筆者は、この西部劇の名画のラスト・シーンを思い出しながら、本作のラスト5分のシーンを観ていた。
その時、ゴードン警部補の子供は、「バットマン!」と、走り去ろうとする黒い影の後姿に向かって叫んだ。その無邪気な声は、深く、暗いビルの谷間に木魂していた。復讐の鬼と化していたデント検事に腹部を撃たれ、傷ついたバットマンは、しかし既に、愛用の二輪車に跨ってその場を走り去っていた。その背には、「正義の明るい旗印」となるべきデント検事の、公表されてはならない汚名を、今や「暗黒の騎士」として身代わりになって背負いながら。
コミックスを実写映画化した、このシリーズの第六弾に当たる本作は、イギリス人名監督Chr.ノーランによって撮られ、コミックとしての、その生まれの素性を裏切るようにそのファンタジー性を否定し、謂わばその現実主義路線をかなり徹底的に追及して出来上がった作品と言える。
バットマンのトレードマークとも言える、あのマスク、そして夜の闇の中を飛行する蝙蝠の翼、この要素を除けば、それはそのままアクション映画としても通用するタッチである。特に、映画の前半、ブルース・ウェインを演じるクリスチャン・ベールは、そのスマートさから言っても、筆者には「ジェームズ・ボンドではないか」と、見違えたくらいである。この喩えから言うと、モーガン・フリーマン演じる所のLucius Foxルーシャス・フォックスは、ボンド映画の例の技術開発屋Qというところであろうか。
本作の成功は、この現実主義路線に相応しく、バットマンの敵役となる「Jokerジョーカー」の性格作りにあると思われる。ボンド映画の「悪役」の歴史を辿ることは、ボンド・ガールの歴史的変遷を「美形」が如何に変わってきたかを考察するの役立つのと同様に、考えてみるのに値する、社会学的に見て極めて興味深いことである。これと同様に、本作の「ジョーカー」像による、悪の造形をどう見るか。
バットマン・シリーズの実写劇映画化第一弾(1989年作)が、この際、上手い比較対象となる。これ以外の作品では、悪役ジョーカーが登場しないからである。奇才T.バートン監督の手になるこの作品では、ジョーカーの役をJ.ニコルソンが演じている。この作品では、ジョーカーの本来の素性や、ジョーカーがどうしてそのような悪の行為に走るかという説明が、ストーリー内でなされており、その犯罪行為の動機は「美」に対する冒瀆行為であると、取り敢えず、その説明が付けられる性格設定であった。しかも、その悪行の数々は、内容的な幼稚性とそのアイロニカルな演じ方とによって中性化されいた。
今回オーストラリア人俳優Heath Ledgerにより、ほぼ20年後に体現されたジョーカー像は、そのリアル性において他の追随を許すものではない。目の周りは黒に、唇と昔切り裂かれた口角から頬の傷跡を赤に、そしてその他の顔の部分を白に塗る。しかし、そのドーランの塗り様は、完璧ではなく、所々恐らく汗のせいであろう、塗りが剥げている。髪の毛の色は、オリジナルのコミックスでは緑色であるものを、本作では自然の色のままにしている。ジョーカーの本名は何なのか、どのような素性なのかなどは不明であり、突然、悪徳の町に現れ、秩序が崩壊してカオスが生まれるアナーキーな世界への憧憬を持ちながら、神がかった恍惚状態でマスメディアを通じて露出症的に自己顕示するのである。そして、酔った父親によってか自分でそうしたのか、口角の裂けた傷のせいで、舌を時々蛇のようにチョロリと出して、話す時のリズムを整えるのである。
この、単なるコミックス性を超越した役作りで実在感を持たせられたジョーカー像が、映画史における悪役の歴史の一ページを飾るであろうことは、蓋し、誰も異議を唱えるものではないと思われるが、果たして、如何。
如何なる事情によってH.レジャーが亡くなったのか、寡聞にして、知る由もないが、その夭逝した才能を悼み、衷心からその冥福を祈るものである。
そして、さらにその約10年後の2019年には、今度は、Joaquin Phoenixによって体現された「ジョーカー」像が一本の映画となる。この映画は、この悪役が生まれる前史を描くという点で、H.レジャーの「ジョーカー」像をなくしては、考えられないものであることも、ここに付け加えておこう。