のちに大きくなって、佐野周二)を連れて汽車で帰る。その帰省の汽車の中で、父親は息子に言う。「爪はいつもきれいにしとかんといかんぞ。」と。こうして、母親無き家庭の姿が浮き彫りにされる。さらに、地元のお寺で、障子張りの場面が出て、如何にも日常性が画面に満遍なく、そして静かに漂うのである。小津は、日常性を、ある映画的詩情で描くことができる名監督である。
ある日、父親と息子は川釣りに出る。この川釣りの場面がよく後で効く。親子で川に入りながら、同じリズムで竿を川に投げ入れては流し、また投げ入れては流す。それが数回続き、そのルズムが崩れるのは、父親が、良平が中学(旧制)に入ったら、その時は宿舎生活になると、良平に告げたからであった。
中学生活に何とか慣れ、再びまた親子の生活が始まるかもしれないという淡い期待を抱いている良平に、父親は又しても辛い事を強いる。父親に連れられて良平は、金沢にある料亭に来る。この料亭の二階からは、向こう側に洗濯物が干してあるのが見える。小津の好みの洗濯ものシーンである。その日常感覚の中で、父は息子に、自分がこれから東京に出て働くという決心をを告げる。
場面が変わり、織布工場の大きな建物に例の窓が一杯ある、小津のお馴染みのシーンが出る。しかも、普通は2ショットであるのに、ここは3ショットで撮り、これによって場所の移動のみならず、時間の経過が示される。こうして、あの金沢の料亭での別離以来、ここで五、六年の月日が流れてたことが語られ、良平が高等学校(旧制)を出て、仙台の第三帝国大学に入ったことが分かる。
すると、又、場面が変わり、もう一度五、六年の時間が飛んで、良平は今度は大学を卒業し、今は秋田の工業高校の化学の教員をしていることが分かる。良平は今は年齢がもう25歳である。上田に戻った最初の時以来、あれからもう十数年の月日が流れている。
久しぶりで親子で温泉旅行に待ち合わせて出掛け、そこで親子が一緒に例の川釣りをする。今度は父が両手で、息子が片手で、竿を同じリズムで川に入れては川に流す。遠くに離れてはいても二人の心が通じ合っていることが、これで言わずもがなに感じ取れる名場面である。
この平和な光景は、しかしながら、戦争の影に次第に覆われる。良平の勤める工業高校の、ある生徒の兄が戦地に行っていることが話題になったり、また、良平自身が徴兵検査で「名誉の」甲種合格をするというエピソードが盛り込まれたりする。制作年とほぼ同時代のストーリーを撮る小津の映画であれば、制作年の、多くとも数年前がそのストーリーの置かれている時間軸であろう。とすれば、日中戦争が始まって、いくらか経った頃で、恐らく太平洋戦争勃発前であろう。
さて、1942年制作の本作を観ると、小津の映像美学の基本的な部分が既に本作で完成の域に達しており、謂わば、「小津節」が遅くとも戦中には語られるようになっていたことが理解できる。撮影担当は厚田雄治(ゆうはる)で、本作で小津とは三回目の協働作業である。彼は、これ以降、小津作品のほとんど全作品を撮る、小津組の名カメラマンとなる。
それでは、究極の「小津節」とは何か。まず、カメラを固定する。しかも、そのカメラの首は回さない。だから、ある場面の中に既に俳優がいるか、または、そこの場面に俳優が入ってくるか、はたまた、その場面から俳優が出て行くか、しかないのである。つまり、カメラは俳優を追いかけることをしないのである。そこには、シネマ特有の映像をダイナミズムに創造するという意志がないのであり、その意味で小津は、ヌヴェル・ヴァーグ以前のアンチ・シネマの映画人と言えるのではないか。
いわば「定点」撮影をする。その定点も一場面では数点に絞る。そして、その決めた複数の定点をカメラは移動して回る。しかし、カメラの首を回さないから、かなり硬い、ぶつ切りの編集になる。カメラはその複数の定点を一巡してまた元の定点に回帰する。
しかも、その視点の高さは四、五歳の子供の目の高さの位置である。だから、畳の上では、座っている大人の俳優とほぼ同じ高さになり、それ以外ではやや空間を下から見上げる視点となる。さらに、これに伴って、その映像構成は、空間を手前から奥へと、まるで望遠鏡を逆さから見ているような遠近法を使って、なされている。特にこれは、廊下や縁側などの筒型の空間を使った場面によく出てくるものである。
小津映画の真骨頂は、それ故、半身の肖像画として切り取られた俳優が固定されたカメラの前で日常の小さな真実を如何に本当らしく話して聞かせられるか、その話術にこそあるといって過言ではない、極限に様式化された美学である。これにストーリー上に失われていく父親・夫・男の「権威」に対する惜別の念が混じり込めば、それはそのままで、晩年の「小津節」になるのである。
こうして、42年段階でその技量がほぼ出来上がっていた小津は、本作を以って、戦時中にはそれ以外の作品を撮っていない。しっかりと反戦という立場には立たなかった小津は、撮ろうとすれば、国策映画を撮れたのではあるが、個人の運命というか、その消極的態度、または、彼の、「勇ましいものには向かない」性向が、親友で、名作『人情紙風船』(1937年作)の監督・山中貞雄が38年に中国戦線で病死したこともあってか、彼に戦意高揚の国策映画を撮らせなかったのである。この小津の心的態度を人は、「内的亡命」だったと呼ぼうとすれば、呼べるかもしれない。
中学生活に何とか慣れ、再びまた親子の生活が始まるかもしれないという淡い期待を抱いている良平に、父親は又しても辛い事を強いる。父親に連れられて良平は、金沢にある料亭に来る。この料亭の二階からは、向こう側に洗濯物が干してあるのが見える。小津の好みの洗濯ものシーンである。その日常感覚の中で、父は息子に、自分がこれから東京に出て働くという決心をを告げる。
場面が変わり、織布工場の大きな建物に例の窓が一杯ある、小津のお馴染みのシーンが出る。しかも、普通は2ショットであるのに、ここは3ショットで撮り、これによって場所の移動のみならず、時間の経過が示される。こうして、あの金沢の料亭での別離以来、ここで五、六年の月日が流れてたことが語られ、良平が高等学校(旧制)を出て、仙台の第三帝国大学に入ったことが分かる。
すると、又、場面が変わり、もう一度五、六年の時間が飛んで、良平は今度は大学を卒業し、今は秋田の工業高校の化学の教員をしていることが分かる。良平は今は年齢がもう25歳である。上田に戻った最初の時以来、あれからもう十数年の月日が流れている。
久しぶりで親子で温泉旅行に待ち合わせて出掛け、そこで親子が一緒に例の川釣りをする。今度は父が両手で、息子が片手で、竿を同じリズムで川に入れては川に流す。遠くに離れてはいても二人の心が通じ合っていることが、これで言わずもがなに感じ取れる名場面である。
この平和な光景は、しかしながら、戦争の影に次第に覆われる。良平の勤める工業高校の、ある生徒の兄が戦地に行っていることが話題になったり、また、良平自身が徴兵検査で「名誉の」甲種合格をするというエピソードが盛り込まれたりする。制作年とほぼ同時代のストーリーを撮る小津の映画であれば、制作年の、多くとも数年前がそのストーリーの置かれている時間軸であろう。とすれば、日中戦争が始まって、いくらか経った頃で、恐らく太平洋戦争勃発前であろう。
さて、1942年制作の本作を観ると、小津の映像美学の基本的な部分が既に本作で完成の域に達しており、謂わば、「小津節」が遅くとも戦中には語られるようになっていたことが理解できる。撮影担当は厚田雄治(ゆうはる)で、本作で小津とは三回目の協働作業である。彼は、これ以降、小津作品のほとんど全作品を撮る、小津組の名カメラマンとなる。
それでは、究極の「小津節」とは何か。まず、カメラを固定する。しかも、そのカメラの首は回さない。だから、ある場面の中に既に俳優がいるか、または、そこの場面に俳優が入ってくるか、はたまた、その場面から俳優が出て行くか、しかないのである。つまり、カメラは俳優を追いかけることをしないのである。そこには、シネマ特有の映像をダイナミズムに創造するという意志がないのであり、その意味で小津は、ヌヴェル・ヴァーグ以前のアンチ・シネマの映画人と言えるのではないか。
いわば「定点」撮影をする。その定点も一場面では数点に絞る。そして、その決めた複数の定点をカメラは移動して回る。しかし、カメラの首を回さないから、かなり硬い、ぶつ切りの編集になる。カメラはその複数の定点を一巡してまた元の定点に回帰する。
しかも、その視点の高さは四、五歳の子供の目の高さの位置である。だから、畳の上では、座っている大人の俳優とほぼ同じ高さになり、それ以外ではやや空間を下から見上げる視点となる。さらに、これに伴って、その映像構成は、空間を手前から奥へと、まるで望遠鏡を逆さから見ているような遠近法を使って、なされている。特にこれは、廊下や縁側などの筒型の空間を使った場面によく出てくるものである。
小津映画の真骨頂は、それ故、半身の肖像画として切り取られた俳優が固定されたカメラの前で日常の小さな真実を如何に本当らしく話して聞かせられるか、その話術にこそあるといって過言ではない、極限に様式化された美学である。これにストーリー上に失われていく父親・夫・男の「権威」に対する惜別の念が混じり込めば、それはそのままで、晩年の「小津節」になるのである。
こうして、42年段階でその技量がほぼ出来上がっていた小津は、本作を以って、戦時中にはそれ以外の作品を撮っていない。しっかりと反戦という立場には立たなかった小津は、撮ろうとすれば、国策映画を撮れたのではあるが、個人の運命というか、その消極的態度、または、彼の、「勇ましいものには向かない」性向が、親友で、名作『人情紙風船』(1937年作)の監督・山中貞雄が38年に中国戦線で病死したこともあってか、彼に戦意高揚の国策映画を撮らせなかったのである。この小津の心的態度を人は、「内的亡命」だったと呼ぼうとすれば、呼べるかもしれない。
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